
イジメられっ放しじゃいられない(皐月物語 170)
藤城皐月と吉口千由紀はスナック『夕夏』の二階にある千由紀の部屋にいた。日が暮れようとしていた。窓から入る陽の光は建物の影になり、外からの反射光だけがこの部屋を照らしていた。
「野上がブチ切れたことと、吉口さんに何の関係があるの?」
野上実果子には5年生の時に教室で暴力沙汰を起こした過去がある。同じクラスだった皐月と実果子はその後、席を隔離されて同じ班になっていた。皐月は時間をかけて実果子と仲良くなったが、実果子から暴力事件の詳細を聞いたことがなかった。
「藤城君は実果子と仲がいいから、私たちの事情を知っているのかと思った。話してもいいのかな……」
「話したくなければ話さなくてもいいけど、もし話してくれるなら秘密にするよ」
窓の外の街灯が灯った。部屋の中の照明はまだ付けていない。
「実果子が教室で暴れた事件の発端は私にあるの。その前に私がクラスの子からいじめられていた話をしなければいけないんだけど、話が長くなっちゃうよ。いい?」
「いいよ」
千由紀は炬燵の上にある小物入れから照明のスイッチを取り出して点灯した。
千由紀は5年生の時、1組の女子のクラスメイトからいじめられていた。そのきっかけは同じクラスの広瀬奈那に言われた一言から始まった。
「吉口さんの家ってスナックなんだね」
その時の千由紀は奈那の言葉に悪意があるとは思っていなかった。ただ単純に親の仕事に興味を示しただけだと思い、質問されると無邪気に答えていた。
だが、次第に奈那の言動はエスカレートすることになった。最初の頃は千由紀が何かをするたびに「親がスナックだから」と言われるようになり、チーママというあだ名を付けられた。
しばらくするとあだ名がチーママからバスエに変わりあだ名を言われるたびに笑われるようになった。千由紀が奈那たちに反発すると、集団で無視をされるようになった。そのうち、持ち物を隠されるようになった。犯人が奈那たちのグループなのは明らかだったが、証拠がなかった。
千由紀は物が隠されるようになったことを担任の前島先生に相談した。前島先生は現在、6年4組の担任をしている。千由紀は2年連続で前島先生の担任のクラスだ。
「前島先生ならなんとかしてくれたんじゃないの?」
「うん。心当たりがないかと聞かれたから、広瀬さんたちに隠されたって言ったの。そうしたら前島先生は彼女らに何かを言ってくれたみたいで、それからは物を隠されることがなくなった」
ある日の放課後、千由紀が図書委員の仕事が終わって教室から戻ってくると、広瀬奈那のグループの女子たちが待っていた。
「おい、バスエ。お前、先生に私たちのことチクっただろ」
「言った」
「ふざけんなよ! お前のせいで先生に怒られたんだから」
「あなたたちが私の物を隠すからいけないんでしょ?」
「汚いゴミを捨てただけだし」
千由紀はこの言葉で奈那たちが自分の持ち物を隠したことがわかった。前島先生には憶測で言いつけたが、裏が取れたことにホッとした。
「どうして私の持ち物が汚いゴミなの?」
「男に媚び売って恵んでもらった金で買った物なんでしょ?」
「媚びなんか売ってない! それに女のお客さんだっているよっ」
「嘘つけ! スナックなんか酒だけじゃなくて、体も売ってんだろ」
親の悪口を言われた瞬間、無言でキレた。千由紀は近くにあった椅子を掴み、奈那に殴りかかった。椅子は奈那の肩にヒットした。肩を押さえてうずくまる奈那に、千由紀は椅子を振り下ろした。奈那の仲間たちは千由紀の怒気にすくんで動けなかった。
「おいっ! やめろ!」
同じクラスの月花博紀が駆け寄ってきて、体を張って奈那をガードして、千由紀の暴行を止めた。
「博紀?」
「うん。勢い余って、月花君も一回殴っちゃった」
「博紀、怒った?」
「ううん。怒らなかった。ただ『もうやめよう』って言っただけだった」
幸い、奈那の怪我は大したことがなかった。ただこの事件は問題になり、千由紀の親も奈那の親も呼び出されて、前島先生と面談が行われた。この日以降、千由紀がクラスの女子からいじめられることはなくなったが、誰も親しく話しかけてくることがなくなった。
「私のしたことは学校中に知れ渡っちゃったから、私はみんなに嫌われちゃったの」
「そんなことないだろ? だって俺、吉口さんの話なんて全然知らなかったし」
「男子には伝わってなかったのかな……。ただ単に藤城君が情報に疎かっただけなのかもね」
皐月は千由紀の事件のことを全然知らないわけではなかったが、不確かなことしか知らなかった。ここは知らないふりをしておこうと思った。
「俺も似たような経験があるよ。親の仕事を売春婦だってバカにされた」
千由紀が大きく目を見開いた。
「藤城君も私と同じ目にあったんだ……。で、どうしたの?」
「ぶん殴った」
今度は皐月が自分の話を始めた。
藤城皐月が暴力沙汰を起こしたのは5年生になってすぐのことだった。新しいクラスメイトの一人の中西一跳に親の仕事のことでバカにされたことがきっかけだった。
「なあ、お前の母ちゃん芸者なんだってな」
「芸妓だよ」
「芸者って、客とセックスするんだろ?」
「するわけねーだろ、バカ」
今思えば、一跳は親から何かを吹き込まれたのだろう。芸者のことを売春婦だと思っていたようだ。
その頃の皐月は髪を伸ばしていて、外見が女の子みたいだった。威圧感がなかったので、皐月は一跳にナメられていたのかもしれない。
「芸者なんて風俗嬢だろ」
「違うわ! それに芸者のことも風俗嬢のこともバカにするな」
「ほらみろ! 庇うってことは、やっぱりお前の母ちゃんも風俗嬢なんだ」
最初は一跳のことを芸妓のことを知らないバカだと無視していたが、あまりにしつこかったので頭に来て、鳩尾に一発入れた。
「殺すぞ」
一跳は一瞬、息を詰まらせた。皐月はここで手を緩めず、一方的に殴り続けた。容赦はしなかった。
教室内が騒然とした。一跳が鼻血を出したのを見て、皐月の目の前が明るくなった。気持ちが高ぶり、本気で殺してやろうかと思った。
床に倒れた一跳に蹴りを入れると、後ろから羽交い締めにされた。止めに入ったのは飯田隆一郎だった。隆一郎は現在の児童会副会長だ。
「もういいだろ。やめろよ」
「うるせー! こいつは俺の親をバカにしたんだ。ブッ殺してやる!」
皐月が暴れると、隆一郎のまわりにいた男子たちも皐月を止めに入った。皐月と一跳の話を聞いていた者が隆一郎に事情を話した。
「お前の怒る気持ちはわかった。いいから落ち付け」
「邪魔すんな! お前も殺すぞ!」
「止めに入ったくらいで、俺のことまで殺すなよ」
隆一郎はニコッと笑った。隆一郎の笑顔を見たら気が抜けて、怒りが鎮まってきた。
「おい、中西。今度俺の親の悪口を言ったらマジで殺すからな」
この事件は大事にはならなかった。皐月と一跳は担任の北川先生の前で和解をさせられた。手を出した皐月は頭を下げさせられたが、この件が親の耳に入ることはなかった。
「その話、実果子から聞いたことがある。藤城君が親の悪口を言われて怒ったって。私も我慢しないで、すぐに怒れば良かった」
「そっか……。この話は野上から吉口さんに伝わってたんだ。それより、野上が吉口さんのことで怒った理由がわかんないんだけど……」
吉口千由紀が野上実果子の話を始めた。
クラスの女子が千由紀の親がスナックをしているということで千由紀をバカにしている話をしていた。その中心人物は冨田夏美といい、現在6年4組で皐月や千由紀とクラスメイトになっている。
「1組の吉口さんの親ってスナックをしてるんだって。そこで客に売春してるって噂だよ」
その話を聞いた実果子が怒った。
「おいっ! いい加減な話はやめろ! 千由紀の店はそんなことしてない」
「だって、みんな言ってるよ」
「そんなの嘘だ。私のお父さんは千由紀の店の常連なんだ。変な店じゃない!」
「ふ~ん。じゃあ、野上さんのお父さんは吉口さんのお母さんの客なんだね」
「なんだよ、その言い方」
「別に~」
夏美たちは実果子を見てクスクスと笑った。この態度に実果子がキレた。
実果子は女子の頬にビンタをし、胸に蹴りを入れた。女子の体が吹っ飛んで、まわりの席がぐちゃぐちゃになった。
女子たちから悲鳴が上がった。実果子は女子の顔を踏みつけながら言った。
「千由紀のお母さんと私のお父さんのことをバカにしたことを謝れ!」
皐月の時と同じように、飯田隆一郎が実果子を女子から引き剥がした。倒れた女子を実果子からまもったのは江嶋華鈴だった。
「実果子は私がいじめられてたのを我慢して拗らせたのを知ってるの。だから藤城君が中西君に怒ったのを思い出して、自分も怒ったんだって」
「そうだったのか……。俺、全然知らなかった。野上が夏美をぶん殴ってた時、俺はトイレに行ってたから見てなかったんだよな。江嶋と飯田が野上を止めていたところは見たけど」
これで皐月は北川先生が自分と実果子を隔離した理由がわかった。今まで気付かなかったのはどうかと思うが、自分も5年3組では問題児扱いをされていたようだ。同じ班にされた江嶋華鈴は目付け役だった。
皐月は一跳と喧嘩をした後は何の問題も起こさなかった。それどころか、成績はぶっちぎりのトップで、テストは満点以外取ったことがなかったので、自分のことを優等生だと思っていた。
藤城皐月と吉口千由紀は千由紀の部屋で野上実果子の暴力事件のことで話し込んでいた。
「広瀬のグループの子って、4組にはいないよね? 前島先生が排除してくれたのかな?」
「実果子とトラブルを起こした子たちもクラスを分けられてるよ。でも、4組に冨田さんはいるよね」
「ああ、あいつか」
皐月は女子とは誰とでも話すが、冨田夏美とは親しく話したことがない。実果子の事件のことを知っていたので、夏美と仲良くしたいとは思わなかった。
「藤城君も中西君と別のクラスだよね」
クラス編成はよく考えられている。トラブルを起こした者同士は同じクラスにされていない。吉口千由紀と広瀬奈那、藤城皐月と中西一跳、野上実果子と冨田夏美は別々のクラスに引き離された。
「もしかして吉口さんって、前島先生が面倒見ようと思って自分のクラスに入れたのかもしれないね。野上も北川のクラスだし」
「北川先生は実果子と藤城君、二人の問題児を抱えたくなかったんじゃないの? だから藤城君は前島先生に引き取られたんだよ」
皐月と千由紀は久しぶりに二人で笑った。問題児同士、妙な連帯感が芽生えていた。
「じゃあさ、博紀が同じクラスってことは、博紀が吉口さんのお目付け役として設定されてるんじゃないの?」
「それは関係ないでしょ? だって、実果子や藤城君はお目付け役だった江嶋さんと違うクラスなんだから」
さすがに考え過ぎたかな、と思った。だが、月花博紀が前島先生のクラスにいるということは、先生に気に入られていたのかもしれない。そう思って皐月は博紀に嫉妬したが、自分も前島先生のクラスになれたんだから、気に入られたのは自分も同じかと気を取り直した。
「前島先生は問題児を集めたよね。私とか藤城君とか。カルロス君も」
「カルロスも?」
「あれっ? 知らなかった? カルロス君って5年生の時、荒れていたんだよ」
体の大きなブラジル系のカルロスがクラスメイトから恐れられていたのは知っていた。だが、カルロスは今まで特に問題を起こしていない。皐月も普通にカルロスと話したり遊んだりしている。
「ラブリさんもいじめられてたんだよ。あと、月花君だってモテ過ぎて問題児だし、栗林さんや二橋さんみたいに中学受験する子も対応が大変だから、問題児といっていいのかも」
児童会長の江嶋華鈴から聞いた話だと、中学受験をする児童は6年4組の真理と絵梨花の二人だけらしい。
「ウチのクラスはよくこれまで問題が起きなかったな。それどころか、こんなに居心地のいいクラスって初めてだよ」
「男子は月花君がまとめて、女子は松井さんと新倉さんのおかげかな。松井さんは強いけど優しいし、新倉さんはSNSが強すぎだし」
クラスの女子のカースト最上位は松井晴香だ。晴香はクラスのファッションリーダーで、女子たちの中心にいる。華やかな外見と気の強い性格で男子からは敬遠されているが、友だち思いで優しいのでクラスの女子の支持を集めている。月花博紀のファンクラブの会長をしている。晴香は月花博紀のファンクラブの会長だ。
新倉美優はSNSに投稿していて、フォロワーが多い。ネット関連の情報に明るくて、みんなから頼りにされている。美優はコミュニケーション能力が高く、男子からも人気がある。多くの人に見られているのでビジュアルもよく、ルッキズムを体現している。
「藤城君の存在も大きいんだよ」
「俺?」
「うん。藤城君って女子とよく話すから、4組って男子と女子が対立していないんだよね。藤城君が男子と女子の間をうまく取り持ってるんだと思うの」
「そうかな? 男子からはチャラいって言われてて、評判が悪いけど」
「嫉妬されてるんじゃないの? 女子からの評判は良いよ。特に私たち三人は藤城君のお陰で学校が楽しくなった。私や栗林さんや二橋さんに話しかけてくる男子なんていなかったから」
皐月は女性ばかりの環境で育ったので、女子と話すのに何の抵抗もない。だから、女子とも男子のように普通に接することができる。
「他の男子も俺みたいに女子としゃべればいいんだよ」
「藤城君は簡単にそう言うけど、普通はできないよ。少なくとも私は男子と簡単には話せないから。それに栗林さんや二橋さんのような頭のいい子って、男子だけじゃなくて同性から見ても近寄り難んだよ」
「まあ、あの二人はいつも隙間時間でも勉強してるからな。邪魔しちゃいけないとは思うけど」
皐月と栗林真理は幼馴染なので、真理が近寄り難いというのは皐月にはよくわからないが、二橋絵梨花がそうなのはなんとなくわかる。絵梨花は女子から見ても高嶺の花のようだ。
皐月は年下の恋人の入屋千智のことを思った。あれだけかわいくて頭もいいと苦労も多いだろう。
藤城皐月と吉口千由紀は話し込んでいた。二人は千由紀の部屋にいたので、教室では話せない話がたくさんできた。
「さて、そろそろ帰ろうかな」
「もう帰っちゃうの」
「もうすぐ晩ご飯の時間だし」
「ウチで食べていけばいいのに。スナックのカウンターで一緒に食べない?」
「ははは。そうしたいのはやまやまだけど、家で食事の用意がされているから」
この日の夕食は及川頼子とその娘の祐希と皐月の三人で食べることになっている。皐月の母の小百合はお座敷に出ていて、家にはいない。これでは及川家の夕食によばれているのと同じだ。
皐月は本心では、このままここに残って千由紀と一緒に晩ご飯を食べたいと思っていた。及川親子と同居するようになり、皐月の自由はなくなった。
「また吉口さんの家に遊びに来てもいい?」
「いいよ」
「じゃあ、中学に上がってからも来ていい?」
「……いいけど」
「ありがとう。俺たち、文学友達になろう」
「……うん」
千由紀は少し悲しそうな顔をしていた。白い肌の目元が赤くなり始めた。皐月はここで抱き寄せたい気持ちを抑え、立ちあがった。
「玄関まで一緒に来て」
皐月の言葉に千由紀は眼鏡をかけ直して立ちあがった。皐月は自分が先に立って部屋を出るのは変だと思い、千由紀が先に一階の店へ下りるのを待っていた。だが、千由紀は一向に動こうとしない。
「ねえ。藤城君って年下の彼女がいるって噂なんだけど、それって本当?」
入屋千智のことは千由紀にも知られているようだ。
「本当。でも、彼女かどうかって言われると、どうかなって思う」
「デートしてるところを見たって話を聞いてるよ」
「デートか……。学校の外で会ったことは何度もあるし、俺ん家で博紀たちと一緒に遊んだこともあるよ。でも、それって彼女なのかな……。そんなこと言ったら、こうして吉口さんの家に遊びに来てるんだから、吉口さんも俺の彼女ってことになっちゃうじゃん」
皐月は女子たちの言う「好き」の定義が曖昧なのを知っている。これは皐月にとって都合がいい。
「藤城君はその子のこと好きなの?」
「もちろん好きだよ」
皐月は女子たちの言う「彼女」の定義が曖昧なのも知っている。これも皐月にとって都合がいい。
「それに俺、吉口さんのことも好きだよ」
千由紀はまた目を大きく見開いて、口をすぼめた。白い頬がほんのりピンクに染まってかわいい。
「じゃあ、藤城君。恋してる人はいる?」
千由紀は言葉を変えて、質問を明晰にした。皐月は千由紀にこんな踏み込んだことを聞かれるとは思っていなかった。
「いるよ。今着てる服を買ってくれた芸妓さん。俺はその人のことが小さい頃から大好きなんだ」
明日美の話をすると、大抵の女子は拍子抜けした顔をする。千由紀もそんな顔をしていたが、どこか安堵しているようにも見えた。千由紀が恋する芸妓のことをどう思ったかはわからないが、皐月はいつもこの手で危機を回避してきた。
「じゃあ俺も聞くけど、吉口さんは恋してる人っているの?」
千由紀の顔がさらに赤くなった。
「……いるよ」
皐月はその相手が自分かもしれないと思った。ただ、月花博紀の可能性もある。千由紀は博紀にいじめから助けてもらったことがあるから、博紀に恋していてもおかしくはない。
皐月は最初、千由紀の恋する相手を自分のことだと思った。だが、博紀のことを思い出し五分五分のような気がし始め、考えているうちに100パー博紀のような気がしてきた。
「帰るから、吉口さんが先に下りて」
「……うん」
千由紀の恋する相手が気になったが、皐月は確かめない方がいいと思った。相手が博紀だったら悔しいし、自分だったらややこしくなる。この話はここで切り上げた方がいい。
一階に下りて店内に入ると、千由紀の母の夕夏と男性客が一人いた。並びのスナックのママの茜はもういなかった。
「あれっ? ちーちゃん、男を引っ張り込んでたの? イケメンの彼氏だねー」
「違うよ、源さん。バカ!」
源さんという初老の男性は常連の人なのだろう。千由紀とはとても親しいようだ。皐月は千由紀が大人の人たちと知り合いになっている姿を見て、少し羨ましくなった。千由紀は大人に見守られている。
「おじゃましました。また遊びに来てもいいですか?」
「また来てくれるの? ありがとう。これからもウチの娘と仲良くしてね」
「ママ。ちーちゃんとイケメン君が仲良くなりすぎると、孫ができちゃうよ?」
「バカなこと言わないのっ! 源さん」
夕夏はスナックのママからお母さんの顔になっていた。皐月は夕夏と源さんに頭を下げて、店の外に出た。
外は夜の帳に包まれていた。『夕夏』や『あかね』、隣の小料理屋の看板が点灯していて、場末の飲み屋街の雰囲気を出していた。
「じゃあ、帰るね」
「うん」
「なんだかスナックで飲んで帰るみたいだ」
「また来てよ」
「吉口さん、チーママみたい。あっ、これって言っちゃいけないあだ名だったっけ」
「いいけど、今回だけだからね。藤城君。このことは誰にも知られないようにしてね」
「いいけど、どうして?」
「だって、藤城君はモテるから、いらないヘイトを買いたくないの」
千由紀は気弱な笑顔を浮かべていた。店の明かりに照らされた千由紀は学校で見るよりも大人っぽかった。
「野上には俺がここに来たことを話すの?」
「ううん。話さない。……話せないよ」
「じゃあ、俺も気をつける。それじゃあね」
皐月は千由紀に手を振って『夕夏』を後にした。暗く細い路地を歩き、途中で振り返ると千由紀はまだ店の前にいた。『夕夏』の電飾看板は皐月の家の小百合寮の行燈よりもずっと明るく、心が安らぐ光を放っていた。
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