親に送り出されるデートなんて(皐月物語 111)
玄関に置いてあったランドセルを背負い、藤城皐月は明日美の家を出ようとしていた。
「じゃあ、明日学校が終わったらすぐに来るね」
「百合姐さんには私からも連絡を入れておく」
ぎこちない口づけを交わし、皐月は明日美の部屋を出た。
夕食の時間の6時を少し過ぎていた。こんな時間にランドセル姿で外を歩くことに皐月は気持ち悪さを感じていた。いつも歩いている通学路と見える景色が微妙に違う。この時間まで外で遊んでいることは及川親子が家に住み込むまではよくあった。だが今では門限ができたし、今日は明日美と会ってきた直後ということもあり、皐月は少し後ろめたい気持ちになっていた。
小百合寮の行燈看板にはすでに明かりが灯っていた。玄関の鍵を開けて中に入ると、居間で母の小百合と住込みの頼子、その娘の祐希が夕食の準備をしていた。夕食の時間にギリギリ間に合ったようだ。
「ただいま」
「おかえり。明日美から連絡もらったよ。もうご飯の用意ができるから、早くランドセルを部屋に置いてきなさい」
「うん。もう腹減っちゃったよ」
いつもと変わらない母の態度に皐月は安堵した。明日美の家でお菓子を食べてきたのでお腹はまだすいていない。外では大人のようなことをしてきたので、家の中では子供っぽく振舞おうと思った。
夕食は皐月の好きなハンバーグだ。頼子が家に来るまではスーパーで売っているハンバーグを買って、自分で温めて食べていた。頼子が来てからは手作りのハンバーグを食べられるようになった。
「俺、頼子さんのハンバーグ好きだよ」
「ありがとう。皐月ちゃんはいつも料理を褒めてくれるから、作りがいがあるわ。ハンバーグのお代わりがあるから、足りなかったら遠慮なく食べてね」
「祐希の分もあるの?」
「もちろん作っておいたわ。あの子もよく食べるからね」
皐月と頼子が笑っていると、台所から祐希がお茶を持って来た。
「何か面白いことでもあったの?」
「お代わりのハンバーグがあるんだってさ。よかったね」
「キャベコロの時みたいにたくさん作ってないよ。1個ずつしかないからね」
「それだけあれば十分だよ。祐希は1個じゃ足りないの?」
「足りるに決まってるよ。人のことを大食いみたいに言わないで」
火曜日の夜はお座敷のないことが多い。4人の夕食は賑やかになるので、皐月は火曜日の夕食をいつも楽しみにしている。小百合がいると場を上手く回してくれるので心地よい。
「明日、服を買いに行くんだってね」
「うん」
「学校が終わってからだと帰りが遅くなっちゃうね。明日美と晩御飯食べてくる?」
「えっ?」
小百合は当たり前のように驚くべきことを言った。
「時間を気にして買い物するのなんて嫌でしょ。後で衣装代と食事代を渡すから、買い物だけじゃなく食事も行っておいでよ」
「うん……いいの?」
「私から明日美に頼んでおくから」
小百合は明日美に対して全く警戒感を抱いていない。さすがに小百合でも明日美と皐月が恋愛関係になっているとは思っていないようだ。小百合は明日美のことを皐月の保護者のように考えているのかもしれない。
「満からも連絡があったよ。日曜日に皐月を借りてもいいかって。どうする?」
「日曜日か……別に遊ぶ予定はないし、いいよ」
「じゃあ、あんたから満に連絡入れといてね。あとで満のアカウント教えるから」
「うん」
急に予定が増えたことに皐月は戸惑った。皐月は検番以外で若い芸妓と二人で会ったことがない。出かけるとなると、長時間二人でいることになる。明日美も満も親しくしている芸妓だが、年齢の離れている皐月は彼女らとどのように接すればいいのかよくわからない。小学校の同級生たちのようなわけにはいかないだろう。
「皐月ちゃん、よかったね。明日美さんと二人で食事ができるなんて、お座敷のお客さんが知ったら羨ましがるよ」
「ははは……。そうだろうね」
事情を知らない頼子も無邪気なことを言っている。皐月は自分が小学生であるという属性を目一杯活用してやろうと思った。
「私は明日お座敷があるから、頼子と祐希ちゃんも外食してきたらどう? たまには家事なんかしないで、外で美味しいものでも食べに行くといいわ」
「いいの? ありがとう、小百合」
「頼子には休みなしで家のことをしてもらっているからね。本当はこういう日をもっと作らなきゃって思ってたのよ」
「何言ってんの。私はいつも楽させてもらってるわ。申し訳ないって思うくらいに」
「タクシーの永井さんにいいお店、紹介してもらおうか?」
「タクシーなんていいって。この家の近くにも行ってみたいお店はいっぱいあるから。私、『五十鈴川』で焼肉食べたいな。祐希、『五十鈴川』でもいい?」
「焼肉食べた~い。私、焼肉屋さんって行ったことがないから、楽しみ」
祐希の焼肉屋に言ったことがないという話に皐月は驚いた。生まれ育った場所が新城市の山間部だから、家の近くに焼肉屋がないからなのかもしれない。
「『五十鈴川』は町の焼肉屋だから、鳳来牛みたいな高級肉はないけれど、お肉もタレも美味しいし、ホルモンもあるよ」
「鳳来牛なんて食べたことないから、気にしなくていいよ。じゃあ、明日は祐希と二人で焼肉を食べに行くね。小百合、ありがとう」
「お金のことは気にしないで、好きなだけ食べて来て」
次の日、学校が終わると皐月は誰よりも早く教室を出た。前の席にいる栗林真理には不審を抱かれないように気をつけなければならなかった。真理のことを思うと、これから明日美と会うことに罪悪感を覚える。
家に帰る途中で検番に寄った。京子に昨日の用事で明日美の家に行った報告をし、家の中の様子を話した。明日美の暮らしぶりを知らなかった京子は皐月の話を興味深く聞いていた。一通り話し終わると、皐月はすぐに検番を出た。
家に帰ると、小百合も頼子も一階にはいなかった。階段を上がっていると、左手から頼子が顔を出した。
「皐月ちゃん、おかえり」
「ただいま。頼子さん、部屋にいたんだ」
「小百合と二人でお茶をしながらお喋りしていたの」
「ママ、頼子さんの部屋にいるの?」
「最近はよく私の部屋に遊びに来るのよ」
「検番にいなかったから家にいるのかと思ったけど、一階にもいなかったから、どうしたのかと思ったよ。ちょっと顔出してくる」
二階に上がり、部屋にランドセルを放り投げて、皐月は頼子と一緒に頼子の部屋に向かった。部屋の炬燵の一角に小百合が座ってお茶を飲んでいた。
「おかえり、皐月」
「ただいま。何やってんの? ここで」
「何って、寛いでるんじゃない」
「頼子さんのプライベートの時間なんだから、少しは気ぃ使えよ」
「頼子の部屋って、高校時代とほとんど同じなのよね。だから居間にいるよりも楽しくて、つい来ちゃうの」
皐月も一度、頼子の部屋で友達と麻雀をして遊んだことがある。その時に感じたレトロな雰囲気は、高校時代の頼子の部屋の再現だからかと納得した。
「私の部屋にあるものって、テレビと新しく買ったもの以外は全部少女時代のものなののよ」
「へ~。物持ちがいいんだね」
「違うのよ。結婚した時に自分の持ち物を豊橋の実家に置いてきたから、今はその時の物を使っているだけよ。結婚時代の家具は離婚した時に全部処分しちゃったから、この部屋のものは実家から持って来たの」
頼子に招かれて、皐月も炬燵の席に着いた。
「そういえばママも若い時は豊橋に住んでたって言ってたね。頼子さんは豊橋の実家には戻ろうとは思わなかったの?」
「母が一人で住んでいたんだけれど、亡くなっちゃったから戻っても仕方がなかったの。実家は借家だったからね。母が亡くなったから離婚を決意したの」
「そうだったんだ……」
小学生の皐月には重い話で、どう反応したらいいのかわからず、顔が強張ってきた。
「あんた、その格好で服を買いに行くの? もうちょっとちゃんとした格好をしていきなさいよ。もう10月だから、半袖Tシャツなんてやめなさい」
「え~っ、まだ暑いじゃん」
「季節に合わせた服を着ないと明日美が恥をかくんだから、言うことを聞きなさい。私が買ってあげた服があるでしょ?」
「ママが買ったのって春だったよね。俺、あれからだいぶ背が伸びたよ。サイズが合わないんじゃない?」
「少しオーバーサイズのシャツを買ったから大丈夫よ。下も体操服の短パンなんかじゃなくて、チノパン穿いて行きなさいよ」
「あの青っぽいチェックのシャツにベージュのチノパン? チー牛丸出しじゃん」
「何? そのチー牛って?」
「地味ってこと。いいよ。ちゃんとママのコーデで行くから」
「箪笥から出しておくからね」
小百合は立ち上がって、一人で先に一階に下りていった。
「皐月ちゃん、今日は夕食、明日美さんと食べるんだよね。何を食べるか決めてるの?」
「う~ん。まだ決まってないけど、チーズ牛丼でも食べようかな」
「まあ、美味しそうね、そのチーズ牛丼って。どこで食べられるのかしら?」
「学校の近くの『すき家』で食べられるよ。一人で晩飯を食べていた時は時々すき家まで食べに行ってた」
「へ~。じゃあまた私たちを『すき家』に連れてってよ。チーズ牛丼、食べてみたいわ」
「いいよ。ママがお座敷の時に三人でに食べに行こうか。チーズ牛丼以外にも安くて美味しいものがいっぱいあるから。でも今日は『五十鈴川』で焼肉食べて来てね。すっごく美味しいから」
「ありがとう。焼肉なんて久しぶりだから、楽しみだわ。皐月ちゃんも美味しいもの食べて来てね」
頼子の部屋を出た皐月はスマホと財布と鍵を持って、下の階へ下りていった。母の部屋に入ると服が用意されていた。服を着替え、脱いだ服を脱衣所のかごに入れた。
「なんか老けて見えない?」
「小学生が何言ってんのよ。ちょっとは大人っぽく見えるからいいでしょ」
「これ、大人っぽいのかな……」
少しは明日美との年齢差が小さくなるように見えるなら、この格好でもいいかと思った。それに、新しい服を買ったらすぐに着替えてしまえばいい。
「この封筒にお金を入れてあるから、そのまま明日美に渡しなさい。衣装代と食事代で2万円入っているから。足りなかったら後で教えてね」
「わかった。じゃあ行ってくるね」
皐月はチノパンのポケットに財布とスマホと鍵と、預かったお金を全部突っ込んで家を出た。
母にお金をもらい、見送られて明日美に会いに行くというのはあまり気分のいいものではない。こういうのは親の目を盗んでコソコソと会う方がいい。せっかく明日美に会えるのに、このままではまるで気持ちが盛り上がらない。今はとにかくモヤモヤして、気持ちが悪い。
明日美の家に向かう途中、下校途中の稲荷小学校の児童と何人かすれ違った。慌てて早く学校を出たせいで、下校時間とかぶってしまった。知り合いと会いたくないなと思っていると、ストレスがたまってくる。皐月は少しイライラしてきた。
スクランブル交差点を渡ったところで通学路の細い路地から月花博紀が出て来た。博紀が一人でいるのは、皐月には運が良かった。
「お前、めずらしい格好してるな。どうした?」
「ちょっとこれから出かけるところがあるんだよ。学校に行くような格好はできないからな」
「ふ~ん。普段もそういう服着て学校に来ればいいじゃん。いつもよりも落ち着いて見えるぞ」
「ホント?」
「ああ。さすがにもう半袖半ズボンはねーからな。お前、修学旅行はちゃんとした服着て来いよ。稲荷小学校の恥になるから」
「わーってるよ。今日はこれからその服を買いに行くんだから」
そういう博紀は名古屋グランパスとアパレルメーカーのコラボTシャツを着ていた。下はデニムのパンツを穿いていて、このままの姿で京都にだって行けそうなコーデだ。こいつはいつも格好いいな、と軽い敗北感を覚えた。
「イオンにでも行くのか? なんで自転車じゃねーんだよ?」
「これから豊橋に服を買いに行くんだよ。芸妓のお姉さんに車を出してもらうんだ」
「そうか……。だからお前、慌てて帰ったんだな」
「まあな。大人の女性を待たせるわけにはいかないだろ?」
「……そうだな」
「じゃあ、そういうわけだから。俺、行くわ」
「おう。今日買う服、明日学校に着て来いよ」
「いや、修学旅行までとっておくわ」
「そうか……それもそうだな」
会ったのが博紀で良かったと思った。皐月と芸妓の関係を知っている博紀なら、弟の直紀には話してもクラスの友達にペラペラと話すこともないだろう。
博紀に芸妓と会うことを話し、少し気分が回復した。自慢をするようでダサいと思ったが、メンタルを回復させるのに博紀を利用させてもらった。こんなことをするとまた博紀に嫌われるかなと思ったが、この時の皐月には博紀を思いやる余裕がなかった。明日美は人の心に敏感なので、楽しそうにしていなかったらすぐに気付かれてしまうだろう。
博紀はいい感じに自分の相手をしてくれたと思った。博紀ももしかしたら、明日美のように人の心の機微がわかる奴なのかもしれない。皐月は博紀が女子にモテるのは外見だけが理由じゃないことはわかっていたが、男子からも好かれているのはこういうところなのかもと思った。