見出し画像

逢魔時の豊川稲荷 (皐月物語 10)

 豊川稲荷は日本三大稲荷の一つとして有名で、商売繁盛などを願い、日本全国から年間五百万人もの参拝者が訪れる名刹だ。
 豊川稲荷といっても神社ではなく、妙厳寺みょうごんじという曹洞宗そうとうしゅうの寺院だ。本殿には荼枳尼天だきにてんという白い狐にまたがったインドの女神が祀られている。
「お稲荷さんにはよく遊びに来るけど、祀られている神様とか仏様のこととか、俺よく知らないんだ」
 藤城皐月ふじしろさつきには豊川稲荷について自信を持って語れるほど知識がない。宗教心がないので由来にも興味がなく、何を案内したらいいのかわからない。
 皐月は入屋千智いりやちさととここに来るまでに予習しておくつもりだったが、まさか今日がその日になるとは思わなかった。

 豊川稲荷の境内は参道が石張りになっていて、とても高級感がある。参拝客はこの参道に沿って歩いていけば境内の堂塔伽藍どうとうがらんを一通り巡ることができる。
「低学年の頃はよく境内で自転車を乗り回してたんだ。参道がサーキットのコースみたいで面白くてさ。みんなで競輪してた」
「そんなことしてお寺の人に怒られなかったの?」
 千智が呆れた顔をしている。
「うん、怒られなかった。その頃の俺たちってまだ小さかったから見逃してもらっていたのかもしれない。今そんなことしたら絶対に怒られるだろうな」
「藤城先輩って悪い子だったんだね」
「我ながら酷かったなって思う。まあ、今でもクソガキなのは変わらないんだけどね。でも今ならそんなバカなことはしないよ」
 話すことがないからと、どうして自分の悪行を暴露しなければならないのか。皐月は自分の馬鹿さ加減に情けなくなってきた。千智に嫌われたかもしれない。

 総門を抜けるとすぐに参道が分岐して、左に曲がれば大本殿に続く参道になる。この参道は寺院なのに鳥居があったり、狛犬が狐だったりするところに面白味があるが、それ以外はあまり見所がない。
 参道の左手には寺寶館じほうかんという大きな建物があるが、ここは子どもだけで入るところではない。それに皐月はまだ寺寶館の中に入ったことがないので話すネタもない。だから今日は参道を左に曲がらずに真っすぐ進むことにした。
「豊川稲荷の建物って素敵ね。私の地元の鳳来寺ほうらいじとまた違った魅力がある」
 及川祐希おいかわゆうきが嬉しそうに境内を見回している。皐月はまだ鳳来寺に行ったことがないけれど、地理的な知識ならある。飯田線の本長篠ほんながしの駅からバスが出ている。
「でもぱっと見、新しい建物も結構ありますよね。そういうところが今風っていうか、個人的には微妙です。地元が鳳来寺って、祐希さんってどこから引っ越して来たんですか?」
 千智は祐希のことを及川先輩や祐希先輩とは呼ばなかった。
「私が住んでたのは新城しんしろの山奥だよ。湯谷ゆや温泉とか愛知県民の森って知ってる? そこよりもちょっとだけ奥かな。飯田線の駅でいえば柿平かきだいら。聞いたことないよね?」
「俺、知ってる。愛知県内の駅ならたぶん全部覚えているよ。柿平って相当奥の方だよね」
「私、県民の森は7月に学校行事でキャンプに行きました。そっか~、祐希さんは自然豊かなところからいらしたんですね」
「へへっ、田舎娘なの。あ、それから千智ちゃんも私と話す時は敬語使わなくていいよ。皐月なんて私のこと呼び捨てにするんだから」
「自分が呼び捨てにしてもいいって言ったじゃん!」

 右手に見える鐘楼堂しょうろうどうはキューブっぽい形が格好良くて、皐月はここを気に入っている。なぜか豊川稲荷の鳩は鐘楼堂に集まってくるので、千智がさっきまで鳩と戯れていた場所はここに違いない。
 小学校の豊川稲荷写生大会で皐月はこの鐘楼堂の絵を描いた。鐘楼堂と一緒に鳩を描きたくてここを題材に選んだ。参道の左側にある樹の下が日陰になって涼しく、鐘楼堂も鳩もよく見える。鳩を主役にした構図が美術の先生から評価され、学年賞をもらった。
「藤城先輩って絵うまいんだ」
「うまくはないと思うけど、絵を描くのは割と好き。でも飽き症だからできればパパッと描いちゃいたい。一日中絵を描くのは苦手だから、一時間ごとに鐘楼堂の石垣のクライミングに挑戦していたよ」
「あんなの登れるわけないじゃん」
「絵っていえば千智ちゃんのTシャツって何かの絵だよね。アートって言ったほうがいいのかな」
 祐希も千智のTシャツのデザインに目をつけた。
「レットナっていう画家の抽象画だけど、これが絵なのかって言われると私にはよくわからない」
「絵画の鑑賞とか好きなの?」
「うん。お父さんが抽象画が好きで、その影響で私も絵を見るのは好きかな」
「じゃあ絵を描くのはどう?」
「描く方は特に……どっちかって言えば下手かも。賞なんてもらったことないよ。私は見る方専門でいい」
「じゃあ今度は彼氏と美術館でデートだね。わかった? 皐月」
「えっ? 俺?」
 こんな言い方をされると千智が不愉快な思いをするかもしれない。そうなればこっちだって傷つくのに、と皐月は祐希のことを恨めしく思った。
 千智の方を見てみると、特に嫌そうな顔をしていなかったのでホッとした。でも美術館でデートなんて言われた千智がどんな気持ちなのかは気になる。皐月は千智とデートができるならしてみたいと思った。

 総門の正面にある山門は豊川稲荷で最も古い建物で、戦国時代に建てられたものだ。だが山門の左右にある阿吽あうんの仁王像は昭和に作られたもので、意外にも新しい。
 皐月は今でこそ仁王像を芸術作品として見られるようになったが、子どもの頃はこれらの仁王像が心底恐ろしくて山門をくぐれなかった。
「怖くて門をくぐれなかったなんて、皐月ってかわいかったんだね」
「かわいいって何だよ」
 皐月は及川祐希おいかわゆうきの言葉にカチンときた。
「褒められてるんだってば、藤城先輩」
「そんなのわかんねえよ」
 そんな文化的価値のある山門をくぐり、隣にある手水舎ちょうずやで手を清めることにした。
 千智がさっき今風で微妙だと言ってたのは恐らく目の前にある法堂はっとうという名の本堂と、左手の参道の向こうにある寺寶館じほうかんのことだろう。この二つは現代的な建造物で、古色蒼然とした木造建築の中では白壁が眩しすぎ、伽藍全体としてのバランスがおかしい。

 本堂には本尊の千手観音せんじゅかんのんが祀られているが、豊川稲荷は大本殿の荼枳尼天だきにてんの方が圧倒的に有名だ。皐月は本堂にお参りする人をあまり見たことがない。大抵の参拝客は大本殿の方に行く。
「昔は本堂も木造で古くていい感じだったって親が言ってた。老朽化で建て直したんだって。江戸時代からの建物だったから維持してもらいたかったんだけど、大人の事情で仕方がなかったのかな」
「親なんて言っちゃって。ママって言ってもいいんだよ」
「ママが言ってた!」
 開き直ってママと言ってみたものの、顔が赤くなってしまった。皐月は恥ずかしくなると顔が赤くなる自分の体質が嫌いで仕方がなかった。
(クソっ! ムカつくな……)
 笑う祐希とは対照的に、千智は優しい笑顔で皐月のことを見ていた。千智と目が合うと、収まりかけた顔がまた紅潮してしまった。
「祐希さん、笑い過ぎ」
 千智に諌められ、祐希はようやく笑うのをやめた。
「ごめんね。皐月、怒った?」
「当たり前だ」
「ごめんね~」
 祐希が肩に触れてきた。皐月は明日美以外の女性にこんなことをされたことがなかったので、一瞬ドキッとした。だが祐希には明日美ほど色気がないので、すぐに気持ちが鎮まった。
「もういいよ」
 皐月は自分から体を離して、先に手水舎を出て大本殿の前の大鳥居へ向かって歩き出した。

 豊川稲荷大本殿は参道からゆるやかな坂を上がったところにある。平地にあって一段高いところに本堂があるだけで威厳を感じてしまうのは設計者の演出の巧みなところか。
 坂を登り切って大本殿を見ると、木造建築なのに高さが30メートルもあり、その大きさに圧倒される。これなら日本中から参拝客が訪れるというのも頷けると改めて感じ入った。
 皐月にとって豊川稲荷はあまりにも身近だったせいか、ずっと過小評価をしていた。だが、こうして他所よそから来た人を案内することで再評価することができた。そしてそれは千智にしても同じだったようだ。
「初詣に来た時は人が多すぎたから何とも感じなかったけど、改めて見ると大きいね。豊川稲荷の近くに住んでいるのに、ここがこんなにすごいお寺だったなんて全然知らなかった。さっき一人で見て回っていた時は旅行気分だったよ」
「そうそう。なんか観光客になったみたいで楽しいよね。私もいつか二人を鳳来寺に案内したいな」
 大本殿の前にある香炉こうろの所で祐希と千智が嬉しそうにはしゃいでいた。子どもの頃からそんな場所で好き勝手に遊んでいたとは、自分たちはなんて贅沢なことをしていたのか。
「俺たち近所の子どもたちって豊川稲荷の境内で自転車レースしてたんだ。大本殿の前からスタートしてこの坂道を下るんだけどさ、普通では絶対に出せないくらいスピードが乗るんだよね。石畳の参道って滑りやすいから結構怖いかったんだ」
「よくばちが当らなかったね」
 思ったよりも祐希の反応が薄かった。皐月としては豊川稲荷で一番の思い出なのに、と悲しくなり、愛想笑いでごまかすしかなかった。

 気がつけばいつの間にか祐希と千智は二人で話をするようになっていた。もうくだらない身の上話は必要ないのかもしれない。皐月は他愛もないことで話がはずんでいる二人をただ眺めているだけだった。祐希と千智が楽しそうにしていることに安心する反面、疎外感を感じ始めていた。
 豊川稲荷には「カップルが豊川稲荷に来ると別れる」というジンクスがある。女神の荼枳尼天が嫉妬して恋人同士を別れさせると考えられているが、そんなくだらないことをするのは眷属けんぞく女狐めぎつねなのかもしれない。
 ここは女性同士で仲良くしてもらって、自分はガイドに徹した方がいいのかもしれない。うっかり祐希や千智を案内しようと二人でここに来ていたら、恋人同士と思われて仲を引き裂かれていたかもしれない。
 皐月はこの日結ばれた千智や祐希との縁を切られたくないと思うようになっていた。優しい千智のことは大好きだし、すぐにからかってくる祐希のことも嫌いではない。

 全国に数多くある稲荷神社と豊川稲荷とでは同じ稲荷でも祭神が違う。
 豊川稲荷の大本殿に祀られているのは荼枳尼天だきにてんという仏教の神だ。豊川稲荷は神社ではなく寺なのだ。
 一般の稲荷神社では主に稲荷神いなりのかみである宇迦之御魂神うかのみたまのかみが多く祀られている。宇迦之御魂神は穀物・農業の神だったが、今では産業全体の神と変化し、特に商売をしている人たちから厚く崇敬されている。

 だが豊川稲荷に祀られている荼枳尼天はもともとインドの夜叉女ヤクシニーで、ヒンドゥー教のカーリーという闘いの女神の眷属だ。そのため戦国時代では戦国武将に崇敬され、城内で祀られている稲荷社の祭神はほとんどが荼枳尼天だった。
 荼枳尼天の起源であるインドの荼枳尼ダーキニーは人の死肉を食べるため、尸林シュマシャーナと言われる地獄のような葬場兼処刑場を好んだ。
 また、荼枳尼には裸で天を駆け、敵を殺し、その血肉を食らうという恐ろしい魔女の側面もあった。
 荼枳尼天は大黒天シヴァによって調伏されたので、人を殺す鬼神ではなくなった。だが、荼枳尼にとって人の心臓を食べるということは呪力を維持するために欠かせない。そのため、荼枳尼天は大黒天から死者の心臓であれば食べることを許された。

 荼枳尼天信仰は強力な御利益があると言われている。そのため商売人からの崇敬を集めるようになったが、訳も知らずに荼枳尼天を信仰するのは危険だと言われている。
 荼枳尼天という女神は高僧にとっても祭祀さいしが難しいとされている。それは荼枳尼天を祀るためには自分の命と引き換えに、死ぬまで信仰し続けなければならないからだ。
 途中で信仰をやめると祟り神となり、禍がもたらされ没落すると言われている。豊川稲荷ではそんな荼枳尼天を祈祷の本尊としているが、果たしてそれを一般人がやれるのか?

 大本殿に参拝する前に皐月は覚えている限りの荼枳尼天の知識を千智と祐希に伝えた。予習が足りないと思っていたが、話し始めると案外すらすらと言葉が出てきた。
 皐月は自分の意見として、ここではお願い事をするのではなく挨拶するだけにしようと提案をした。
「挨拶するのも怖いな……」
 祐希が参拝するのを躊躇しだした。
「さっき参拝しちゃったよ……」
「大丈夫だよ。だって荼枳尼天のこと知らずに参拝したんでしょ。そんなの真剣な信仰としてカウントされないって」
 千智は怯えているようだ。
「それに、ここって毎年何百万人もの人が参拝してるんだよ。みんながみんな真剣にお祈りしているわけじゃないだろうし、信仰に失敗している人だっていっぱいいると思うんだよね。もし祟りの話が今に生きているんだったら、ここはパワースポットじゃなくて不幸をまき散らす穢れ地けがれちになっちゃうよ」
「じゃあさっき参拝したこと、気にしなくてもいいのかな?」
「全然気にしなくてもいいよ。そんなこと言ったら俺なんて今まで何十回も手を合わせちゃってるよ。百回以上かな? 多すぎて忘れちゃった」
 強がっては見たものの、皐月も少し怖くなってきた。
「祟られたことはないの?」
「ないない、そんなの」
「じゃあ、なんでさっき挨拶するだけにしようって言ったの?」
 祐希が突っ込まれたくないところを聞いてきた。千智への慰めが自己矛盾になっている。
「それは荼枳尼天について知っちゃったからさ。知っててあえてお祈りするのはさすがに覚悟がいるでしょ。ここで真剣にお祈りするのはよっぽど切羽詰まった状況にならない限りやめておいたほうがいいと思うんだ」
「先輩って百回も手を合わせたんだ……これから先、大丈夫なの?」
「たぶん……。荼枳尼天について知ってからは、豊川稲荷に来るたびに『いつもありがとう』って心の中で言ってる」
「なんでありがとうなの?」
「ここで遊ばせてくれてありがとう、ってお礼を言うべきかなって思うようになった」
 千智と祐希はやっと生き返ったような顔になった。その反面、皐月の方が不安になってきた。自分は信仰を途中で放棄したことになるのではないか。ならば今後、大きなわざわいが待ち受けているのではないか……。
「じゃあ千智ちゃん、私たちも荼枳尼天様にお礼を言おうか」
「お礼を言わなきゃいけないこと、いっぱいあるね」

 すっかり元気を取り戻した千智と祐希、不安に駆られ始めた皐月たち三人は本殿の大提灯の下を通り抜け、お香の香り漂う外陣げじんへ入った。奥の内陣には荼枳尼天が奉祀ほうしされているが、暗くて中の様子が良く見えない。
 賽銭さいせんを入れ、手を合わせようとした時、祐希が千智に注意した。
「千智ちゃん、キャップ取った方がいいよ」
「あっ、いけない!」
 キャップを取った千智は目元がはっきり見えるようになり、荼枳尼天が嫉妬しそうなほどかわいくなった。千智が前髪をかきあげると、汗に濡れた前髪がたばっぽくなって、軽く巻かれたようになった。
 そんな千智を見て、祐希が満足げに無言で頷いていた。参拝を済ませた後、千智がキャップをかぶり直そうとすると祐希が止めた。
「私にもキャップかぶらせてよ」
「どうぞ」
 レトロガーリーな祐希のコーデにはストリート系のキャップはカジュアルすぎるが、千智は似合ってると褒めていた。
「千智ちゃん、絶対キャップかぶらない方がかわいいよ」
 千智の顔が曇った。
「かぶっちゃダメ?」
「ダメってわけじゃないけど、せっかくの美人が台無しかなって思って……」
「別に美人じゃないですよ……」
 声が小さくなり、千智の言葉が敬語に戻っていた。
「いや、千智はマジで綺麗だよ」
 千智が大きく目を見開いて皐月を見た。「えっ」と声を出した祐希はすぐに手で口を押さえた。
 皐月はいつも明日美に「今日も世界一綺麗だ」と言っているので、女子に綺麗と言うことくらいくらい普通のことだ。しかし、二人の驚いた顔を見ているうちに、変なことを言ってしまったんじゃないのかと焦ってきた。
「ちょ、ちょっと先輩、何言ってんの!」
 千智の顔から一瞬で陰りが消えた。照れる千智を見ていると、皐月にも心に余裕が出てきた。
「千智ってさ、学校で俺のことイケメンって言ってくれたじゃん。そのお返しだよ」
「も~っ、びっくりさせないでよ~」
 祐希が千智を冷やかし始めてはしゃぎ出したので、皐月は聞かないふりをして大本殿の階段を一人先に下った。

 ここから先は狐塚きつねづかと奥の院だ。
 奥の院へ続く参道の両側には豊川稲荷名物の千本幟せんぼんのぼりという幟旗のぼりばたが壁のようにずらりと並んでいる。今までの境内は開放的で明るく、陰陽でいえば陽だったが、この先にある堂塔伽藍は全て森の中の神秘的なエリアにあって、陰といえよう。
 祐希と千智がいつまでも大本殿の脇で二人で遊んでいそうだったので、皐月は順路に沿って先に参道に下りて二人を待つことにした。

 階段を下りると、大本殿から続く高架になっている通天廊の下を歩く参道がある。ここから奥へ入ったところが、豊川稲荷で皐月の一番好きなエリアだ。
 だがこの時間帯のこの場所は、いつ来ても無邪気になれない空気を感じる。緊張感を持ちながらまわりを見ると、木漏れ日が陰に溶けていて、黄昏が深まりつつある。昼でも薄暗い奥の院への参道は妖気さえ漂い始めている。
(今日はなんかいつもと違う?)
 皐月は胸騒ぎがした。それは霊的な怖さではなく、女子をここに連れてきたことで見舞われる将来への不安なのかもしれない。
「この先はまだ長いし、今日はもう遅いからまた今度にしない?」
「えっ? もう終わるの?」
 祐希は明らかに物足りなさそうな顔をしていた。夕食の時間にはまだ早い。もう遅いなんて言っても説得力がないのはわかっていたが、皐月は無理を通そうとした。
「私さっき一通り見てきたけど、見るところはまだいっぱいあるよ。でもゆっくり回っていたら暗くなっちゃうかもしれない」
「そうそう。こういうところは暗くなる前に帰らなきゃダメなんだよ」
 千智の絶妙なアシストに皐月は目を見張った。千智には自分の望んでいることがわかるのか、と改めて顔を見ると、付き合いの長い相棒のような顔をして微笑んでいた。

 皐月は祐希と千智に逢魔時おうまがときの話をした。
 昼から夜へ変わる時を逢魔時と言い、漢字で書くと「魔に逢う時」で、よくない霊や妖怪あやかしに逢うかもしれないから危険という意味だ。また、逢魔時は大禍時とも書き、大きなわざわいから、死を連想する。
「だからもう帰らない?」
「私はいいよ。でもまた今度ここに連れて来てね、藤城先輩」
「もちろん!」
 千智はエンパシーが強いのか、返してくれる言葉のなにもかもが皐月にはありがたかった。千智と皐月は波長が合う。
「皐月ってもしかして暗いところが怖いの?」
 祐希の言葉にガクッときた。相性のレベルが千智とは違い過ぎる。皐月はまだ祐希には子ども扱いされていて、対等に接してもらっていない。祐希とは合わないかもしれない予感がした。

 子どもの頃の皐月はこの先にある霊狐塚れいこづか(狐塚)が怖かった。ここで友だちと狐塚で肝試しをした話をして、幼少期のトラウマを言い訳にすれば祐希に帰りたいと思った理由を納得してもらえると思った。皐月はかいつまんで当時の体験談を話した。
「恥ずかしいんだけど、やっぱり暗いところは怖くて……」
 暗いところが怖いのは事実なので、皐月はここで少し大げさに怖がって見せた。
「今でも怖いんだったらしょうがないね。じゃあ、またにしようか。近いからいつでも来られるし。でもそこまで怖いところだったら、いつか絶対来てみたいな」
 年上の余裕なのか、祐希が急に優しくなった。さっき感じた祐希との相性の悪さと寂しさを、今の祐希の言葉で忘れてしまいそうになった。
「なんかごめんね。俺ってくそダサいわ」
「そんなことないよ。それに藤城先輩、知識がないから話せることないって言ってたけど、全然そんなことないと思う。さっきの荼枳尼天のこととか逢魔時とか詳しく説明してくれたし、本当は物知りでなんでしょ」
 千智からは臆病者と思われても仕方がないと思っていた。だが千智は自分の嫌な予感を汲み取るだけでなく、自尊心を守ってくれることまで言ってくれた。皐月は今までこんな子に会ったことがなかった。
「ありがとう。でも豊川稲荷の歴史とか由来とか、本当に知らないんだ。でも都市伝説とかオカルト的な話は好きだよ。友だちにオカルト好きの奴がいてさ、そいつがいろいろ教えてくれるから、普通の奴よりはそっち方面に詳しくなったかも」
 祐希や千智と話をしているうちに、辺りがさらに暗くなったような気がした。蒸し暑さもいつの間にか感じなくなり、樹々の間を吹き抜ける風がひんやりとしてきた。これは涼風のような爽やかなものとは違う気がした。皐月は早くこの場を離れたかった。

 その時、狐塚の方角から小さな光が仄かに見えた。光が近づくにつれ、それが自転車の燈火だということがわかった。皐月たちにかなり近づいたところでスピードが落ち、相手の顔がわかる距離になると自転車が止まった。
「皐月?」
「博紀か?」
 自転車に乗っていたのは同じ町内に住んでいて、同じクラスの月花博紀げっかひろきだった。


いいなと思ったら応援しよう!

音彌
最後まで読んでくれてありがとう。この記事を気に入ってもらえたら嬉しい。