次の日の朝(皐月物語 106)
いつも通り、朝6時に目覚めた藤城皐月はベッドから起き上がって部屋を出た。洗面所には及川祐希がいた。起きたタイミングがほぼ同じだったのか、祐希はこれから洗顔をするところだった。
「おはよう」
祐希がまだ眠そうな声で挨拶をした。
「おはよう。眠そうだね」
「うん。あまり眠れなかった。皐月はすぐに寝ちゃったみたいだけどね。いびきがすごかったよ」
「本当? もしかして、俺のいびきがうるさくて眠れなかったとか?」
「そーだよっ」
「ごめん。次から気をつけるよ。でも、どうやって気をつけたらいいかわかんないけど……」
祐希はまるで何事もなかったかのように振舞っている。眠れなかったのを皐月のせいにする祐希が可愛くて、皐月は抱き寄せたい衝動に駆られた。だが祐希に冷たく拒否されたら悲しいし、拒否をさせるような嫌な思いもさせたくない。ここは我慢して、祐希のように昨日の夜は何もなかったかのごとく振舞わなければならない。
鏡を見た皐月は左耳の裏の髪の毛が寝癖で跳ねているのに気が付いた。アホ毛を直そうと思い、顔を蛇口に近づけて髪を水で濡らした。
「祐希のドライヤー、借りるね」
ドライヤーを手に取る時、皐月と祐希の身体が急接近した。わざと腕を接触させてみると、祐希の体温がダイレクトに伝わって来た。ほんのわずかな時間だが、皐月は幸せな気持ちになった。
そんな気持ちを押し隠し、皐月はドライヤーで髪のセットをし始めた。櫛で髪を伸ばしながら跳ねたところを乾かしても、曲がった毛先は完全には直らない。やり直そうと思い、もう一度髪を濡らした。
「私がやってあげるよ」
祐希は皐月からドライヤーをもらい、代わりにヘアーアイロンを手に取った。アイロンのスイッチを入れ、温まるまでの間に皐月の髪をブラッシングし始めた。
「寝癖を直すだけなんてもったいないな~。折角だから何かヘアアレンジしてみたいな。波打ちマッシュヘアとかやってみたいけど、時間がないから髪の毛をまっすぐ伸ばすだけにするか……」
皐月の髪に手を入れた祐希が興味深いことを言い出した。
「なんだ、俺の髪で遊びたいのか?」
「皐月って素材がいいから、もっと格好良くなるよ。ヘアアレンジだけじゃなくて、メイクもしてみたいな」
「ヤダよ、気持ち悪い。男のメイクなんて生理的に無理!」
「皐月って髪が長かった頃があったよね。その頃からずっと皐月を女装させてみたいなって思ってたんだけどな……」
祐希は皐月の髪にヘアアイロンを当てて、くるんとなった髪を直し始めた。皐月だってお洒落に興味がないわけではない。女の子向けのファッション誌を読むのが好きなので、メイクにだって興味がある。自分がしようとは思わないが、祐希が軽くメイクをした顔は可愛いと思うし、栗林真理がメイクをした時はあまりの変貌ぶりに理性がぶっ飛んだ。
「カラーしたとこ、だいぶ色が落ちてきたね。どうするの? 黒髪に戻すの?」
「いや、同じ感じにカラーし直そうかなって思ってる。これ以上は派手にしないけどね。修学旅行までにはなんとかしたいな」
「中学生になったら、こんなことできないもんね」
こうして髪を触られながら祐希と話をしていると、皐月は祐希とキスをしたことが夢じゃないかと思えてきた。鏡越しに祐希の唇を見ていると昨夜のことを思い出し、身体が熱くなる。
皐月には祐希がキスを拒まなかったことがいまだに信じられない。あの時は自分でもちょっと調子に乗っていたと思うし、性欲にも負けていた。
二人の唇が重なっていた時、祐希が何を思っていたのか皐月にはまったく想像がつかない。自分の魅力に抗えなかったのかと自惚れたいところだが、子供の自分にそんな色気があるとは思えない。だが、あの時の祐希は間違いなく自分のことを受け入れていた。
「今日は時間がないから無理だけど、いつか本格的に皐月の髪の毛で遊ばせてよ。いいでしょ?」
「まあ……格好良くしてくれるんだったら、別にいいけど……」
「じゃあ、約束だからね」
相手が真理ならここで軽い気持ちでキスすることができる。だが祐希とはまだそこまでできるほどの深い関係ではない。細かいことは気にしないで口づけをしてしまえばいいのかもしれないが、祐希が入屋千智への告白のことを喜んでくれたので、その想いを大切にしたいと考えてしまう。皐月はまだそこまで悪い男にはなり切れない。
寝癖を直して、歯磨きを終え、皐月は自分の部屋に戻って学校へ行く用意をした。服を着替えて部屋を出ると、祐希はまだ鏡の前にいた。
「なんだ、まだいたの?」
「ヘアアレンジが上手くいかなくて、元に戻してた」
「どんな失敗?」
「皐月にヘアアイロンを使ったから、私もちょっと毛先を外ハネにしてみようかなって思ったんだけど、慣れていないから上手くいかなくて……」
「そうだったんだ。でも、もういつもみたいに可愛くなってるよ」
「そう?」
「うん。すごく可愛い」
鏡越しに祐希を見つめながら、背後から顔を寄せた。頬に口づけをしようとすると、手の甲でブロックされた。
「そういうことをする相手は私じゃないでしょ?」
「この世界には俺たち二人しかいないのに?」
皐月は祐希の右手の甲に軽く口づけをした。なんとなくこうなる気はしていた。
「ご飯用意しておくから、早く着替えて下りて来いよ」
皐月が鏡越しに微笑むと、祐希は戸惑いながらも少し嬉しそうに微笑んでいた。明日美の時もそうだったが、こういう時は年上の女の人でも、同じ齢の真理と何も変わらないものだ。
皐月は階段を下りながら、自分はいったい祐希とどういう関係になりたいのかと、ほんの束の間だけ考えた。だがすぐにどうにでもなれという気持ちになった。
稲荷小学校に着き、6年4組の教室に入ると、皐月はいつも一番最初に松井晴香と顔を合わせる。晴香はいつも友達とワイワイ賑やかにお喋りをしていて、クラスがいい感じに賑やかになる。
「おはよー」
「おはよう」
皐月が朝の挨拶をすると、まず最初に晴香が挨拶を返してくれて、続いて一緒にいる子たちもおはようと言ってくれる。
「あれっ? 小川の襟足、外ハネにしたの? カッコいいね」
「気づいてくれたんだ。ありがとう」
小川美緒は筒井美耶が皐月の隣の席だった時、皐月の後ろの席に座っていた子だ。晴香がしょっちゅう美耶のところへ遊びに来ていたので、近くにいた美緒も自然と晴香たちと仲良くなっていた。
「知り合いの高校生が外ハネにしようとしたんだけど、失敗したって言ってた。ハネ過ぎたりたりして、難しいんだってね」
「そうなの。上手くやらないと後頭部がぺたんこになっちゃうし、気をつけないと襟足に巻き残しができちゃうし」
「小川の外ハネは完璧だよ。いつものボブも可愛いけど、今日みたいなのも大人っぽくていいよね」
皐月が微笑むと、美緒は頬を赤く染めた。皐月は彼女たちから離れて、自分の席へ行った。
「今日はどうしたんだろうね? いつもの藤城君なら『寝癖?』とか言いそうなのに、おかしいよ」
「最近の藤城って、1学期の頃と雰囲気変わったよね。なんか余裕があるっていうか、イケメンっぽくなったっていうか」
美緒は晴香の皐月に対するイメージの変化に驚いた。美緒は皐月の美耶への遠慮のない態度を見てきたので、皐月に対してやんちゃなイメージしかなかった。
「彼女でもできたんじゃない?」
少女向けの恋愛漫画が好きな惣田由香里はクラスメートの変化を何でも恋愛に話を結びつけたがる。由香里は晴香と5年生の時に同じクラスだった仲良しだ。
「美耶は何も言ってなかったよ?」
「違うよ、晴香。美耶ちゃんのことじゃない」
「じゃあ、誰?」
「藤城君ってさ、なんか5年生の可愛い子と付き合ってるって噂だよ。二人でいるところを見たっていう話も聞くし」
「へぇ……そうなんだ。初めて聞いた」
「晴香は博紀君しか興味ないもんね」
月花博紀のファンクラブの女子といっても、ほとんどの会員は晴香のように博紀に対して本気の恋はしていない。大抵はイケメンの博紀を見て目の保養にしているだけだ。博紀はファンクラブの女の子を寄せ付けない雰囲気を出しているので、6年4組の女子で博紀に告白する子はいない。
「藤城君に彼女ができたとしたら、美耶ちゃん、泣いちゃいそうだね」
美緒は美耶とも仲がいいので、美耶に感情移入をしている。美緒は皐月と美耶がカップルになったらいいなと思っている。
「藤城に女か……。せめて美耶にやさしくしてくれたらいいんだけど……」
「あれっ? 晴香らしくないこと言うね。晴香なら『藤城殺す』くらい言いそうなのに」
「由香里って私のこと何だと思ってるの?」
「晴香は美耶ちゃんラブだから、藤城君が美耶以外に女作ったら許さないだろうなって思ってた」
「だってしょうがないじゃない……。好きな子ができたなら」
この時の感傷的な晴香は美緒や由香里の見たことのない晴香だった。
皐月が自分の席へ行くと、いつものように真理と二橋絵梨花が勉強をしていて、吉口千由紀が読書をしていた。皐月が三人の邪魔にならないように小声で挨拶をすると、いつものように絵梨花が真っ先に手を止めて皐月のおはように応え、千由紀が続いて、最後に真理が無愛想な挨拶をする。真理の愛想のなさはクラスの子たちに皐月との関係を気取られないための演技だ。
「藤城さんの今日の髪の毛、いつもよりサラサラしているね」
絵梨花は皐月と二人で家に帰って以来、他愛もない話をしてくるようになった。皐月から話しかけるのと同じくらいの頻度で絵梨花から話しかけてくる。皐月が隣の席の美耶と仲良くしていた頃と変わらないくらい、絵梨花と皐月の間柄は親しくなっていた。
「寝癖直しにヘアアイロンを使ってみたんだ。そしたら髪の仕上がりが綺麗になってさ、全体的にやったらこんな感じにいつもより髪が真っ直ぐになった。二橋さんの髪もサラサラだよね。やっぱ、ヘアアイロンしてるの?」
「私はお母さんにやってもらってる。でも、外出する前しかヘアアイロンはしないけどね。藤城さんは自分でヘアアイロンかけたの?」
「うん、自分でやった。初めてだったから、低温の120度でやれって言われた。アイロンって熱いから、扱うの怖いね」
祐希にやってもらったことを隠すために、ファッション誌で読んだ知識を喋って誤魔化した。でも、真理は皐月が自分でやったことを疑っているような顔をしている。
皐月はボロを出す前にこの場を離脱しようと、机の中に教科書などを詰め込んで、ランドセルを片付けに行った。