見出し画像

背、高くなった?(皐月物語 89)

 起床してから家を出て、通学班のみんなと学校へ行き、教室に入って自分の席につくまでに、藤城皐月ふじしろさつきは同じことを何度も聞かれた。
「背、高くなった?」

 洗面所で顔を洗っていると、真っ先に及川祐希おいかわゆうきから「背、高くなった?」と聞かれた。学校へ行く時に、母の小百合さゆりと祐希の母の頼子よりこからも同じことを聞かれた。
 通学班のみんなで登校する時、4年生の山崎祐奈やまざきゆうなと3年生の岩月美香いわつきみかからも聞かれた。5年生の今泉俊介いまいずみしゅんすけや低学年の近田ちかだ兄弟ら男子は何も気付いていなかった。
 校門の前の男の先生からは身長については何も言われなかったが、校内で会った女性の校長、伊藤先生は皐月の変化に気付いて、声をかけてきた。
「藤城君、背が伸びたみたいね」
「校長先生までそんなことを言う……。どういうわけか今日はみんなから背が高くなったって言われるんだよね。一日でそんなに背が伸びるわけがないじゃんね」
「だってあなたは6年生でしょ? そういうこともあるのよ。あとはそうだな……藤城君はいつもよりも背筋が伸びているのかな? それで身体が大きく見えるのかもね」
「じゃあ先生、俺のこと格好良くなったって思った?」
「あらイヤだ。わかっちゃった?」
「はははっ。バレバレだよ。それも最近よく言われるからさ、もしかしたら校長先生もそう思ってるかなって思ったんだ。俺、自惚れちゃってもいいのかな?」
「いいんじゃない。自分に自信を持つのはとてもいいことよ。でも自信過剰には気をつけてね」
「自信過剰か……わかった。自分でいい気になってんな、って思った時は校長先生の言葉を思い出すようにするね。ありがとう」
 校長先生に手を振って、皐月は6年4組の教室へ向かった。校長の背後からこちらを見ていた北川先生の視線を意識しながら。

 教室に入った皐月は脇目も振らず栗林真理くりばやしまりのところへ行った。教室の最前列にある真理の机に前から両手をつくと、勉強していた真理が驚いて顔を上げた。
「おはよう」
「おはよう。いきなり前に来くるから、びっくりするじゃない」
「元気?」
「うん。大丈夫だよ」
「そうか。よかった」
 皐月は昨夜のメッセージのやり取りが気になっていた。真理が自分から会いに来てほしいと言ってくるのは珍しい。明日美あすみのことを考えると真理とは会いづらいが、求められたら真理のもとへ行かないわけにはいかない。
 皐月は隣の席の二橋絵梨花にはしえりかと、後ろの席の吉口千由紀よしぐちちゆきに挨拶をした後、自分の席に勉強道具を詰め込んで、後ろの棚にランドセルを片付けに行った。
 以前は花岡聡はなおかさとしが教室の後ろの壁際で皐月の来るのを待っていたが、最近は新しい修学旅行の班の男子たちと談笑している、皐月は聡とバカ話をすることがなくなり、少し寂しくなった。

 教室に月花博紀げっかひろきが入って来た。ファンクラブの女子たちが次々と博紀に声をかける。博紀は穏やかな笑顔でそれぞれに対応をしている。
 女子を引き連れてきた博紀が皐月の近くにやって来ると、取り巻きの女子たちが自然と博紀から離れていった。
 ファンクラブの女子たちの間では、博紀が男子の友だちと話をしようとすると、黙って離れるのがルールらしい。これは松井晴香まついはるかが提唱したことだが、その場に晴香がいなくても統制が取れている。
「あれっ? お前、背伸びた?」
「そうらしいな、今日はよく言われるよ」
 男子から背が伸びたと指摘されたのは博紀が初めてだった。自分に関心のある男子は博紀だけか、と皐月は少し寂しかった。
「お前、色が白くなってきたよな。日焼けが取れるの早くねーか?」
「よく見てるな~。お前、俺に気があるんじゃねーの?」
「気持ち悪いこと言うな。バカ」

 博紀が自分の席に行くと、今度は男子の友だちが寄ってきた。相変わらず男女問わず人気があるな、と思って博紀を眺めていると、背後から晴香が声をかけてきた。
「藤城、あんた雰囲気変わったよね。何かあった?」
「いや、特に何もないよ」
「そう……。なんかちょっとだけ格好良くなったね」
「マジか! じゃあ博紀とどっちが格好いい?」
「月花君にきまってるでしょ!」
 辛辣なことを言いながらも、晴香の顔は少しにやけていた。晴香は博紀のことが好きなくせに、皐月のことを気にかけている。だがそれは博紀が皐月のことを妙に意識しているからであり、親友の筒井美耶つついみやが皐月のことを好きだということで、皐月のことを気にかけているに過ぎない。
 晴香の笑顔を見るたびに、皐月はこのことを間違えてはいけないと自分に言い聞かせている。晴香の笑顔にうっかり自惚れてしまうと、後で自分が傷つくことになってしまうだろう。

 皐月は晴香に少し遅れて美耶の席へ行った。昨夜のメッセージでのやり取りのことで美耶に話をしておきたいことがあった。
「おはよう」
「あっ、おはよう。藤城君」
「昨日話してた手書きのページのことなんだけどさ、下書きの原稿はもう書き上げておいたから、清書に取り掛かってもらいたい」
「もう書いちゃったの?」
「まあね」
 美耶とメッセージをかわしていたのは夜の9時半頃だった。健康的な小学生ならそろそろ寝る時間だ。皐月は寝る前に原稿の下書きを完成させて、プリントアウトしておいた。
 美耶に持ってきた下書きを見せると、ホッとした表情になっていた。不安が消えたのだろう。不安の原因は何をどれだけすればいいのかわからないことだ。だから美耶に早くやるべきことを示してあげたかった。
「昨日もメッセージに書いたけど、もし中澤さんが少しでも作業を嫌がるようだったら、筒井一人でやっちゃってほしいんだ。いいかな?」
「うん、わかった。このくらいの量なら一人でも大丈夫」
「ありがとう。助かる」
 昨夜の美耶のメッセージはしおり作りの不安と、中澤花桜里なかざわかおりの憂鬱に関することだった。田中優史たなかゆうしのやる気の無さで、6年3組の修学旅行実行委員会はうまく機能していない。
 皐月は美耶に花桜里のサポートを改めてお願いし、皐月が美耶のサポートをすることを約束した。これで美耶の不安を全て払拭できたと思う。

 美耶の席に遊びに来ていた晴香は皐月の作った修学旅行のしおりの下書きを見ていた。晴香は皐月の仕事ぶりに感心しているようだ。
「藤城、あんた、ちゃんと委員長やってるんだね」
「ははは。あまりちゃんとはできていないかな。委員の奴ら、みんな俺の言うことなんて聞いてくれないし、江嶋には怒られてばっかりだ」
 皐月としては自分なりによくやっているつもりだが、晴香に言ったことは自分の反省点だ。謙遜でも自虐でもなく、素直に本心から出た言葉だった。
「嘘! 藤城君すっごく頑張ってるんだよ、晴香ちゃん」
「よかったじゃん、藤城。美耶が褒めてくれたよ」
 立候補を取り消した負い目でもあるのか、皐月に対して晴香が妙に優しい。
「まだ大したことしてねーよ。頑張らなきゃいけないのはこれからだ」
 晴香の前で美耶に褒められるのはどうも居心地がよくない。皐月は晴香には少し馬鹿にされているくらいが丁度いいと思っている。
 でも晴香に優しくされるのはやっぱり嬉しい。晴香には大切に扱ってもらいたくなるような女王様的なカリスマがある。
「藤城君ってね、教室にいる時と違って委員会だとテキパキとみんなを仕切ってかっこいいんだよ~」
「へ~。クラスじゃいつもバカっぽいのにね~」
「バカっぽいとか言わないでよ! 明るくて楽しいだけなんだから」
「はいはい。わかりました」
 いたたまれなくなった皐月は速攻で美耶の元から離脱した。美耶の隣の席だと晴香からは逃げられない。美耶と席が離れて心の底から良かったと思った。
 晴香は博紀のことが好きなくせに、6年4組の男子では皐月と一番たくさん話をする。それが皐月にはどうも居心地が悪い。
「委員会、頑張ってね~」
 晴香が皐月に手を振っていて、その隣で美耶が幸せそうな顔をしていた。

 2時間目が終わった中休み、6年4組に修学旅行実行委員で副委員長の江嶋華鈴えじまかりんがやって来た。
 皐月が神谷秀真かみやしゅうま岩原比呂志いわはらひろしの三人で修学旅行の訪問先について話していたところ、華鈴が教室に入ってきて皐月に声をかけてきた。
「お話しているところ、ごめんね。藤城君、ちょっといい?」
「わざわざ来てもらって悪いね」
「藤城君から借りようと思ってた資料なんだけど、北川先生からデータのファイルをコピーさせてもらったの。だから、自分の分は自分でプリントアウトするよ」
 皐月は今年のしおりの資料を手渡された時からずっと元のデータがほしいと思っていた。紙の資料を見ているだけでは前に進まない。ファイルがあれば直接手を入れることができ、作業をどんどん進めることができる。
 まだ華鈴に皐月の考えていた仕事の進め方を話していなかったのに、状況を理解していたのか、華鈴は自分の判断で北川から資料のファイルをもらってきた。皐月は自分で北川のところにファイルをもらいに行くことを考えると憂鬱だったが、華鈴は言わなくても皐月の代わりにやってくれた。
「そうか。データを入手できたのはありがたい。俺、北川って苦手だから江嶋がそういう交渉してくれるの、すごく助かる」
「いいよ、別に。私はあの先生のこと、大丈夫だから。去年の担任だし。そういうわけで藤城君から資料を借りなくてもよくなった、ってことを伝えに来たの。じゃあ私、戻るね」
「あっ、ちょっと待って。江嶋に時間があるんなら、ちょっと話があるんだけど」
 思わず華鈴を引き止めた。皐月には華鈴に伝えたいアイデアがあった。昼休みに生徒会室で華鈴や真帆と会う約束をしているのだから、その時に話せばいいとは思ったが、せっかちな皐月は一刻も早く伝えたい。
「じゃあ、今から児童会室に行く?」
「ああ。悪いな、せっかくの中休みなのに仕事の話に付き合わせちゃって」
「気にしないで」

 秀真と比呂志には事情を説明してあるので、皐月は二人との会話を打ち切って、資料を持って華鈴と生徒会室へ向かった。早速、手に入れた資料のファイルをプリントアウトすることにした。
「資料のファイルが手に入ったから、すぐにでもしおり作りを始められるな」
「資料を印刷したら、データを水野さんに渡そうと思うの。先生にしおり作りはお前らに任せるって言われた」
「それって、北川はしおり作りに一切口出ししないってこと?」
「たぶんそうだと思う。よく言えば委員会に一任するってこと、悪く言えば丸投げされたってことね」
「やった! じゃあ、好きにやっていいってことじゃん。俺、あれこれ指図されて、全然自由にできないのかと思ってた」
 修学旅行実行委員会のたびに北川の顔を見ることが憂鬱だったが、ここにきて最大の懸念材料が消えた。これまで以上にのびのびと委員会ができる。
「先生は普段の授業もあるし、修学旅行なら旅先での心配もあるし、旅行会社との交渉もあるし、大変なんだと思う。だから実行委員会は他の委員会よりもたくさんの仕事を任されることになるし、その分責任も重くなっちゃうんだけどね」
 もしかして華鈴は委員長をやりたかったのかな、と思った。華鈴は先生への配慮ができる。これは児童会長の経験が物を言っているのだろう。そう考えると華鈴の方が委員長に向いているような気がしてきた。

「小学校生活最大のイベントだからな、修学旅行って」
「修学旅行実行委員って児童会よりも大変かもしれない」
「そうなんだ。……でも大丈夫。実行委員には江嶋や水野さんのような有能なスタッフがいるから」
「私はあまり役に立っていない気がするんだけど……」
「そんなことはない。江嶋が先生からファイルもらって来てくれたり、本当に助かってる。江嶋って気が利くっていうか、何も言わなくても自分の判断でやってくれるよね。それに江嶋って先生から信頼されてるし。この際だから副委員長のミッションを先生との交渉担当にしちゃおうかな」
「え~っ、それって藤城君が北川先生と話をしたくないだけでしょ?」
「まあそうなんだけどね。へへへっ。北川だって俺よりも江嶋に懐かれた方が嬉しいだろ?」
「やだ! 気持ちの悪いこと言わないで!」

 児童会室にあるコピー機にメモリーカードを差し込んで、資料をプリントアウトしている間に、皐月は昨夜思いついたしおり作りのアイデアを華鈴に話した。
 それはしおりに書かれている全ての規則に一行ずつ理由を書くということだ。そうすればみんなが納得してルールを守ってくれるんじゃないか、という考えも伝えた。
「それ、とてもいい考えだと思う。でも大変だよね、全部の規則の理由を考えるのって。あと、ページ数が増えちゃうことを先生がどう思うかだな」
「それは俺も思って、実際どれくらい理由を考えなきゃいけないかって数えてみたんだ。だいたい30個くらいだったかな。この程度ならなんとかなる。ページ数は2ページ増える程度だ」
「それに観光ガイドの作成で、アンケートを取るでしょ。これって結構なページ数になると思うんだよね」
「フォントを小さくして、なんとか2ページくらいに詰め込むか……。でもあんまり字が小さくなると見づらいよな……。これは水野さんと相談しながら考えるしかないかな。でもそんなこと心配するくらいなら、ページ数の制限があるかどうか、北川先生に聞いてみた方がいいかも……」
 華鈴と目が合った瞬間、皐月は拝むように両手を合わせた。ここは華鈴に甘えてしまいたい。
「そうね……。じゃあ、それは私が北川先生に聞いておくよ。たぶんしおり作りの予算なんて決めてないと思うし、ページ数が増えたところで数百円程度だから、増ページは大丈夫だと思う」
「お~っ、さすがは児童会長!」
「で、規則の理由は誰が考えるの?」
 皐月はこのアイデアを思いついた時点で、華鈴に負担をかけないために自分が全部引き受けるつもりでいた。
「俺が全部考えてもいいけど」
「藤城君って、すぐに自分だけでやろうとするよね。そういうの、あまり良くない。みんなから意見を募るほどでもないから、私たちだけで決めちゃおう。2ページ増える程度ならたすぐに終わりそうだし」
 規則の理由を考えるのは皐月と華鈴の共同作業になった。華鈴と二人で仕事をすると思うと、少しドキドキする。

 児童会室での用事が終わり、皐月が教室に帰ろうとすると華鈴に引き留められた。
「ねえ、昨日の女の人って芸妓げいこの人?」
「そうだよ」
 華鈴が明日美あすみのことを何も聞いてこなかったので、皐月は少し気を抜いていた。華鈴を先に家に帰して、明日美と恋仲になっていたことに後ろめたさを感じていたからだ。
「そうか……あの人は芸妓なんだ。あんまり美人だったからびっくりした」
「あの人はね、特別なんだ。他の芸妓さんはあんなに美しくはないんだけどね」
「藤城君、芸妓さんと普通に話していたよね。なんかすごいね……」
「別にすごくないって。だって俺の親も芸妓なんだぜ。まあ環境だよな、育った。江嶋が昨日会った人は明日美っていうんだけど、俺は昔から明日美にはかわいがられていたんだ」
「そうなんだ……」
「江嶋が帰っちゃったから、ちょっと気になってたんだ。やっぱり知らない大人に、いきなり寄ってけって言われても無理だよな」
 皐月が気にしていたのはそこではない。華鈴といい感じになっていたところで他の女のところへ行ってしまったことを悪いと思ったのだ。
 こんな風に話をミスリードするのは気が引けた。だが、自分の複雑な感情を封じ込めるためには、わかりやすいストーリーを作って信じ込ませたい。
「明日美さんが綺麗すぎて、ちょっと怖かった。ごめんね、先に帰っちゃって」
「いいって、そんなの。気にすんな」
 皐月は明日美が華鈴を厄介払いしたことに気付いていた。知っていて華鈴を先に帰したんだから、悪いのは自分の方だ。だから昨日からふとした瞬間に華鈴のことを思い出し、罪悪感に苛まれていた。
 こんなに素直に誘導に乗る華鈴のことが哀れだった。皐月は華鈴のことを好きになりかけていたので、華鈴のことを気にし続けていたら、今まで以上に華鈴のことを愛おしいと思ってしまった。だが恋愛感情の最上位は明日美で揺るがない。
「中休みが終わるから、もう教室に戻ろう」
「うん。続きは昼休みね。修学旅行までは休み時間が全部仕事で潰れちゃいそうだね」
「そうだね。でも江嶋と一緒に仕事をするのは楽しいからいいや。全然苦にならないよ」
「よかった……」
 二人は揃って児童会室を出た。6年生のフロアに上がる階段の途中でチャイムが鳴ったので、皐月と華鈴は慌ててダッシュをした。6年1組の教室の前で華鈴と別れる時に思い出すように言われたことがこれだった。
「藤城君、もしかして昨日より背が伸びた?」


いいなと思ったら応援しよう!

音彌
最後まで読んでくれてありがとう。この記事を気に入ってもらえたら嬉しい。