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仲良くしてくれてありがとう(皐月物語 169)
「私の部屋は二階にあるから」
吉口千由紀は藤城皐月を連れて、スナック『夕夏』の店内から扉の奥へ消えた。きらびやかな店内と違い、スナックのバックルームは照明がついていなかったので薄暗かった。
メゾネットタイプの住宅付き店舗の奥の部屋はキッチンと浴室になっていた。キッチンは狭く、床には店で提供される飲料が積まれ、小さなテーブルの上には食材が置かれていた。皐月は旅館だった建物の小百合寮と比べて台所の狭いのに驚いた。
皐月は千由紀の足元を見ながら階段を上った。学校や駅に比べたら急な階段だが、皐月の家の階段ほど急ではなかった。階段は途中で左に直角に曲がるので踊り場があり、手すりもついていた。これなら千由紀の母が酔っていても上れそうだ。
二階には和室が二部屋あった。階段を上ってすぐのところが千由紀の部屋だった。千由紀の部屋と襖を隔てた奥の部屋が母親の夕夏の部屋だ。襖が開け放たれていたので、千由紀が慌てて閉めた。
夕夏が自室に行くためには千由紀の部屋を通り抜けなければならない。この部屋の造りは皐月の家と似ている。
皐月と及川祐希の部屋も襖で隔たれているだけだ。皐月の家は元が旅館だったので、廻廊をまわって祐希の部屋に行ける。しかしこの家は千由紀が寝ていても、夕夏は千由紀の部屋を通り抜けなければならない。
「私の部屋って言っても、物置の片隅に自分用のスペースをもらっただけなんだけどね」
千由紀の部屋は右側が押し入れになっているので、左側が千由紀のパーソナルスペースだ。窓は店の前の通りに面していて、窓際に学習机代わりの炬燵があった。ペンケースや小物入れは炬燵の上に置かれていた。
左の壁際に本棚があった。本棚には小説がぎっしりと詰まっていて、本棚の片隅に学校の教材が詰め込まれていた。本は文庫本が多かった。
「部屋、狭いでしょ」
確かに千由紀の部屋は狭かった。だがそれは部屋の半分くらいしか自分の領域を与えられていないので当然だ。面積は狭いが、書斎のような雰囲気があった。皐月は二部屋を一部屋に圧縮した自分の部屋よりも広く感じた。
皐月は千由紀の本棚の中に漢検準1級と1級のテキストを発見した。皐月は漢検2級を持っていることを二橋絵梨花に自慢していたが、千由紀はすでに準1級を持っていそうな感じがした。
「吉口さん、漢検の勉強してるんだ」
「うん……まあ」
「もしかして準1級って持ってる?」
「一応……」
「あちゃ~。じゃあ、1級は?」
「さすがに1級は取っていない」
「俺、2級なのに漢字博士とかいい気になってた。恥ずかし~」
作り笑顔で取りつくろったが、本当は泣きそうになっていた。皐月は漢検2級を取ったことにプライドを持っていた。2級があれば大学受験の漢字でも読み書きができる。
「漢字博士って煽てたのは二橋さんだから、藤城君が恥ずかしがることないじゃない? それに、藤城君は語彙力があるから、私も言葉を選ばないで伸び伸びと話せる」
千由紀は優しかった。フォローをするだけでなく、褒めることも忘れなかった。皐月は感激して、千由紀のことを異性として意識し始めた。
千由紀の本棚には大学受験用の古文と漢文の参考書があった。皐月には千由紀の持っている参考書がどの程度のレベルなのかはわからないが、古文と漢文は高校生の祐希に教科書を見せてもらって、知っている。漢文が面白そうに見えた。
「吉口さんって、古文とか漢文の勉強してるの?」
「古文は少しだけ。昔のエッセイが読みたいから勉強してるけど、漢文はまだそんなに勉強してない」
「昔のエッセイって『枕草子』とか?」
「うん。とりあえず『枕草子』が読めればいいかなって」
「清少納言が清水寺に来たことがあるって言ってたよね。あの話、面白かった。俺もちょっと『枕草子』を読んでみたいなって思ったよ」
「現代語訳がおすすめだよ」
そう言って千由紀は本棚から文庫本の『枕草子』を引っ張りだし、第231段の「さわがしきもの」の現代語訳を見せてくれた。
「清水寺は昔から賑やかだったんだね。他所の国からも人が来ていたって書いてあるけど、これって唐とか外国のこと?」
「この時代の国だから、隣の近江とか大和のことなんじゃないかな」
皐月は『枕草子』をぼんやりと眺めながら、修学旅行で見た清水寺を思い出し、平安時代の光景を想像した。こうして意識を過去に飛ばして遊ぶのは楽しい。知識が増えれば、その妄想の世界の解像度が上がって、もっと楽しくなるだろう。
「漢文の本があるけど、これを勉強したらお経が読めるのかな? 秀真に付き合って般若心経を憶えたんだけど、あれって全部漢字で書かれているからさ。お経って漢文だよね?」
皐月はオカルトマニアの神谷秀真と一緒に般若心経を覚えた。注釈書を読んだことがないので意味は全くわからないが、やたらと「無」が出てくることが気になった。
般若心経は短くて覚えやすかった。だが、皐月は秀真のようにお寺で般若心経を読経することは恥ずかしくてできない。最後に載っている真言の「羯諦羯諦」だけは面白がって、一緒に唱えることもある。
「参考書には仏教の経典は出てこないよ。きっと特殊な漢文なんだろうね。私にはよくわからないな。気が向いたら、いつか勉強するかも。でも、経典の原文って古代インドの言葉だから、読むなら原典から直接和訳したものだろうな……」
皐月も「羯諦羯諦」みたいな真言が古代インドの言葉ということは知っていた。英語や漢文以上に訳のわからない言葉だと思った。
秀真は修学旅行から帰ってきて、神道だけでなく仏教も勉強したいと言い出した。皐月の関心事は目下のところ日本の古代史なので、ここが秀真とのわかれ道なのかな、と少し寂しくなった。
藤城皐月は吉口千由紀の家に自宅の小百合寮や栗林真理の家と同じ空気を感じていた。それは父親の存在感のなさだ。
「吉口さんの家って、お母さんと二人暮らしなの?」
「うん。母子家庭」
「俺ん家と一緒だ」
皐月は千由紀にまじまじと顔を見られた。皐月は千由紀に家が置屋だという話をしていたが、親がシングルマザーだという話をまだしていなかった。
千由紀が驚いた顔をした。大きく見開いた一重瞼の目と、小さくすぼめられた口がコケティッシュだ。メイクをしていなくても、肌が透き通るように白い。
皐月の見立てでは、千由紀は眼鏡を外してコンタクトに替え、メイクをしたら母親の夕夏よりも美人になるはずだ。文学少女の醸し出す知的な雰囲気は万人受けするかわいさの二橋絵梨花や入屋千智とは異質の魅力がある。
皐月は千由紀に促されてテーブルについた。千由紀が本棚から芥川全集を一冊出した。文庫本なのに分厚かった。
「これは『歯車』が収録されている巻。どんな風に注釈がつけられているか、見てみようか」
斜め左に座っていた千由紀が皐月の隣に移動してきて、ページを繰り始めた。学校や修学旅行では皐月と千由紀はこんなに近づいたことがなかった。皐月には心なしか千由紀が大胆になっているような気がした。
陽が傾き、窓から差し込む陽の光は弱くなり始めた。場末のスナックの二階で肩を寄せ合いながら本を読むこの状況に、皐月はおかしな感情の高ぶりをおぼえていた。それは知的興奮にだけでなく、千由紀を好きになりそうな危うい感情が入り混じっていたものだ。
「全集でも学校にある『少年少女日本文学館』みたいに、同じページに注釈が書かれているわけじゃないんだ」
皐月は邪念を振り払い、小説の話に集中しようとした。
「あの本は親切過ぎるからね。でも藤城君が読んでいる岩波文庫に比べたら雲泥の差でしょ?」
「うん。知りたい箇所に注釈がついている。こりゃいいや」
注釈には意味を調べただけでは知り得ない情報も書かれていた。
「欲を言えば、もう少し注釈を充実させてもらいたいところだけど、これはしょうがないよね。きりがないから」
皐月はこれまで文庫本を読んできて、いちいち巻末の注釈のページを参照するのが面倒だった。ウィキペディアのウェブサイトのように、ポップアップで注釈が見られるとありがたいが、紙の本でそんなことができるわけがない。
「吉口さんって、修学旅行の時に芥川の『地獄変』を推してたよね? 持ってたら貸してほしいんだけど、いい?」
「いいよ。せっかくだから、全集版で貸してあげる。コミカライズもされているけど、読んでみる?」
「えっ? 漫画もあるの?」
「あるよ。『地獄変』も『歯車』も両方持ってる。読みたい?」
「読みたい読みたい」
皐月は千由紀に『地獄変』がどのような小説なのかを聞いた。千由紀によると、『地獄変』は芸術に取り憑かれた平安時代の絵師の話だ。
良秀は堀川の殿様に仕えていた絵仏師で、本朝第一と言われるほど高名で、絵筆を取れば見る者の魂を揺さぶるほどの技量を見せた。
良秀には溺愛する娘がいた。ある時、娘が殿さまに見初められ、奉公人として屋敷に上がった。良秀はそれが気に入らなく、何度も殿様に娘に暇を出すよう頼んだが、殿様は良秀の相手をしなかった。
殿さまは良秀の娘に目をかけていて、小女房に取り立てた。娘にしては異例の大出世だったが、彼女はある日、自分の部屋で泣いている姿を目撃された。屋敷では娘が殿様との夜伽にまつわるトラブルがあったと噂されていた。
娘のことで殿様と良秀の関係は悪化していたが、そんな折りに良秀は殿様から地獄変の屏風を描くよう命じられた。
良秀は非常に精密な絵を描く絵仏師だ。だが、彼には絵を描くにあたって重大な欠点があった。それは自分の目で見たものしか描けないということだ。だから、絵を描くためには緻密な取材が必要となる。
良秀は地獄絵を描くために、あらゆる醜いものを観察し、詳細なスケッチを残した。そして、そのスケッチをもとに地獄絵を描いた。良秀の絵に取り組む姿勢は芸術至上主義といえるものだった。
だが、良秀にはどうしても手に入らない観察対象があった。それは牛車の中で焼かれる女の姿だ。
「後は自分で読んで」
「えーっ! ここからがいいところなのに~」
「ちょっと喋り過ぎた。『地獄変』は短い小説だから、すぐに読めるよ。本当は今ここで読ませてあげたいんだけど、私は藤城君と話したいことがたくさんがるから、家で読んでね」
千由紀がすぐ隣で顎杖をついて皐月に微笑みかけていた。皐月は千由紀の眼鏡を外し、素顔を間近で見たくなった。だが、そんなことをしたら平常心でいられなくなってしまう。
吉口千由紀が藤城皐月から借りていた夏休みの宿題の『豊川市全駅データ』をテーブルの上に置いた。
「藤城君の駅の訪問記、読んだよ。面白かった」
「そう? ありがとう。楽しんでもらえたみたいで、良かった。全然自信がなかったんだけどね。人に読んでもらうことなんて何も考えないで書いたから」
宿題だから半分遊びで、半分やっつけ仕事だった。担任の前島先生と、鉄道友達の岩原比呂志以外に見せるつもりのなかったものだ。
「だから良かったのかな。藤城君の性格が出てた」
「性格?」
「うん。いろいろわかったような気がする」
皐月は身構えた。何かボロを出していないか考えたが、思い当たるふしはない。
「丸写しするだけの駅のデータの取捨選択が細かすぎなくていい。この程度知っていれば十分かな、っていうところで留まっていた」
「岩原氏には適当過ぎって言われたけどね」
「岩原君は知識に執着しすぎ。細かすぎる知識なんて当事者以外にとって無意味だよ。マニアってそういう情報まで欲しがるんだね。その点、藤城君はバランス感覚がいい」
千由紀は褒めているようだ。皐月は緊張が解け、気が緩んだ。
「でも、細かい情報の充実も大切じゃない?」
「そうだね……。大切なのかな? 情報があり過ぎたって、人の手に余ると思うんだけど」
「そこでAIだよ。AIを使えば細かすぎる情報も生きてくるんじゃない? 今って世界でそういう風に何でもコンピュータで管理しようとしてるじゃん。もう、そういう世界が始まってるんだよ」
「藤城君、何の話をしてるの?」
千由紀が笑いだした。気が緩み過ぎていたせいで、皐月はついうっかり陰謀論系の方向に脱線してしまった。でも、これが今の皐月の興味のあるところだ。
「駅の訪問記も良かったよ。情景描写が細かかったね。なんだか嬉しかった」
「嬉しい? なんでそんなのが嬉しいの?」
「だって、最近の小説って情景描写をカットするのがはやってるんだよ。Web小説だと、情景描写が入ったら、即ブラウザバックされちゃうんだって。私は細かい描写が好きだから、困った流行だと思ってる」
千由紀の話だと、川端康成の『雪国』なんて即ブラバされてしまいそうだ。
「じゃあ、吉口さんの小説は情景描写が細かいんだ」
「心情の描写も細かいよ。でも、細かくし過ぎるのも良くないかも……。下手くそだと読むに堪えないからね。でも、いつか芥川の『歯車』みたいな心象風景を描いた小説も書いてみたいな」
芥川の『歯車』は鬼気迫る小説だ。皐月もそういう小説をもっと読んでみたいと思っている。
「ねえ。吉口さんの小説、読ませてよ。俺が下手かどうか見てあげる」
「嫌だ! 恥ずかしいじゃない……」
「なんで? 俺の自由研究、読んだじゃん」
「ごめん……もうちょっと待って。まだ小説が完結していないから。最後まで書けて、納得するまで校閲できたら、藤城君に一番に読んでもらうから」
「そう? じゃあ、待つわ。約束だからね」
皐月は千由紀が法隆寺で話していた、自分をモデルにした恋愛小説のことが気になっていた。
「恋愛小説を書きたいって言ってたよね? どんな話になるの?」
「そんなの、まだ具体的に考えていないよ。だいぶ先の話だから」
「だいぶ先っていつ?」
「大人になってからかな。子供の私に恋愛小説なんて書けるわけないじゃない」
千由紀にしては常識的なことを言う。皐月は自分をモデルに恋愛小説を書くと聞いていたので期待しているが、遠い未来の話になると興味が続かないかもしれない。千由紀と交流がなくなることだってあり得る。
「ドロドロの恋愛小説にするって言ってたよね。じゃあ、吉口さんはそういう経験をしてから書こうと思ってるの?」
「そんなこと考えていないよ。ドロドロの恋愛なんてしたくない。そんなの、小説の中だけで十分」
千由紀の言い方だと、女性主人公に自分を重ねようとしているのかもしれない。否定の仕方が強過ぎる。
皐月は複雑な気持ちになった。男の主人公のモデルが自分なら、千由紀は自分との恋愛を夢想して小説を書こうとしているのではないか。相手が自分だと不幸になると思われているようだ。
「奈良を舞台にした小説にしたいって言ってたよね。それはどうして?」
「あの時は法隆寺にいたから、そんな風に思ったのかな……。京都は人が多過ぎて落ち着かない。京都ではインスピレーションが湧かなかった」
皐月は修学旅行中、京都や奈良を女の子と一緒にまわれたら楽しいだろうと思っていた。千由紀も同じ気持ちだったのかもしれない。だが、自分は複数の女子に「またいつか一緒に来よう」と声をかけていた。千由紀は自分ほど奔放ではない。
千由紀は法隆寺で皐月とドロドロした恋愛のインスピレーションが降りてきたと言った。法隆寺での自分はどんなだったかな、と思い返してみると、皐月は観光ガイドの立花玲央奈に恋をしていたことが最初に思い浮かんだ。
「俺をモデルにした小説なんだよね? じゃあ、吉口さんは俺のことを観察してるんだ」
「藤城君は興味深い人だからね。もっと藤城君のことを知りたい」
「えっ? もっと知りたいの? じゃあ、眼鏡を取って俺のことを見てよ」
皐月は千由紀の眼鏡のブリッジに人差し指を触れた。眼鏡をクイッと上げると、千由紀は眼鏡を外した。
「吉口さんの素顔ってかわいいね。美人って言った方がいいかも」
「なっ……何言ってんの?」
千由紀は真っ白な顔を赤く染めた。純情で、かわいいなと思った。
「吉口さんって、キスしたことある?」
「そんなの……あるわけないでしょ」
千由紀は少し体を引いて、皐月から距離を取った。さて、どうしようかな、と皐月は考えた。
薄暗いスナックの二階の住居用の部屋で藤城皐月と吉口千由紀は見つめ合っていた。千由紀はキスの経験がないと告白して、皐月に寄せていた体を少し離した。
「俺もキスなんて、したことないよ」
皐月は笑顔で嘘をついた。バレてもいい嘘だった。
眼鏡を外し、頬を赤く染め、キスをしたことがないと心を乱す千由紀を見ていると、今ここで千由紀を引き寄せて、口づけをしたくなった。
だが、皐月は我慢した。ここで千由紀に手を出してしまうと、修学旅行で培った栗林真理や二橋絵梨花との関係を壊してしまう。自分と真理の関係も終わってしまうだろう。
千由紀はかわいい女の子だ。気持ちが揺れていないと言えば嘘になる。今のドキドキしている精神状態が一時的なものなら、気持ちを逸らせば解消することができる。冷静にならなければならない。
「吉口さんの小説のキャラって、今の俺みたいな奴?」
「遊んでるの?」
「そう思う? 吉口さんが俺のことを観察してるなんて言うから、ちょっと遊んでみただけじゃん。それより俺、トイレに行きたくなっちゃったんだけど、場所ってどこ?」
「ああ……トイレは一階のお店の中にしかないの。この家の欠陥なんだよね……。夜、お客さんがいる時にトイレに行くのって、最初はすごく嫌だった。二階にもトイレがあればいいのに」
千由紀は話題がこの家のことに移ると饒舌になった。緊張が解けたのだろう。皐月も険悪なムードを変えたかったので、千由紀がペラペラ喋り出すのはありがたかった。
皐月は一人ではトイレに行かず、千由紀に連れていってもらった。
二人で階段を下りると、そこは台所だった。さっきここを通った時には気付かなかったが、この小さなテーブルで千由紀は食事をとってるんじゃないかと思った。食材の野菜や調味料が置かれていたが、微妙に一人分のスペースが空いている。
「吉口さんって、食事の時は二階まで運んで食べてるの?」
「ううん。お店の営業中はここにあるテーブルで食べることが多いかな。でも、お客さんがいない時は店内で食べることもあるよ。食事中にお客さんがきたら気まずいけど」
侘びしいと思った。皐月は自分ならこの部屋で食事をするなら食事中に動画が見られるようなモニターが欲しい。ここは居間というよりも仕事場のようだ。
店の中に入ると、千由紀の母の夕夏の他に、もう少し年配の派手め女性がいた。カウンター席に座っていたその女性が声を上げた。
「わあっ! 本当に綺麗な子だ」
「ちょっと茜さん。そういう言い方はやめなさいよ。ウチの娘の友だちなんだから」
「ごめんね~」
皐月は手を振る茜に頭を下げて、笑顔で挨拶をした。皐月にとって見知らぬ人だが、無視するわけにはいかない。だが会話をする義理もないので、ゆっくりとトイレに入った。
皐月はトイレに入り、驚いた。『夕夏』の店内は薔薇色の色調に統一されていたが、その配慮がトイレの中にも行き届いていた。玲子のクラブのような豪華な化粧室ではないが、落ち着いた大人の雰囲気だった。
トイレを出て、夕夏にお礼を言うと、皐月は茜に話しかけられた。
「藤城君。ちーちゃんと仲良くしてあげてね~」
「ちょっとやめてよ、茜さん……」
慌てる千由紀を見て、茜と夕夏が楽しそうに笑っていた。茜には人を包み込むような温かい雰囲気があった。千由紀にも近所のおばさんがいるんだな、と思った。
皐月はうらぶれた路地にあるスナックを見て、千由紀には自分のようなご近所さんはいないんじゃないかと思っていたが、明るくて頼りになりそうな茜を見て安心した。近所の人や友だちのお母さんは時に救いになることがある。
「もう、行こう」
千由紀に押し出されるようにして、皐月は店の奥の扉を開けた。皐月が中に入ると、千由紀はすぐに扉を閉めた。
「ごめんね、藤城君」
「楽しい人だったね。ところで茜さんってどういう人?」
「同じ並びにあるスナック『あかね』のママ」
皐月は千由紀に背中を押されて、階段を上り始めた。
千由紀は二階に上がるとお茶とお菓子の用意をした。二階にも小さな冷蔵庫があり、その中からペットボトルのウーロン茶を出した。お菓子は皐月が手土産に持ってきたブッセだった。
「『夕夏』と『あかね』ってライバルじゃないんだね。仲いいんだ」
「ウチとは客層がかぶらないから。『夕夏』は禁煙店で、『あかね』は喫煙可能店だから」
皐月の知っている玲子のクラブ『Coro Da Noite』も禁煙店だ。豊川の芸妓は嫌煙者しかいない。
「吉口さんって『ちーちゃん』って呼ばれてるんだ。俺もちーちゃんって読んでもいい?」
「えーっ! 嫌だ。恥ずかしいじゃない」
「別に恥ずかしくないよ。仲良くしてあげてって言われたんだから、仲良くしようよ」
「仲良くはいいけど、ちーちゃんは嫌っ!」
「ちぇっ、しょうがないなあ。じゃあ、ずっと吉口さんって呼ぶよ」
急に距離を詰め過ぎたかな、と思った。茜に言われるまでもなく、皐月は千由紀ともっと仲良くなりたかった。夕夏に言った通り、千由紀は自分の人生を変えてくれた。
皐月が千由紀と話をするようになった頃は扱いの難しそうな子なのかと思っていた。千由紀はクラスの誰とも話をしないで、本ばかり読んでいたからだ。千由紀は人を寄せ付けないオーラのようなものを出していた。
「吉口さんって野上と仲がいいみたいだけど、どういう接点があったの?」
皐月にはこの二人の関係がずっと謎だった。野上実果子と皐月は5年生の時に同じクラスだった。その時の実果子はクラスの誰とも仲良くしていなかった。キャラ的にも千由紀と実果子は気が合いそうに思えなかった。
「私と実果子は4年生の時に同じクラスだったの。家も割と近かったし、実果子のお父さんがウチの店の常連さんで、ときどき実果子はお父さんに連れて来られたんだよ」
千由紀の話だと、実果子が『夕夏』に来たことがきっかけで実果子との関係が深くなったようだ。実果子の父親が店で飲んでいる間に隣の小料理屋で千由紀と二人で晩ご飯を食べたり、千由紀の部屋で実果子と遊ぶようになった。
今でもその関係は続いていると言う。実果子の父親はトラックの運転手なので、休みの前日しかスナックに来られない。実果子は週に一度だけ、父親と一緒に『夕夏』へやって来る。
「藤城君は実果子と仲良くしてくれるよね。ありがとう」
「なんで吉口さんがお礼なんて言うの?」
「だって、実果子と仲良くしてくれる子って、藤城君しかいないから」
皐月は同級生からこんなお礼をされるのは初めてだった。千由紀の母の夕夏も「千由紀と遊んでくれてありがとう」と言った。千由紀は実果子のお母さんみたいだ。
「野上は誤解されやすいよな。言葉はキツいし、暴力沙汰も起こしたし。でも、あいつと席が近くなって話すようになったら、野上がいい子だってことがわかったよ。3組の奴らはまだ気付いていないみたいだけど」
「実果子が暴力を振るったのは、私のことで怒ってくれたからなの」
「えっ? どういうこと?」
皐月と千由紀は窓辺の炬燵に座っていた。もう一緒に本を読んでいた時のように寄り添ってはいなかった。
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