女子高生が家にやってきた (皐月物語 7)
豊川駅前の大通りと豊川稲荷表参道の間に車がなんとか通れるくらいの細い路地がある。そこに藤城皐月の住む家、小百合寮がある。かつて旅館だった木造二階建ての建物を置屋にして、芸妓・百合が切り盛りをしている。中庭にある一本の松の枝が板塀から道にはみ出している。この枝ぶりが庇のようになっていて格好いいのが皐月の自慢だ。
引っ越しが終わったから帰っておいでと母からメッセージが届き、皐月は小百合寮の見えるところまで戻ってきた。自分の家なのに緊張で鼓動が速くなった。つい立ち止まると、足が重くなってそこから先に進めなくなってしまった。
ここまで皐月の心を掻き乱しているのは新弟子の頼子ではなく、その高校生の娘の祐希だ。女子高生という属性の女性は皐月にとって未知との遭遇だ。幼馴染の栗林真理や芸妓の明日美、学校のプールで出会った入屋千智とは性質が全く違う。皐月が今まで関わったことのないタイプの人とこれから会うということで、期待とも不安とも言い難い変な感情を皐月は持て余していた。
小百合寮の玄関の格子戸は開け放たれていた。遠慮がちに中を覗くと母たちはいなかった。小さな声で「ただいま」と言いながら玄関から入ると、洗い出し仕上げのされているモルタルの三和土には母の趣味とは違うパンプスと、駅でよく見かける高校生女子が履いているローファーが揃って並んでいた。皐月は離れたところに自分のスニーカーを脱ごうとしたが、足が少し震えて上手く脱げなかった。
二階に人の気配がするので、急勾配で段差の大きな暗い階段を這うように上ると、母たちの声がはっきりと聞こえてきた。聞き慣れない声は頼子の声だろう。階段を上り切ってすぐ右手にある皐月の部屋に荷物を置いた後、廊下を左に廻るように抜き足差し足でゆっくりと進んだ。襖と窓が開け放たれているからか、いつもはひんやりとする暗い廊下も仄かに明るくて、少し蒸し暑い。頼子の部屋になる祖母の使っていた部屋に行くと小百合と頼子が部屋の片づけをしていた。
「こんにちは」
声が小さくなって、皐月は恥ずかしくなった。母の「おかえり」より先に頼子が「こんにちは」と返事をしてくれた。
「紹介するね。これが息子の皐月。小学6年生」
「はじめまして。及川頼子です。この家で小百合ちゃんの世話になることになりました。これからよろしくね」
頼子は立ち上がり、皐月に微笑みかけた。笑顔の優しい人で、この人とならうまくやっていけそうだと皐月は安心した。普通のおばさんっぽい人を想像していたが、思ったよりもずっと綺麗な人で、検番で見る芸妓さんたちと比べても見劣りしなかった。
この部屋には皐月の気にしていた女性がいなかった。少しホッとするやいなや、隣の部屋からすっと人が入ってきた。窓の外の明るさで逆光になって黒い影のように見えたが、その人が祐希だとすぐにわかった。
「彼女は頼子の一人娘の祐希さん。高校3年生ですって」
「はじめまして、祐希です」
澄んだ優しい声だった。皐月はこういう声を今まで聞いたことがなかった。小学生女子は教室では余所行きの声を出すことがないからだ。
祐希は夏休みなのに制服を着ていた。その地味なセーラー服は皐月の見たことのないものだった。地元の女子高生のおしゃれに着崩されたブレザーを見慣れた皐月には、知らない制服を着た祐希が転校生のように見えた。
艶のある黒髪のボブが窓から吹き込んだ風になびいていた。顔にかかった髪を指でかきあげた時、石鹸のような香りがした。想像していたよりも魅力的な祐希に心ときめいた皐月だが、かすかな笑顔に頼子には見られなかった暗い影を見たような気がした。
ユーキと言えば同級生にもそんな名前の奴が女子にも男子にもいたな、とつまらないことを考えているうちに皐月は落ち着きを取り戻した。冷静になると、気付かなかったことが少しずつ見えてきた。
今日から新たに女の人と一緒に暮らすことになるということで、一方的に淡い期待を抱いていた皐月だったが、それは浅はかな妄想だと気付かされた。
祐希たち母娘は単にこの家に引っ越しをしたわけではない。厄介になりに来たのだ。だから、そこに心弾ませる要素が彼女たちにあろうはずがない。
祐希からはすでに憂いを含んだ表情が消えていたが、自分の子供じみた期待が恥ずかしく、いたたまれなくなった。
「あんた、明日美に会った?」
小百合が意外そうな顔をしていた。
「うん」
「検番に寄ったの?」
「うん。さっきまで検番にいたけど、なんでわかったの?」
「あの子の匂いがする」
明日美に抱きつかれた時に移った香りを母に気付かれた。反射的にヤバいと思ってしまったが、皐月は自分が何がヤバいのかよくわからなかった。
皐月は千智に出会った直後に明日美と会った。千智に対しても明日美に対しても、今までに感じたことのない不思議な気持ちになっていた。この感情を母に気付かれたくないという思いはあったが、よくよく考えると普通にしていればそんなことはバレるはずがない。
「明日美、いたんだ。元気そうだった?」
「まあ、元気っちゃあ元気だったけど、明日美がどうかしたの? 変なこと聞くなぁ」
「あの子、ずっと病気で休んでいたの。……そうか、元気になったんだ。……よかった。あとでメッセージ送っておこうかな」
小百合の反応が気になった。皐月は母が芸妓仲間のことをここまで心配しているのを見たことがなかった。
「ねえ、何の病気?」
「ああ~、あんたは知らなくていいよ」
「なんでだよ……」
小百合に突き放された皐月はこれ以上詮索できなかった。こういう時はこれ以上聞いても無駄なのは昔からだ。それに皐月には今目の前にいる祐希の方が気になる。
頼子の部屋の荷物が少なさは段ボールの数を見れば皐月にもわかった。本当にこれで全部なのかと思うと、ここに来る前にたくさん物を捨ててきたとの連想がはたらいた。部屋が私物で狭くなっている自分の部屋が恵まれ過ぎていると皐月は恥ずかしくなった。
「何か手伝えることある?」
「もうすぐ終わるから特にないよ」
「そんな気を使わせちゃってごめんね」
頼子の言葉に皐月は自分の方が謝りたくなった。頼子の方がよっぽど自分に気を使っているからだ。
「祐希さんの部屋の片づけ、手伝いましょうか?」
「私の部屋はもう終わってるから大丈夫。それに私に敬語なんて使わなくていいよ。祐希って呼び捨てにしてくれてかまわないから」
祐希のちゃんとした笑顔を初めて見た。日が傾き始め、暗くなりかかったこの部屋の中なのに、皐月には祐希の顔が輝いて見えた。
「いやぁ~。さすがに初対面の高校生を呼び捨てになんてできないっス」
「何、『っス』って。気持ち悪いな~。あんたそんな言葉、普段使ってなかったでしょ」
「うるさいな~」
小百合と頼子が笑っている。祐希の方を見ると楽しそうに笑っていた。確かに使い慣れない言葉が口から出てきて恥ずかしい。皐月はどんな風に話していいかわからなくなってきた。
「私も明日美さんみたいに呼び捨てにされるくらい仲良くなりたいな」
「そんなの……なれるに決まってるじゃん」
祐希の言葉に皐月は戸惑った。どうしてこんな嬉しい言葉をかけてくれたのか。これは本音なのか、それとも配慮なのか。
「晩御飯まで外で遊んでくる」
「暗くなる前に帰ってきなさい。今日はお寿司取るからね」
「マジで? 超豪華じゃん!」
「そりゃ引越祝いだからね」
「たくさん頼んでおいてよ。特にサーモン。あとカルビ。俺いっぱい食べるから」
「はいはい。でもカルビはないな~。回転寿司じゃないから」
頼子の部屋を出て隣の部屋に入ると祐希の部屋だった。皐月は引っ越しがあったことをうっかり忘れていた。昔の皐月の部屋はもう祐希の部屋になっている。その襖一枚隔てた奥が皐月の部屋だ。
「通り抜けてもいいよ。皐月君の部屋、この奥だもんね」
「あっ、ごめん。勝手に入っちゃって」
祐希の部屋は物が少なくすっきりとしていた。皐月の部屋との境になる襖には何も置かれていなかった。襖を開けるだけで部屋と部屋が繋がるようにしてあり、ここを開ければお互いの部屋を行き来できる。
「ここ通れるようにしてくれたんだね」
「家具で塞いで壁にしちゃったら風通しが悪くなっちゃうでしょ。声をかけてくれたらいつでもこの部屋に入っていいよ」
皐月の部屋は襖に沿ってベッドを置いてある。襖を開けてベッドに座れば、いい感じでソファーのように使える。祐希の部屋にはベッドがない。毎日押入れから布団を上げ下げするようだ。
「祐希さんもトイレ行く時とか僕の部屋通ってもいいよ。こっちからの方が近いし、夜は廊下暗いから怖いよ」
「ありがとう」
皐月は自分の部屋から軟式野球のボールのようなゴムボールを手にとって、トイレと階段に近い出入り口から部屋を出ようとした。
「ねえ、皐月君。私も一緒に外に行っていい?」
意外な言葉に皐月は驚いた。
「うん。いいよ」
「この辺りのことまだ何も知らないから案内してもらえると嬉しいな」
「僕が案内できる所なんて碌なところがないよ」
「何それ? そんなこと言われるとかえって楽しみだよ。それに『僕』ってかわいいね。さっき自分のこと俺って言ってたじゃない」
「時と場合によっては言い方を変えることだってあるさ。皐月君なんて呼ばれたから、つい僕って言っちゃっただけだよ」
「私も祐希さんって呼ばれたら、こっちも皐月君って呼ぶしかないじゃない?」
「あ~っ、なんかずるい言い方だな。じゃあ祐希って呼ぶから、俺のことも皐月って呼んでくれよ」
「オッケー、皐月。なんか姉弟みたいだね」
「俺、支配されちゃったのかな?」
こうして笑い合っていると、皐月にはさっき祐希に見た影のようなものが気のせいに思えてきた。
小百合からお小遣いをもらい、祐希と一緒に外に出た。暑さも和らぎ、風向きも変わり、過ごしやすくなっていた。松の木の木漏れ日に照らされた祐希の姿は部屋で見た時とまるで別人のように眩しかった。