夏休みの宿題なんか俺がやってやるよ (皐月物語 13)
藤城皐月は玄関を先に出て、家の前で栗林真理を待っていた。真理は玄関先で皐月の母の小百合たち三人と挨拶をかわし、及川頼子と祐希の親子にも見送られた。
皐月からは真理が玄関の明かりの逆光の中にいるように見えた。玄関の明かりに合わせて瞳孔が開いているので、影になっている真理の姿が闇につぶれ、輪郭が輝いてオーラを放っているようだ。
二人で並んで街灯のない細い路地を歩いた。小百合寮から離れるにつれて周りが暗くなってくるが、目も徐々に暗さに慣れてくる。
「さっきから何見てんの」
「暗いところで見るとさ、真理っていつもよりかわいく見えるな」
「何よ、それ! 明るいところで見たらかわいくないみたいじゃない」
「すぐそうやって拗ねる。性格屈折してるよな」
街灯のない暗がりを抜けて商店街に出た。店はほとんど閉まっているが、路地よりもよほど明るかった。
「明るいところで見ても、まあまあイケてんじゃん」
「変に気を回さなくてもいいよ。今日はちょっと変だね」
自分がおかしなことは皐月もわかっていた。初めて会った下級生の美少女の入屋千智に芸妓の明日美、祐希と頼子の親子、そして幼馴染の真理……。
いつもの皐月は一人でいるか、男の友だちと遊ぶだけなのに、今日は女の人と関わることの多い一日だった。月花直紀や、その兄の博紀と会っていなかったら、もっと心が疲れていたかもしれない。
「ねえ、皐月……」
「何?」
「家、賑やかになったね」
「そうだね……」
駅前大通りを左に曲がり、豊川駅の西口に向かった。大通りの店舗は閉店が早く、夜も8時を過ぎると開いている店が少なくなる。
「嬉しい?」
即答できる質問ではない。
「夜、家に一人でいる時間は嫌いじゃなかった。一人で寝るのも寂しくなかったし。……これからは祐希たちがいて一人じゃなくなるんだけど、かえって寂しいって感じ始めている。変だよね、こんなの」
信号のない横断歩道の少し手前で真理が立ち止った。皐月は二歩先に進んで立ち止まり、真理の方に振り向いた。
「百合姐さんがいつでもおいでって言ってくれて、すごく嬉しかった。でも私も皐月と同じ。一人でいたって寂しくない。勉強ははかどるし、好きなように過ごせるから、一人になるのは好き」
「家においでってママに言われたの、迷惑だった?」
「そんなことない。本当に嬉しい。……でもあまり行かないかもしれない」
「どうして?」
「皐月の家に行ったら、後で余計に寂しくなりそうだから」
20時20分発の豊橋駅前行きの豊鉄バスが駅前大通りをゆっくり通り過ぎた。
「わからないな」
「……わからなくていい」
真理は皐月を見ずにバスを目で追っているふりをして、皐月に背を向けていた。
「それって俺が感じる寂しさと同じなのかな?」
今度は真理が皐月の方に振り向いた。
「そんなの同じわけがないじゃない。でも……少しでも皐月に私と同じ気持ちがあったら嬉しいかな」
この時間になるとアーケードを歩いている人は列車が来ない限りめったにいない。
「コンビニ寄ってもいい? 夜食を買いたい」
「まだ食べるのか?」
「たぶん寝るのは遅くなるから、それまでに絶対にお腹が空くと思う。夏休みの宿題、まだ全然やってないんだよね~。今日中に片付けようと思ったら、今からやっても徹夜になるだろうな」
「なんで今まで残してたんだよ?」
「しょうがないでしょ。塾や受験勉強で忙しかったんだから」
「俺みたいに夏休み前に済ませちゃえばよかったのに」
「私はギリギリにならないとやる気が出ないの」
真理は昔からこういう奴だった。やらなければいけないことをギリギリまで先送りする。面倒なことは先に片付ける皐月とは正反対の性格だ。
「俺の宿題写すか?」
「いい、全部即答できるから。でも漢字ドリルは書くのが面倒だな。……それよりも絵と自由研究が困った。どうしよう……」
「俺に出来ることがあったら手伝うよ。とりあえず勉強系は今日中に終わらせちゃえよ。それで残りは明日一緒にやろうぜ」
駅前のミニストップに入ると真理は真っ先にサンドイッチのところへ行った。『胡麻香る豚しゃぶサンド』を一つカゴに入れ、次にスイーツを物色し始めた。
「これって美味しそうじゃない?」
「肉が美味そうだな」
「そういえば皐月ってよく私に肉食えって言うよね」
「肉に含まれる必須アミノ酸は肌や髪にいいんだよ」
次に真理が手に取ったのは「2種のピーチパフェ」だった。黄桃と白桃とキウイの下にホイップクリームとゼリーとプリンが詰まっている。こんなの美味いに決まっている。真理は棚に残っていた二つのパフェを全部カゴに入れた。
「お前、二つも食べるのか?」
「一つは皐月のだよ。うちで食べてってよ」
「ああ……いいけど」
真理を送り届けたらすぐに帰るつもりでいたが、ちょっと寄っていかなければならなくなった。
6年生になってから皐月はまだ真理の家に一度も上がったことがなかった。久しぶりに真理の家に行ってみたいという気持ちはあったが、受験勉強の邪魔をしたくない。だから今でも自分からは真理の家に行こうとはしないつもりだった。
ただ今晩は受験勉強ではなく夏休みの宿題をするということなので、片付け仕事だから気兼ねをする必要がない。
それに誘いを断って真理に寂しい思いをさせたくなかった。皐月自身、もう少し真理と一緒にいたいと思いはじめていた。
コンビニを出て横断歩道を渡り、人のいないバス停と、車が停まっていないタクシープールがある。その間を通って豊川駅西口へ向かうと、橋上駅舎の豊川駅につく。
豊川駅には西口と東口を結ぶ懸け橋となっている東西自由通路がある。そこを通って東口に出ると真理の住むマンションがすぐ近くにある。
昭和の古びた小百合寮と違い、真理の住むマンションは14階まであり、エントランスも整備されていて小奇麗な建物だ。皐月は以前から真理のマンションを羨ましく思っていた。
エレベーターに乗り、10階で降りると、渡り廊下から満月に照らされた豊川駅の構内が一望できる。
「いいな、毎日駅が見られるなんて。俺もこんなとこに住みたいよ」
「こんなの何がいいの? そんなに駅が好きだったら皐月も名古屋の中学に行けばいいのに。毎日駅に行けるし、電車だって飽きるほど見られるから」
真理の部屋は角部屋だ。玄関の扉を開けると明かりがついていた。エアコンも付いていて玄関が涼しい。小百合寮を出る前に真理がスマホで家電の遠隔操作をしていた。
「入って」
真理に招き入れられた皐月はリビングに通された。真理の家は皐月の家のような炬燵と座布団ではなく、ローテーブルとソファーがある。
真理の母の凛子の趣味なのか、全体的に白っぽく明るい色合いで、シンプルなデザインで統一されている。皐月の部屋のようにごちゃごちゃと物がなく、部屋の中がスッキリとしている。
「適当に座ってて。飲み物持ってくるけど、何か飲みたいものある?」
「冷たいものだったらなんだっていいや」
「じゃあカフェオレにするね。私が飲みたいから」
部屋のスピーカーから音楽が流れ出した。学校の掃除の時間で聴いたことのある外国の曲のインストゥルメンタルだ。
曲名はわからないが、こうして改めて聴いていると気持ちが落ち着く。大きすぎないボリュームなので、これなら音楽を聴きながらでも勉強ができそうだ。皐月は流行りの曲やボカロ、アニソン、最近では懐メロまで雑多に聴いているが、こういった大人っぽい音楽を聴くのもいいなと思った。
「お待たせ。冷たいものって言ったから、真理ちゃん渾身のコーヒーを淹れられなかったけど、どうぞ」
コースターの上に氷入りのカフェオレのグラスを乗せてくれた。さっき買った「2種のピーチパフェ」もある。
「無糖コーヒーに牛乳を混ぜただけのカフェオレでごめんね」
真理は謙遜して言っていたが、混合比がいいのかとても美味しい。パフェは見た目と違わずめちゃくちゃ美味しい。
「これ食べたらすぐに宿題しろよな」
「だるいね、宿題って。全然やる気にならない」
「自由研究は俺がやってやるよ」
「えっ……どういうこと?」
「自由研究、困ってるんだろ? いいよ、俺が代わりにやってやる。今日、豊川稲荷に行ったらちょっと不思議なことがあってさ。それで急に調べたい事ができたんだ。自分の好奇心を満たすついでだから、気にすんな」
この気持ちは本当だった。皐月は今晩にでも豊川稲荷のことを調べようと思っていたくらいだ。
「ネットで調べながらパソコンで原稿書くからさ、プリントアウトしたの写しちゃえよ。俺が書いてやってもいいけど、筆跡で先生にバレるだろ」
「なんか悪いよ、そんなことまでしてもらうの」
「いいっていいって。自分が好きでやるんだから。ところで真理って豊川稲荷に祀られている神様、知ってる?」
「知らないけど……」
「荼枳尼天っていう神様でさ、女神なんだ。すごく怖い神様なんだけどなかなか魅力的でね。それで荼枳尼天のことをちゃんと調べたくなったんだ。最近は秀真に影響されて、オカルトにも興味を持つようになったんだよね」
オカルト好きな神谷秀真と仲良くなって以来、皐月もオカルト方面に興味を持つようになっていた。皐月はこの世には不思議なことがたくさんあると、今はまだ素直に受け入れている。
「でも、さすがに代わりに自由研究をやってもらうわけにはいかないって。自分で何とかするよ」
「じゃあ、俺の研究を見せびらかしてやるから、見てくれよ。絶対面白いから。それでそれを真理がパクって、自分の自由研究にしちゃうっていう形にすればいいじゃん。本当なら俺が荼枳尼天の自由研究を提出したいくらいだよ」
「そうすればいいのに」
「でもそうすると、もうやっちゃった自由研究がパアになっちゃうじゃん。まあ、その研究を真理に譲ってもいいんだけど、そうすると先生に真理が鉄ヲタだって疑われちゃうかもしれない。そんなの嫌じゃない?」
「……ありがと。じゃあ甘える」
「うん」
真理はグラスについた結露をハンカチで拭いた。氷が溶けたのでカフェオレが少し薄くなった。
「ついでに絵も描いてやるよ」
「え~っ! いいよ、そこまでしてくれなくても」
「ついでだから遠慮するなよ」
皐月はカフェオレを一気に全部飲んだ。少し水っぽい味になっていた。
「でも、どうして絵まで描いてくれるの?」
「今日狐塚に行ったんだけどさ、境内が薄暗くてすごく神秘的だったんだ。それでその時の印象をちょっと絵に描いてみたくなってさ。宿題だったら写生大会じゃないから自由に描いていいはずじゃん。だからちょっと印象派っぽい感じの絵を描いてみたいんだよね。これも俺の趣味だ」
皐月は千智のTシャツにプリントされていた抽象画に影響を受け、何でもいいから早く絵を描きたいという気持ちになっていた。
「じゃあ私は皐月の趣味全開のヤバい絵を提出するってこと?」
「嫌か?」
「嫌に決まってるでしょ!」
「俺が提出する予定の絵で良かったら真理にあげてもいいんだけどさ、それって鉄道の絵だから、オタク丸出しになっちゃうぞ。自由研究が荼枳尼天なら、絵は豊川稲荷の狐塚の絵で合ってると思うんだけどな」
水っぽくなる前に真理もカフェオレを飲み干した。
「どうして私にそこまでしてくれるの? そこまでされる理由がないよ」
「そんなの真理のことが好きだからに決まってるじゃん」
「もうっ! そういうのはいいって」
真理は口では怒っているようなことを言っても、表情は少し緩んでいた。
「まあ実際のところ、真理のためにするっていうよりも、自分の趣味を満たしたいっていう気持ちが強いかな。だから、これは俺のわがまま」
「でも気が咎めるな……これじゃ私だけ楽をし過ぎてるよ」
「いや、気が咎めるのはこっちだし。自分の趣味を押しつけてるみたいで」
皐月は同好の士が欲しかった。宿題を代行するのは自分の好きなことを真理にも好きになってもらおうという目論見もあった。
リビングに流れている曲がビー・ジーズの『愛はきらめきの中に』に変わった。
皐月は真理の言う通り、夏休みの宿題を肩代わりするのはやり過ぎかもしれないと思っていた。この日はいろいろあり過ぎて、まだ気持ちが昂っている。
学校では友だちとクラスが別れると、それまでのように一緒に遊ばなくなる。もし真理と通う中学が別々になったら、二人の関係はどうなるだろう? 友だちでなくなるということはないと思うが、疎遠になるのは間違いない。
新しい環境で新しい人間関係にさらされたら、誰だって自分のことで精いっぱいになってしまう。いくら真理が幼馴染とはいえ、名古屋の中学に通うようになったら、自分から真理と積極的に会おうとしない限り、もう会うことはなくなってしまうかもしれない。
「宿題の絵はやっぱり自分で描くよ。適当に30分で終わらせてやる」
「なんだよ。せっかく俺が描いてやるって言ってるのに」
「絵は自由課題じゃなくて交通安全のポスターにする。これなら簡単だからすぐに終わるよ」
「そんな気持ちで描く絵なんて、つまんなくない?」
「今はそんなこと言ってる場合じゃないよ。それよりも皐月の描く狐塚の絵、見てみたかったな。明日やっつけ仕事で描かないで、皐月の納得がいくように描いてほしい」
「そうだね……絵を描きたいってのは本当だから、近いうちに描くよ。完成したら見てほしいな。宿題じゃないならCGでもいいか。なんか面白くなってきたかも」
リビングに流れている曲が『コンドルは飛んでいく』に変わった。
「受験勉強、頑張ってる?」
「うん」
「真理の部屋、見せてもらってもいい?」
「え~っ! 部屋グチャグチャだよ」
「俺の部屋よりはマシだと思うけど」
「3分だけ片付ける時間ちょうだい」
「ダメ。1分ね」
真理が部屋を片付けている間、皐月は少しだけ窓を開け、夜の豊川駅を見下ろした。この曲を聞きながら窓の外を見ているとどこまでも空を飛んで行けるような気がしてくる。
「お待たせ。入っていいよ」
部屋の中は真理が言うほどちらかってはいなかった。塾で使っているテキストやプリントが机の上に乱雑に積み上げられているくらいだ。母の凛子の影響か、真理の部屋も余計なものがあまり置かれていなく、全体的にすっきりとしている。以前来た時はこんな部屋じゃなかったような気がする。
「どうして私の部屋を見たいって思ったの?」
「受験勉強ってどんなことやってるのかなって、ちょっと興味があって。この前パピヨンで見た算数のテストがあったじゃん。どんな勉強したらあんな問題解けるようになるのか知りたいって思ってさ」
真理に見せてもらった塾のテキストはプリントを冊子にした手作りのようなものがたくさんあった。一冊一冊は薄いけれど、ジャンルが細かく分かれていて種類も多い。科目ごとにまとめたら相当な分量になるだろう。
「こんなにたくさんあるけど、全部やったのか?」
「さすがに無理。もっとも志望校次第では全部やる必要はないんだけど」
「真理の受ける中学だと全部やった方がいいの?」
「名古屋の中学だと、関西や関東に比べてレベルが低いから、全部やらなくても大丈夫。でも、全部やらなくていいとしても、今の私は必要な分量もこなせていないんだけどね。えへへ……」
この時の真理に優等生の面影はなく、低学年の頃ののんびりしていた頃の真理だった。
「何度も反復して知識を定着させなければいけないんだけど、そんな余裕全然ないし……」
「じゃあ、反復なんかしないで、一発で覚えちゃえよ」
「私はあんたと違って、頭が悪いから」
皐月は手元にあるテキストをパラパラと見た。算数と理科は皐月には難しすぎる。国語と社会なら何とかなりそうな気がしないでもないが、問われる知識が細かい。
「勉強、楽しい?」
「……楽しくはないかな。嫌いってわけでもないけど、寝不足になるのが辛いよね。お昼ご飯食べた後とか超眠いし」
「眠くても勉強頑張ってるんだ」
「そんなに頑張っていないよ。睡魔には敵わないから。だから成績だって全然上がらない」
皐月の知っている幼馴染の真理は、確かにそんなに頑張り屋というほどでもなかった。一緒に遊んでいても負けず嫌いなのは皐月の方だった。
皐月も飽きっぽい性格だが、すぐに疲れたり飽きたりするのは真理の方だった。そんな真理が勉強を始め、塾ではともかく、学校では無双するまでになっている。
「偉いな、真理は」
「どこが? 全然偉くないよ。このままじゃ絶対落ちちゃう。お母さんを悲しませちゃう……」
「凛姐さんはそんな人じゃないだろ。俺のママが凛姐さんから聞いた話だと、真理が夜遅くまで健気に勉強している姿を見ると仕事頑張らなきゃって言ってたらしいよ。真理の受験がどんな結果であれ、褒められることはあっても悲しむなんてこと絶対にないって」
「この夏休み、勉強やり切ったっていう自信がないの。だから不安で……」
うつむき、うなだれて、手で顔を隠している真理を見ると、皐月は寄り添ってあげずにはいられなくなった。
真理は皐月に体を預けた。
皐月は左手を髪に添えて真理を抱き寄せた。こんなふうに身を寄せ合うのは、二人がまだ小さかった頃のとき以来だ。凛子の仕事で真理が皐月の家に預けられた幼少期の頃、真理が寂しくて泣くので皐月はずっと真理にくっついて慰めていた。それに……。
気付くと皐月は真理の左肘に右手を添えて抱擁していた。
「大丈夫。真理は自分のできる範囲で頑張ればいいよ。俺も力になれることがあったら何でもするからさ」
「ほんと?」
「ああ。とりあえず夏休みの宿題くらいは手伝ってやるよ」
「ありがとう」
この家に来て初めて真理が笑った。真理に手を引っ張られて部屋を出るとまた違う曲が流れていた。
「もう帰って。今から宿題やるから」
「一人で大丈夫か?」
「大丈夫。慣れてるから」
真理はすっかり元気を取り戻したように見えた。
「明日の午後には自由研究を持ってくるから。ところでこれなんて曲?」
「『風と共に去りぬ』っていう映画のテーマ曲。お母さんがこの映画好きなんだって。私は見たことないけど」
「これもいい曲だね」
「また音楽聴きにおいでよ。皐月がいても勉強の邪魔とか思わないから、子どもの頃みたいに気軽に遊びに来てほしいな。その時はおやつの差し入れがあると嬉しいかな。あと、できたら家に来るのはお母さんのいない時にしてほしい」
「わかった。真理も遠慮せずうちに晩飯食べに来いよ」
「うん。ありがとう」
「うちに来たら余計に寂しくなるなるなんて、そんなこと絶対に思わせないから」
「うん。その言葉、信じる」
皐月は真理の家を出た。渡り廊下から豊川駅を見下ろすと、名鉄の豊川稲荷駅も見えた。毎日この駅から電車に乗って名古屋の中学へ行くのも悪くないのかもしれない。
真理のマンションのエントランスを出て、豊川駅に向かって歩いた。駅の東口にはシャッターが下りた商店街よりも人気がなく、駅まで誰とも会わなかった。
東西自由通路を上り、広いコンコースに出ると豊川稲荷への観光客を歓迎する狐の像があった。皐月はこの安っぽい狐の像を見て、今日の狐塚での出来事を思い出した。
さっき真理を抱き寄せた時、入屋千智の手を取って狐塚へ走っていた時と同じ匂いがした。幼馴染とばかり思っていた真理に初めて女を感じた。
胸の中に真理がいた時、千智のことを思い出した。これは自分でも背徳行為だと思った。この時、皐月は千智の汗で湿った手の感触を思い出し、真理の手にも触れたくなっていた。
真理は手を触れても拒否はしなかっただろう。だが真理の顔を見て、皐月は自分が今何をしているのかに気付き、ギリギリのところで冷静さを取り戻した。
東西自由通路の西口を出て、すぐ右にある木の下のベンチに腰掛け、スマホを取りだした。黄昏時の豊川稲荷で撮った入屋千智や及川祐希の写真を眺めながら、どうして真理の写真を今まで撮っておかなかったのだろうと、今さらながら思った。
今は夕日の中で皐月の胸をときめかせた千智の写真よりも、自分にすがるような真理の顔をもう一度見たいと思った。今すぐにでも真理の部屋に戻って、もう一度会いたい。真理の言った「皐月ん家に行ったら後で余計に寂しくなりそうだから」がそっくり自分に返ってくるとは思わなかった。
この切なさを振り切ろうと、皐月は立ち上がってシャッターの降りた夜の商店街に駆け出した。
一秒でも早く自分の部屋に戻りたかった。徹夜になってでも自由研究を完成させるつもりでいた。学校一の才媛・栗林真理の名に恥じないレポートを書き上げてやろうと思った。そして、恐ろしくも魅力的な女神・荼枳尼天を知ってもらいたいと思った。
皐月は自分のわけのわからない気持ちを何かに没頭することで振り払おうとした。
家に帰ると母の小百合が帰りの遅くなった皐月を心配していた。
「遅かったわね。どうかしたの?」
「真理とちょっと話していた。そしたら重大なことに気がついちゃって……実はまだやってない宿題が一つあったみたい。だから今日は徹夜をしてでも片付けなきゃならなくなった」
「明日やればいいじゃない?」
「こんなの勢いだから、今すぐにやりたい」
二階に駆け上がり、自分の部屋に入ると襖が開いて祐希が顔を出した。
「おかえり。お風呂先に入る?」
ずっと真理のことを考えていたから、急に祐希の顔が出てきてびっくりした。
「今から夏休みの宿題をやらなきゃならないから、今日は入らないかも。入るとしたら終わった後かな」
「まだ宿題終わっていなかったの?」
「ちょっと忘れていたのがあってさ。真理に言われて初めて気がついた」
「じゃあ邪魔しないように気をつけるね」
「そんなの全然気にしないで普通にしててよ。俺はヘッドフォンして音楽聴きながらやってるから」
「あんまり無理しないでね。ちゃんと寝なきゃだめだよ」
「ありがとう。起きてられないくらい眠くなったら寝るよ」
「じゃあがんばってね」
祐希が初めてこの家に来た夜だというのに、この日は祐希と部屋でゆっくり話もできなくなった。でもそれで良かったのかもしれないと思った。今の自分には祐希よりも真理の方が大切だから。