初めてのお出かけ(皐月物語 156)
修学旅行が終わった。蒸し暑い夏の空気も消え、季節はすっかり秋に変わっていた。
寒さに強い藤城皐月は例年ならこの季節でも半袖半ズボンの服を着ている。だが、今日はトップスに白の長袖シャツを着て、黒のベストを組み合わせていた。皐月にしては秋の訪れを感じさせるコーデだが、ボトムスは黒の膝下ハーフパンツにして、夏の名残を惜しんでいた。
皐月はJR豊川駅の改札前にいた。ひとつ年下の入屋千智と待ち合わせをして、これから二人で新城市にある桜淵高校の文化祭へ行くところだ。小学生が高校の文化祭に行くのは少し妙な話だが、それはその高校に通っている及川祐希に招待されたからだ。
皐月の家では母が芸妓の置屋を経営していて、祐希の母が芸妓として住み込みに来ている。祐希は母に連れられて来て、皐月と一緒に暮らすようになった。皐月と祐希の部屋は襖一枚しか隔てていない隣同士だ。
祐希と千智の関係は、祐希が引っ越してきた日に千智を含めた三人で豊川稲荷を観光したことが始まりだった。この日は皐月にとって、千智とも祐希とも初めて出会った日だった。
それは夏休みも終わろうとしていた日の午後のことだった。皐月が学校のプールで泳いでいる時に、一人で泳ぎの練習をしていた千智と出会った。皐月の泳ぎを見て、千智が皐月に教えを請うた時が二人の関係の始まりだった。
千智は5年生に変わるタイミングで東京から豊川へ引っ越してきた。豊川稲荷には初詣以外で行ったことがないと言ったので、皐月は人で混んでいないお稲荷さんを案内すると、千智をデートに誘った。
皐月が千智と別れて家に帰ると、及川親子の引っ越しが終わっていた。皐月は片付けの終わった祐希の母の部屋で初めて祐希と会った。親同士でまだやることがあるということで、皐月は祐希を連れ出して、豊川の街を案内することになった。
祐希は豊川に来るのが初めてだった。皐月は豊川では一番自慢の豊川稲荷を案内しようと思った。祐希を連れてお稲荷さんへ行くと、総門から千智が出てくるのを見た。千智に聞くと、皐月とデートをするまで待ちきれなくて、一人で豊川稲荷を見てまわっていたらしい。
皐月と祐希がこれから豊川稲荷を見に行くと言うと、千智も一緒に行きたいと言い、三人で観光することになった。これが三人の初めて会った日の経緯だ。
祐希の通う高校の最寄り駅は新城駅だ。これから山の方へ向かう9時23分発の本長篠行きの電車に乗ることになる。皐月は千智を出迎えたかったので、発車時刻より10分も早く駅に着いた。
街へ出る9時19分発豊橋行きに乗る乗客が次々と改札へやって来た。皐月が知り合いに見られたくないと思いながらそわそわしながら待っていると、千智が階段を駆け上がって来た。
「皐月く~ん!」
千智が手を振りながら駆け寄って来た。皐月も千智に応えて、頬の下で軽く手を振った。
「なんだか久しぶりだね」
「修学旅行に行く時に、駅で会ったじゃない」
「そうだったね。でも、あの時はせっかく会いに来てくれたのに、全然話せなかった」
「皐月君の挨拶、カッコよかったよ」
千智は黒のキャップを深くかぶっていた。バイザーの奥に隠れている笑顔は皐月の知っているどの女子よりも可愛いかった。
この日の千智はボーイッシュなストリート系のコーデだった。白のトップスにグレーのフード付きパーカーを羽織り、黒のデニムパンツという、華やかさを抑えたモノトーンだ。
「とりあえず駅の中に入ろうか」
「うん」
千智が皐月の近くにいる時はキャップが邪魔になるのか、必要以上に顔を上げる。その様子はキスを求めているようで可愛いが、首が疲れやしないかと心配になってしまう。
千智はふだんから帽子を深くかぶる癖がある。塾に行く時など、人目や盗撮を気にしてマスクまでしている。千智にとって顔の美しさはストレスにしかなっていない。
改札を抜け、右手の階段を下りると飯田線下りの1番ホームに出た。この時間から新城方面に行く人はあまりいないようで、ホームには皐月たち以外に数人しかいなかった。
「駅にいると、修学旅行の京都を思い出すよ。移動にバスを使わないで、全部鉄道でまわったから」
「バスより電車の方が旅行って感じがするね」
「うん。バス停よりも駅の方がその町の息吹を感じられて、旅をしている感じがした。俺、駅の表情が好きなんだよね」
「駅の表情?」
「そう。駅ってそれぞれに特色があって、面白いんだ。駅の様子を見るだけでその町に住む人の生活を感じられたり、その町の歴史を感じられたりするんだ。ちょっと神社やお寺に似ているところがあるよ」
「皐月君は感じ過ぎだよ。でも事前情報があれば、私でもその境地に辿りつけるかな」
「できるよ。千智は賢いから」
皐月はこの時、自分の感じ方が特異であるかもしれないと思っていた。千智の言うような事前情報がなくても多くのことを感じているという自覚がある。それは特殊能力ではなく、自身の持つ記憶を想起して物語を作り、そこに感情移入をしてしまうことだ。皐月は法隆寺の宝物を前にして疲弊したことを思い出した。
1番線に313系が入線してきた。この車両には転換クロスシートがあるので、前向きに座って移動できるのがありがたい。
「この電車、学校行事で県民の森へキャンプに行った時以来だな」
「俺もそう。でもこの列車は本長篠行きだから、愛知県民の森の最寄駅の三河槙原駅までは行かないよ」
「そっか……。そういえば、キャンプ場まで遠かったね」
「うん。山奥だよね。祐希はもう一つ先の柿平駅の近くに住んでいたんだ」
祐希は豊川へ引っ越してくる前は新城市の山間部に住んでいた。学校のキャンプで行った愛知県民の森は空気が綺麗で水が透き通っている美しい所だった。祐希は子供の頃、男の子に交じって山や川で遊んでいたという。
「祐希の小中学校の同級生は、街へ出ていく子以外はみんな同じ高校に進学するんだって」
「へぇ~。じゃあ、友達のリセットはないんだね」
「まあ、他の学校の子たちと合流するから少しはシャッフルされるんだろうけど、きっと濃密な人間関係なんだろうな」
皐月と千智は電車に乗り込んだ。幸い車内は空いていたので、二人で並んで席に座ることができた。皐月は祐希に窓際の席を譲った。
「千智にお土産を買ってきたんだ」
「ホント?」
「自分も同じ物を買ったからお揃いなんだけど、そういうのってキモいかな?」
「そんなことないよ。嬉しい!」
電車が発車すると、皐月はディパックの中からお土産を取り出した。
「これは法隆寺の夢殿の隣にある中宮寺で買った『山吹守り』。山吹を象った御守なんだ。可愛いでしょ?」
「うん。すごく可愛い」
「月曜日からランドセルにつけて学校に行こうと思ってるんだ」
「私もそうしようかな。皐月君とペアになるね」
「ただね、これは女子に人気の御守だったから、千智とペアにはならないんだ。残念だけど、匂わせにはならないな」
「そう……。じゃあ、私は塾へ行く時のバッグにつける」
皐月は次に箸置を取り出して見せた。
「清水寺の近くの店で見つけたんだ。紅葉の形と色が綺麗だったから、これにしたんだ。もし箸置として使ってもらえなくても、インテリアとして邪魔にならないかなって思って……」
「今日の夕食の時から使わせてもらうよ。二つもお土産を貰えるなんて思わなかった。ありがとう!」
千智はキャップを脱いで、眩しい笑顔を皐月に見せた。メイクなんかしていなくても、千智は誰よりも美しかった。
「喜んでもらえて良かった」
千智の反応につられて、皐月も笑顔になった。
「皐月君、やっと笑った」
「えっ?」
「ずっと顔が強張っていたよ。私と一緒に出かけるのが嫌なのかと思ってた」
「そんなことないよ。お土産を気に入ってもらえるか、緊張してたんだ。ペアなんて押し付けがましいかなって思って……」
皐月は咄嗟に適当なことを言って誤魔化した。千智と会うこと自体は嫌ではないが、千智を連れて祐希に会いに行くことが気まずい。
「心配性だね。修学旅行に行ってても、私のことを気にかけてくれてたことが嬉しいんだよ」
千智は遠慮がちに体をぶつけてきた。腕と腕が触れあって、当たったところが温かかった。千智を見ると、頬を染めてはにかんでいた。頑張ってアピールしたんだな、と皐月は千智のような純情をなくしてしまったことが悲しくなってきた。
修学旅行の思い出話をしていると、すぐに新城駅に着いてしまった。旅行中の出来事の表層的なことしか話す時間がなかったので、心を揺らさずに楽しいことだけを話せた。皐月は歴史や宗教の込み入った話もしたかったが、それは別の機会にしようと思った。
皐月と千智は新城駅の2番線で降りた。狭く短い島式ホームから見る駅周辺の風景は建物が低く、その先に山が迫っていた。地方の小さな町の大きな駅といった風情で、知らない町へ来たという旅情があった。皐月は何枚かスマホで写真を撮った。
「俺、新城駅で初めて降りたよ。なかなかいい感じの駅だな」
「この駅はどんな表情をしているの?」
「ところどころ残る駅の古さに新しさが混在しているね。改修を重ねた跡を見ると、この駅が地域住民から大切にされていることがよくわかるよ」
皐月たちは跨線橋を渡り、向かいの1番ホームへ下りた。跨線橋ができる前は構内に踏切があり、ホームがスロープになる可動ホームがあった。これは新城駅への設置が国鉄初だったという。
「なんだか幼稚園みたい」
駅舎の窓ガラスには「ようこそ新城へ」と書かれた画用紙の花が貼られていた。ガラス1枚に1文字の大きなもので、幼稚園の入園式に来たような温かい気持ちになった。
「この看板が渋い」
その窓の横には大きな一枚板に毛筆で新城駅と書かれた看板が掛けられていた。白いモルタルの壁に掛けられた駅名板は経年変化していた。もしかしたら明治時代に開業した当初のものかもしれない。
「私、皐月君の言ってた駅の表情っていうのがわかってきたかもしれない」
「鉄道ファンの中には駅訪問を趣味としている人がいるんだ。自分もその気がある」
「今度どこかの駅に訪問することがあったら、私も連れてって」
「いいよ。こんな地味なデートで良かったら」
今度は皐月だけでなく、千智もスマホで写真を撮り始めた。同じ趣味の友達ができるのは嬉しいが、千智が自分に合わせてくれているのかをよく見ておかないと、千智につらい思いをさせてしまう。皐月は千智と二人で駅舎の窓を背景に自撮り写真を撮った。
1番ホームから短い階段を下りて改札を抜けた。この駅にはみどりの窓口があり、窓口の下にはレトロな栗色のタイルが貼られていた。
待合室は吹き抜けになっていて、天井が高く広々としていた。窓ガラスが三段になっていて、陽の光がたくさん入ってくる。明るくて温かく、気持ちのいい駅舎だ。
「昭和っぽい感じが残ってるね。壁際の長い木のベンチがいい味を出している」
「皐月君、ちょっと座ってみない?」
「ふふっ。いいよ」
皐月と千智は並んでベンチに腰掛けた。厳密に何時何分までに高校へ行くという約束をしていなかったので、気ままなことができる。
日差しが当たり、肩口が温かくなってきた。室内を見回すと、壁の上部は白く広々としているが、目の高さには余白を許さないかのように広報掲示物が貼られていた。
「祐希さんは毎日この駅に来ているんだね」
豊川に引っ越してくる前も、祐希は柿平駅から新城駅へ通っていた。祐希は目の前を何百回も行ったり来たりしていたことになる。
「電車通学か……。なんだか楽しそうだな」
「そうでもないよ。行き先が駅から離れていたら歩かなきゃいけないし、ラッシュ時の混雑は最悪だし、面倒なことも多いよ」
「そうか……。さっきみたいにのんびりと電車に乗れるわけじゃないか。つい自分の都合のいいことばかり考えちゃうな、俺って」
待合室の中をぼんやりと見ていると、京都や奈良で寺社を見ていた時と同じ感覚が甦ってきた。皐月は目を閉じた。すると、脳裏に昔の人たちが目の前を往来している姿が浮かんできた。だがそれははっきりしたものではなく、幽霊のように儚いもので、意識が途切れるとすぐに消えてしまう。
「皐月君?」
慌てて目を開けると、隣で千智が不思議そうな顔をしていた。
「どうしたの?」
「なんでもない。ちょっとボ~っとしてただけ。そろそろ行こうか」
「うん」
皐月と千智はもう一度、待合室の中を見回してから外に出た。
駅舎を出ると地面より一段高い玄関ポーチになっていた。目の前にはロータリーがあり、芝生の上に「ようこそ新城へ」と丸っこいピンクのフォントで看板が立っていた。駅舎のガラスの文字といい、皐月は新城に町の人の温和な人柄を感じた。
駅前には高層建築がなく、道沿いにある二つの駐車場のため広々としていた。右手にはタクシープールがあり、一等地にコンビニがわりの個人商店がある。少し寂しげな感もあるが、これが街の変遷による現状であり、最適解なのだろう。
駅舎は古く、昭和15年に建てられたものだ。モルタルの白壁と切妻屋根の端正なデザインで、外壁の基礎部分は石貼りになっている。玄関ポーチが車寄せのような作りになっているが、リヤカー程度の車しか寄せられない。
「駅前アプローチは新旧入り混じっていて、面白いな。寂れるにまかせていないところがいい」
「皐月君の目線って旅人みたいだね」
「昨日まで修学旅行に行ってたんだから、気分はまだ旅人なのかもね。京都の街を歩いていて、いろいろ考えたりしたんだよ」
「京都ではどんなことを考えてたの?」
「そうだね……。バス移動で点と点を結ぶような旅よりも、駅から目的地まで線で結ぶような旅の方が面白いって思ったかな。街を歩いていると情報量が多いんだ。この一日だけで世界の見え方が変わったような気がする」
皐月と千智は駅を離れ、駅前の商店街を歩いていた。今は人もまばらだが、かつては都会のような賑わいだったという。
「豊川駅前の商店街も寂れているけど、ここ程じゃないな……。豊川駅前には生鮮食品店があるから商店街が機能しているけれど、ここは近くにピアゴがあるから競争に負けちゃうか……」
「私の家も買い物は近くのサンヨネやフィールで済ませちゃってる」
「千智ん家はどっちも歩いて行けるから、いいよね。俺ん家もそう。でも、田舎だと徒歩で店に行けない家が多いよね。車がなければ生活ができないっていうか。祐希ん家はお母さんが車でスーパーに行って、何日か分をまとめ買いしていたんだって」
新城駅前の商店街には皐月と千智以外は誰も歩いていなかった。時々車が通ることがあるが、自転車の人さえ見かけなかった。
「京都は徒歩と公共交通機関の街だったよ。でも、ここは自動車の街だ。豊川もほぼ自動車の街になりつつあるな……」
「皐月君はどっちの街がいい?」
「う~ん、どっちだろう……。今は車に乗れないから都会のような徒歩と公共交通機関の街の方が過ごしやすいと思うけど、車に乗るようになったら自動車の街の方が快適なのかな。でも車を買うのにもお金がいるし、そうなると車に支配されてるみたいで嫌だな」
「私は東京に住んでいたからどっちも経験しているけど、生活をするなら都会の方が好きかな。徒歩圏内に生活の必要なものが何でもあったからね。でも、いい悪いじゃないよ」
「そうだよね。変化だもんね。今は変化に取り残された街でも、時間をかけて変化していけばいいんだろうね。さっき新城駅の整備された駅前を見てそう思った」
皐月は千智と話をしていると頭の中が整理されるような感覚になることがある。これは自分が頑張って千智に話をしようとしていることもあるが、千智がいい感じに反応してくれていることもある。
「この商店街のお店の看板って、どこもデザインが凝ってるね。全盛期はお洒落な通りだったんだろうな……。そのころのこの街を体験できないのは残念だな」
「私は今この時のこの街を体験できて楽しいよ」
千智を見ると、言葉通り本当に楽しそうにしていた。皐月は抱える思いが増えすぎて、千智のように朗らかに振舞うことができていなかった。
「俺だって楽しいよ。千智と千智と初めてのお出かけだから、なんだか旅行をしている気分だ」
皐月のこの気持ちに嘘はなかった。祐希のいる高校へ行くから、千智と二人だけの世界には入れないけれど、それでも千智と街を歩くのは楽しい。新城の街の景色は何もかも新鮮だ。
「修学旅行で京都の街を歩いたり、奈良の寺を見ていた時、千智と一緒だったら楽しいだろうなって思ってた」
「本当?」
「うん。いつか千智と一緒に修学旅行で行ったところと同じお寺や神社に行ってみたい」
「じゃあ、連れてって」
「うん。約束する」
皐月は今の自分がこんなことを言ったら断られるんじゃないかと思い、言い出すのが怖かった。千智はそんな皐月の不安なんか知らないように、素直に皐月の思いに応えた。千智のことを誰よりも大切にしなければならないと思った。