女子高生が家にやってきた (皐月物語 7)
豊川駅前の大通りと豊川稲荷表参道の間には車がなんとか通れるくらいの細い路地がある。そこに藤城皐月の家がある。
皐月の家は小百合寮という置屋で、芸妓の百合が切り盛りをしている。百合は皐月の母の芸名で、本名は小百合だ。
小百合寮はかつて旅館だった建物で、昭和時代に建てられた木造二階建ての和風建築だ。中庭にある松の枝ぶりが良く、板塀から道にはみ出している。この松枝が庇のようになっているところが皐月のお気に入りだ。
皐月は検番の稽古場で明日美と幸せな時間を過ごしていた。柔らかい体にもたれかかって二人で話をしているところに、母からメッセージが届いた。
「早く帰って来い、だって。引っ越しが終わったみたい」
「皐月、行っちゃうのか。寂しいな……」
「俺も寂しいよ」
明日美は皐月を抱き寄せて、頬にキスをした。明日美はなかなか唇を離さなかった。明日美の吐息で皐月はとろけそうになっていた。
この日の明日美は妙に優しかった。甘えて抱きついても、明日美はなすがままにさせてくれた。Tシャツ越しの体が温かかった。
「また遊びにおいで」
「うん。また来る」
皐月は検番を出て、小百合寮の見えるところまで戻って来た。だが、そこから先に進めなくなってしまった。自分の家なのに緊張で鼓動が速くなり、立ち止まると足が重くなって動けなくなった。
皐月の心を掻き乱しているのは新弟子の及川頼子ではなく、娘の祐希だ。
女子高生は皐月にとって未知の存在だ。幼馴染の栗林真理や芸妓の明日美、学校のプールで出会った入屋千智とはタイプが全然違う。女子高生はアニメや漫画でしか見たことのないキャラクターなので、これから対面すると思うと期待と不安で気持ち悪くなる。
小百合寮の玄関の格子戸は開け放たれていた。遠慮がちに中を覗くと母たちはいなかった。
小さな声で「ただいま」と言いながら玄関から入ると、三和土には母の趣味とは違うパンプスと、駅でよく見かける高校生女子が履いているローファーが並んでいた。皐月はそれらの靴から離れたところでスニーカーを脱ごうとしたが、足が少し震えて上手く脱げなかった。
二階に人の気配がするので、急勾配で段差の大きな階段を這うように上ると、母たちの声がはっきりと聞こえてきた。聞き慣れない声は頼子の声だろう。
皐月は階段を上り切ってすぐ右手にある自分の部屋に荷物を置いた後、渡り廊下を足音を立てずに進んだ。襖と窓が開け放たれているおかげでいつも暗い廊下が明るかったが、かえって蒸し暑くなっていた。
かつて祖母が使っていた部屋が頼子の部屋になる。頼子の部屋に行くと、小百合と頼子が部屋の片づけをしていた。
「こんにちは」
皐月は小さな声しか出せなくて、恥ずかしくなった。母の「おかえり」より先に頼子が「こんにちは」と返事をしてくれた。
「紹介するね。これが息子の皐月。小学六年生」
「はじめまして。及川頼子です。この家で小百合ちゃんのお世話になることになりました。これからよろしくね」
頼子は立ち上がり、皐月に微笑みかけた。笑顔の優しい人で、この人となら上手くやっていけそうな気がした。頼子のことを普通のおばさんっぽい人だと想像していたが、思ってたよりずっと綺麗な人で、検番で見る芸妓たちと比べても見劣りしなかった。
この部屋に頼子の娘はいなかった。少しホッとして気が緩んだ瞬間に、隣の部屋から人が入ってきた。その人は窓の外の明るさで逆光になり、黒い影にしか見えなかった。
「彼女は頼子の一人娘の祐希さん。高校三年生ですって」
目が慣れると、祐希の顔がはっきりと見えた。皐月はこの時の衝撃を一生忘れないと思った。
「はじめまして、祐希です」
澄んだ優しい声だった。皐月はこういう声を今まで学校の教室では聞いたことがなかった。小学生女子はみんな地声で話すからだ。
祐希は夏休みなのに制服を着ていた。その地味なセーラー服は皐月の見たことのないものだった。地元の高校の女子生徒がおしゃれに着崩したブレザー姿を見慣れていたので、知らない制服を着た祐希が転校生のように見えた。
祐希の艶のあるボブの黒髪が窓から吹き込む風になびいていた。顔にかかった髪を指でかきあげた時、石鹸のような香りがした。
皐月は想像していたよりも魅力的な祐希に心を奪われてしまったが、祐希の笑顔に、頼子には見られなかった暗い影を見たような気がした。
ユーキと言えば同級生にもそんな名前の奴がいたな、とつまらないことを考えているうちに、皐月は落ち着きを取り戻してきた。冷静になると、気付かなかったことが少しずつわかってきた。
今日から新たに女の人と一緒に暮らすことになるということで、皐月は一方的に淡い期待を抱いていた。だが、それは浅はかな妄想だ。
祐希たち母娘は望んでこの家に引っ越しをしたわけではない。頼子は離婚をして今まで住んでいた家を捨てて来たのだ。だから、祐希たち母娘にとってこの引っ越しに心弾ませる要素があるわけがない。
祐希からはすでに憂いを含んだ表情が消えていた。皐月は自分の子供じみた期待が恥ずかしかった。
「あんた、明日美に会った?」
皐月は小百合に怪訝な顔で話しかけられた。
「うん」
「検番に寄ったの?」
「うん。さっきまで検番にいたけど、なんでわかったの?」
「あの子の匂いがする」
皐月に緊張が走った。皐月に緊張が走った。明日美の匂いに母が気付いたようだ。明日美に抱かれ、キスをされていたことを母に知られるわけにはいかない。
皐月はこの日、入屋千智と出会い、その直後に明日美とも会った。今は及川祐希が目の前にいる。
千智に対しても明日美に対しても、今までに感じたことのない不思議な気持ちになっていた。そして、祐希にも同じ感情が芽生えていた。皐月は明日美と会っていたことの後ろめたさよりも、この涙が溢れそうな今の精神状態を誰にも気付かれたくなかった。
「明日美、検番にいたんだ。元気そうだった?」
「まあ、元気っちゃあ元気だったけど、明日美がどうかしたの? 変なこと聞くなぁ」
「あの子、ずっと病気で休んでいたの。……そうか、元気になったんだ。……よかった。あとでメッセージ送っておこうかな」
小百合の反応が気になった。皐月は母が芸妓仲間のことをここまで心配しているのを見たことがなかった。
「ねえ、明日美って何の病気だったの?」
「ああ……あんたは知らなくていいよ」
「なんでだよ……」
皐月はこれ以上詮索できなかった。小百合に突き放された時はこれ以上、何を聞いても無駄なのだ。だが、これで明日美と会っていたことをこれ以上聞かれることはない。明日美の病気も気になるが、今は自分が安全になったことにホッとしていた。
及川頼子の部屋の荷物の少なさは、段ボールの数を見れば皐月にもすぐにわかった。本当にこれで全部なのかと思うと、頼子がここに来る前に、いかにたくさん物を捨ててきたのかがわかる。
皐月は部屋の片づけを命じられた時、物を捨てるということに考えが及ばなかった。もったいないと思ったのだ。そして、部屋が狭くなることへの不満ばかりを感じていた。
「何か片付けで手伝えることってある?」
「特にないよ。もうすぐ終わるから」
「気を使わせちゃってごめんね」
頼子の言葉が皐月には辛かった。謝るのは自分の方だと思った。気を使わなければいけないのは、頼子ではなく自分の方だ。
「祐希さんの部屋の片づけ、手伝いましょうか?」
皐月は慣れない敬語を使って、何か祐希の力になりたいことを伝えた。
「私の部屋はもう終わってるから大丈夫。それに私に敬語なんて使わなくてもいいよ。祐希って呼び捨てにしてくれてかまわないから」
祐希の笑顔を初めて見た。陽が傾き始め、この部屋は暗くなりかかっていた。照明がついていないのに、祐希の顔が輝いて見えた。
「いやぁ~。さすがに初対面の高校生を呼び捨てになんてできないっス」
「何よ、その『できないっス』って。気持ち悪いな~。あんた普段はそんなこと、言わないでしょ」
「うるさいな~」
小百合と頼子に笑われた。祐希も楽しそうに笑っていた。敬語のつもりが変な言葉になってしまい、バカみたいで恥ずかしかった。皐月はどんな風に話したらいいのか、わからなくなってしまった。
「私も明日美さんみたいに呼び捨てにされるくらい仲良くなりたいな」
「そんなの……なれるに決まってるじゃん」
祐希の過剰な親しみに皐月は戸惑った。どうしてこんな言葉をかけてくれるのか。これは本音なのか、それとも配慮なのか。
「俺、晩飯まで外で遊んでくる」
「暗くなる前に帰ってきなさい。今日はお寿司を取るからね」
「マジで? 超豪華じゃん!」
「そりゃ引越祝いだからね」
「たくさん頼んでおいてよ。特にサーモン。あとカルビ。俺いっぱい食べるから」
「はいはい。でもカルビはないな~。回転寿司じゃないから」
頼子の部屋を出て隣の部屋に入ると、昔の皐月の部屋はもう祐希の部屋に変わっていた。皐月は引っ越しがあったことをすっかり忘れていた。襖一枚隔てた奥が皐月の部屋だ。
「あっ、ごめん。勝手に入っちゃって」
「私の部屋なんか通り抜けてもいいよ。皐月君の部屋、この奥だもんね」
祐希の部屋は物が少なくすっきりとしていた。皐月の部屋との境になる襖には何も置かれていなかった。
「襖を開けられるようにしてくれたんだね」
「家具で塞いで壁にしちゃったら風通しが悪くなっちゃうでしょ。声をかけてくれたら、いつでもこの部屋に入って来ていいよ」
皐月の部屋は襖に沿ってベッドを置いてある。襖を開けてベッドに座れば、いい感じでソファーのように使える。祐希の部屋にはベッドがなく、毎日押入れから布団を上げ下げするようだ。
「祐希さんもトイレ行く時とか僕の部屋通ってもいいよ。こっちからの方が近いし、夜は廊下が暗いくて怖いからね」
「ありがとう」
皐月は自分の部屋に置いてある縫い目のあるゴムボールを手にとって、階段に近い出入り口から部屋を出ようとした。
「ねえ、皐月君。私も一緒に外に行っていい?」
「うん。いいけど……」
意外な言葉に驚いた。皐月はこんな展開になるなんて全く考えていなかった。
「私、まだこの辺りのこと何も知らないから、案内してもらえると嬉しいな」
「僕が案内できる所なんて碌なところがないよ」
「何それ? そんなこと言われるとかえって楽しみだよ。それに『僕』ってかわいいね。さっき自分のこと俺って言ってたじゃない」
突っ込まれたくないところを突っ込まれた。
「時と場合によっては言い方を変えることだってあるさ。祐希さんが皐月君なんて呼ぶから、こっちだってつい僕って言ったんだ」
「私も皐月君が祐希さんって呼ぶんだったら、こっちも皐月君って呼ぶしかないでしょ?」
「あ~っ、なんかずるい言い方だな。じゃあ祐希って呼ぶから、俺のことも皐月って呼んでくれよ」
「オッケー、皐月。なんか姉弟みたいだね」
「俺、支配されちゃったのかな?」
こうして笑い合っていると、皐月にはさっき祐希に見た影のようなものが気のせいに思えてきた。
下に降りる前に頼子の部屋に寄り、小百合からお小遣いをもらって祐希と一緒に外に出た。暑さも和らぎ、風向きも変わっていて、プールにいた時よりも過ごしやすくなっていた。松の木の木漏れ日に照らされた祐希の姿は部屋で見た時とまるで別人のように眩しかった。