あなたの香りがほしい(皐月物語 143)
修学旅行初日の班行動で藤城皐月たちは京都観光を終えた。皐月たちの班がホテル「つづれ屋」に着いたのは門限の3分前、16時27分だった。京都駅前の旅館街ということで、余裕だろうと思って時間ぎりぎりまで京都駅でお土産を見ていたが、そんなことをする児童たちは皐月たち以外にいなかったようだ。稲荷小学校の修学旅行生では皐月たちの班が最後のホテルへの到着だった。
つづれ屋の外観はビジネスホテルよりも地味に見えた。だが、玄関には黄金の切り文字表札で「つづれ屋」と大きく表示されていて立派な外観だったので、迷うことはなかった。紋の入った玄関幕が古都のホテルであることを誇っているように見え、まだ小学生の皐月たちは仰々しいエントランスの中に入るのを躊躇して立ち止まった。そんなつづれ屋になんのためらいもなく二橋絵梨花が中に入って行ったので、皐月たちも後に続いた。
ホテルのロビーには修学旅行の責任者で、6年3組の担任の北川先生と、新人の女性教師で6年2組の担任の粕谷先生が待っていた。班長の吉口千由紀が粕谷先生にスマホを渡そうとしたので、皐月が止めた。
「ちょっと返すの待って。粕谷先生。俺たちの写真、撮って!」
「いいよ。じゃあ、みんな集まって」
皐月たち6人はロビーにある欄間が施された間接照明の下に集まった。ロビーはゆったりと落ち着いた純和風の雰囲気だった。だが、カウンター周りだけは昭和のような雰囲気だった。壁にはポスターや認証マークなどの掲示物が貼られていて、カウンターの横にはパンフレットスタンドやアクセサリー什器が場所を争うように置かれていた。
「撮るよ~。はい、笑って~」
京都観光ではあまり撮れなかった6人勢揃いの写真を1枚増やすことができて、皐月たち6人は喜んだ。写真を撮り終わった粕谷先生は回収したスマホを業者に返却しに行くと言い、ロビーのソファーでスマホの確認をし始めた。
カウンターで北川先生と従業員の女性のチェックを受けた。ペットボトルのお茶を受け取り、昼食時のゴミをゴミ箱へ捨てるように促された。ナップサックの中から使い捨てのランチボックスを出してゴミ箱に捨てていると、児童会長で修学旅行実行委員の副委員長の江嶋華鈴がやって来た。
「あれっ? 江嶋、何やってんの?」
「先生たちのお手伝い。集まったゴミをバックヤードに運んでいたの。藤城君も手伝ってね」
副委員長の華鈴が手伝っている以上、委員長の皐月が手伝わないわけにはいかない。
「実行委員にこんな仕事、あったっけ?」
「ないよ。ホテルの人への挨拶をどうするのか北川先生に聞きに来たら、今年のホテルは挨拶をする時がなさそうだって言われた」
「本当? でも良かったじゃん。面倒がひとつなくなった」
「うん。それで北川先生についでにちょっと手伝ってけって言われた。ゴミは後で先生が片付けるみたいだったけど、代わりにフロントに溜まったゴミ袋を片付けてほしいって。見た目が悪いし、ちょっと臭うから捨てに行ってたの」
「そうか。じゃあ、俺も手伝うよ。あとこれらのゴミ袋だけだな。俺たちの班が最後だし」
皐月がゴミ袋の口を縛っていると、栗林真理や神谷秀真、岩原比呂志らが声をかけてきて、それぞれの部屋に行ってしまった。
「このゴミ袋、どこに持っていけばいい?」
「私について来て」
皐月は瓶や缶の重いのと、ペットボトルのゴミ袋を持ち、可燃ゴミの袋を持った華鈴と一緒に従業員用の出入り口からバックヤードに入って、ゴミ収集所へと向かった。
ホテルの裏側は何の装飾もなく、使いこまれていて年季が入っていた。ホテルの裏側を垣間見ることができたのは面白い経験だ。温和そうな係の人に挨拶をして、指示に従ってゴミの処理を終えた。
「生徒はんがここまでゴミをほかしに来ることはあらへんで。おおきにな」
「ゴミを集めるところなのに、とても綺麗にしているんですね」
「クリーンセンターだからこそ清潔にしとてな。その方働いてるわしが気持ちがええさかいな」
そう言って笑う係の人に皐月と華鈴は頭を下げ、ロビーに戻った。
ラウンジのソファーで粕谷先生がスマホの操作をしていた。皐月は思うことがあって、華鈴を連れて粕谷先生のところへ行った。
「先生、何してるんですか?」
「みんなが撮った写真を学校のクラウドに送信しているの」
「写真ってまだ撮れます?」
「そこの未送信のスマホなら大丈夫だよ」
「先生、僕と江嶋の写真を撮ってもらってもいいですか? 実行委員の委員長と副委員長の揃った写真って、あった方がいいですよね?」
皐月と華鈴を見た粕谷先生は意味深な笑みを浮かべた。
「いいよ。撮ってあげる」
皐月と華鈴は二人で窓の逆光にならないように並んだ。
「もう少しくっつきなさいよ」
遠慮がちに並んでいたので、二人の間に隙間が空いていた。皐月は華鈴と身体が触れるように隣へ移動した。
「じゃあ、撮るよ」
粕谷先生は角度を変えて何枚も写真を撮った。
「先生、何やってんの? そんなに撮らなくてもいいよ」
「あなたたち、いい感じだからたくさん撮っちゃった。お似合いだよね」
粕谷先生は6年生の担任の中で児童から最も人気がある先生だ。他の3人の先生よりも親しみやすいと、男女問わず好かれている。
「江嶋、俺たちお似合いなんだって」
「彼女がいるくせに、何言ってんの」
華鈴は皐月の年下の女友達の入屋千智のことを気にしている。皐月は粕谷先生の言葉で単純に喜んでいたが、華鈴はあまり嬉しそうではなかった。
「藤城君って、彼女がいるんだ」
「彼女っていうか、ただのガールフレンドですよ。みんな大げさに騒ぎたがるんだ」
粕谷先生にお礼を言い、皐月と華鈴は自分たちの部屋に戻ることにした。男子の部屋は6階にあり、女子の部屋は4階になっている。児童はエレベーターの使用を禁止されているので、階段を上らなければならない。
「地味にきついな、これ」
「でも、他の宿泊客のことを考えると、仕方がないんじゃない?」
「俺たちだって宿泊客なんだけどな……」
「宿泊料金が違うでしょ。それにエレベーターは15人しか乗れないから、うちの児童130人が利用したら他の宿泊客に迷惑がかかっちゃう。そんなにしょっちゅう行ったり来たりするわけじゃないんだし、それくらいは我慢しなくちゃね」
華鈴と二人で階段を上っていると、京都で初めて二人きりになったことに気が付いた。皐月は先を歩いていたが、踊り場で歩みを遅らせて華鈴の横に並んでみた。華鈴の白のロングTシャツに柿色のベストのコーデは可愛かった。ブラウンのショートパンツから見える足に皐月はドキッとした。
「江嶋にもらった餡ドーナツ食べたよ。疲れた時に食べたから、元気になった」
「私、もらった羊羹を食べた時、藤城君のこと思い出しちゃった」
「俺も江嶋のこと、思い出した。江嶋と一緒に京都旅行できたら楽しいだろうなって思った」
皐月の言葉に華鈴の足が止まった。
「どうした?」
「……どうして彼女がいるのにそんなこと言うの?」
皐月は軽い気持ちで思ったことを口にしただけだった。旅行中に華鈴のことを思い出したのは餡ドーナツと羊羹を食べた時だけだった。だが、ホテルで華鈴の姿を見た瞬間、隣に真理がいたにもかかわらず胸が高まっていた。
「千智は関係ない。自分の言ったことを取り消すつもりもない。でもさ……一緒に修学旅行実行委員をやっているのに、別々に京都を旅行するなんておかしいだろ?」
皐月が華鈴と二人の写真を撮りたいと思ったのは、実行委員の仕事でしか華鈴との修学旅行の思い出が作れそうになかったからだ。
「俺さ、神社仏閣のこと、結構詳しいんだぜ。一緒に京都旅行ができたら、見るもの全部、俺が解説してやるよ」
「そういうことは入屋さんにしてあげればいいでしょ?」
華鈴は怒っているように見えたが、ただ拗ねているだけのような気がしないでもなかった。
「あのさぁ……。江嶋とはしたことがあるけど、千智とはこういうこと、したことないんだぜ」
皐月から顔を寄せ、唇を重ねた。階段を上っている途中だったので体勢が不安定だった。突き飛ばされたら怪我をするかなと思ったが、華鈴は皐月を受け入れた。
3階まで上って来ていたせいで、二人とも呼吸が荒くなっていた。華鈴の吐息で理性が飛びそうになり、激しくキスをしたくなったが、こんな所ではいつ誰が来るかわからない。
「行くぞ」
皐月は華鈴の手を取り、階段を上った。4階の扉の前でもう一度軽くキスをして、皐月は二つ上の階の男子のフロアまで駆け上がった。
6階に着くと、エレベーター前に6年1組の太田先生が待っていた。太田先生は中堅の男性教員で、北川先生と違って落ち着いた雰囲気がある。
「貴重品の提出、あとは藤城君だけだぞ。貴重品袋は用意してきた?」
「はい。今すぐに出します」
旅館内では盗難や紛失を防止するため、透明のビニール袋を用意して記名をし、そこに財布や家の鍵などを入れて提出しなければならない。
「話は神谷君と岩原君から聞いているよ。実行委員の仕事、御苦労さま」
太田先生に頭を下げ、皐月は自分たちの部屋の608号室へ入った。部屋のドアは開けたままにしなければならず、靴を下駄箱に入れて襖の奥の部屋に入った。
「遅かったじゃねーか!」
真っ先に皐月に声をかけてきたのは花岡聡だった。聡は教室で馬鹿話をする皐月の親友だ。
「ちょっと実行委員の仕事をしてたんだよ」
時間ぎりぎりにホテルに到着したというよりも、委員会の仕事をしていたと言っておいた方が聞こえが良い。聡の顔を見ると華鈴と過ごした余韻が全て消え、夢から現実に引き戻されたような感覚になった。
608号室には同じ班の神谷秀真や岩原比呂志がいなかった。名簿順で2部屋に分けられたので、幼馴染の月花博紀とも同室にはならなかった。修学旅行の栞の「旅館での過ごし方」には「必要のない限り、部屋から出ない」と書かれている。秀真や比呂志と分断されることに、皐月は今さらながら憤りを感じ始めていた。栞作りの時に、この文章をこっそり削除しておけばよかったと後悔した。
「もう体験学習が始まるぞ。7階の会議室に移動しようぜ」
籤引きで部屋長になった村中茂之に促され、皐月たちは階段を上って一つ上の7階へ上がった。稲荷小学校の方針として、大人数で一斉に移動する時はエレベーターの利用を禁止している。
会議室は修学旅行生の使用を前提としているため、広めに作られていた。スタッキングテーブルはやや奥行きが狭いが、稲荷小学校の130人の児童でも窮屈な思いをすることなく席に着くことができた。栞作りの段階では、席順をあらかじめ決めることが難しかったので、入室した順に席を詰めて座ることにした。
皐月たちが会議室の前に来ると、微かにいい匂いがした。匂い袋を作る体験教室がここで開かれることになっている。この企画は女子児童から好評らしく、稲荷小学校の修学旅行では恒例行事になっている。
入口付近で6年3組の男子児童たちがたむろしていた。皐月にはあえて中に入らないような素振りに見えた。皐月たち6年4組の児童たちは彼らを気にせず会議室の中に入ると、次に座る席は3組の野上実果子の隣からだということがわかった。
「藤城、お前が野上の隣に座れよ」
「いいのか? ラッキー」
「野上の隣を喜ぶのはお前だけだよ」
5年生の時に同じクラスだった堀内怜央は実果子のことをいまだに怖がっていた。怜央と実果子の間で直接何かがあったわけではないが、女子たちとのトラブルで暴力沙汰を起こした実果子を目の当たりにした同級生たちは実果子のキレ方がトラウマになっていた。
「おう、野上。メイク落としたのか」
「実はさ、うっかりリップ落とさないでホテルに入ったら、北川に怒られちゃってさ。あいつ、学校から出たら急に偉そうになりゃがって……」
「5年の時みたいに、邪魔者扱いされるよりはマシなんじゃね?」
「私も公共の場じゃキレるわけにもいかないから耐えたけど、あいつマジむかつく」
「お前、変わったよな。成長したじゃん」
「うるせーな。上から目線で言ってんじゃねーよ」
「でも、あまり感情を抑え込まない方がいいよ。ストレスが溜まるだろ?」
「煽るようなこと言うなよ。後で面倒になるのは嫌なんだ」
教室では誰とも慣れ合うことをしない実果子が皐月と楽しそうに話しているので、周りの児童たちが皐月と実果子のことを不思議そうに見ていた。実果子と話をしていると、いつも周囲から変な目で見られる。
テーブルの上にはすでに匂い袋を作る材料が置かれていた。児童の席の前には小さなボールとスプーン、洗濯挟みが置かれていて、おおよそのグループごとに瓶に入れられた香原料と、色取り取りの布袋や紐が用意されていた。瓶には原料の名前が書いてあるシールが貼られていた。
「先生、この中に女にモテる匂いってあるのかな?」
隣に座っている聡が瓶のラベルを見ながら目を輝かせていた。聡は女がらみの話をする時、いつも皐月のことを先生と呼ぶ。
「フェロモンみないなやつだよな……。ああいうのって動物から出るもんじゃないのか? さすがに小学生の体験学習には使われないだろ」
「そりゃそうか。小学生だもんな。それに高そうだし」
聡の反対側の隣にいる実果子に脇腹を突かれた。腕を引っ張られ、顔を近くに引き寄せられた。
「なあ、お前もあいつみたいにエロいこと考えてるのか?」
実果子は小さな声で皐月に話しかけた。皐月も小声で答えることにした。
「まあ、少しはな。そういう年頃じゃん、俺たちって」
「イヤらしい奴だな」
実果子は少し頬を赤く染めていた。皐月は「俺たち」を聡とのことで言ったつもりだったが、実果子は自分とのことと勘違いをしていたのかもしれない。目を合わせると、実果子の頬がさらに赤くなった。
「それでは、そろそろ体験学習を始めたいと思います」
講師の人の京都弁のイントネーションで、視線が一斉にホワイトボードの前に立っている女性に集まった。彼女は地元のお香の店の人だという。もう一人サポートの人もいた。
「今からみなさんに匂い香を作ってもらいます。匂い香には天然の香料を刻んで調香して、巾着などの袋に入れた匂い袋や、手紙と一緒に添える文香、お部屋飾りの薬玉などがあります。今日はみなさんにオリジナルの匂い袋を作ってもらいます」
まずはベースとなる香りを作るために、白檀と藿香をスプーンで掬って、ボールに入れるように言われた。児童たちは白檀と藿香の香りをそれぞれ確かめてから、白檀をスプーンに軽く一杯と、その8割くらいの藿香を混ざらないように入れた。
次に甘い香りのする極上安息を入れた。甘みが好きな人は多めに入れるのがいいらしい。皐月はちょっとこの匂いが苦手だが、実果子は気に入ったのか、多めに入れていた。
次にスパイス系の桂皮を入れた。これは京都銘菓の「八ッ橋」にも使われているもので、シナモンティーの好きな皐月はこの香りが気に入っている。鼻につく匂いなので、苦手な人はゼロでもいいし、隠し味的に少し入れるだけでいいと言われた。
この後に丁子と大茴香の説明を受け、丁子はカレーに使われているクローブのことで、大茴香は中華料理で使われている八角のことだと言われた。皐月は最近ハマったインドカレーや、豚の角煮を連想したが、スパイス単体で匂いを嗅ぐと料理とは全然違う爽やかな香りがした。
次に甘松の匂いを嗅いだが、これは黴みたいな変な臭いだった。だが、甘松を少し混ぜると白檀の香りが引き立つらしい。
最後に無色透明で顆粒状になっている龍脳を入れた。龍脳を入れると全体の香りが立つらしく、単体では隅のような匂いがした。
「原料を混ぜる前に、一度香りを確認してください。苦手な臭いがあれば減らして、好きな臭いがあれば足してみて、自分だけの香りを作ってください」
皐月は思い切って甘い香りの極上安息をごっそりと減らし、桂皮と丁子を多めにした。
「先生、女が寄ってきそうな匂いが見つからねー」
「じゃあさ、女性的な臭いにしたらいいんじゃね? そうすればいつも近くに女の子がいるみたいで、いいじゃん」
「なるほど! そっちから攻めるのもいいかも」
聡は真剣な顔で香料の再調合を始めた。極上安息の瓶を取り寄せて、増量しようとしているところを見ていると、実果子が皐月の脇腹を突いた。
「おい、お前らっていつもそんな話ばっかしてるのか?」
実果子がまた耳元で囁いた。
「悪かったな。健康な男子だから、そういうことに興味があるのは当たり前だろ」
「気持ち悪いな~」
「だったら、いちいち絡んでくるな。聞こえてても聞こえないふりしろよ、バカ」
皐月と聡のトークはクラスの女子からも評判が悪い。皐月もそのことを知っていたが、聡との話が面白くて気にしないようにしていた。だが、女性経験を重ねてくると、この手の話をするのに抵抗を感じるようになった。聡との経験の差からくる感性のズレや、内容の幼稚さに嫌気がさし始めていた。
「みなさん、自分だけの香りはできましたか? では、これから香料を混ぜます。色が均等になるように混ぜてください」
ボールからこぼれないようにスプーンで丁寧に香料を混ぜると、香りに斑がなくなった。いい匂いができたな、と皐月は御満悦になった。
「作ったばかりだと尖がった香りがしますが、ひと月くらい経つとまろやかな香りに変わるので、変化を楽しんでくださいね。匂いは3カ月はもちます。長ければ半年以上もつこともあります。香りが薄くなったら焼香といって、香を焚くと最後まで楽しめます。では、これから香料を袋に詰めます」
テーブルの上には着物生地で作った華やかな袋が用意されていた。金糸が使われていて、かなり贅沢な作りになっていた。この中から好きな袋と、色の合う紐を選んでもよいという。皐月は水色の袋と銀色の紐を選んだ。聡は紫の袋に鶯色の紐の組み合わせにしていた。
「どう? 俺の袋、セクシーだろ?」
「いいじゃん。俺の色よりもいいかも」
「先生、真似してもいいぜ」
「いいよ。俺、全然セクシーじゃないし」
袋は香料が漏れないように加工されているので、香料を直接袋に詰めることができる。作った香料を全て袋に入れると、半分くらいまで詰まる。袋に入れた後はスプーンなどで香料をよく押さえると袋の角まで香料が詰まる。香料が少なくなった児童は綿を詰めてサイズを調整した。
香料を袋に詰めた後は口を閉じる作業だ。口を閉じてWになるように折り畳み、洗濯ばさみで口を挟む。紐を靴紐を結ぶように蝶々結びにすると匂い袋の製作は終わり、最後にストラップを付けて完成だ。
「できた! なかなかいい感じじゃん。匂いは……いいね。爽やかな感じがする」
「先生の匂い袋、嗅がせてよ。俺の匂い袋も嗅いでみて」
聡と匂い袋を交換し、鼻を近づけた。
「おおっ、花岡のって女の匂いがする。上手くできたな」
「藤城のはイケメンの匂いだ。やるな……」
同じ材料を使っているのに、配分を変えるだけでこんなにも匂いが変わるのか、と皐月は香道の勉強をするのもいいかもしれないと思った。
「なあ。藤城のやつ、私にも匂わせてよ」
「いいよ。野上のも嗅がせて」
実果子の香りは思ったよりも甘さがなく、和風の香りを強くしたものだった。線香とも違う香りだが、京都の寺にいるような気分にさせてくれる匂いだった。
「野上の、いい匂いじゃん」
「ホント? じゃあ、藤城のと交換してくれる?」
「え~っ! ヤダよ。せっかく自分だけの匂い袋ができたのに」
「藤城の匂い、すごく気に入っちゃったんだ。なぁ、いいだろ? 交換しようよ」
皐月は少し考えた。自分が作った香りにはまだ執着がない。上手くできたと思うが、実果子ほど気に入っているわけではない。自分の作った香りと違い、実果子の香りには京都の余韻を感じさせるものがある。
「いいよ。交換しようか。袋、詰め替える?」
「このままでいいよ。藤城は私の袋が気に入らないのか?」
「いや。野上っぽくていい袋だと思う」
実果子の匂い袋は赤い記事に金糸を多用した派手なもので、白黒ツートンの紐がよく似合っていた。
会議室がざわつき始めた。もうすぐ予定の時間が終わる。部屋を見渡してみると、やっぱり女子の方が楽しそうだなと皐月は感じた。でも、男子も男子なりに楽しんでいるようで、来年の体験学習も匂い袋作りがいいんじゃないかと思った。
「では、これで匂い袋作りの体験学習を終わります。匂い袋の香りがなくなったなって思ったら、私どもの店をご利用いただけますよう、お願いいたします。ネット通販をやっていますので、パンフレットのQRコードから一度アクセスしてみてくださいね」
体験授業が終わり、使った道具を講師のもとへ返却した。予定より5分ほど早く終わったので、各自の部屋で食事の時間まで待機することになった。だが、すぐに部屋に戻らないで、久しぶりに会った友達同士で雑談をする者が多かった。皐月も聡となんとなくこの部屋に残って話をしていた。
「ねえ、藤城君」
声の方を見ると、同じクラスの筒井美耶と松井晴香、小川美緒、惣田由香里の仲良し4人組が立っていた。声をかけてきたのは美耶だった。
「匂い袋、見せてもらってもいい?」
「えっ? 別にいいけど……」
皐月は実果子と交換した匂い袋を見せるのに躊躇したが、断る理由もなかった。
「派手な匂い袋だね。香りは……和風でいい匂い」
「そうか」
義務は果たせたと思い、美耶の手から匂い袋を取り戻した。
「私のも見て」
美耶に手渡されたのは黄色の袋にピンクの紐で結ばれた匂い袋だった。香りは皐月の調合と少し似ていて、爽やかな風を感じるものだった。
「いい匂いだな。袋のセンスもいい」
「ホント? ありがとう。へへへっ。それでね、お願いがあるんだけど……いいかな?」
皐月の経験上、女子からのお願いは碌なことがない。
「何?」
「あのね……匂い袋なんだけど、私のと交換してほしいんだけど……」
「ああ……それはちょっとできないかな。ごめん」
皐月の匂い袋はすでに実果子のと交換している。美耶の欲しいのは自分のだから、実果子のと交換なんかできるわけがない。ただ、このことを言うべきかどうか、今はまだ判断がつかないでいた。
「だから言ったでしょ。藤城はそんなことしないって」
「でも……」
晴香の言葉に美耶がしょんぼりとしていた。皐月は自分の関係ないところで話が展開していることに嫌な感じがしていた。
「藤城君。美耶ちゃんのお願い、聞いてあげてよ」
美緒は美耶と皐月のことをくっつけたがっている。皐月は美緒の様子に違和感を感じていた。
「ごめん。やっぱ無理だわ」
「ちょっと、そんな言い方しなくてもいいでしょ?」
普段は穏やかな美緒だが、この時は珍しく怒った。
「いや……俺の持ってる匂い袋は俺のじゃないから、交換できないんだ」
女子4人が顔を見合わせた。話の内容が飲み込めていないようだった。
「あのさ、藤城は3組の野上と匂い袋を交換しているから、筒井のとは交換できないってこと」
聡が皐月に代わって真相を話してしまった。皐月は美耶に気を使って、言おうかどうか迷っていたのに、聡にはそういった思慮が足りない。
「藤城君、匂い袋を交換するってどういう意味かわかってる?」
由香里が非難するような口ぶりで皐月に食ってかかってきた。
「意味? 何か意味があるのか?」
「あるに決まってるでしょ。知らないの?」
「知らん。花岡は知ってる?」
「さあ……」
由香里の話では、匂い袋を交換した男女は恋人同士になる、という噂があるという。由香里には姉がいて、この話を姉から聞いていたそうだ。実際にカップルになった男女がたくさんいたらしい。この修学旅行でも、匂い袋を交換してカップル誕生を目論んでいる子が何人かいるという。
「そんなオカルト、信じられるわけねーだろ。でもごめんな、筒井。俺の匂い袋は交換済みだから」
美耶が晴香に抱きついて、泣き出してしまった。
「先生、野上とカップルになれて良かったな。じゃあ、俺があの可愛い5年生の女の子の面倒をみるよ」
「花岡、お前つまんねーこと言ってんじゃねーよ」
皐月は自分の知らないうちに悪者にされ、茶化されたことでイライラが爆発しそうになっていた。
「野上さんもしたたかだね。こんなに早く藤城君の匂い袋ゲットしちゃって」
由香里の言葉には棘があった。実果子の知らないところでこんな感情を向けられていると思うと、理不尽さに皐月は実果子のことを守ってやらねばという気持ちになってきた。
「野上はそんな都市伝説なんて知らねーだろ。それにお前らまた、俺と筒井をくっつけようとしてたな。いい加減、そういうのやめたら?」
「じゃあ、なんで藤城君は美耶ちゃんと仲良くするの? 気のあるような態度をしてるのは藤城君でしょ?」
美緒も美耶につられて泣いていた。
「気のあるような態度って……。俺だって筒井のことは好きだよ。でも、それは恋愛とは違う。俺は他にも好きな女の子がたくさんいるし、それにガチで好きな人だっているから」
皐月はファンクラブを持つ月花博紀のように上手く女子の気持ちを捌けないことが悔しかった。こんなドロドロとした展開になるのは精神的にキツい。
「藤城は俺と同じでドスケベの女好きだからな。こんな悪い男なんてやめておいた方がいいぞ」
聡にもボロクソ言われてしまったが、今の皐月にはありがたかった。自虐するのもダサいので、聡に悪く言われた方が気が楽だ。
「先生に近づこうと思ってるなら、妊娠する覚悟をしてからにしろよ」
「おいっ!」
言い過ぎの聡に皐月は悪意を感じた。だが、目の前で告白を見せつけられた聡が面白くない気持ちになるのはわかる。クラスの女子の人気が博紀に集中しているので、6年4組の男子には恋愛の夢を見る余地がほとんど残されていない。聡はそんな鬱憤を自分にぶつけてきたんじゃないかと思った。
「なあ。松井は博紀と匂い袋の交換をしたのか?」
話の矛先を変えようと、皐月は晴香に話を振った。晴香にいつものような華やかさが見られないのが気になっていた。
「してないけど」
「しないんだ」
「……うん」
ファンクラブの手前、いくら会長とはいえ抜け駆けするようなことはできないのかと、皐月は推測した。
「藤城……悪かったね。美耶のことは気にしなくていいから。花岡の言ってた5年生の子って、イオンで会ったあの子のことだよね?」
「ああ、そうだけど」
「あんな可愛い子が相手だと、勝てる子なんて誰もいないよね……」
晴香の千智に対する評価があまりにも高くて驚いた。皐月も千智のことは可愛いと思っているが、晴香のように思ったことはなかった。どうやら千智は自分以外からは圧倒的に可愛いと思われているらしい。
夕食の時間が近づき、お喋りをして残っていた児童たちも会議室を後にした。匂い袋は小さいので、ポケットに入れて食堂に直行することにした。皐月も聡もお腹が空いていた。修学旅行の食事なのであまり期待はしていないが、ホテルの夕食というだけで皐月と聡は二人で盛り上がっていた。