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こんな時、一番して欲しいこと(皐月物語 49)
藤城皐月は栗林真理に手を添えられて、身体を強く揺すられた。ソファーの柔らかいクッションのせいでなすがままになるしかなかった。
「ねえ、泊ってってくれるよね」
真理のむくれた顔が意外とかわいい。
「……さすがにまずいだろ、泊りは」
「大丈夫だよ。どうせお母さん、帰ってこないから」
「そっちは大丈夫かもしれないけど、こっちは全然大丈夫じゃないんだよ」
凛子と小百合に遠方のお座敷が入った時、凛子が現地で宿泊して家に帰って来なくても、小百合は真夜中になろうが必ず帰ってくる。
たとえどんなに仕事が遅くなっても、仕事が終われば必ず小百合からビデオ通話がかかってくる。寝ている時に起こされることもあるが、それが小百合にとって心の支えになっていることを知っている。
皐月は通話中の背景を自分の部屋にしたいので、母からの通話はいつも通り自分の部屋で受けたい。
「百合姐さんはいいよね。男がいないから」
「でも女友だちが住み着いた。しかも子連れで」
「嬉しいくせに」
「別に嬉しかねえよ」
「いいよ、気を使わなくたって。祐希さんみたいにかわいい人なら、男子だったら誰だって嬉しいでしょ」
「そんな単純じゃないんだよ、俺は……」
学校では優等生面しているから忘れていたが、真理は面倒くさい奴だったのを思い出した。もう大きくなったので少しは成長したのかと思ったが、お互いの家で寝泊りをしていた幼少期の頃と真理は何も変わっていなかった。もしかしたら自分の方が成長してるんじゃないかと、真理を見ていて思った。
「私が今の家に引っ越してきてから、皐月は一度もお泊りに来てくれなくなったよね」
「だってこの家に引っ越してから、凛姐さんから泊りに来いって全然言われなくなったじゃん」
「私も百合姐さんからおいでって言われなくなった……」
皐月の祖母が他界すると、皐月の家で小百合の留守中に皐月と真理の面倒を見る大人がいなくなった。
ちょうどその頃、凛子がセキュリティーのしっかりしたマンションを買った。これで凛子は真理を家に一人で置いておいても安心になった。
小百合が仕事の時には皐月を師匠の和泉姐さんの家に預けるようになった。そういったことが重なったので、お互いに子どもを預かることをやめた、と皐月も真理も親から聞かされてきた。いつしか二人はそんな生活にも慣れ、気にすることもなくなっていた。
「じゃあさ、今日は真理が家に泊りに来いよ。な?」
「嫌よ、あんなおばさんのいるところなんか」
「あんなって、頼子さんはいい人だろ。優しいし」
「違う。頼子さんじゃない」
真理から険悪なオーラが漂い始めた。しかし皐月の右腕に添えられた手はそのままだった。
あんなおばさんが頼子でないなら、おばさんは皐月の母の小百合ということになる。だが、真理は小百合を慕っているからそれはあり得ない。真理がパピヨンで笑顔を見せなかったことを皐月は思い返した。
「皐月、私の家に泊るの嫌なの?」
「別に嫌ってわけじゃないけどさ……」
「嫌じゃないんだったら泊っていけばいいじゃない」
「だからそれはヤバいって。こんなのバレたら滅茶苦茶怒られるだろ? 下手したらもう二度と真理んとこに来られなくなるぞ」
「どうせ私が誘わなければ来ないくせに」
真理は皐月を突き離し、その反作用を利用してソファーに倒れ込んだ。
「そんなことねえよ。俺はたださ、お前の受験勉強を邪魔したくなかっただけで……」
「もう受験勉強とか言わないでよっ! 私も皐月みたいに遊んでいれば良かった!」
不貞腐れている真理を見ていると、泊ることはできなくても、できるだけ我儘に付き合ってやりたいと思い始めた。
親の都合で一緒に過ごしていた頃、真理か皐月のどちらかが感情を持て余してしまい、自分ではどうにもならなくなってしまうことがあった。そんな時は気持ちに余裕のある方が慰めて、二人で支え合って乗り切ってきた。皐月はそんな寂しくも温かい夜のことを思い出した。
「じゃあさ、俺と一緒に地元の中学に行こうか」
「ヤダよ、バーカ」
「真理は将来のことを考えて受験勉強してるんだよな?」
「……将来のことなんて……そんなのどうなるかわかんないよ」
「そんなことないだろ。少なくとも真理は合格したら3年後に受験勉強しなくても高校に行けるんだよな。俺は今遊んでいても、どのみち3年後には受験勉強しなくちゃならないわけだし。真理と順序が違うだけで、俺もいずれは地獄を見る。真理よりも酷い地獄かもしれないし……」
「……まあ、そうだよね。忘れてた。皐月、可哀想」
「うるせえよ。バ~カ」
皐月が苦笑すると真理も力なく笑った。真理が左手を差し出してきた。起こせという意味だろうが、左腕では身体が近過ぎて引っ張りにくい。仕方がないので身体を寄せて左手で真理の右腕をつかみ、両手で両腕を引き起こした。
「お前、重くなったな」
「そんなの成長したんだから当たり前でしょ」
「背、でかくなったもんな」
「私が4年生の頃、ちょうど絵梨花ちゃんくらいだったかな」
「あんなにちっちゃかったっけ?」
「そうだよ。私も小さかったら絵梨花ちゃんみたいにかわいいかな?」
「真理は今でもかわいいよ。それに背が高いから格好いい」
「えへへ……」
引っ張った腕を手放そうとしたら、真理が皐月の腕をつかみ返した。
「で、泊ってく?」
「だから無理だって」
「私、カワイイんでしょ?」
「まあ、そうだな」
「じゃあ泊っていけばいいじゃない」
「また今度な」
「今日じゃなきゃヤダ。一人になりたくないの」
「お前、凛姐さんが帰って来ない日ってマジで情緒不安定なんだな」
「そうだよ。悪い?」
「全然」
皐月の方から真理を抱き寄せた。二人で朝まで留守番していた日はいつもこうして身を寄せ合っていた。真理の体温が冷房で冷えた身体に温かかった。子どもの頃とは違う女の子の匂いがした。
「ちょっと、どうしたの?」
「昔、凛姐さんがお座敷で帰って来ない時、よくこうしてたよな」
「ちっちゃい頃の話でしょ。もういいって……子どもじゃないんだから」
「ごめんな。あの頃みたいに朝までこうしてやれなくて」
「ズルいな、こんな時に……」
二人とも6年生になったので、抱き合っていても当時とは感触が違う。真理は大きくなっていて、体つきがもう子どもではない。それに芸妓の明日美や女子高生の及川祐希、年下の入屋千智とも違う、真理だけのいい匂いがする。
「今日みたいな日があったらいつでも来てやるよ。それじゃあダメか?」
肩にかけた手を伸ばし、皐月は真理を正面から見た。
「ダメ……と言いたいところだけど、いいよ。……しょうがないな」
「ごめんな」
真理は軽くななめに首を下げ、皐月の視線を外した。
「でも足りなくない?」
「えっ?」
「こんな時、一番して欲しいこと……忘れてない?」
口を隠すように右手をあて、顔を動かさず視線を皐月に流した。
「忘れるわけないだろ。ただ躊躇してるだけ。……だってお前、大きくなったし。それにかわいくなったし」
短い沈黙の後、真理は口にあてていた手を離すと、ずるい顔で笑っている顔が現れた。
「してくれたら今日は帰ってもいいよ」
「……ああ」
「久しぶりだね」
「そうだな。何年ぶりだろう?」
「昔は皐月の方がしたがってたのにね」
「言うなよ……恥ずかしい」
「さっきは私が言わされたんだからね」
時が経つと二人で何度もしてきたことが、まるで初めてのように感じられる。皐月と真理はおでことおでこを合わせ、呼吸が整うまで待ち続けた。
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