夏の夜の宴は息子の恋バナを肴に (皐月物語 12)
皐月と祐希が家に戻ると、起り破風の軒下にある「小百合寮」と書かれた小さな行燈看板に明かりが灯っていた。玄関周りは本物の旅館ほど明るく華やかではないが、元旅館の建物だけあって雰囲気はある。格子戸を開け、「ただいま!」と言いながら玄関に入ると三和土に見慣れないオフホワイトのグルカサンダルがある。
「これ祐希の?」
「違うけど……素敵なサンダルだね。甲が編み込まれていて歩きやすそう」
和室障子をすりガラスにした引き戸を開けると、居間には皐月の母の小百合と祐希の母の頼子が食事の準備をしていた。隣の部屋の台所から醤油差しと小皿を持って、ソフトパープルの服を着た女の子が出てきた。彼女は皐月の幼馴染の栗林真理だ。
「おかえり」
真理が手を振って皐月たちを迎えてくれた。
「なんで真理がここにいるんだよ」
「いちゃ悪いの?」
ラベンダーの小ぶりのチェックのキャミソールワンピースにパープルのフレンチスリーブTシャツを合わせ、ワントーンでまとめている。上品で大人っぽくて、皐月はドキっとした。
「そんな言い方しちゃいけません! せっかく真理ちゃんが来てくれたんだから」
皐月は母の小百合に叱られた。真理がクスクス笑っている。
「百合姐さんがお寿司食べにおいでって誘ってくれたから来たんだよっ!」
「さっき検番で凛子と会ってね。よかったらうちにおいでよって言ったんだけど、今日は明日美と一緒のお座敷に呼ばれてるんだって。じゃあ真理ちゃんだけでもおいでって呼んだのよ。私も久しぶりに真理ちゃんと会いたかったからね」
「ありがとう、百合姐さん。会いたかったなんて言ってもらえて嬉しい!」
皐月と祐希が豊川稲荷へ遊びに行っている間に、小百合は芸妓の百合として新弟子の頼子を連れて検番に行っていた。そこでママ友仲間の芸妓の凛と待ち合わせをしていて、検番の主である京子に引っ越しが終わったことを告げるついでに、凛に頼子のことを紹介した。
百合から凛へ頼子の話はすでに伝えてあったし、頼子にも凛の話は伝えてあった。百合は凛の一人娘の真理のことも皐月と同じように見てもらえるよう、改めて頼子に仕事として依頼した。頼子は快諾してくれた。京子は頼子を正式に芸妓組合に所属する芸妓として登録をした。凛へ頼子を会わせるよりも、こちらの方が本来の目的だった。
「真理ちゃん、ちゃんとご飯食べてる? 凛がお座敷の日は独りご飯なんでしょ?」
「大丈夫だよ。いつもお弁当買ったり、お店で食べたりしてるから。皐月ほどうまくないけど、たまには自分でもご飯作ったりしてるし」
「明日美とお座敷だったら、今日は帰って来ないかもしれないわね」
「私が寝た後に帰って来られてもわかんないから平気だよ」
皐月は検番で明日美から聞かされたネグレクトという言葉を思い出した。夜職の母を持つ子にとってはやるせない言葉だ。
「うちのおばあちゃんの具合が悪くなってから全然面倒見てあげられなかったけど、これからは遠慮なくご飯食べに来てくれていいからね。さっきも話したけど、頼子にちゃんとお願いしてあるから」
皐月たちが帰ってくるまでに真理と小百合と頼子で何かを話していたようだ。
「いつ家に来てくれても大丈夫よ。ご飯はたくさん作っておくからね」
頼子は真理に気を使わせないよう、優しい笑顔で語りかけた。
「そんなことされたら、私が来なかった時ご飯余っちゃうよ?」
「いいのよ、そんな心配しなくても。余ったのは私と小百合で食べちゃうから」
「そうそう。次の日に料理しなくても済むから、かえって楽よ」
小百合と頼子は大人なのに学校の友だち同士のように仲が良く見えた。そんな二人を見て、皐月は気持ちが和んだ。
祐希は家に帰ってからずっと、見知らぬ女の子が家にいたせいか少し緊張しているように見えたが、母の頼子や真理の振舞いを見て安心したのか、ようやく表情から固さが消えた。
「ねえ皐月、真理ちゃんのこと紹介してよ」
祐希が皐月にそっと耳打ちをした。
「ああ、そういえば祐希は真理のこと知らないか」
皐月は祐希を真理のところまで連れて行き、二人の間に立った。皐月と真理の背の高さは同じくらいだが、祐希は二人よりは少し背が高い。
「真理はね、幼馴染で今同じクラス。祐希は高校3年生」
「それだけ?」
「お寿司を食べながら話せばいいじゃん。たぶん真理は祐希のこと頼子さんからある程度のことはもう聞いてるだろうし、とりあえず立ってないで座ろうよ。さっきまでずっと外歩いていたから、俺疲れちゃった」
皐月は一人でさっさと座った。
「真理ちゃん、よろしくね。皐月っていつもこんな感じ?」
「ん~、今日はちょっとテンション高めかな」
真理は皐月の隣に、祐希は真理の対面に座った。布団を取った長方形の炬燵テーブルの長辺に頼子と祐希が並び、頼子の隣の短辺に小百合、小百合の隣の長辺に皐月と真理が並んで座ることになった。
「じゃあ頼子と祐希ちゃんの歓迎会を始めましょうか。これからみんな一緒に小百合寮で暮らすことになるわけだから、お互い気になることは何でも遠慮なく聞いてね。祐希ちゃんや真理ちゃんもね。特に皐月」
「えっ、俺?」
「あんたが一番気を使って遠慮しそうだからね。真理ちゃんも勉強で忙しいかもしれないけど、昔みたいに来たい時はいつでもうちにおいで」
「百合姐さん、ありがとう。正直助かります」
「じゃあ、かんぱ~いっ!」
小百合と頼子はビールで、未成年三人は黄味がかった炭酸飲料でグラスを合わせた。一口飲んだ皐月がむひゃ~って顔をした。
「何これ?」
「ジンジャーエールにしたんだけど、皐月には刺激が強かった?」
「甘いと思ったからちょっと驚いただけ。なんでジンジャーエール?」
「回転寿司でジンジャーエールの中にガリが入ってるのがあってね、美味しかったの。だから家でもちょっとやってみようかなって思って」
「じゃあビールなんか飲むなよ」
「大人はとりあえずビールなのよ」
小百合は仕事ではお酒を飲むが、家では滅多にお酒を飲まない。珍しいな、と思いながら皐月も珍しく玉子から手をつけた。いつもなら最初に大好きなトロから食べ始めるが、今日は頼子の目を気にしてバランスを考えるようにした。
「やっぱり緑茶が欲しい!」
「私が取りにいくよ、百合姐さん」
真理は勝手を知っているので小百合は真理に任せた。
「祐希ちゃんにはいろいろ迷惑かけちゃいそうでごめんね。皐月はともかく、真理ちゃんはとってもいい子だから安心して」
「皐月はともかくって何だよ。俺、超いい子じゃん!」
この場にいる3人の女性たちが一斉に笑った。
「皐月ちゃん、かわいいね。小百合の育て方が良かったんだね」
「頼子のこと困らせないか心配なのよ~」
皐月のスマホから名鉄のパノラマカーのミュージックホーンが鳴った。千智からのメッセージの着信音だ。家に着いたことと、ちょっと長めの文章で今日のお礼が書かれていた。少し遅れて祐希のスマホにもメッセージの通知音が鳴った。
「あんた、私と真理ちゃん以外にメッセージのやりとりをしてる子なんていたの?」
「うん……」
「誰?」
真理が電気ポットとお茶っ葉と湯呑と急須をお盆に載せて持って来た。話が聞こえていたのか、皐月の背後から真理がスマホを覗き込んできた。
「チッチ(千智)?」
「ちさとちゃんだよ」
皐月の代わりに祐希が答えた。
「さっきまで千智ちゃんたちと四人で豊川稲荷を廻ってたの。千智ちゃんは皐月の友だちなんだって。私も千智ちゃんと友だちになっちゃった」
「千智って子、よそのクラスにいたっけ?」
「5年生だから真理が知らないだけだ」
「ふ~ん。皐月は5年生の女の子なんて知ってるんだ。ずいぶん守備範囲が広いのね」
真理がまだ誰も手をつけていない大トロをつまんだ。
「皐月、あなたガールフレンドなんていたの?」
「女の友だちなんていっぱいいるよ。そんなの別に普通じゃん。てか英語でガールフレンドって言うとなんかエロい」
皐月がムキになっているのを見て頼子が面白がっていた。
「祐希ちゃんが四人でって言ってたけど、あとの一人って誰なの? その子もガールフレンド?」
「博紀だよ」
「あ~、博紀くんね。ねえ頼子、この博紀くんって子すごくモテるんだって。なんでもファンクラブまであるそうよ」
「あらそうなの。でも皐月ちゃんもきっとモテてると思うよ」
「モテなくたっていいのよ。男なんて女からチヤホヤされるとロクなことがないんだから」
「モテたほうがいいじゃない。小百合、嫉妬してるの?」
真理が大トロを食べたのを見て、皐月も我慢できなくなって大トロに手をつけた。
「大トロ超うめぇっ! こんなトロ、食べたことないや。回転寿司だと高いし、もっとショボいよね」
「もう、恥ずかしいこと言わないでよ! ほんとにもう……頼子、ごめんね。うちの息子、バカで」
小百合と頼子はビールを飲みながらおしゃべりを楽しんでいる。頼子は小百合と違ってお酒が強いらしく、もう日本酒に移行している。小百合はジンジャーエールにガリを入れて飲み始めた。大人は大人同士に任せて、こっちは自分が話をしないといけないなと皐月は思った。
「そういえば真理にまだちゃんと祐希のこと紹介してなかったな。祐希はソフトボールやってたんだって」
「雑! 全然ちゃんと紹介してくれてないじゃない」
祐希がほっぺたを膨らませて怒っている。年上の高校生だけど、かわいいなと思った。
「祐希さんってこっちの高校に転校してくるの?」
「ううん。今通ってる新城の高校にここから通うの」
「ここからだと高校まで遠くない?」
「前住んでいたところが湯谷温泉より山奥だったから、学校まで1時間以上かかってたの。ここからだと駅が近いからもっと早く行けるんで、だいぶ楽になるよ」
この話は皐月も初めて知った。豊川なんかに引っ越してきて学校が遠くなるのかと思っていたが、近くなるとは思わなかった。
「真理はね、名古屋の中学に行くんだって」
「えっ? 地元の中学じゃないの?」
「私立の中高一貫の女子校に行きたいんだけど、私の行きたい学校って名古屋まで行かないとないから」
「さっきママが『真理ちゃんも勉強で忙しいかもしれないけど』って言ってたじゃん。それって受験勉強のことだよ」
「小学生が受験勉強なんて、私が住んでいたところじゃ聞いたことがないな~。すごいね」
「真理ってたぶんうちの学校で一番頭いいよ」
「塾じゃ全然だけどね」
真理はジンジャーエールに口をつけた。「ん~っ」ってて声を上げながらも気に入っているようだ。小百合と頼子は歓声を上げながら飲み食いしている。普段は見られない子供っぽい小百合は師匠の和泉や凛といる時とは明らかに違う。
「祐希さんって芸妓になるの?」
「ううん。芸妓になるのはお母さんの方で、私はならないよ。真理ちゃんはどうなの?」
「私も芸妓にはならない。母が大学に行けって勧めるから、じゃあそうしようかなって思ってる。祐希さんは大学に進学するの?」
「いや~、私にはそんな頭ないから働くよ。ここに引っ越してきたからこの辺りで就職したらってお母さんは言うけど、私は東京に出たいな……」
祐希と真理の会話をお酒を飲みながらも頼子と小百合は聞いていたようだ。
「ねえ小百合、祐希ったら東京行きたいって言うんだよ」
「いいじゃない、行かせてあげれば。田舎の学問より京の昼寝って言うじゃない。若い子は都会に出たほうがいいよ。ねえ、真理ちゃん」
「塾で名古屋に行ってるけど、刺激的で楽しいよ」
「心配じゃない、東京なんて。頼れる人もいないし、イザって言う時に送ってあげられるほどお金ないし……」
「じゃあ頼子、あなたも一緒に東京行けばいいのよ。もう離婚して自由なんだから」
「あなた、ここに越してきた初日なのに私に東京行けなんて言うの?」
わが親ながらひでえこと言うなあと思いながら、皐月はこっそりと大トロを連続で食べていた。早く食べないと、真理に食べられてなくなってしまう。
「ねえ、小百合も一緒に東京行こうよ」
「はいはい。一緒に行こうね」
「女子校って男の子いないけど楽しいの?」
「男子がいないから楽しいんだよ」
気がつけば小百合は頼子と、真理は祐希と話がはずんでいる。女性陣には勝手におしゃべりしてもらうことにして、皐月はさっき千智から来たメッセージの返信を書き始めた。すぐに返信できなくてずっと気になっていた。
「あ~っ、スマホいじってる。感じ悪っ! 何してんのよ?」
真理が皐月に問い詰めるような言い方で絡んでくる。
「さっき来たメッセージに返信しなきゃ。それに文が長かったからもう一度読み返してる。祐希はもう返信したの?」
「即レスしたよ」
「うわっ、早っ! いつの間に」
「ねえ祐希さん、千智ちゃんってどんな子?」
皐月はこの質問を怖れていた。もし自分が聞かれたら、どのように答えればよいのか考えがまとまっていなかった。
「千智ちゃんはね~、すっごくカワイイ子だよ。写真見る?」
「あるの? 見せて見せて」
祐希はスマホを取りだし、さっき撮った写真の中から千智がキャップを取っていて、祐希と二人で写っているものを真理に見せた。
「へぇ~。こんなカワイイ子うちの学校にいたんだ」
「皐月がね~、千智ちゃんにデレデレしてたんだよ~」
「してね~よ! デレデレしてたのは祐希の方じゃん。博紀の自転車に二人乗りしてたくせに」
皐月は祐希のスマホに手を伸ばし、祐希と博紀の二人で写っている写真を真理に見せた。
「ほら見なよ。祐希、嬉しそうな顔してるだろ?」
「祐希さんより月花(博紀)の方が嬉しそうに見えるけどね」
祐希が画面をスワイプして皐月と祐希が二人で写っている写真を見せた。
「皐月と一緒に写ってる時の私も嬉しそうな顔してない? ほら、良く見てよ。私、皐月と写ってる時の方がいい顔してるでしょ。もしかして皐月、私が博紀君と仲良くしてたことに妬いてたの?」
「妬くわけねーじゃん」
いつの間にか小百合と頼子はおしゃべりをやめていて、こっちの話を聞いていた。親たちは子供たちの話に興味津津だ。
「息子の恋バナを聞くってのもいいものね。千智ちゃんって子の写真見せてよ」
「私は博紀君って子の写真を見たいな。祐希、ちょっとスマホ貸して」
「あんまり変なとこ触らないでよ」
とりあえず博紀が一人で写っている写真を開いて頼子にスマホを渡した。
「これが博紀君? まあっ、イケメンね~。ジャニーズ系っていうのかしら」
「うちの子の方が可愛いも~ん」
「はいはい、そうだね。確かに皐月ちゃんの方が顔立ちが整ってて美少年よね」
目の前で博紀と比べられて皐月は面白くない。頼子の言うこともどうせお世辞に決まってる。祐希が画面をスワイプして、千智が一人で写っている写真を開いた。
「あらっ、美人さんだ。うちで芸妓やったら明日美をしのぐ子になれるかも」
「そうね。でもうちの娘も負けてないわ」
「祐希ちゃんも頼子に似て美人さんだもんね~」
二人でケラケラ笑いながら画面をピンチアウトしたりして品評会を始めた。寿司を食べて、お酒を飲んで、子供たちの話を肴にして言いたい放題だ。祐希は変な写真を見られないか頼子たちの手元をヒヤヒヤしながら監視している。二人から豊川稲荷でのことをあれこれ聞かれるので相手をする羽目になった。
やっと落ち着いて寿司が食べられると、皐月がブリをつまんだら真理が話しかけてきた。
「私は?」
「ん?」
口の中にまだ寿司が残っていて声が出せない。
「祐希さんと千智ちゃんは美人だって褒めてもらってるけど、私はどうなの?」
寿司を一貫食べきり、ジンジャーエールを一口飲んだ。責められているのか、からかわれているのか皐月にはよくわからない。
「真理は世界一きれいだよ」
「それって……いつも明日美姐さんに言ってる台詞でしょ」
「あはっ、知ってた?」
「もう……どうせ私は美人じゃありませんよ」
「そんなことないよ。真理だって負けてないって」
「ああ、どうもありがと。なんか気を使わせちゃってごめんね」
「俺が気を使うわけねーじゃん、ば~か」
大トロサーモンを食べようとした真理に皐月はコハダも食べるよう勧めた。
「もっと青魚も食えよ。DHA 摂って頭良くしておかなきゃ。この後も勉強するんだろ?」
「どうせ頭悪いよ~だ! あ~あ、なんかこの後勉強ダルいな~」
真理がへそを曲げているのを察して、すかさず小百合がフォローした。
「真理ちゃんはクールビューティーよ。凛子に似てるから、大人になったらすっごい美人になるわ」
「もういいよ、百合姐さん。ありがとう」
見え透いたこと言われても全然嬉しくないんだけどな……と拗ねながら真理は皐月に勧められたコハダを食べた。
(祐希さんにはともかく、千智って子には敵わないな……)
真理は写真を見た瞬間に敗北感を感じていた。真理はこういう褒め合う展開は苦手なので、話題を変えてきた。
「そういえば豊川稲荷に月花もいたみたいだけど、なんで?」
「あ~、あいつサッカーの練習の帰りなんだって。今日は川高で練習する日だったみたいで、そういう日はお稲荷さんの中を走って通うんだって」
「意外な組み合わせだなって思ってさ。だってあんたたち、クラスでそんなに仲いいわけじゃないし」
「別に仲が悪いってわけでもないけどな。ただ遊ぶグループが違うってだけだ。それにあいつ、なんか知らんけど俺のことライバル視してるんだって。ブキミ(博紀の弟の直紀)が教えてくれた」
「テストの成績じゃ月花は皐月に勝てないからね」
「そして俺は真理に全然勝てないと……。く~っ!」
「勉強もしない人に負けたら、私は泣くよ」
皐月は真理に嘘を言った。博紀が皐月をライバル視しているのは、弟の直紀の言葉から推察すると、博紀のファンクラブに入っていない真理が皐月と仲がいいからだ。なんでもできる博紀にしてみれば自分よりも勉強のできる奴同士がつるんでいるのが面白くないのだろう。
ただ、皐月の懸念事項がまた増えた。今日の博紀の様子を見ると、どうやら博紀は祐希に気があるようだ。そうなると祐希と同居している皐月に今まで以上に突っかかってくるようになるだろう。
「博紀君ってファンクラブがあるんだってね。真理ちゃんは博紀君のファンクラブに入っているの?」
「そんなの入ってるわけないじゃない!」
軽く流せばいいのに、ムキになって否定している。真理にはスルースキルが欠けている。
「でもあれだよな、クラスの女子ってほとんど博紀のファンクラブに入ってるよな? 筒井ですら入ってるんだぜ」
「あの子はファンクラブ会長の松井さんの親友だから付き合いで入ってるだけよ。ナニナニ、気になるのかな?」
「筒井さんってどんな子なの?」
「皐月の隣の席の子で、狸みたいな顔でカワイイの。彼女、皐月のことが大好きなんだって」
「まあ、皐月ってモテるんだね」
祐希の顔が笑っているようでどこか冷めている。
「あいつ、気持ちを隠そうとしないから周りにバレバレで参っちゃうよ。みんなして俺たちをくっつけようとするし」
「あんただってどうせ悪い気してないんでしょ?」
「俺よりも筒井が気を悪くするぞ。だいたい俺が筒井とくっつくわけないじゃん」
「なんでくっつくわけないのよ?」
「だって俺には真理がいるじゃん」
「そういう軽薄な性格、直した方がいいよ」
そうは言いながらも真理は機嫌が直ったのか、これ以上突っ込んだ話はしてこなかった。それよりも祐希がなんとなく怒っているようで気になる。祐希は真理のことを興味深く見ているが、どこか表情が暗い。空気が重い。
皐月だって恋愛に興味がないわけではない。むしろ今日一日で恋愛に目覚めてしまったかも、と思い始めている。祐希と千智という魅力的な女性と出会って心が穏やかであるはずがない。
小百合と頼子は話をやめ、お酒を飲んだり寿司を食べたりしながらこっそりこっちの話を聞いている。皐月が小百合にアイコンタクトを送ると気付いてくれた。
「ねえママ、何か三味線弾いてよ」
「芸妓の百合姐さんに無料で三味線を弾けって言うの?」
「今芸妓の格好してないからただのおばさんじゃん。『秋草の~』だっけ、よく検番で弾いてるやつ。あれ好きなんだ」
「『秋の色種』ね。全部だと長いな……。まあいいわ、ダイジェストで演ってあげる。ちょっと待っててね」
小百合は席を立って隣の部屋へ三味線を取りに行った。途中、皐月の頭をぽんっと叩いた。玄関のそばの楽器を置いてある棚から三味線ケースを取りだし、元いた席に戻って準備を始めた。
「祐希って三味線聴いたことある?」
「テレビか何かで少しくらいなら聴いたことがあるけど、こうやって目の前で演奏を見るのは初めて。すごく楽しみ」
「よかったら三味線教えてあげるよ、祐希ちゃん」
「本当ですか? ぜひお願いします」
調弦を済ませ、演奏を始めた。前弾きの旋律が秋を感じさせるのは夜に涼しい部屋で聴いているからか。皐月はこの寂しくも美しいメロディーが大好きだ。小百合が自分の好きなところだけ演奏したり歌ったりして場を和ませてくれた。小百合は頼子とばかり話すのをやめ、祐希や真理にも心を配るようになった。
皐月も自分から頼子に話しかけるようにして早く打ち解けようと思ったが、頼子の方から皐月に寄り添うようにしてくれたので、これからは迷惑にならない程度に甘えようと心に決めた。
夕餉も終わり、真理はこの後も勉強があるからと家に帰ることになった。真理の家は隣町だから近いけれど、夜道だし皐月が送って行くことになった。
「今日はごちそうさまでした。久しぶりに百合姐さんと食事ができて楽しかったです。三味線もすごく良かった!」
「またいつでもいらっしゃいね」
「じゃあ俺送ってくるわ」
外に出ると涼風が吹いていて、思ったよりも気持ちよかった。『夏は夜』と清少納言が枕草子に書いていたが、皐月も夏の夜が大好きだ。
家の前から商店街に出るまでは街灯がないので少し暗い。薄闇の中で見る人の顔はどうして美しく見えるのだろう。真理がいつもよりもいい女に見える。真理にも自分が男前に見えているだろうか……そんな甘いことを考えながら皐月は真理を見つめていた。