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高根の花に手が届いた(皐月物語 86)
稽古が終わり片付けも終わったのに、明日美は帰ろうともせず、部屋の片隅に座っていた。さすがにちょっとおかしいと思い、隣にいた藤城皐月は明日美の体調が心配になった。
「今日の明日美、ちょっと元気がないみたい。疲れてる?」
皐月が心配そうに明日美の顔を覗き込むと、明日美はふっと優しく微笑んで皐月の肩を抱いた。
「私もとうとう子供に心配されるようになっちゃったか……。大丈夫だよ。稽古を頑張り過ぎただけだから」
この日、初めて明日美に抱き寄せられた。皐月はこの瞬間をずっと待っていた。
明日美の温かく柔らかい身体に身を任せていると、汗の匂いと制汗剤の匂いでうっとりしてしまう。胸がときめいて鼓動が速くなっているのに、不思議と心は安らいでいる。
しばらく幸せを味わっていたが、ふと我に返る瞬間、いまだに子供扱いをされていることに気が付いた。少し確かめてみたいことがあり、明日美に拗ねてみようと思った。
「ねえ。俺、もう子供じゃないよ」
「……かわいいこと言うね。皐月はまだまだ子供だよ」
髪に軽くキスされたような気がした。明日美に抱かれながら窓の外を見ていると、いつの間にか日の落ちるのが早くなっているのに気が付いた。
「背だって、前に会った時より2センチも伸びたよ。明日美なんかすぐに追い抜いて、上から見下ろしてやるから」
開け放たれた窓から入る涼風が気持ちがいい。もう秋だ。
「そういうところが子供っぽいんだ。……でも皐月に見下ろされるのは楽しみだよ」
皐月はもっと明日美に身体を寄せ、グイッと顔を近づけた。甘い香りが鼻腔をくすぐり、隠そうとしていた男の本能が呼び起こされてしまった。
「あのさ……俺、わざと子供っぽくしたんだよ。明日美って俺が子供っぽくないと抱きしめてくれないだろ?」
明日美の身体を引く予備動作を察知し、自分から先に少しだけ身体を引いて距離を取った。気取られたかと思い、恥ずかしかった。
「皐月って本当に雰囲気が変わったね。なんだか男っぽくなった。変に色気が出てきた」
「ホント?」
「うん」
明日美があまり嬉しそうじゃないのが気になった。褒められたつもりでいたが、本当はしくじっていたんじゃないかと不安になる。
「どうしたの?」
「皐月があんまり格好良くなると、もう今までみたいにかわいがれなくなるな……」
「えっ? なんで?」
「だって皐月が小さい子供だったからかわいがってたんだよ。でも、さすがに大きくなったらベタベタできなくなる」
「なんでだよ? 言ってる意味がわかんない」
「青少年の教育に悪いでしょ、そういうのって」
「真面目かよ。学校の先生みたいなこと言うな」
「もう今までみたいな関係ではいられなくなったってこと」
明日美にはっきりと拒絶され、すうっと血の気が引くのを感じた。皐月には明日美の理屈がわからない。だが明日美が皐月から離れようとしていることはわかる。
「俺……大きくなったらダメなのかな?」
「そんなの……いいに決まってる」
「じゃあ、格好良くなっちゃダメ?」
「ダメなわけないでしょ」
「じゃあどうして突き放すようなこと言うんだよ……」
明日美が困った顔をして皐月を見つめている。だが皐月も困っている。だから眼に力を入れて、明日美を睨むように見た。
「私、突き放すようなことなんて言ったかな?」
「言った。俺が大きくなったから、もう今までみたいな関係は終わりだって。なんでそんな寂しいこと言うんだよ」
「ごめんね。ちょっと言い方が悪かったかな。皐月のことを避けているわけじゃないの。ただあなたのことを子供扱いできなくなったって言いたかっただけなの」
「そんなこと、わかってる。でも……」
今度は明日美が皐月の言葉を待つように黙っている。この沈黙を別の話で誤魔化すわけにはいかない。明日美は皐月に十分配慮した物の言い方をしているからだ。
「俺はただ……今までみたいにムギュってして、チュッてしてほしいんだ」
泣きたくなった。バカみたいに擬音でしか話せなくなってしまい、めちゃくちゃ恥ずかしかった。顔が真っ赤になった。こんな剥き出しの気持ちを人にさらけ出したのは生まれて初めてだ。
「……ばかね」
明日美はいつもより優しく皐月の頬にキスをした。このキスはいままで何百回としてもらったキスの中で一番嬉しいキスだった。皐月はそのまま明日美に体を預けた。
「皐月、あなたは自分が格好良くなったってこと自覚していないでしょ? さっきあなたが女の子と一緒に歩いているのを見た時に、気付いちゃったの。私、あなたのことを男として意識しちゃったんだなって……」
とうとう高根の花に手が届いたような気がした。今まで憧れていただけの美しい明日美を、今この世界で自分が恋人にできるかもしれない……。皐月はそんな夢が実現するのはもっと先のことだと思っていた。
「だったら俺のことを男として意識すればいいじゃないか」
「そういうわけにはいかないのよ」
「どうして?」
「だってあなたはまだ小学生でしょ? 私は大人だから」
「大人だからなんなんだよ」
自分は子供で、明日美は大人……こんな事実を持ちだされたことにイラっときた。皐月は反論できない物の言い方が大嫌いだ。
「大人が小学生のことを異性として意識したら変でしょ?」
「そうかな……」
「皐月の学校に男の先生っているでしょ」
「うん」
「具体的にイメージしてみて。その先生がクラスの女の子のことを女として意識していたらどう思う?」
「……キモ過ぎる」
「でしょ。だから私は皐月のことを男として意識したくないの」
明日美はずるい。わざと気持ち悪いおっさんのことを想像させて、気持ちが萎えるように仕向けている。5年の時の担任だった北川のことを想像した皐月は明日美の策略にまんまとはまってしまった。
「男の先生なんて明日美と全然関係ないじゃん」
「関係あるよ。同じ大人なんだから、例えとしては同じだって言いたいの」
「そんなの詭弁だ。いい年したおっさんが小学生の女の子のことを異性として意識したら、そりゃ気持ち悪いよ。でも明日美が俺のことを男として意識してくれるのは全然気持ち悪くない。むしろ俺にとって、こんなに嬉しいことはない」
真剣な顔で明日美の目を見た。もっとキメ顔の研究をしておけばよかったと後悔しながら、皐月なりに必死で男性をアピールして明日美の気持ちを手繰り寄せようとした。
「私が皐月のことを好きになるなんて変でしょ?」
「変じゃない」
「でも他人から見たらただの変態女だよ」
「誰も見ねえよ。誰が見るんだよ」
「でもどこで誰が見てるかわからないよ? 百合姐さんに知られたら私、殺されちゃうよ」
「明日美、気にし過ぎ。他人に見られたって、どうせ俺たちのことなんて何もわかりゃしないんだから。ありもしないことを想像して不安になるのはやめろよ」
皐月は明日美が未来を過剰に恐れていることが気になった。悲劇的な状況を想定して、事前に対処しようとしている。心臓に棲んでいる死神が明日美をそこまで悲観的にさせるのか。
「心配事の95%は起こらないんだ。だから未来をあまり恐れるなよ。今は目の前にいる俺のことだけを見てほしい」
明日美の身体を引くと皐月の目線の方が高くなった。明日美が自分から距離を取ったお陰だ。
「皐月は……見た目だけじゃなくて考え方も大人っぽくなってたんだね。私なんかお座敷でさんざん大人の相手をしてきたのに、何も成長していないな……」
「成長? そんなつまんないことしなくたっていいじゃん。明日美は真面目過ぎだよ。もっと遊んだらいいのに。先のことなんて心配しないで、今を楽しもうよ」
「昔から遊びってあまりしてこなかったからな……。遊んでいると不安になっちゃうし。それに、遊び相手もいないし……」
「俺がいるじゃん。俺と遊ぼう」
「皐月と? 二人で外を出歩いていたら目立つでしょ? 一人で外に出る時だって目立たないようにサングラスしたり、マスクしたり、帽子をかぶったりしてるんだから。こう見えて美人っていろいろ面倒なのよ」
明日美の楽しそうに笑う顔を久しぶりに見た。修学旅行のお土産の話をした時以来だ。ゆったりとした時間が流れ始めたような気がした。
「じゃあ家で遊ぼう」
「家には皐月が遊べるものなんて何もないよ。私は家にいても休んでいるか、本を読んでいるか、勉強しているかだから。病気をしてからはいつも横になって休んでいるかな」
「じゃあ俺も明日美の横で一緒に休むよ」
「……そういうのって嬉しいな。私はそういうこと、誰からもされたことがないから」
「そうなの?」
「うん。それに今、こうして皐月にくっついてもらっているだけで、なんか幸せな気持ちになってるし」
「俺も幸せだよ」
皐月は夢を見ているような気がした。大人の明日美が、美しく華やかな芸妓の明日美が自分と同じようなことを思っていることが信じられなかった。
「あ~、何やってんだろう、私……」
明日美が恥ずかしがっている。これではまるで恋愛経験のない少女のようだ。自分の方が真理とキスの経験がある分だけ大人のような気がしてきた。
「ねえ、明日美」
「何?」
「いつも明日美から俺にキスしてくれているけれど、今度は俺からキスしたい」
「……いいよ」
目を瞑った明日美は皐月からのキスを待っていた。皐月は落ち着いて、唇の横辺りの頬に軽くキスをした。少し紅潮した肌はしっとりと潤っていた。
「気持ちいいね」
「ほんと? よかった」
明日美はまた目を瞑った。今度も息が荒くならないように気をつけながら、耳のあたりに軽く唇をあてた。明日美がまだ目を瞑ったままでいるので、何度も繰り返した。
明日美は目を閉じていても美しかった。少し唇が開いているのを見て、皐月は我慢ができなくなった。
「バカッ! 口にしちゃダメでしょ」
「怒った?」
「怒ってないけど……これじゃあ私、犯罪者になっちゃうじゃない」
「大丈夫。俺、警察になんか言わないから」
「そういうことじゃないんだけどな……」
「言っただろ。俺、もう子供じゃないって」
唇を合わせると、明日美は抵抗しなかった。リップのぬるっとした感触が大人の味なのかな、と思った。皐月に合わせて明日美も応えたが、皐月には明日美の反応が真理よりもぎこちないことが不思議でならなかった。
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