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この世界には二人しかいない(皐月物語 67)

 藤城皐月ふじしろさつきは豊川稲荷大本殿の外陣げじんの前まで来たところで、これより先に進むことを躊躇ちゅうちょした。「宗教の人嫌い」と言った筒井美耶つついみやと宗教的な行為をするわけにはいかない。皐月は教室でいつも美耶のことをぞんざいに扱っているが、今は美耶に嫌われたくないと思い、臆病になっていた。
荼枳尼天だきにてんってインドの女神だよね。戦いの神様だっけ? 戦国武将が好んで祀っていたらしいね」
 宗教的な話題を避けようと思っていたのに、美耶の方から神様の話を振ってきた。
「あれ? 筒井って荼枳尼天のこと知ってたんだ」
「栗林さんが夏休みの自由研究で調べてたよね。私、それ読んだもん」

 稲荷小学校では全校生徒の夏休みの自由研究や自由工作が体育館に集められ、父兄に公開される。それらを全校児童も昼休みや放課後などに見ることができる。皐月もみんなの作品を見に行ったが、数が多過ぎて一部の作品しかしっかりと見られなかった。
「意外だったな。あの栗林さんが荼枳尼天に興味があったなんて。全然そんな風に見えなかった。クールで宗教には関心がないのかと思ってた」
 皐月には美耶が栗林真理くりばやしまりの自由研究に興味を示したことの方が意外だった。真理が提出した荼枳尼天の研究は皐月が書いたものだが、こんなのは小難しくて誰も読まないと思っていた。
「真理がクール? あいつに聞かせたら喜ぶぞ、クールとはほど遠いキャラだからな」
「嘘! 私にはクールにしか見えないんだけど」
「あいつは無愛想なだけだよ。まあ無愛想なのも学校内限定の属性なんだけどな。でも最近はあいつも明るくなったと思うよ。二橋さんのおかげかな」
 真理と二橋絵梨花にはしえりかの二人は稲荷小学校で中学受験をする希少種だ。この二人は2学期になって同じ班になった。二人にしかわからない受験生特有の心情があり、それを共有できることで真理も絵梨花も情緒が安定しているようだ。

「あいつの自由研究な、俺が少し手伝ったんだ」
 本当は皐月が全部やった。真理がギリギリまで宿題をサボっていたので、皐月が助け船を出してやった。ちょうどこのタイミングで皐月が荼枳尼天に興味を持ったのが幸いした。
「えっ? 藤城君が栗林さんの自由研究を手伝ったの?」
「ああ、そうだけど。なんかおかしいか?」
「藤城君が手伝ってもらったんだったらわかるけど」
「なんだよ、それ」
 皐月は苦笑せざるを得なかった。1学期に皐月と隣同士の席だった美耶は、学校の宿題を提出直前に教室であわてて片付けている皐月の姿をよく見ていた。そんな皐月が優等生の真理の宿題を手伝っただなんて誰が信じようか。
「じゃあ夏休みに栗林さんと一緒に自由研究やったの?」
「そうだよ」
 美耶は憮然としていた。

「前から思ってたんだけどさ、藤城君って栗林さんと異常に仲がいいよね。お互いに名前を呼び捨てにしてるし。どうして?」
「どうしてって、そりゃ俺たち幼馴染だし」
「幼馴染? 栗林さんと?」
「そう。真理の親も芸妓げいこでさ、親同士仲がいいんだ。俺と真理はよく託児所みたいに、さっきの検番けんばんに預けられていたんだ。さっき会ったみちるかおるにもよく遊んでもらったよ」
 皐月は宗教の話から話題が逸れてホッとした。だが真理との話もなかなかデリケートな話題だ。皐月と真理が子どもの頃からお互いの家に預けられて泊まったりしていたことは秘密にしておかなければならない。
「それであの芸妓のお姉さん、私のことを『真理ちゃん』って言ったんだ」
「今の筒井の髪型って昔の真理にちょっと似てるからな。満は最近の真理のこと知らないから、間違えたんじゃないかな」
 満の失言をを弁護しつつ、皐月は真理との関係の疑惑を緩和しようと試みた。だがそんな皐月の思いはまったく無意味だった。

「ふ~ん。じゃあ5年生の女の子は?」
「なんだ? その5年生の女の子って」
 入屋千智いりやちさとの話題に移ったことはすぐにわかった。だんだん美耶のことが鬱陶しくなってきた。
「最近5年生の女の子と一緒にいるところを見たっていう話をよく聞くよ。私は見たことないけど、すっごくかわいい子なんだってね」
「みんなよく見てるな。これじゃあまるで監視されてるみたいだ。まあ隠れてコソコソ会ってるわけじゃないから、別にいいんだけどさ」
 千智は稲荷小学校では有名らしい。皐月は全然知らなかったが、同じ町内の月花直紀げっかなおき今泉俊介いまいずみしゅんすけに言わせると、5年生の間では千智を知らない者はいないようだ。同じ通学班で4年生の山崎祐奈やまざきゆうなも同じようなことを言っていた。
「その子って藤城君の彼女?」
「彼女じゃ……ないな。特にそういった話はしてないし。勝手に彼女呼ばわりしたら俺、千智に怒られちゃうよ」
「また名前呼び捨てにしてる! 私のことは名字呼び捨てなのに。じゃあ……藤城君ってその千智って子のこと好きなの?」
「ん? そりゃ好きだよ」
「!」
「そんなの好きに決まってんじゃん。好きじゃなかったら一緒に遊んだりしねーよ」
「そうか……好きなんだ……」
 ショックを受けた美耶の顔は痛々しかった。美耶の言う「好き」が恋愛の「好き」だということはわかっていた。だが皐月の言う「好き」が恋愛感情なのかどうかはいまだに自分でもわからない。

 美耶は皐月のことが好きだ。そのことはクラスの誰もが知っていて、皐月ももちろん知っている。
 だが、美耶がどのくらい自分のことを好きなのかわからない。ファンとして好きなのか、恋愛感情なのか、皐月はいまだに区別がつかない。
「栗林さんと千智って子だったら藤城君、どっちが好き?」
「はあっ? 何言ってんの、お前」
「いいからどっち?」
「そんなの考えたこともねえよ。うるせえな」
 皐月は美耶のこういうところが嫌いだ。人の心にあまり深く立ち入ってほしくない。なんとか話題をそらしたい。
「じゃあ藤城君が一番好きな子って誰なの?」
「一番好きって、今か?」
「そう」
「今だったら筒井、お前だよ」
「えっ? ほんと?」
 さっきまで泣きそうな顔をしていたのにもう嬉しそうな顔をしている。百面相みたいに顔が変わる美耶が面白い。

「本当。だって今、俺の目の前にいるのは筒井しかいないじゃん」
「???」
「今、俺の目には筒井しか見えないんだ」
「……うん」
「だから今は筒井しか選びようがないじゃん」
「いや、そういうことじゃなくて……」
「なんで? そういうことじゃん。だって今、俺の世界には筒井、お前しかいないんだよ? だから俺は今、お前が一番好きだ」
 適当に調子のいいことを言ってみたが、実はすごく深いことを言ったんじゃないかと、皐月は自分のアイデアに酔い、気分が良くなっていた。
「じゃあ私が目の前にいなかったら、私のことは一番好きじゃなくなるってこと?」
「そりゃそうだろ。だってその時は俺の世界に筒井はいないんだから」
「目の前にいなくたって私はいるよ」
「それは……いるのかもしれないけど、いないかもしれない。筒井が見えないところにいたら、俺にはわからない」
「いるに決まってるでしょ! 変なこと言わないでよっ」
わりぃ。もちろん筒井はいる。ただ俺にとっては次に会うまでの筒井は記憶の中の人っていうか、概念のような存在というか……ようするに不確定じゃん。そういうのってなんかはかなくない?」
「ちょっと何を言ってるのか全然わかんないよ。……じゃあ藤城君はその時目の前にいる子のことを一番好きになるっていうこと?」
「そんなの知るかよ。一番嫌いになるかもしれないし、なんとも思わないかもしれないし……。目の前に知らんおっさんがいたって、好きも嫌いもないだろ」

 思い付きで言った言葉だから、突っ込まれると矛盾が出てきそうな気がする。話をしながら考えを固めていくのがいいのかもしれないが、だんだん相手にするのが面倒になってきた。
「筒井は今って限定して好きな子を聞いてきたから、俺は『お前だ』って答えたんだ。それに俺が言った『好き』は恋愛じゃないから」
 皐月は自分の言った言葉が理屈っぽくて嫌になってきた。こんなのは本心じゃない。
 皐月は今までの美耶よりも今の美耶のことがずっと好きになっていたし、今日は初めて美耶のことを女の子として意識した。それはもしかしたらこれは恋愛感情なのかもしれない。
 それに美耶の宗教に関する見識の深さに、友だちでオカルトマニアの神谷秀真かみやしゅうま以上に尊敬の念を抱いている。
 だが、今の皐月は美耶が恋愛のことで絡んでくるのに少しイラついていた。皐月の気持ちを察したのか、美耶はこれ以上好きな人のことは聞いてこなくなった。
「さてと……お参りなんかしないで帰ろうか。信じていない神様に手を合わせるようなことはさせたくないし」
「いいよ。お参りしていこっ。やっぱり礼儀ってものもあるし」
「いいのか? だって筒井、神とか仏とかってあまり信じていないって言ってたじゃん」
「私の家族はどっちかって言えば信心深い方だと思うから、こういうのに抵抗はないよ。まあ文化かなって思ってる。それに、オカルトかどうかはわからないけど、世の中には不思議なことがあるってことは信じてるから」
「そうか……」
 真理の自由研究を読んでいる美耶なら荼枳尼天だきにてん信仰の怖さを知っているはずだ。皐月はまだ美耶に話していないが、美耶はそのことを知った上で参拝してもいいと言った。なかなか肝が据わっている。

 逢魔時おうまがときの大本殿の内陣ないじんの奥は闇に沈んでいた。蝋燭ろうそくの炎だけが妖しく揺らめいていた。
 皐月はこの時間の豊川稲荷をいつも少し怖いと感じていた。美耶はどう感じているのだろうか。早く手を合わせてこの場を離れたかった。
 参拝を済ませた皐月と美耶は大本殿の右手の階段を下って通天廊をくぐり、千本幟せんぼんのぼりのはためく奥の院参道へと出た。皐月は入屋千智いりやちさと及川祐希おいかわゆうきと一緒に来た時の胸の高鳴りを思い出したが、今日の相手は筒井美耶だ。想像以上に厄介な子なので、無邪気に甘い思い出に浸ってはいられない。

「そういえばさ、『カップルが豊川稲荷に来ると別れる』というジンクスがあるんだって。女神の荼枳尼天だきにてん眷属けんぞく女狐めぎつねが嫉妬するからっていうのが通説みたいだけど」
「ヤダ、縁起でもないこと言わないでよ」
「あれっ? 筒井って神様のこと信じるんだ。さっきはあまり信仰心がないようなこと言ってたくせに」
「それとこれとは話が別。言霊ことだまの力ってのがあるんだから、不吉なことは言っちゃダメだよ」
「ああそうか、言霊か……悪かった」
「藤城君って言わなくてもいいことを言うことがあるよね。その癖、直した方がいいよ」
「なんだよ、ちょっと都市伝説の話をしただけじゃん。こんなの、どうせモテない奴が豊川稲荷でイチャイチャしているカップルを見て流したデマだろ。真に受けんなよ……」
 軽い気持ちで都市伝説を話したつもりなのに、美耶の拒否反応が大きかった。それだけでなく、美耶から「言霊」と言う言葉が出てくるとは思わなかった。
 言霊の概念を最近知ったばかりの皐月にとって、美耶の指摘は耳の痛い話だ。オカルト系の話は言霊の力を信じるならば、不用意に人に話すべきではないはずだ。

 二人は奥の院の先へ進み、万燈堂まんどうとうの手前を左に曲がった。この先には豊川海軍工廠とよかわかいぐんこうしょうへの空襲で犠牲となったエ廠従業員の供養塔がある。
 皐月たちは低学年の頃、戦争のことを勉強するまでは戦没者の意味すら知らずに海軍工廠の跡地でよく遊んでいた。それでも子ども心に、供養塔には気安く近寄れないことだけは感じていた。
 豊川稲荷の外に出ると、美耶の家はもう近かった。道をショートカットするために緑町公園の中に入った。この公園は見事に遊具が何もないが、桜の咲く季節は美しい。
「ねえ、別れるとか言わないでよ……」
 ずっと黙っていた美耶に唐突に話を蒸し返してきた。
「急に何を言い出すんだよ……。俺たちって別れるどころか、付き合ってさえいないじゃん」
「それでも言わないで!」
「わかったよ。悪かった」
 美耶がこんなにも自分のことを好きなら、キスのひとつでもしておけばよかった。皐月は今日一日で美耶のことを恋愛対象として少し好きになった。
「前にさ、『いつか一緒に十津川とつかわの山で遊びたい』って言ってくれたよね? 俺、ちゃんと覚えてるよ。何年後に実現するかわからないけど、本気で楽しみにしてるんだ。だから筒井と別れるとか、ありえないって思ってる」
「ほんと?」
「ああ、本当だ。それまでに体力つけておかなきゃいけないな。筒井は身体能力が高すぎるから、山で足手まといにならないようにしないといけない」
「私、山の中だったら藤城君が想像しているより3倍は凄いよ」
「マジで? 猿みてーだな。筒井と一緒に山に入るのなんて無理ゲーじゃん」
「私が藤城君に合わせるから大丈夫」

 美耶は面白い。夏休み前はただの運動神経のいいアホな女の子くらいにしか思っていなかったのに、今では底の見えない魅力の沼にハマりつつある。それは美耶のタイプが真理や千智とは全然違うからなのかもしれない。
 クラスメイトは美耶が自分のことを好きだとからかってくる。美耶はそのことを全然否定しないので、皐月は少し自惚れていた。
 今日こうして美耶と二人で話をしていると、やっぱりみんなの言う通り美耶は自分のことを好きなんだと確信できる。
 だが美耶の好意は千智が自分に寄せてくる好意とは違うような気もする。そう思うと皐月はもっと恋愛対象として美耶に愛されたいと思った。


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音彌
最後まで読んでくれてありがとう。この記事を気に入ってもらえたら嬉しい。