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悪い男の子(皐月物語 104)

 名鉄豊川とよかわ線の稲荷口いなりぐち駅の1番線に豊川稲荷とよかわいなり行き急行が入線しようとしていた。この時間帯は1時間に4本の列車が発着するだけあって降客数が多い。赤い車両がホームに停車し、右側の扉が開くと、藤城皐月ふじしろさつきは電車に乗り込んだ。車内にはまだ乗客が大勢残っていた。
 皐月を見送る入屋千智いりやちさとが皐月の背後を気にしていた。千智の視線の先をちらっと自分の視界の端に入れると、女子高生たちが色めき立っているのが見えた。
「じゃあね」
 皐月が声をかけると、千智が手を振ってくれた。皐月も手を振り返したタイミングで扉が閉まった。その瞬間、皐月は恋愛映画のワンシーンを演じているような高揚を感じた。
 今度はしっかりと振り向いて、はっきりと二人の女子高生を見た。目が合うと、彼女たちは目をキラキラと輝かせていた。二人がこっちを見ながら小声で何かを話しているのを見ると、皐月は恥ずかしくなって窓の外へ視線を逃した。
(今の俺って、まるで博紀みたいじゃん)
 女子高生たちの反応が月花博紀げっかひろきを見て喜んでいる他クラスの女子や、年下の博紀ファンの女子のように見えた。こういうむず痒い気持ちになるのは皐月には初めてだった。だが、これで自分のルックスに少し自信を持ってもいいのかなという、少し誇らしい気持ちにもなった。だが、千智のことを見て彼女たちが喜んでいたとも考えられるので、あまりいい気になっていられない。
 名鉄の赤い電車は速度を落とし、ゆっくりと豊川稲荷駅のホームに入線しようとしていた。窓の外の遠くに栗林真理くりばやしまりの住むマンションが見える。真理のことを思うと、いろいろな感情が同時に湧きあがってぐちゃぐちゃになり、何も考えられなくなってきた。いつしか真理のことも千智のことも、何も考えられない状態になっていた。頭が真っ白になるとはこういうことなのかと思った。
「ドアが開きます。ご注意ください」
 停車のアナウンスに紛れてスマホのシャッター音が聞こえた。もしやと思い、二人の女子高生を見ると、彼女らは顔を寄せ合ってスマホの画面を覗きこんでいた。もしかして写真を撮られたのかなと思ったが、確証がない。二人に詰め寄ってスマホの画面を強引に見てやろうかとも思ったが、皐月はそんな乱暴なことをできる性格ではない。左側の2番線に車両が停車してドアが開くと、彼女ら二人は皐月より先に外へ出て行ってしまった。
 自分がやられてみて、千智が盗撮されることを嫌がっていた気持ちがよくわかった。実際に経験してみると、相手が女子高生でも気持ちの悪いものだ。これが気持ち悪いおっさんだったらと思うと、千智がキャップを目深まぶかく被るのも無理はないと思った。千智の眼鏡をかけてマスクをしたいと思う気持ちも凄くわかる。そうすれば誰かわからなくなるから、誰が見ても千智が千智じゃなく見えるだろうし、千智の可愛さや美しさを隠すことができる。ただそんな格好をすると、千智のような美少女でも不審者のようになってしまう。皐月はそういう人間が街にあふれるような社会は嫌だなと思った。

 この日の夕食は住込みの及川頼子おいかわよりこと二人きりだった。芸妓げいこをしている母の小百合さゆりはお座敷に出ていて、頼子の娘の祐希ゆうきは高校の文化祭の準備で遅くなることがわかっている。頼子は皐月を気遣って、皐月の好きな親子丼定食を作ってくれた。頼子の作る食事は美味しかったし、頼子と二人で話をしながらご飯を食べるのも、小百合や祐希の昔話が聞けて楽しかった。
 だが、小百合や祐希のいない食卓はやはり寂しかった。いっそ一人で動画でも見みながら食べていた方がまだ気が楽だ。頼子とはだいぶ打ち解けて話をできるようになったが、それでもお互いにまだ気を遣っていると感じている。この生活が続けば、いずれは家族のような関係になれると思う。だが、今はまだそこまで機が熟していない。

 食事を終え、風呂を済ませて部屋に戻ると、皐月はPCの電源をつけた。ベッドで横になると、疲れが出たのか動きたくなくなった。皐月はそのまま思案に沈んだ。
 皐月は千智への告白のことを考えていた。
 皐月が千智のことを好きと言ったことで、千智は皐月に告白されたと言っていた。皐月もその時その場では、自分が千智に告白したんだと思った。だが、これが本当に告白だったのかと考え直してみると、それは違うような気がする。
 皐月は女子に好きだという言葉を自然に言える性格だ。思ったことをすぐに口に出してしまう癖があるので、好きだと思ったら、すぐに好きだと口に出してしまう。そのせいで皐月は男女問わず軽薄だと思われがちで、時には嫌われることもある。皐月にとって好きという言葉の重みは、他の人が感じるものよりも軽いのなのかもしれない。だから千智は皐月の好きという言葉を重く受け取り、告白されたと思ったのだろう。
 入屋千智への告白。
 皐月は告白のことをあながち間違いではないと思い始めていた。確かに皐月は千智に恋をしている。ルッキズムではないが、千智の可愛さ、美しさは問答無用といってもいい魅力だ。千智を一目見れば誰だって、千智に恋する男を女好きだと非難することはできないだろう。
 皐月が千智に惹かれているのは外見だけではない。気立ての良さ、頭の回転の速さ、察しの良さ。そしてそれらを総合した自分との相性の良さが好きになった決め手だ。皐月は千智のことを絶対に離してはいけない子だと思っている。
 ならば栗林真理はどうか。
 真理は幼馴染で境遇が似ていて、二人で過ごした時間も長い。真理とは誰よりも気兼ねなく、いつまでも一緒にいられる仲だ。
 真理とは子供の頃から、親のいない夜の寂しさを共に耐えてきた。同じ布団で眠り、ドラマの真似をしてキスをしたのが皐月と真理のファーストキスだった。真理の母親がマンションを買い、真理と二人で親の帰りを待つことがなくなってしまい、月日が流れた。
 この齢になって再び真理と口づけを交わすようになったのは、恋愛というよりも慰め合いではないかと、皐月は自分の恋心を信じ切れないもどかしさを感じている。だが今では皐月も真理も行為がエスカレートして身体を重ねるようになり、快楽に溺れるようになった。今の二人の付き合い方はもう慰め合いではない。大人から見れば、皐月と真理の関係は不純異性交遊になるだろう。
 真理に対して恋心がないわけではない。真理は可愛いし、クールな容貌も格好いい。それに真理と皐月は初めてキスをして、身体を合わせた仲だ。皐月にとって真理は二人で共に性の歓びを知った、秘密を分かち合う特別な存在だ。

 だが、皐月が最も熱い恋心を抱いているのは芸妓げいこ明日美あすみだ。
 明日美は皐月がまだ小さかった頃に芸妓になった。その頃の豊川芸妓組合には若い芸妓がまだいなかった。みちるかおるが芸妓になったのは、明日美が芸妓になって2年が過ぎた頃だった。
 おばさんやお婆さんしかいなかった芸妓衆の中に、突然若くて美しい芸妓が現れたのが明日美だ。明日美は検番けんばんでよく皐月と真理の遊び相手になってくれた。その頃の明日美はいつも哀しげな顔をしていた。真理はあまり明日美に懐かなかったが、皐月は明日美の笑顔が見たくていつも明日美にくっついていた。そんな皐月のことを明日美は溺愛するようになり、皐月は明日美に恋をした。
 明日美が男嫌いだということを、後になって芸妓組合を率いている京子きょうこから聞かされた。子供心に男嫌いの明日美が、どうして男の自分のことを可愛がってくれるのだろうと不思議に思っていた。だから皐月は自分のことを、明日美にとって特別な男だと自惚れていた。
 皐月は今までは明日美から一方的にキスをされるだけだった。しかもそれは男と女のするキスではなく、ペットを可愛がるようなキスだった。皐月はそれを嫌いではなく、いつも自分から求めて明日美に近づいていた。そしていつか、真理としていたような口と口のキスを明日美としてみたいと思っていた。
 この齢になってその願いはついに叶い、皐月は明日美と大人のキスをした。真理とキスをした時とは比べられないほどの大きな歓びだった。
 これからは明日美とプライベートでも会うことを約束した。まだその機会は訪れていないけれど、明日美の方から皐月の服を選びたいという話を母の小百合に持ち掛けてきたので、その日はすぐに来るだろう。
 皐月は明日美との年齢差を気にしている。明日美は22歳で、皐月は12歳だ。10歳も年の差がある。大人同士なら10歳の年の差なんてよくある話だが、12歳の少年が10歳年上の女性と恋愛関係になるということは、明日美にとって犯罪になる。
 あの時の明日美は自分のことを受け入れてくれたが、明日美が冷静さを取り戻している今なら自分のことを突き放すかもしれない。皐月はまだ、明日美の自分に対する想いをそこまで信じることができない。

 皐月は喜びが苦悩へと変わり始めているのを感じていた。自分としてはただ魅力的な千智、真理、明日美を好きになっただけだ。だが彼女ら全てとの仲が進展してしまうと、下世話な言い方をすれば三股をかけているということになる。常識という物差しで測れば、自分は最低のゲス野郎だ。
 母の小百合が父と別れたのは、父の女性問題だと母の師匠の和泉いずみから聞いている。皐月は自分のしていることを省みると、父と同じような女性問題を起こしていることになる。小百合は皐月に父のことを一切話さないので、母が父のことをどう思っているかは皐月には全くわからない。
 和泉は父のことを女にだらしがないとひどく嫌っている。父と母の仲が上手くいっていなかった期間、皐月は和泉の家に預けられていた。その時に和泉から父のことを悪く言うのをよく聞かされていた。皐月は自分が和泉に罵られるようなひどい男になってしまったんだと悲しくなってきた。

 階段を上る跫音きょうおんが聞こえたので、皐月は思索をやめた。及川祐希おいかわゆうきが家に帰って来たからだ。いくら自分がゲス野郎でも、祐希のことは笑顔で迎えたい。
 祐希が皐月の部屋のドアをノックした。渡り廊下を回って自分の部屋に行くと思っていたので、皐月は少し驚いた。
「ただいま。いい子にしてた?」
「おかえり。今日も遅かったね。文化祭の準備は順調に進んでる?」
「ちょっと遅れ気味かな」
「そんなとこにいないで、俺の部屋を通って自分の部屋に行きなよ」
「じゃあ、ショートカットしちゃおうかな。渡り廊下って、暗くて怖い」
 小百合寮の渡り廊下には照明がない。祐希はいつもスマホの明かりを頼りに夜の渡り廊下を歩いている。だから皐月は自分の部屋を通り抜けて、祐希には自分の部屋へ戻ってもらおうと思った。皐月は祐希も自分に気を使い過ぎていると思っている。
 祐希の部屋は明かりがついていなくて暗いので、皐月は部屋を隔てているふすまを開けて、明かりをお裾分けした。自分の部屋に入った祐希は部屋の照明をつけ、スクールバッグを床に置いた。
「祐希って晩御飯、食べてきた?」
「何も食べてないよ~。もうお腹ペコペコ」
「今日は親子丼だったよ。すげー美味しかった」
「ホント? じゃあ今から食べてくるね。着替えるから、襖を閉めて」
「はいは~い」
 襖を閉めると、皐月はPCからわざと音を出して音楽を流した。これは祐希の生活音を聞いていないという皐月からのシグナルだ。皐月は YouTube で好きなアイドルグループ『群青の世界』の『未来シルエット』の MV を開いた。感傷的になっている今の自分の気持ちにピッタリの曲だ。
 PCのモニターには白のワンピースを着た5人の可愛らしい女の子たちが、海辺で歌って踊っている姿が映っている。曲も素晴らしいし、青い空と白い雲の美しい映像が印象的だ。
 空はなぜ青いのか。雲はなぜ白いのか。空の青さは太陽光の中の青い光が空気中の微粒子によって散乱されるから。空が白く見える時は、空気中の水蒸気の量が多いと太陽光の全ての色が散乱して色が混ざるから。雲の白さも同じだ。この蘊蓄うんちくは真理から教えてもらった。
 アイドルソングの多くは恋愛を歌っている。皐月はその曲の歌詞の内容を、自分とアイドルが恋愛をしているシチュエーションで想像して楽しむことがある。ただ、グループで歌っていると困ることになる。推しがいればいいけれど、箱推しの場合だと、その中の誰のことを想像したらいいんだろうと悩んでしまう。例えば『未来シルエット』では「僕は、きっと、誰より側で寄り添えるよ」と歌っているが、5人いる群青の世界のメンバーの、誰の側で僕は寄り添えばいいのかと悩む。片っ端から寄り添っちゃおうかとか、そんな無邪気でバカげたこと妄想するのは楽しい。
 だが、これに近い状況が今、皐月の世界では現実になろうとしている。
(千智、真理、明日美……俺は一体、この三人の中の誰に寄り添えばいいのか……)
 アイドルのように箱推しができるなら、それが一番いい。だがそれは現実世界の恋愛では悪いこととされている。
 他人から悪い奴だと思われることを受け入れてしまえばいいと思うが、それでいいのは自分だけで、千智や真理、明日美にとっていいわけがない。バレなければいいという、ずるい考えが皐月の頭をよぎる。
 着替え終わった祐希が襖を開けて部屋を覗きこんできた。
「また皐月の部屋を通って行っていい?」
「そんなのいいに決まってるじゃん。これからは暗くなったらこっちを通って行きなよ。そんなことで遠慮しないでほしいな」
「ありがとう!」
 祐希がすごく嬉しそうにしている。祐希は高校生のくせに、暗いところを怖がるところが可愛い。
「皐月、私がお風呂から上がってくるまで寝ちゃダメだからね」
「どうして?」
「ちょっと話したいことがあるんだけど、いい?」
「別にいいけどさ……。もし寝ちゃってたら、起こしてね」
「そういえば私、寝てる皐月ってまだ一度しか見たことがないな……。寝顔を見たいから、寝てていいよ」
「やっぱ寝ない! 祐希、絶対いたずらするだろ?」
「しないよ。うふっ」
「いいよ。俺、起きてるから」
「大丈夫だよ。ちゃんと起こしてあげるから」
「じゃあ、キスで起こして」
 真理に言うノリで言ってみたが、自分の言葉に皐月は恥ずかしくなった。祐希は嫌そうな顔をせずに、笑っていた。祐希が軽く手を振って、皐月の部屋から出て行った。
 皐月はさっきまで好きな女性を千智、真理、明日美の三人だと思っていたが、祐希を入れると四人になることに気が付いた。祐希には恋人がいるので、皐月はなるべく祐希に意識を向けないように避けていたが、改めて祐希を見ると、やっぱり祐希は魅力的だ。皐月は気が多い自分のことをバカなんじゃないかと、苦笑せずにはいられなかった。

挿入歌 群青の世界『未来シルエット Intro ver.』

 群青の世界は2023年12月をもって現体制終了とのこと。とても悲しい……。群青の世界は絶対にもっと評価されていいアイドルだと思う。


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音彌
最後まで読んでくれてありがとう。この記事を気に入ってもらえたら嬉しい。