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歴史の迷路に迷い、仏像の毒気に当たる(皐月物語 150)

 案内人の立花玲央奈たちばなれおなに率いられて、6年4組の児童たちは他のクラスより短い滞在時間で西院伽藍さいいんがらんを出た。スロープを下りて庭を左へ進むと、右手に手水舎ちょうずやと鏡池があり、立花はここで立ち止まった。
「今、みんなの正面にある建物は聖霊院しょうりょういんといって、聖徳太子を祀る御堂おどうです」
 聖霊院には壁の代わりになる蔀戸しとみどが上げられていて、御簾みすが下りているという寝殿造しんでんづくりの特徴が示されていた。ここでは御朱印を授与してもらえるようで、参拝客が何人か順番待ちをしていた。
「仏教にはいろいろな宗派がありますが、みなさんの家は何宗ですか?」
 立花は児童たちに家の宗派を尋ねた。仏教に縁のない家や、宗派のわからない児童もいたが、曹洞宗そうそうしゅう浄土真宗じょうどしんしゅうなどと答える児童もいた。
「法隆寺は聖徳宗という聖徳太子を宗祖とする宗派です。法隆寺の本尊は仏教の開祖であるお釈迦様ですが、法隆寺を建てた聖徳太子も手厚く祀られています」
 宗祖と開祖という言葉が難しかったのか、児童たちのガイドへの反応は薄かった。聖徳宗の話に関心を示していたのは言葉をよく知っている藤城皐月ふじしろさつき神谷秀真かみやしゅうま、そして一部の利発そうな女子のみだった。
「学校では聖徳太子のことを厩戸王うまやとおうと習っていますが、聖徳太子の本名はわかっていません」
 ここで児童たちがざわつき始めた。自分たちが授業で習ったことが不確かなことだということが児童たちの興味を引いたようだ。
「聖徳太子という名が初めて文献に出てきたのは厩戸王の死んでから129年たった後のことです。『日本書紀』という国の歴史を記した本には、厩戸王のことを厩戸豊聡耳皇子命うまやとのとよとみみのみこのみことと記されています。歴史的にはこの長い名前が本名ということになるようです」
 立花は人材センターから預かった資料ではなく、自作の資料を児童たちに見せた。そこには厩戸豊聡耳皇子命と大きく書かれていて、厩戸うまやと豊聡耳とよとみみの意味が書かれていた。
「厩戸とは馬小屋のことです。聖徳太子は馬小屋の前で生まれたから厩戸皇子うまやどのみこと呼ばれたと言われています。豊聡耳の豊は人を褒めて言う時の言葉で、聡耳は耳が良いという意味です。豊聡耳はあらゆることを聞き分ける素晴らしい耳のことを表しているとも言われていますが、これは後付けの解釈だと思います」
 説明が長くなり、児童たちが話についていけなくなっていた。立花はそのことに気付いていた。
「つまり、聖徳太子の本名と言われている名前は『馬小屋の前で生まれた耳の良い子』ということになります」
 児童たちはこの奇妙な名前にウケていた。だが、立花の当たり障りのない説明に皐月と秀真はがっかりしていた。特に秀真は不満があるようで、聖徳太子が架空の人物だという話に触れてほしいと腹を立てていた。だが皐月は、法隆寺では聖徳太子が信仰の対象になっているので、まともに考えるのが馬鹿らしいという気持ちになっていた。
「聖霊院には聖徳太子像が安置されています。でも、これは秘仏になっていて、一般公開はされていません。年に一度、お会式おえしきという聖徳太子の生前の行いを讃える法要があり、その時だけは聖徳太子像を見ることができます。今日は見られないので立ち寄りませんが、興味のある人は大きくなってから、また訪れてみてください」
 聖霊院のガイドを終えた後、立花は東室ひがしむろ妻室つまむろの説明をした。
 東室では僧侶が一部屋に8人くらいで共同生活をしていたが、それゆえにトラブルが起こることは避けられなかった。その結果、部屋を出たがる者が増え、東室の外に建物を造って、夜だけでもそこで過ごす者が現れた。それが子院の始まりだという。
 皐月は聖徳太子のプロパガンダのような話よりも、法隆寺に住む僧侶たちの生活を窺い知れるような話の方が面白かった。

 6年4組の児童たちはガイドの立花玲央奈に率いられ、聖霊院を離れ、妻室と綱封蔵こうふうぞうの間にある、築地塀ついじべいと生垣の挟まれた小径に入った。右手に見える綱封蔵は寺宝を保管する建物で、平安時代に建てられたものだ。皐月と秀真は大きな綱封蔵を見上げた後、アイコンタクトを取った。
 二人は立花のところへ駆け寄った。皐月も秀真も聖霊院のガイドだけでは物足りないと思っていた。だが皐月はそれだけではなく、秀真の苛立ちを何とかしたかった。ゆっくり歩く立花の横に皐月が貼り付き、そのやや後方に秀真がついて来た。
「立花さん、ちょっと質問してもいいですか?」
「あら、藤城さんと神谷さん。どうぞ。質問って何かな?」
 立花は嬉しそうな顔をして皐月を見た。皐月はこの顔を良く知っている。自分に好意を抱いている女子はいつもこんな表情をしている。
「さっきこいつが聖徳太子が実在しなかったって言った時、立花さんもそう思うって言ってたけど、ホント?」
 立花は一瞬、戸惑った顔を見せた。
「ええ、本当にそう思っているけど……」
「聖霊院のガイドではそういう話はしなかったよね? どうして?」
 立花は皐月と秀真にアルカイック・スマイルを見せた。
「ここは法隆寺なのよ。そんなこと、思っていても言えるわけないでしょ。それに、聖徳太子がいなかったなんて話をしたら、ガイドの先輩方に怒られちゃう。私、以前にその話をガイドでしたことがあって、苦情が来たことがあるの。だから、教科書通りのことしか言えなくて……」
 皐月と秀真は立花に大人の事情があったことを理解した。だが、秀真はまだスッキリした気持ちにはなっていなかった。
「ガイドさんは聖徳太子がキリストの生誕の話とよく似ていることを知っていますか?」
 秀真の稚拙な質問の仕方に、皐月は思わず苦笑した。
「もちろん、受胎告知に似ていることは知っています。釈迦生誕の話とも似ていますね。『日本書紀』の編纂時に聖徳太子の権威づけとして、聖人の生誕のエピソードを模倣したんじゃないかとも言われています」
 皐月は立花の言葉遣いの変化が秀真に対する意思表示だと感じた。語彙レベルを上げることが秀真の知性への信頼なのか、あるいは振り落としにかける拒否反応なのか。皐月は弥勒菩薩のような表情で対応する立花の真意を測りかねていた。

 風情のある小径を抜けて右へ曲がると、左手に新しい建物が現れた。白壁に朱塗りの柱と緑の連子窓は古代の雅さを演出しているようだが、内部は文化財保護のため現代的な耐火構造になっている。この建物が法隆寺に伝わる数々の名宝を安置している大宝蔵院だいほうぞういんだ。
 皐月は秀真がまだ全然話し足りないんじゃないかと心配していたが、秀真は立花と直接話ができたことで満足しているようだ。どのみち聖霊院から大宝蔵院までの間では話せることに限りがある。皐月は自分自身が立花と話せなかったことに不満を感じていた。
 大宝蔵院に入る前に案内人の立花から簡単なガイドがあった。館内では他の客に迷惑をかけないよう、極力ガイドをしない方針なので、大宝蔵院の中に入る前に主な寺宝についての見所を話した。
 夢違観音ゆめたがいかんのんと呼ばれている観音菩薩像や玉虫厨子たまむしずし百済くだら観音像などの詳細は語らなかった。その代わりに飛鳥時代や白鳳時代などから現代まで宝物ほうもつが残されていることの素晴らしさについて、感情を揺さぶるような話し方をした。立花の話が良かったのか、児童たちの目の色が変わった。
「建物が新しいと、あまり有難味を感じないね」
「でも、瓦は斑鳩宮跡や若草伽羅付近から出土したものを復元したものなんだって。素敵じゃない?」
 前庭を見まわした栗林真理くりばやしまりが不満を漏らすと、二橋絵梨花にはしえりかが真理をなだめた。
 担任の前島先生を先頭にして、6年4組の児童たちは大宝蔵院へと入った。最初の部屋には正面に金堂の壁画を模写したものがあり、左手には大きな油彩画が掛けられていた。
 絵画の好きな皐月は芸術的かつ歴史的に価値のある「法隆寺金堂壁画模写」よりも先に「金堂落慶之図」の方に目が釘付けになった。その油彩画には絵師が貴人たちに壁画の説明をしている様子が描かれていた。
「当たり前だけど、昔は色鮮やかだったんだね。金堂の柱が朱に塗り直されて、壁画も完成当時の色に直されていたら嫌だな……」
「真理ちゃんは寂びれたものに魅かれるんだ」
「絵梨花ちゃんだって、金ピカな仏像なんて嫌でしょ?」
「嫌! 時間の経過を経て劣化したものの方が好き」
 絵梨花と真理は欠落部分を補うように模写された金堂壁画を見終えると、隣の部屋へ移動した。いつまでも「金堂落慶之図」を見ていた皐月の横には吉口千由紀よしぐちちゆきしか残っていなかった。
「吉口さんはこの絵に魅かれるんだ」
「藤城君もそうみたいね」
「だって飛鳥時代の様子が想像できるじゃん。俺、目を閉じて自分を昔の世界に飛ばして遊ぶのが好きなんだ。この絵はその遊びにリアルさを増してくれるんだよね」
「私も藤城君と似たようなことを考えてた」
 すぐ隣にいた千由紀は皐月のことを見上げた。いつかこうして二人で法隆寺に来るかもしれないと思うと、皐月は千由紀のことをただの同級生として見られなくなっていた。
「吉口さんの書きたい小説って、飛鳥時代が舞台?」
「ううん。現代。歴史小説なんて時代考証とか大変で、考えただけでゾッとする。それに藤城君をモデルにするんだから、現代だよ」
「そっか……。で、やっぱりドロドロ?」
「そう。ドロドロ」
 千由紀は無邪気に笑っていたが、皐月には千由紀がどうしてそんな小説を書きたがっているのかがわからなかった。
 皐月は今、自分がまずい状況になりかかっていることをわかっている。好きだという想いに従っているだけだと、自分が好きになった人たちを全員不幸にしてしまいかねない。
「俺、ちょっと一人で見てくるね」
 皐月は千由紀から離れることにした。一緒にいると心の中を探られるような気がしたからだ。
 もし千由紀と恋愛関係になったら、きっと愛憎が入り混じるつらい関係になるだろう。千由紀は魅力的な女の子だが、近づき過ぎないように気をつけなければならない。

 夢違観音ゆめたがいかんのん像の前には何人かの男子児童と一般客がいた。その中に二橋絵梨花が一人で仏像を見ていた。
「どう?」
 絵梨花の背後から小さく声をかけると、絵梨花は振り向きざまに皐月を見上げた。
「素敵ね」
 その後に何か言葉が続くかと待っていたが、絵梨花は何も語らなかった。皐月は絵梨花から目を逸らし、夢違観音を見た。
「この観音像って柔和な顔をしているよね」
 絵梨花はすぐに皐月に応えなかったが、他の男子児童が夢違観音像を離れるのを待つように、絵梨花が口を開いた。
「そうだね。……でも、藤城さんも穏やかで優しい顔をしてるよ」
「えっ?」
 皐月は軽く話しかけただけなのに、絵梨花の言葉で慎重に言葉を選ばなくてはならなくなった。近くで見ていた初老の女性が皐月たちを見て微笑んでいた。
「じゃあ、俺も夢違観音みたいに素敵なんだ」
 照れ隠しのつもりで、悪ぶってみた。皐月が絵梨花にこんなふざけた態度を取るのは初めてだ。
「うん」
 なんのためらいもなく、絵梨花は朗らかに皐月の粋がった強がりを肯定した。皐月は絵梨花が自分に好意を抱いていることはわかっていた。だが、それが恋心かどうかは測りかねていた。
「俺は……この仏像みたいに清楚な顔をしていないから」
 慈愛に満ちた顔の絵梨花を置いてけぼりにして、皐月は慌ててこの場を離れた。夢違観音と同列に扱われてはたまらない。皐月は自分が汚れていることを嫌というほどわかっていた。

 皐月は近くにある吉祥天きちじょうてん像や六観音などを一瞥しただけで通り過ぎ、地蔵菩薩像の前の児童たちが集まっているところへ行った。そこには栗林真理や筒井美耶つついみや松井晴香まついはるかもいた。美耶と真理が何か話をしていた。
「珍しい組み合わせだな。何の話をしてたんだ?」
「美耶ちゃんに神谷君から聞いた、地蔵菩薩が閻魔大王だっていう話をしてたんだけど、あの話って本当なの?」
 皐月は清水寺で秀真から、みんなにこの話をしたかったと言っていたのを知っていた。だが、そんなディープな話を真理たちに話していなかったはずだ。
「真理に地蔵と閻魔の話なんかしたっけ?」
「バスの中で神谷君に教えてもらったの。移動中にいろいろな話を教えてもらったよ」
 真理と秀真は教室で隣同士の席に座っている。担任の前島先生はバスの席決めを教室の席と同じにしたので、二人はバスの中でも隣同士だ。
「秀真の言う、地蔵菩薩が閻魔大王っていう話はインドから中国に仏教が伝わった時に作られた話だ。別の文化圏に宗教が伝わると、信仰も変化するよな」
 真理と美耶ならこのくらいの語彙を使っても伝わると思った。晴香には悪いが、蚊帳の外にいてもらった。
「私が知ってるのは、お地蔵様が道祖神みたいに信仰されている話だよ。村に災いが来るのを守ってくれたり、旅人や子供を守ってくれる仏様っていうイメージだから、栗林さんの話を聞いてびっくりしちゃった」
 奈良の十津川の山奥に住んでいた美耶の生活の中には民間信仰が溶け込んでいた。美耶は皐月よりも宗教的な知識に詳しい。
「神谷君が変な風に教えてくれたから、困っちゃうな」
「そんなこと言うなよ。秀真ほつまは真理のことを楽しませようと、面白い話を選りすぐってくれたんだよ。説明するのが苦手だから、順を追って話をしないで、面白そうなことから話をしただけだろ」
「まあ、そうかもしれないね。自分の興味の赴くままに話が飛んだりしていたから」
 真理が機嫌を損ねていないようで、皐月は安心した。真理が怒っているようなら、皐月は全力で秀真を擁護しようと思っていた。
「ねえ、藤城。結局、このお地蔵様ってどんな神様なの?」
 松井晴香が不満気な顔をして皐月に問いかけてきた。皐月が来る前から、真理と美耶は晴香のことを気にしないで、二人だけで話していたのだろう。皐月は晴香が少しでも神様に興味を持ってくれたことが嬉しかった。
「地蔵菩薩っていうのはね、お釈迦様が死んでから弥勒菩薩っていう救世主が現れるまでの間、仏のいないこの世界で仏に代わって人々を助けるようにって、お釈迦様から頼まれた神様のことなんだ。わかる?」
 神も仏もごっちゃにしたけれど、皐月は晴香にはこの方がわかりやすいと思った。
「わかるけど……今って、仏のいない世界なんだ。それって良くない世界ってこと?」
「さあ? 苦しんでいる人がいっぱいいるから、いい世界とは言えないんじゃないかな」
「へえ……。藤城はいつも能天気な顔をしてるから、そんな風に考えていたなんて意外」
「松井と話していると、俺はいつでも平和な気持ちになれるんだよ」
 サービスが過剰だったのか、晴香が月花博紀げっかひろきに見せる表情になっていた。美耶には何の変化もなかったが、真理は少し怒っているように見えた。
「さて、俺は先を急ぐから、行くわ」
「ちょっと、皐月。何をそんなに急いでいるの?」
 真理はおとなしく逃がしてはくれなかった。
「とりあえず、ざっと全体を見て、一番良かったところに戻って、じっくり時間をかけて見てみたいって思ってるんだ。時間は限られているだろ? 効率よく見なきゃ」
「ああ……なるほどね。そういうことならわかるわ。私も真似しようかな」
「じゃあ、お前も一緒に来るか?」
「行く」
 皐月と真理はすぐ近くの玉虫厨子たまむしのずしの展示を見に行った。地蔵菩薩の前に取り残された美耶と晴香も移動しようとしていたが、二人はすでに玉虫厨子を見終えていた。
「ねえ、美耶。栗林さんに藤城を連れて行かれちゃったよ」
「それって、藤城君に栗林さんを連れて行かれたの間違いじゃないの?」
「私は美耶が気にしてるのかなって思ったんだけど……」
「そう? 本当は晴香ちゃんが気にしてるんじゃないの?」
 美耶と晴香の間に緊張が走った。だが、すぐにいつも通りの二人に戻った。声を荒げると玉虫厨子を見ている皐月と真理に聞こえてしまう。
「先に進もうか」
「うん。聖徳太子を見に行こう」
 聖徳太子関連の展示の前には美耶と晴香と仲が良い小川美緒おがわみお惣田由香里そうだゆかりがいた。神谷秀真と案内人の大学生、立花玲央奈もいた。
「神谷とガイドさん、何を話しているんだろう?」
「さあ……。聖徳太子はいいから、隣の部屋の仏像を見ようよ」
「あっ、そうだったね。美耶は神谷のことが苦手だったね。私、美緒と由香里に声をかけてくる」
 晴香と美耶はこの場で別れ、美耶は一人で隣の部屋の百済観音像を見に行った。

 玉虫厨子は飛鳥時代に作られた厨子だ。鎌倉時代に法隆寺によってまとめられた「古今目録抄ここんもくろくしょう」には「推古天皇御厨子」と記されている。厨子とは仏像や経典などを納める屋根付きの収納具で、玉虫厨子は推古天皇が念持仏ねんじぶつを礼拝する時に用いられたものだ。
「皐月、玉虫厨子って大きいね。本で見たのとイメージが全然違う」
「本当にでかいな……。玉虫のはねって、どこに使ってるんだろう?」
 皐月は神仏や歴史に関しては修学旅行前に予習をしてきた。だが、建造物や宝物のことまでは手が回らなかったので、他の児童と同程度の知識しか持ち合わせていなかった。
「透し彫りの金銅金具の下に玉虫の翅を敷き詰めてあったんだって。今はほとんど剥がれ落ちちゃって、なくなったみたいだけど」
 いつの間にか吉口千由紀が皐月の傍らに来ていた。修学旅行前、千由紀は自分なりにいろいろ調べていたようだ。
「へぇ、そうなんだ。じゃあ、これが完成した当初は綺麗だったんだろうな」
「復元したものならあるよ。ちゃんと玉虫の翅を使って、忠実に再現したんだって。写真なら見たことがあるけど、すごく綺麗だった」
 建物も仏像も古い方がいいと思っていた皐月だが、さすがに玉虫厨子は美しい状態のものを見てみたい。
「なんで法隆寺に玉虫厨子があるんだろうね? 推古天皇のものなら、天皇家の宝物なのに。私物なら身の周りに置くものでしょ?」
 真理は細かいことによく気がつく。千由紀が考え込んでいたので、皐月も理由を考えてみた。
「推古天皇が死んだ後、扱いに困ったんじゃないかな。だって、玉虫厨子ってデカいし、推古天皇の仏壇みたいなものだよね? 当時では最高の工芸品だから捨てるわけにもいかないだろうし。で、法隆寺が引き取ったんだよ。推古天皇は法隆寺創建の関係者だし、VIPじゃん」
 皐月は話しながら、合ってんのかな、と不安になっていた。細かな事情なんかどうでもいいような気がするが、細部まで具体的に考えると印象に深く残るのがわかった。皐月は真理の記憶力の秘訣を見たような気がした。
「じゃあ、玉虫厨子の中には何が入っていたんだろう?」
「やっぱり仏像なのかな……。あるいは聖徳太子の像とか遺品でも入っていたのかもしれないね。だって、聖徳太子って推古天皇の在位中に死んだから、供養しようって思ったのかもしれない」
 千由紀は面白いことを考えるな、と感心した。だが、皐月は聖徳太子の実在を疑っていたので、そこまで玉虫厨子の事情に興味が持てなかった。

「みんな集まってるじゃん。どうしたの?」
 神谷秀真と案内人の立花玲央奈も玉虫厨子のところにやって来た。ほぼ同じタイミングで二橋絵梨花もやって来た。皐月は玉虫厨子の中に何が入っていたのかを、ガイドの立花に聞いてみた。
「玉虫厨子が完成した時に何が安置されていたのかはわかっていません。747年に書かれた『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』という書物には『金埿押出千仏像こんでいおしだしせんぶつぞう』と『金埿銅像こんでいどうぞう』があったと記されています。その銅像は盗まれて、今は押出千仏像だけが残っています」
 音読みの熟語が怒涛のように押し寄せてきて、皐月は半分くらいしか理解できなかった。賢い真理や絵梨花、マニアックな秀真もわかっていないような顔をしていた。皐月たちの様子を見た立花はスケッチブックを取り出して、サラサラと今言った言葉をマジックで書き留めた。硬筆を習ったのか、美しい文字だった。
「金Wは金メッキ、千仏像はたくさんの小さな仏を彫刻したり描いたりしたもの。押出は銅版を金槌で打ち出して板を立体的に見せる作品のこと。つまり金埿押出千仏像は金メッキをした銅版に金槌で小さな仏をたくさん打ち出した装飾のこと。金埿銅像は金メッキをした銅像のことです」
 立花の説明はわかりやすかった。仏教関係の言葉は音で聞くだけだとわかりにくいが、漢字を見ると理解しやすい。
「厨子の上段の宮殿くうでんの扉の裏と内側の壁には金メッキされた銅の板が張られていて、その板が押出千仏像に加工されています。千仏像は一つ一つが小さいので、仏像模様のエンボス加工になっている感じですね」
 そう言いながら、立花はナップサックから資料を取り出し、玉虫厨子の写真を見せてくれた。確かに立花の言う通り、遠目で見るとただの模様にしか見えなかった。
「玉虫厨子のレプリカの写真もあるけど、見ますか?」
 皐月たちは立花の持っている資料の写真を見せてもらった。それはとても美しい物だった。
 錆のない金属部は金色に輝いて、連続文様の透かし彫りの奥には玉虫の翅が緑に輝いていた。目の前の実物の玉虫厨子は漆塗りが年月に沈んで鈍く黒ずんでいるが、レプリカでは漆塗りが輝いており、そこに描かれた仏画は色鮮やかだ。
 皐月たちが盛り上がっているのを見て、他のクラスメイトたちも玉虫厨子に集まって来た。美耶や晴香と一緒にいた美緒と由香里もやって来た。
「なんでみんな集まってるの?」
 由香里が皐月に訳を尋ねた。
「ガイドさんが俺たちに資料を見せてくれているのを見て、みんなも見に来たんだ」
「なんだ、藤城君たちだけずるい」
「俺がガイドさんを質問攻めにしたから、仕方なく見せてくれたんだよ。他のお客さんの迷惑になるから、お前ら、あまり騒ぐなよ」
 すでに立花のガイドを聞き終えた皐月たちは後から来た由香里や美緒たちに場所を譲り、この場を離れた。

 皐月は聖徳太子二王子像の前に移動して、一人になろうと思った。すると栗林真理がついて来た。
「この絵って、有名だよね。お札の肖像にもなっていたやつ」
 真理は嬉しそうに話していたが、皐月はこの聖徳太子の絵が時代的におかしいことを知っているので、真理のように素直に楽しめなかった。
「肖像画っていうよりも、想像画だよな。俺、いつも思うんだけど、工芸品には超絶技巧をふるう職人がいるのに、どうして絵師にはいないのかなって。昔の人だって、リアルな肖像画を描こうと思えば描けそうなものなのに」
「別に顔なんてリアルじゃなくたっていいでしょ。あんたの好きな漫画だって、全然写実的じゃないじゃない。その時代で流行っていた絵の描き方があったんじゃないの?」
「はぁ~、そんなものかね」
 皐月は聖徳太子二歳像が気になった。上半身裸の坊主頭の男児が手を合わせている立像だ。皐月はこの男児の面構えがどうしても好きになれなかった。この聖徳太子は可愛気のない、生意気そうな顔をしていた。作者は偉大さを表現したかったのかもしれないが、皐月には尊大さしか伝わってこなかった。
「真理。次に行かないか?」
「もういいの? 私、もう少し見ていたいな」
「じゃあ、俺は先に行ってるから」
 皐月は聖徳太子のエリアを離れ、隣の百済観音堂へ進んだ。玉虫厨子のところでは立花がまだ児童たちにガイドをしていた。皐月は彼女のガイドで百済観音像を見たかったが、自分だけが彼女を独占するわけにはいかない。いつか立花玲央奈を独占して、二人で奈良の寺を巡ってみたいと思った。

 百済観音堂に安置された百済観音像は大きなガラスケースの中に立っていた。
 展示ケースは見仏の際にフレームが邪魔にならないようになっていた。のみならずフレームには照明が埋め込まれていて、百済観音像にくまなく優しい光を照らしていた。低反射コーティングが施されている特殊なガラスケースなので、館内の照明も映りにくくなっていた。
 百済観音像の前には月花博紀と松井晴香、筒井美耶たちが並んでいて、美耶の横には村中茂之がいた。博紀の横には二橋絵梨花もいて、博紀と絵梨花が何か話をしていた。
「なあ、この百済観音像って格好良くないか?」
 皐月が話しかけたのは晴香だった。博紀と茂之の恋路を邪魔したくなかったので、女子の仲良しグループに声をかけた。
「この仏像、すごいスタイルだね。何頭身? 八? 九?」
「そんなところかな。背も高いし、身体も細い。俺もこんなスタイルになりたいな」
「藤城は背が伸びて、頭身が上がったよね。もっと背が高くなれば、もっと格好良くなるんじゃない?」
 皐月は普段、晴香からボロクソ言われていて、褒められたことがない。さっきのリップサービスがまだ効いているようだ。
「ありがとう。お前に格好いいってもらえるのが一番嬉しいよ」
「誰もそんなこと言ってないわ。バカ」
 皐月はへらへら笑いながら、晴香の言葉を受け流した。晴香のこういうところが可愛くて好きだ。
「私、仏像って全然興味なかったけどさ……この仏像はいいなって思った。東大寺で藤城たちって仏像を見に行ってたよね? 私も見に行けば良かった」
「そうか……。松井もとうとう仏像に目覚めたか」
「別に目覚めてなんかないわ」
 この時、小川美緒と惣田由香里も百済観音像を見にやって来た。
「俺は松井たちみたいに、みんなで楽しく写真を撮ってはしゃぐのも良かったのかな、って思ったよ。仏像なんてまた見に来られるけど、友達と遊ぶのは今しかないじゃん」
 皐月は宗教に全く興味のなさそうな晴香を見ていると心が安らぐのを感じていた。この心境の変化は意外だった。皐月は筒井美耶と同じように、宗教に対する嫌悪があるんじゃないかという気がしてきた。
「でも、藤城は友達と仏像が見たかったんでしょ? だったらいいじゃない。美耶とも一緒に見てくれたんだし」
「なんだよ、『見てくれた』って」
「一緒に仏像を見た女の子って、藤城が好きな子ばかりだったな。あの怖い子も一緒だったよな。お前って女たらしだな」
「何わけわかんねーこと言ってんだよ。どうせ俺は女たらしだから、大好きな真理のところに行ってくるわ」

 皐月は一度、晴香から離れた。聖徳太子のところに残っている真理を呼びに行こうとすると、ちょうど真理もこちらへ百済観音を見上げながら歩いてきた。
「うわ~っ。なんか凄いね~、これ」
「なんだ、真理。ガキみたいな感想だな」
「うるさいな~。でも、この仏像って東大寺の法華堂ほっけどうで見た不空羂索観音ふくうけんさくかんのんよりも格好いいな~」
「俺とこの百済観音、どっちが格好いい?」
「そんなの、百済観音に決まってるじゃん。バカなの?」
 真理は皐月のことをまともに相手をしないで、絵梨花の横に立った。皐月は宗教に関心の薄い真理にもホッとした。
「絵梨花ちゃん、ずっとこの仏像を見ていたんだ」
「うん。ここでは夢違観音と百済観音の二つに絞って、じっくり見ようと思ってたの」
 皐月は絵梨花の選択と集中が自分よりも徹底していることに驚いた。皐月はまたここに来ればいいと思いながらも、他の展示物にも未練があった。
「この仏像ってね、いつどこで誰が作ったのかわからないんだって。一応、飛鳥時代に日本で作られたのは確かみたいなんだけど、仏像の特徴も当時の他の仏像とは違うみたい。金堂の中にあった釈迦三尊像みたいな厳粛な雰囲気じゃなく、この百済観音像は優美な感じがする」
「優美か……。百済観音像もショーケースの中じゃなくて、御堂の中にあったらもっと厳かな印象に変わってたかもしれないな」
 真理は百済観音像を細すぎると感じていた。修学旅行で見てきた他の仏像と比べて、この百済観音像は異質だった。真理は仏像を少し怖いと感じているので、絵梨花の仏像に耽溺する様子が今一つ理解できなかった。

「ねえ、藤城君。どうして仏像ってみんな裸みたいな服を着てるの?」
 真理がいなくなり、フリーになった皐月に小川美緒が話しかけてきた。美緒の無邪気な問いかけが皐月を安らかな気持ちにさせた。
「そりゃ、仏教といえばインドじゃん。暑いから薄着をしてるんだよ」
「本当?」
「たぶん……」
 筒井美耶と仲の良い美緒は、同じグループの松井晴香や惣田由香里ほどアクが強くなくて話しやすい。ただ、美耶と皐月をくっつけようとしていることだけが玉に傷だ。
「じゃあ、この仏像ってどういった神様なの?」
 由香里も神様と仏様をごっちゃにしているが、皐月は細かいことは気にしないで、由香里に合わせて説明した。
「観音菩薩っていう神様で、人の姿になってこの世界に現れて、苦しんでいる人たちを救ってくれるんだ。実は惣田の目の前にいる俺が、実は観音菩薩がこの世界に現れた姿だっていう可能性もあるんだぜ」
「じゃあ、私を苦しみから救ってよ」
「お前、何か苦しんでるのか?」
「お昼ごはんが足りなくて、お腹がすいちゃった」
「マジか! 口臭タブレットやるから、とりあえず食っとけ」
 皐月はナップサックからミンティアのケースを取り出して、由香里に手渡した。
「ありがと~。藤城君、マジ観音様じゃん」
 由香里だけでなく美緒にも分けてやり、自分もタブレットを口にした。この現代的な食べ物と飛鳥時代の仏像のギャップが妙に愉快だった。

「ねえ、藤城さん。この百済観音のことを法隆寺は虚空蔵菩薩こくうぞうぼさつだって主張していたらしいんだけど、虚空蔵菩薩ってどんな仏様か知ってる?」
 二橋絵梨花が皐月に尋ねてきた。絵梨花は皐月が神仏について調べていることを知っている。バスの中でもずっと神社仏閣の話をしていたが、虚空蔵菩薩はしていなかった。
「虚空蔵菩薩は知恵の仏様だよ。法隆寺では聖徳太子のことを虚空蔵菩薩の化身だと信じているんだ。そういう背景があって、この古くて立派な仏像のことを虚空蔵菩薩像って信じていたんだと思う」
 絵梨花は皐月の言うことを理解しているようだが、晴香たちや博紀は何を言っているのかわからないような雰囲気を出していた。
「虚空蔵菩薩が聖徳太子の本地ほんじってこと?」
 美耶が絵梨花に代わって質問を続けた。本地とか、いきなり語彙のレベルが上がった。
「そう。聖徳太子の姿で垂迹すいじゃくしたってこと」
 藤城皐月と筒井美耶は豊川稲荷で本地垂迹の話をしたことがある。その時から皐月は美耶に一目置くようになっていた。
「ちょっと、美耶。何言ってんのか、わかんない」
「ごめんね、晴香ちゃん。藤城君に通じればいいと思って……。興味があったら、後で詳しく説明するけど」
「いや、別にいい。どうせ聞いてもわかんないから」
 美耶の普段見せない一面を見て、隣にいた村中茂之が驚いていた。茂之は教室で明るく振舞う美耶と、ドッジボールで活躍する美耶しか知らない。
「美耶ちゃんと藤城君って、二人にしかわからない共通の話題があるんだね」
「そうそう。二人でお寺を見に行ったりすればいいのに」
 美緒と由香里が美耶を煽り始めた。教室で見慣れた光景だ。皐月は真理や絵梨花の前でからかわれて不愉快になってきた。
「お寺なんか行きたくないよ……」
 美耶は修験道を信仰している家族に反発していて、宗教の話題を避けている。そんな美耶がお寺に行きたがらないことを皐月は知っていた。
「藤城、振られてやんの。ざまぁ」
「ざまぁなんて言わないで、慰めてくれよぉ~。茂之しげ
「甘ったれんな、バカ」
 口ではキツいことを言っているが、茂之の顔は嬉しそうだった。皐月も美耶とは距離を取った方がいいと思っているので、こういう展開は大歓迎だ。
 皐月たちが百済菩薩観音像の前でざわついているところに、ガイドの立花玲央奈が神谷秀真たちを連れてやって来た。
「何の話をしてたの?」
「二橋さんに虚空蔵菩薩のことを聞かれたから、説明していたんだ」
「虚空蔵菩薩か……。空海が虚空蔵菩薩の真言を100万回唱えると、あらゆる経典を記憶できるっていう修行をしたんだよな。確か『ノウボウ・アキャシャ・ギャラバヤ・オン・アリキャ・マリ・ボリ・ソワカ』だったかな」
「秀真、お前……よくそんなの憶えてるな」
 秀真は超能力願望が強いので、真言に興味があり、よく憶えている。
「僕も虚空蔵求聞持法こくうぞうぐもんじほうを修めたら、空海みたいになれるかな?」
「そう思うなら、やってみればいいじゃん」
「いや……100万回とか無理」
 絵梨花と真理は笑っていたが、ガイドの立花や博紀や晴香たちはドン引きしていた。特に真理が蛇蠍だかつを見るような眼で秀真のことを見ていた。

 皐月は一人になりたくなって、そっと百済観音から離れた。大宝蔵院の東宝蔵へ進み、面や絵画を見た後、藤原不比等の妻である橘夫人念持仏を見に行った。そこには新倉美優にいくらみゆ伊藤恵里沙いとうえりさ長谷村菜央はせむらなおの三人がいた。
「よう。随分熱心に見てるな」
「あっ、藤城君。一人?」
 三人の中の美優が皐月に応えた。
「ああ。さっきまで百済観音像を見ていたんだけど、人が多くなったから抜けてきたんだ。新倉たちはもう見たのか?」
「見たけどさ……古くてボロボロになっている顔が怖くて、見てられなかった」
「怖い?」
「えっ? 藤城君は怖くないの?」
 怖がっているのは美優だけでなく、恵里沙や菜央も同じだった。
「怖くは……ないって思ってけど、そんな風に言われるとちょっと怖くなってきたかも」
「みんな国宝だからいいものだって思っているから良く見えるんだよ。でも、素直に見たらあの顔は怖いよ。火傷しているみたいじゃない」
 恵里沙のような物の見方が正しいんだろうな、と皐月は目の覚める思いがした。自分も国宝だから素晴らしい、という先入観がどこかにあったのかもしれない。
「でも、この仏像は小さくて可愛いと思うよ。それに厨子の古びた感じがいいね。私ってレトロな物が好きなんだよね。インスタでレトロな写真ばかりあげてるの」
 菜央がレトロ好きなのを皐月は初めて知った。菜央には豊川稲荷の表参道や、芸妓げいこみちると行った名古屋の大須商店街を案内してやりたくなった。
「橘夫人の厨子は古びた感じがなかなかいいな。さっき玉虫厨子を見たんだけど、中が見られなくて物足りなかったんだよね。玉虫厨子にも小さな仏像が入っていたんだろうな」
 美優たちが皐月の玉虫厨子への不満に共感を示してくれた。皐月はオタク的な趣味の仲間とつるむだけでなく、こうして普通の感性の仲間の感じ方に触れて、バランスを取ることも大切だと思った。

 皐月は美優たちと別れて、皐月は刀剣を見に、女子たちは飛天図を見に行った。刀剣の周りには花岡聡はなおかさとしら男子児童が集まっていた。
 皐月が見たかったのは七星文銅大刀しちせいぶんどうたいとうだ。この太刀たちは銅製の七星剣しちせいけんで、聖徳太子が幼少期に守り刀として帯刀していたといわれているものだ。金堂に安置されている四天王の持国天じこくてんの像に持たせたこともあったが、薄暗くてよく見えないというから大宝蔵院に移された。
「花岡って刀剣に興味があるんだ」
「そういうわけじゃないんだけど、俺は仏像には興味がないから、この部屋の物を見ていただけだよ。藤城は仏像が好きなんだよな?」
「いや……そこまで好きってわけじゃない。仏像のモデルになった神様とか、仏像にまつわる話には興味があるけど」
 聡に改めて仏像が好きかと問われると、案外そうではないということに気付かされた。皐月は絵梨花の仏像への情熱に引っ張られていたようだ。
「そういや先生、ガイドの女子大生にやたら絡んでいたな。さすがだなって感心してたんだぜ」
「お前、いきなり下ネタなんかブッ込んできやがって。バカじゃねぇの?」
「あんな真面目そうな人でもギャランドゥなんて知ってるんだな。やっぱ女子大生は違うな。大人の女だ」
 歴史の迷路に迷ったり、古代寺院や仏像などの毒気どっけ に当てられてきた皐月は聡とのくだらない会話が癒しになっていた。俺は二橋さんや立花さんにいい顔を見せたかった……そんな風に格好つけていたんだな、と皐月は陶酔から醒め始めていた。
「飛鳥時代の女の人って、どんな感じだったのかな?」
「そりゃあ、今の時代の方が圧倒的に女性のレベルは高いだろ。食べ物が違うから、体つきは貧弱だったんだろうな。シャンプーとか石鹸なんてなさそうだから、髪は脂ぎっていそうだ。庶民の女の人はメイクもしていないだろうし、服もみすぼらしいだろう」
「じゃあ、花岡が飛鳥時代にタイムスリップしたら絶望しかないじゃん」
「そんなことねえよ。昔は今みたいに娯楽がないから、男と女が遊ぶくらいしか楽しみなんてないだろ? そういうのって楽しそうだとは思わないか?」
「思わんな……」
 展示されている七星文銅大刀を見ていると、皐月がこの時代に生きていたら、女性関係のトラブルでいつか斬り殺されそうな気がした。だが、それは現代でも変わりはないはずだ。この時代に生きていても、いつか痴情のもつれで殺されてしまうかもしれない。
「俺、他のところを見てくるわ」

 皐月は飛天の絵や百万塔をチラ見して、ほかの様々な展示物をザッと見た。もうこの場にいるのが嫌になったので、外に出ることにした。
 出口付近には模型が展示されていて、岩原比呂志いわはらひろし栗田大翔くりたひろとが金堂の断面の模型を見ていた。
「岩原氏、ここにいたんだ。館内で見かけなかったから、どこにいるのかと思った」
「模型が面白くってさ。僕、模型作りに目覚めたかも。鉄道模型には憧れるけど、お金も場所もないからさ、こういうお寺とかお城の模型を作ってみたいな」
「法隆寺ならフジミ模型からプラモデルが出ているぞ。1/150だから、ガンプラや鉄道模型とも相性がいいし。俺も五重塔とガンダムのジオラマでも作ってみようかな」
 大翔の話は興味深かった。皐月はもっと大翔たちと模型の話をしたかった。だが、今は疲れていて、そんな気分になれない。近くに前島先生がいたので、皐月は先生にヨロヨロと近づいた。
「先生。もう外に出ちゃってもいいですか?」
「どうしたの?」
「なんか疲れちゃって……」
「そうですか……。どこか具合が悪いところはありませんか?」
 前島先生は敬語で話していた。今は先生モードだ。
「いえ、大丈夫です。一度にたくさんの仏像や宝物を見るのはしんどいです」
「ああ……わかる気がします。でも、藤城さんはこういうのが好きそうだから、いつまでも見ていたい人だと思っていました」
 前島先生が心配そうな顔をしていた。あまり深刻な顔をされると、自分が今、どんな顔をしているのか気になる。
「建物を出たところで待っていればいいですか?」
「そうですね。どこか座れるところがあるといいのですが、近くに休めるところがなかったような……」
「大宝蔵院の基壇にでも座っています」
「この後、夢殿と中宮寺に行くけど、大丈夫ですか? もし無理そうだったらバスまで連れて行ってあげますよ」
「全然心配いらないです。ちょっと人と物に酔っただけですから。外で一人になれば、すぐに元気になります」
 前島先生に頭を下げて、この場を離れた。比呂志と大翔も心配そうに皐月のことを見ていた。

 皐月は一人、大宝蔵院を出た。外の空気が気持ち良かった。まさか自分がメンタルのバランスを崩すとは思わなかった。
 大宝蔵院の基壇に腰を下ろしていると、他のクラスの集団がぞろぞろと大宝蔵院を目指して歩いて来た。あの人数だと、残りの3クラス全員が揃っていそうだ。皐月は一人でここに座っているのを見られるのが恥ずかしくなった。
 体は疲れていなかったので、立ち上がって大宝蔵院から離れようと思った。すると、ガイドの立花が一人で大宝蔵院から出てきた。


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音彌
最後まで読んでくれてありがとう。この記事を気に入ってもらえたら嬉しい。