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夏休みの学校のプールで僕は彼女と出会った (皐月物語 3)

 今日は小百合さゆり寮に小百合の同級生だった頼子よりこたち母娘がやって来る。
 小百合寮とは母の小百合が師匠から独立した時に始めた芸妓げいこ置屋おきやで、かつて旅館だった建物を置屋にしていて、弟子を受け入れることができるようになっている。今までも二人、弟子が住み込んでいた。彼女らは結婚して芸妓をやめ、小百合寮を出て行った。皐月さつきにとっては同じ家で若い芸妓さんたちと一緒に暮らしたのは楽しい思い出になっている。
 小学6年生の皐月にとって頼子が連れてくる女子高生は余りにも現実離れをしていて刺激的だ。皐月は駅の近くに住んでいるので、近所の高校に通う女子高生を見慣れている。女子高生はみんな可愛いけれど、本当に綺麗な人があまりいないのが現実だ。それなのに、なぜか家やってに来る頼子の娘がアイドル級の美貌の持ち主だと妄想してしまう。
 皐月は母から使っている二部屋のうちの一部屋を掃除をして空けておけと言われた。その部屋を頼子の娘に使わせたいからだと言う。小百合寮は古い旅館だったので、部屋同士はふすま一枚で隔てられているだけのものだ。
 皐月はいつも襖を開け放って二部屋を広々と使っていたが、これからは一部屋に押し込められることになる。二部屋の物を一部屋にまとめると物に圧迫されて狭くなってしまうが、それでも悪い気がしないのはすぐ隣に新しく年上の少女が引っ越して来ること楽しみだからだ。
 前に寿美すみという弟子が住み込んでいた頃は、よく寿美の部屋に行って遊んでもらっていた。寿美に甘えて寿美の布団にもぐり込んで一緒に寝させてもらったこともある。
 これから始まる新しい生活のことを考えながら部屋を片付けていたら寿美との楽しかった日々を思い出した。さすがに高校生の女の子とそんな甘い状況になるとは期待はしていないが、寿美とその子を入れ替えた妄想が浮かんできてドキドキしてきた。

 掃除をして頼子の娘のために空けなければならない部屋は、通りに面した日当たりのいい部屋だ。皐月が使う部屋は日当たりが悪く、あまり好きではない方だ。そのことに不満がないわけではなかったが、自分が身を引いて新しい住人にいい部屋を譲ってあげたいという気持ちはある。ただ困るのは友だちが遊びに来た時だ。友だちが遊びに来る時は呼び鈴を押さずに、いつも窓の外から大声で皐月の名前を呼び掛けている。これからはそういう呼び方をされても襖を閉めた奥の部屋では聞こえないかもしれない。
 部屋を片付け始め、テレビとゲームを皐月の部屋に移動させると六畳間はすっかり狭くなってしまった。ただでさえベッドと勉強机と本棚で狭いのに、テレビのせいで部屋に圧迫感が出てきた。今までは友だちが家に来た時は日当たりのいい部屋を好きなように使っていた。しかしこれからはどうしたらいいのかわからない。もう家で友だちと遊ぶことはできないかもしれない。
 これからはテレビや音楽、ゲームを楽しみたいときにヘッドフォンをしなければならなくなる。防音のできない襖の部屋では音に対して配慮をしなければならず、今までの生活を続けると隣の部屋に音が漏れて迷惑が掛かってしまう。
 気を使うことが多くなりそうだ。皐月は思い描いていた期待が冷め始め、だんだん憂鬱になってきた。でもそれは引っ越してくる女子高生も同じだろうから、自分の方が気を使わなければならないと皐月は思った。プライバシーについて改めて考えさせられた。

 昼ご飯を食べ終えた皐月は水着を持って家を出ようとしたところで小百合に捕まった。
「ちょっとあんた、どこに行くの?」
「学校のプール」
「もうすぐ頼子が来るから家にいなさいよ」
「すぐに帰って来るからいいでしょ?」
 小百合は少し考えて、皐月の外出を許可した。部屋の片づけはちゃんとできているし、引っ越しの時に子供にうろちょろされても邪魔になるだけだ。頼子へ皐月を紹介するのはは引っ越し業者が引き払った後、少し落ち着いてからの方が都合がいい。
「4時までには帰ってきなさいよ」
 小一時間で帰ってこようと思っていた皐月は当てが外れた。思っていたよりも遅い時間を言われたことで梅雨払いをされたような気がして、少し面白くない。でもこれで当初の目論見通りにはなった。
 あまりにも緊張が高まって、皐月は家から逃げ出したくなっていた。どうせ家に帰らなければならないが、とりあえずプールでひたすら泳いでいれば気持ちが鎮まるだろうと思った。
 ささやかな逃避行に友だちを誘う気にはなれなかった。こういう時、皐月は友に頼ることをせず、一人で事態を受け止め、覚悟を決めることを常としていた。この習性は一人で過ごすことの多かった今までの環境が形作ったものなのか、あるいはまだ心を許せる友がいないからなのかはわからない。同学年の男子は皐月から見ると子供っぽ過ぎて、抱えきれない気持ちを吐き出す相手としては物足りない。
 そうなると話し相手は育った環境も似ていて、自分よりも精神年齢が高そうな真理まりくらいしかいなくなる。でも真理は塾に行っていて会う時間がない。真理にはあまり弱みを見せたくはないけれど、今は無性に真理に会いたい。

 学校のプールにはあまり人がいなかった。誰かしら友だちがいるかと思ったけれど、下級生が数えるほどしかいなかった。浅い方のプールのコースは低学年の子供たちで賑わっていた。
(まあこの方が落ち着いて泳げるか……)
 皐月は走るのは苦手だけれど泳ぐのは得意で、潜水で25メートル泳げるのが自慢だ。クロールも得意だけれど、潜水の方が楽に泳げる。平泳ぎは疲れるから嫌いだ。
 何度も何度も潜水をしていると、プールの端と端だけでしか顔を出さないという奇妙な行動になっていた。下級生の男子たちが皐月の泳ぎに気が付いて近寄ってきた。
「ねえ、何やってるの?」
「潜水だよ。25メートル一気に泳いでる」
「すげー!」「マジか!」「魚みてー!」
 皐月の想像以上に受けが良かった。
「どうやって泳ぐか教えて!」
「おう。いいよいいよ」
 潜水なんて身体をうねうね動かすだけでぐんぐん進んで行くから簡単で、ちょっと教えたらみんなすぐに泳げるようになった。集まってきた三人の男子は全員潜水で25メートル泳げるようになり、大いに喜んでいる。
「お兄さん、ありがとう」
「みんなすぐにできちゃったね。すごいすごい。友だちに自慢しちゃいなよ」
 気が付けばすっかり気分転換になっていた。誰も誘わずに一人で来なければこんなことはなかっただろう。もうこれで目的は果たせたからプールから上がろうと思った。

 皐月がプールサイドに向かって泳いで行こうとしたら、近くにいた一人の女の子が声をかけてきた。
「あの~、私にも潜水教えてもらえますか?」
 その子は5年生を示すラインが入った海坊主みたいな学校指定の水泳帽を真面目に被っていた。水面が陽の光を反射させていたせいなのか、整った顔立ちがキラキラと輝いて見えた。年下の女の子にドキッとしたのは皐月には初めての経験だ。
「いいよ」
 少し声が上ずった。年上の芸妓のお姐さんや同い年の真理、クラスの同級生の女の子と話すのは慣れているが、年下の女の子とは同じ通学班の子以外はあまり話したことがない。しかもこの子は美しい。どう接したらいいものかと皐月は少し戸惑った。
「女の子が一人で泳ぎに来るなんて珍しいね」
「私、泳ぐのが苦手だからこっそり一人で練習しようと思って来ました」
「学校のプールって人気がないから人が少ないよね。おかげで好きなように練習できる」
「はい。でも誰にも教われないから、なかなか泳げるようにならないんです。さっき先輩が男の子たちに泳ぎを教えていたから、私も教えてもらおうかなって思って来ちゃいました」
 男子相手に教えるのは簡単だ。言葉で伝えにくいところは手取り足取り教えられるから。だが相手が女子だとそうはいかない。この女の子の身体に触れるわけにはいかないだろう。
「泳ぎ苦手なんだ。どういうところが難しいの?」
「バタ足しても後ろの方でボッチャンボッチャン音がするんだけで、なかなか前に進まないんです。」
「それは空気を蹴っているからだよ。空気を蹴っても抵抗がゼロだから、推進力が得られないよね。水を蹴るというか、掻かなきゃ前に進まないよ」
「一所懸命バタ足してるんですけど……」
「膝を曲げ過ぎているのかもね。足が水面から出るくらい大きく動かすと、自分では泳いでいるような気になるけど、それって意味ないからね」
 皐月は彼女の眼の前で実演して見せた。ダメなパターンといいパターンを見比べて納得してもらおうと思った。彼女の手を取って教えるわけにはいかないからだ。
「あと息継ぎが苦手で、特にクロールが全然ダメ」
「そっか。息継ぎは難しいよね。でも潜水だったら今言ったことは全部解決できるよ。息継ぎしなくてもいいし、ぐんぐん前に進むから」
「私でもできるかな?」
「大丈夫。マジ簡単だから余裕だって。とりあえず潜水だけでいい?」
「お願いします」
 彼女の真剣な思いに応えなければならない使命感と、裸に近い女の子を目の前にした非日常に皐月はいまだ戸惑っている。
「名前なんていうの?」
入屋千智いりやちさとです。5年です」
「僕の名前は藤城皐月ふじしろさつき。6年」

 普段あまり使わない「僕」なんて言って恥ずかしくなったので、気持ちを誤魔化すために早速練習を始めた。
 まずはどれだけ長く息を止められるか知りたかったので、一緒に水に潜った。今立っている場所で向かい合い、膝を曲げて沈む。水中で向かい合うのはお互いに恥ずかしかったが、そのせいか千智も皐月と同じくらい長く潜っていられた。
「それだけ潜れたら25メートルいけるよ」
「ほんと?」
「うん。いけるいける」
 次に身体の動かし方の練習をした。手を前に伸ばして体を真っ直ぐにし、足を揃えて体全体を上下にうねらせる。バタ足は苦手そうだから、とりあえずやらない。いきなり大きく体をうねらせようとすると上半身と下半身がちぐはぐになってしまうから、最初は小さく動かしてみる。
「いい感じになってきたね」
「でも浮いてきちゃうんです」
「じゃあ、ちょっと下向きに潜るつもりで泳いでみて。そうすれば浮かぼうとする力と差し引きゼロになって真っ直ぐ進むから。耳の後ろに腕がくるように気をつけてね」
 千智の横に並んで、彼女を見守りながら一緒に泳いでいると千智の体のラインの美しさに見とれてしまった。水着の女の人は写真や映像でたくさん見ていたけれど、本物の女の子の水着姿をこんな近くでまじまじと見たのは皐月には初めてだった。
「次はスタートの練習をしてみようか。蹴伸びって言うんだけど、うまく壁を蹴ると10メートルくらい距離を稼げるよ。そうすると残りが15メートルだから25メートルなんてすぐに泳げちゃうから」
「そんなこと私にできますか?」
「俺がやって見せるから見てて。全然難しくないから」
 「僕」が「俺」に戻り、皐月はだんだんリラックスしてきた。スタート台に背を向けて立つ皐月から少し離れたところへ千智には行ってもらい、水に潜って皐月のことを見るように言った。
 大きく息を吸った皐月は屈んで水底近くまで水に潜り、身体を水底と平行になるように傾けて壁を蹴った。勢いよく飛び出し、バタ足で身体を推進させた。皐月はバタ足を教えていないことに気付いたので、体を上下にうねらせる泳ぎ方に変えて、そのままのスピードで前に進んだ。プールの真ん中くらいのところで立って引き返し、皐月は千智のところまでまた潜水で戻って来た。
「どうだった?」
「かっこよかったです」
「ははは、ありがとう。でもそうじゃなくて、できそうかどうかってことなんだけど……」
「想像していたよりも簡単そうに見えました」
「簡単だからすぐにできるようになるよ。じゃあやってみようか。入屋さんさえよかったら25メートル泳げるようになるまで付き合うよ」
「そんな……できなかったらどうしよう」
「大丈夫。余裕で今日中に泳げるようになるから」

 皐月にとって同級生が誰もいないことは幸いだった。水着女子と二人でいるところを誰かに見られたら絶対にからかわれていただろう。千智はそういうのを心配しないのかと気になったが、この日は5年生の子もプールに来ていないらしい。
 しばらく練習をしていると千智も25メートルを潜水で泳げるようになった。その時は皐月も隣のレーンで並んで一緒に泳いでいた。最後まで泳ぎ切った時、水から上がって息を弾ませた勢いでお互いに手を取り合って喜んだ。体を近づけてくる千智を思わず抱き寄せてしまいたくなったが、皐月の方がこの状況に恥ずかしくなってしまい、先に手を放してしまった。その時、一瞬だけ千智は不満気な表情を顔に浮かべたが、すぐに笑顔を取り戻して皐月に言った。
「今日はありがとうございました。藤城先輩」
 皐月が下級生から先輩と呼ばれたのはこの時が初めてだった。先輩と呼ばれることがこんなにも甘美な歓びであると思ってもみなかった。水泳帽なんかかぶっているくせに、水に濡れても、濡れてこそなお美しい千智に皐月は射すくめられてしまった。
「入屋さんもよくがんばったよ」
「さん付けじゃなくて呼び捨てで呼んじゃってください」
「じゃあ、入屋」
「千智がいいです!」


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