修学旅行、清水寺の仁王門から本堂の檜舞台まで(皐月物語 132)
あさひ坂を出た藤城皐月たちの班の6人は清水坂に入った。この土産物屋が立ち並ぶ清水坂は今まで歩いてきた茶わん坂とは別世界の賑わいだ。華やかな土産物屋の間を修学旅行の少年少女や観光旅行の外国人、和服を着た若い女性たちが歩いている。その中に身を置いていると、皐月は日本で最高の観光地に来ていることを実感し、胸が高鳴ってきた。
人の流れの向こうに清水寺の仁王門が見え、その奥に西門と三重塔が見えた。これら丹塗りの伽藍に施されている朱色には魔除けの意味がある。魔属性のない楽しげな人たちと清水坂を上り詰めると、皐月たちはようやく清水寺に辿りついた。清水五条駅を出てからここまで、寄り道をしながら歩いて来たので40分もかかってしまった。
「20分も遅れちゃった……」
仁王門の前の踊り場で一度立ち止まると、班長の吉口千由紀が時刻を確認して悲嘆に暮れた。遅れの原因はコンビニでの買い食いや、歩道橋への寄り道、アクセサリーショップでお土産を買ったためだ。
「ごめん。全部俺のせいだ。もうこれ以上みんなの足を引っ張らないようにするから」
「別に藤城さんだけが悪いわけじゃないよ。私が歩道橋からの景色が見たいって言ったから、付き合ってくれたんだよね?」
二橋絵梨花は悪びれる様子もなく朗らかに笑っていた。そんな絵梨花を見て、栗林真理は怪訝な顔をした。
「買い食いしたいって言ったのは私。皐月は私に付き合っただけだから、悪くない。ごめん……」
真理は絵梨花と違い、神妙な顔をしていた。
「まあ遅延を正常ダイヤに戻すなら回復運転をすればいいだけだよ。加速や速度を上げたり、停車時間を短くしたり、なんなら通過したりして」
「岩原君って何でも鉄道に話を持っていくよね。これじゃ、皐月よりひどい!」
鉄道オタクの岩原比呂志の鉄道トークに救われたのか、真理が呆れたふりをして笑い出した。皐月は絵梨花や真理、比呂志たちのフォローが嬉しかった。
「修学旅行は鉄道じゃないけど、岩原君の言う通りだと思う。拝観する場所によっては滞在時間を削ったり、諦めたりしなきゃならないってこと。修学旅行はテンションが上がっちゃうし、何もかもが珍しいから、じっくり見たくなっちゃう気持ちもわかるけど……」
班長になった千由紀は責任感が強過ぎるせいか、時間が遅れ始めたことで心にゆとりがなくなっていた。修学旅行では限られた時間で多くの場所をまわらなければならない。計画を立てる時点でわかっていたことだが、実際に現地に来てみると好奇心の誘惑には誰も勝てなかった。
「僕はマニアックなところに拘らないよう、気をつけるよ。こういう寺社に来ると細かい所まで全部見たくなっちゃうんだよね。もっと言えば、全部撮影したりして記録したくなっちゃう。修学旅行は僕の取材旅行じゃないってことを弁えなきゃいけないね。この修学旅行は僕の将来の神社仏閣巡礼の下見のつもりにするよ」
オカルトマニアの神谷秀真も自分なりに修学旅行のコンセプトを理解した。修学旅行の訪問先の事前学習で最もテンションが高かったのは秀真だ。
「それじゃ、気を取り直して旅を続けよう。行こっ」
「ちょっと待って、吉口さん。せっかくだからみんなで記念撮影してからにしよう」
「みんなでって、誰が写真撮るの?」
「俺が誰かに頼んでみるよ」
皐月は千由紀からスマホを受け取り、近くで写真を撮っていた二人連れの若い女性に話しかけた。メイクもファッションも洗練されていて、都会的な美人の二人だった。皐月は軽く雑談をした後、仁王門を背景に彼女らを撮影し、自分たちのスマホを渡して戻って来た。
「お姉さんが俺たちの写真を撮ってくれるって。さあ並んで」
女子3人を真ん中にして、皐月は一番端に並んだ。隣には真理がいた。
「はい、撮るよ~」
彼女は写真を撮り慣れているのか、位置やポーズの細かい指示をしてきた。少し離れたところでもう一人の女性が皐月たちの写真を撮り始めた。
「はい、撮れたよ~」
撮影が終わったので皐月は彼女の元へスマホを取りに行った。撮った写真を見せてもらうと写真屋が撮るよりもいい写真になっていた。撮影慣れした彼女らはインスタグラマーに違いないと思った。
「君たち修学旅行?」
「うん。愛知県の田舎から来たよ。お姉さんたちは?」
スマホを受け取った皐月はあえてタメ口で話した。彼女らとは一期一会と思っていたので、礼儀正しさよりも親しみやすさを出したかったからだ。
「私たちは東京」
「東京! 大都会じゃん。僕の住んでいる町にはお姉さんたちみたいに綺麗な人っていないよ」
「出身は東北なんだけどね~」
彼女らは嬉しそうに笑っていた。明日美の方が綺麗だな、と皐月は思ったが、彼女らの纏う都会の空気は明日美にはないものだった。
「君の写真、撮らせてよ。ねっ、いいでしょ?」
「写真を撮るのはいいけど、拡散しないでね。インスタとか絶対にやめてほしい」
「約束する。絶対に拡散しないから安心して」
皐月を真ん中にして、3人で自撮りした。二人の顔が思ったより近く、ふわっと都会の女性の香りがした。
「撮った写真送りたいんだけど、ともだちにならない?」
「このスマホ、学校からの支給なんだ。これ読み取って」
皐月は manaca の入ったパスケースに自分のアカウントのQRコードをプリントアウトしたのを入れていたので、それを見せた。
「うわ~、そんなの用意してるんだ~。君って意外と遊び人なんだね」
「修学旅行だからさ、こういうこともあろうかと思って用意しておいたんだ。普段は自分のスマホで見せるよ」
「写真送っておくからね」
「ありがとう。家に帰ったら自分スマホからお礼するね。じゃあ」
「あっ……」
皐月は彼女たちとの会話を打ち切って、みんなの元に急いだ。みんないつもと違う顔でこっちの方を見ていた。
「なに浮かれてんの? こんなところでナンパなんかしないでよ、みっともない」
「ナンパじゃねーよ。それより先を急ごうぜ。回復運転だ」
真理の機嫌が少し悪くなっていたが、班のみんなの視線に構わず、皐月はお姉さんたちに手を振って別れた。
清水寺は平安遷都より前、奈良時代の終わりの778年に開かれた。だがここの堂塔伽藍は何度も焼失していて、現在の建物の多くは徳川家光の寄進によって再建されたものだ。
目の前にある仁王門は丹塗りの赤が美しく、入母屋造りの屋根は檜皮葺きで重厚かつ雅だ。仁王門は応仁の乱で消失したが、室町時代に再建された。
高さ14mのこの楼門はただ大きいだけではない。白壁と赤い柱のコントラスト、金剛力士像を守る格子に組まれた緑色の木柵、茶色の檜皮という配色が青い空に映えて美しい。
皐月たちは仁王門の急な石階を上った。左右の狛犬の警護を突破して階段を上り切ると、今度は仁王像が待ち受けている。
「金剛力士像って、どこの寺のも迫力あるよな」
「皐月は小さい頃、豊川稲荷の仁王像が怖くて泣いてたよね」
「うるせーよ、バカ」
真理が余計なことを言うので、絵梨花と千由紀に笑われた。秀真は写真を撮りながら歩いているので、少し遅れて石段上り終えた。
「秀真、写真撮りまくってるじゃん」
「せっかく現地に来たんだから、ネットで見られないような写真を撮っておかないとね」
「建物ばかり撮ってたら女子に怒られるぞ?」
「大丈夫。なるべく誰かを入れて撮るようにしているから。ほら、皐月も撮ってあげるよ」
階段を少し下りた秀真は皐月を見上げるように写真を撮った。秀真の目当ては藤原行成による軒下の扁額のようだ。
仁王門を抜けると、左手に鐘楼が、右手に西門があり、西門の奥には三重塔がある。空を背にしたその並びが丹塗りの朱色と音羽山の森の緑の彩りに相俟って美しい。
西門に至る階段はあるが、そこは誰も通れないようになっている。皐月たちは西門の左脇の緩やかな石階を上って、鐘楼と西門の間を抜けた。
「ねえ皐月、西門ってなんで通れないの?」
「それはね、今も昔も天皇と天皇の勅使しか通っちゃだめな門らしいよ。真理、勅使ってわかる?」
「わかるよ、天皇の使いのことでしょ。景色が良さそうなのに見られないなんて、もったいないな」
「門の周りからなら見られるよ。西門から見る日の入りがすごく美しいんだって。夕陽を見ながら極楽浄土を想うだけの日想観っていう修行もあるらしいよ」
「癒されそうな修行だね。そんな修行なら私もやってみたいな」
石の階を上り切ると、石畳の参道の右手には三重塔が、正面には随求堂がある。
三重塔は高さ約30mもある朱色が美しい丹塗りの塔で、清水寺のシンボルともいえよう。皐月たちもこの三重塔を見て、遠く離れたところから清水寺の位置を知った。塔内には大日如来像が祀られている。
三重塔を前にして、秀真が立ち止まって話しかけてきた。他の5人も歩みを止めて、秀真の言葉に耳を傾けた。
「皐月、大日如来って天照大御神のことだっけ?」
「神仏習合の解釈だとね。でも仏教だと宇宙の中心とか宇宙の真理とか、そんなわけわかんない絶対神みたいになってる。俺は大日如来のことを天之御中主神か天之常立神じゃないかって思ってるんだけど」
秀真は事前学習で神仏のことを熱心に調べていたので、大日如来のことはよく知っているはずだ。対抗心の湧いた皐月はここで根拠のない思いつきをぶつけてみた。
「大日如来は真言宗の本尊だね。清水寺って法相宗だけじゃなく真言宗も兼ねていたんだよね」
絵梨花は中学受験の勉強もあるのに、修学旅行に備えて仏教のことを調べていた。学活の時間に修学旅行の下調べをしている時、絵梨花がオカルトに興味がありそうだと知り、皐月と秀真は大いに喜んだ。秀真は皐月を出しにして絵梨花に話しかけたいだけだった。
「そうそう。平安時代と言ったら天台宗と真言宗だから、清水寺だって両方の影響を受けているよ。清水寺の本尊の観音様の教えは天台宗の経典の法華経に説かれているからね」
「神谷さん、凄~い! 私、そこまで詳しいこと知らなかった」
絵梨花に褒められて、秀真がとても嬉しそうだった。この瞬間のために秀真は神仏の勉強を頑張っていたのだろう。秀真のいじらしさに皐月は感動を覚え、思いつきでしか物を言えない自分のことが恥ずかしくなった。
「ねえ、あの人だかりってなんだろうね?」
真理が指差したのは随求堂の「胎内めぐり」の受け付けにいる人たちのことだった。修学旅行の中学生や日本人の男女が集まっていた。
胎内めぐりとは清水寺の呼び物のようなものだ。地下にある洞窟は大随求菩薩の胎内を表していて、その暗闇の中を歩いて外に出ると、その人は身も心も新しく生まれ変わるというものだ。
「栗林さん、どうする? 胎内めぐりやってみたい?」
千由紀が真理に話しかけ、絵梨花は二人の様子を眺めていた。女子3人が胎内めぐりに興味がありそうだったので、皐月たち男子3人は先に進んだ。
「私はやめておく。面白そうだとは思うけど、今は清水の舞台とか他のことに時間を使いたい。胎内めぐりは修学旅行じゃなくて観光で来た時にやってみようかな。吉口さんはどうする?」
「う~ん。こういう遊びは積極的にやってみたい方なんだけど、やっぱり時間が足りないからできないな。みんな修学旅行だからって割り切ることができて、すごいよね。私は要領が悪いっていうか、ちょっとでも気持ちが残るものって簡単に切り捨てられない」
「その気持ちわかる~。私も以前は有意義だなって思うものを切ることができなかった。でも時間がなくなってきて、そんなことも言ってられなくなっちゃって……」
「受験勉強?」
「うん。優先順位をつけて勉強してたんだけど、もう最優先でしなきゃいけないことからやるようにした。何をすべきかきっちり選んで、やった方がいいってレベルのものはバッサリと切り捨てた。そうしたら成績が上がったよ」
絵梨花は真理と千由紀が話している間、お堂に祀られている大随求菩薩像に手を合わせていた。
皐月たちは三重塔を抜け、経堂の前の藤棚のベンチに腰を掛けていた。経堂を眺めながら女子たちが追いついてくるのを待つことにした。
「この経堂に一切経って言われている仏教の経典が所蔵されていたんだって。図書館みたいなものかな。仏典の研究をしたい僧が全国から来てたらしいね。なんかそういう情熱って感動するな……。秀真もそう思わん?」
「そうだね……。僕は皐月ほど感動しているわけじゃないけど、でも同じ志を持ったもの同士で経典を読んだり、写経したり、議論したりするのは楽しいかもしれないね」
「だろ? それって興奮するじゃん!」
「皐月はそういうことをしたいって思うから興奮するんだろうけど、僕はそんな優秀でやる気がある奴らに囲まれたら委縮しちゃうよ」
皐月と秀真が話しているところに比呂志が加わってきた。
「藤城氏と神谷氏が話していることって、今で言えば大学で仏教を学ぶってことだよね?」
「そうなのかな……そうかもしれないけど、なんか違うような気もする」
皐月は比呂志の言う大学という言葉に違和感を感じていた。まだ小学生の皐月には大学の実態が想像できない。皐月は古に仏の道を極めんとして清水寺に学びに来る僧にロマンを感じていた。
「お待たせ~」
絵梨花が手を振りながら、真理と千由紀と一緒に戻ってきた。三重塔を背にして歩いてくる三人を秀真が撮影した。
「あれっ? 早かったね。胎内めぐりやってくるかと思った」
「今回はパス。また今度来た時にやる」
「なんだ、真理。またここに来るのか?」
「来るよ。当たり前でしょ。修学旅行で回るところはこの先何度でも訪れることになると思うよ。皐月だってそうでしょ?」
「まあ、そうだよな」
真理は晴れやかな顔をしていた。修学旅行が楽しいんだな、と思った。
「受験が終わったら二人で来ようね」
耳元で真理が囁いた。皐月はこの修学旅行で初めて真理に色気を感じた。何度でも訪れたいのは同じだし、皐月も真理と二人で再び清水寺を訪れたいと思っていた。真理の言葉で皐月も秀真の言うように、この修学旅行はいつかの観光旅行のリハーサルにしようと思った。
「チケットを買おう。どんどん先に進もうよ」
「窓口がたくさんあるから、みんなで一斉に買えて効率がいいね」
千由紀の催促に比呂志が応えた。二人は席が隣同士になったことで心理的距離が縮まっているようだ。
この先は有料エリアになる。入館料は大人400円、小人200円だ。秀真は真っ先にすぐ近くの窓口で拝観券を買い、チケットを買っている皐月たちの写真を撮り始めた。拝観券受付はただのチケット売り場なのに、切妻屋根は檜皮葺きになっているなど、立派な作りになっていて写真映えがする。
「皐月、お金持ってるの? さっき店で聞いてたよ。あと70円しかないんだよね?」
「大丈夫。ちゃんと余分に持ってきているから」
「小銭ある? ここはコンビニと違って現金しか受け付けないみたいだよ」
「500円玉いっぱい持って来たから大丈夫。そのへんは抜かりがないよ。真理はおせっかいだな」
拝観券は清水寺の象徴の三重塔と本堂の舞台が描かれていて、季節ごとにデザインが変えられている。今は秋なので、オレンジを基調に紅葉があしらわれていた。
「この拝観券、本の栞に丁度いい。嬉しい……」
千由紀がチケットを見ながらニコニコしていた。拝観券は栞にされることを想定してデザインされているような大きさだ。
「俺も本の栞にしようかな」
「私は傷まないようにラミネートするけど、藤城君のもやってあげようか?」
「本当? じゃあお願いしちゃおうかな」
秀真は受付の前にある田村堂の写真を撮っていた。先を急ぐ人が多いため、田村堂に見入っている人はほとんどいなかった。真理と絵梨花は秀真の撮影が終わるのを待っていた。
「ねえ絵梨花ちゃん。征夷大将軍って幕府の将軍っていうイメージなんだけど、坂上田村麻呂の頃は幕府なんてなかったし、頼朝や家康とはなんか違う気がするんだけど」
「平安時代の征夷大将軍は蝦夷を征伐する将軍っていう意味だったからね」
「そっか……征夷の夷は蝦夷のことか。征夷大将軍ってそのまんまの意味だったんだ」
「清水寺って坂上田村麻呂が蝦夷征伐の勝利を願って作ったんだよ」
清水寺は平安遷都より前、奈良時代の終わりの778年に賢心(後の延鎮)が山を開き、780年に坂上田村麻呂が自分の家を本堂として寄進したのが始まりだ。
「お待たせ~。みんなチケット買ったから行こうか。ここが田村を祀るお堂か」
「ちょっと皐月。田村って略し過ぎ!」
「なんで? 真理だって信長とか秀吉とか言うじゃん。坂上田村麻呂だって名前で呼ぶよ」
「それなら田村麻呂でしょ?」
「名前、長いじゃん。それにここは田村堂だろ? 田村麻呂堂じゃないから、田村って呼んでもいいじゃないの? でも田村って名前なのに名字みたいだな。栗林藤城麻呂みたいな」
「バカじゃないの?」
轟門の手前の轟橋の左脇に参拝前に手や口を清める手水鉢がある。皐月たちは龍の口から流れ出る水を柄杓で受けて、口と手を清めた。
「轟門って格好いいよな。ザ・お寺って感じ。木の切り口が白く塗られているのもお洒落だね」
「皐月って旅レポ下手だね」
「うるせーよ、真理」
「私は藤城君のお話聞くの好きだよ」
千由紀に褒められ、皐月は戸惑った。小説を書く千由紀には新幹線の中で車窓を言葉にした時に面白さを伝えることができなかったからだ。
「藤城君は瞬時に率直な感想を言ってくれる。そういうことを言ってくれる人と旅行すると楽しいと思う」
「そう……そうなんだよ。下手でも見てすぐ感想を言えるのが俺のいいところなんだよ。わかったか、真理」
皐月が千由紀にデレデレしているところに秀真がやって来た。
「僕はちょっと本堂に行く前に見たいところがあるから、みんな先に行っててよ」
「私は御手洗いに寄りたいから、吉口さん先に行ってて」
「わかった。清水の舞台で待ってる」
皐月と千由紀、絵梨花と比呂志は先に轟門で拝観券を見せ、有料ゾーンに入った。真理が御手洗いに向かって歩いていると、秀真も後を歩いて来た。
「神谷君、何が見たかったの?」
「弁財天の祠があるんだ。前から弁財天のことは気にしてるんだ」
「へぇ~。弁財天だから金運アップの御利益でもあるの?」
「僕は御利益には興味ない。奈良の天河辨財天に興味があるから、他の弁財天もちょっと気になるって感じ。それに清水寺の弁財天はいい雰囲気だから、写真を撮っておきたくて」
「写真撮るの、ほとんど神谷君に任せっきりになっちゃってるね。ごめん」
「いいよ。僕も好きに撮らせてもらってるから。かえって嬉しいくらいだ」
真理と秀真は田村堂の角で二手に分かれ、秀真は真っ直ぐ進んで弁天堂のところへ行き、真理は右に曲がって御手洗いに行った。
弁財天とはヒンドゥー教の女神、サラスヴァティーのことだ。仏教に取り込まれて弁財天と呼ばれるようになった。本地垂迹では市杵嶋姫命に比定されている。
秀真は祠の前に行き、賽銭を入れて神社の作法にのっとり手を合わせた。参拝が終わると、秀真は小声で真言を唱え始めた。
「オン・ソラソバテイエイ・ソワカ」
秀真は初めて社殿の前で真言を唱えた。今までは神前で祝詞ですら奏上したこともなかったので、秀真にしては思い切ったことをした。これは修学旅行でテンションが上がっていたからできたことだ。人に聞かれないかとドキドキしながら3回真言を唱えると、ひと仕事終えたような達成感があった。
真理がトイレから出てくると、秀真がまだ弁天堂を見ていた。
「まだ行っていなかったの?」
「栗林さんのこと待ってた」
「先に行っちゃえばよかったのに。でも、ありがとう。せっかくだから弁天堂で私の写真を撮ってよ」
「……うん、いいよ。栗林さんでもそういうこと言うんだね」
「変かな? 神谷君って私のこと何だと思ってたの?」
「勉強ができるクールな少女」
「何それ。少女しか合ってないじゃない」
秀真は真理を連れて弁天堂の正面の端の前までやって来た。清水寺の弁天堂は弁天池と呼ばれる池の中の小島にある。よく手入れされた境内はお寺の中の神社といった感じがする。
「ちょっとここで待ってて。僕は撮影場所まで移動するから」
秀真は走って弁天堂の左にある橋の上まで行き、三重塔が背景に入るところで真理の写真を撮った。次に真理を秀真のいる橋の袂に立たせ、池の辺の樹の下からもう一枚写真を撮った。撮影を終え、秀真は真理を呼び寄せた。
「神谷君。私の写真、可愛く撮れた?」
「……うん」
「みんなのとこに行こ」
「うん」
秀真と真理は皐月たちに遅れて轟門をくぐった。真理が秀真の先に立って歩いていた。
轟門を抜けると重厚な渡り廊下がある。梁に吊るされた釣灯籠はUFOのように金色に輝いていた。渡り廊下の正面の車寄に大きな錫杖と鉄の高下駄が置かれていた。
「これって弁慶が使っていた下駄なんだって」
「こんなの履いてたら動けないよね。特訓か修行でもしてたのかな?」
「栗林さんはそういう風に考えるんだ。僕はこんな重い下駄を履いて動ける弁慶って凄いって思っちゃった」
「神谷君って純粋なんだね」
真理に笑われて、秀真は頬を染めた。この頬の熱さの半分は子供扱いをされた恥ずかしさだった。
錫杖の奥には出世大黒天の像が置かれていた。像の手前に賽銭箱が置かれていたが、この大黒天に仏像のような威厳はなかった。
「なんか怖いね。半笑いの目と口が怖い」
「そう? 僕は親しみやすいっていうか、面白いって思うけどな。もしかして栗林さんって怖がり?」
「まあ、そうかな……。この大黒天ってどうして肌が黒いの?」
「大黒天はインドのマハーカーラっていう神のことなんだけど、このマハーカーラの肌が黒かったから、出世大黒天はそれを忠実に再現したんじゃないかな。マハーカーラの肌が黒い理由は知らないけど」
「凄い! 神谷君、なんでそんなに詳しいの?」
「修学旅行前にみんなで予習しておこうって言ってたでしょ? 僕は神仏だけを勉強しておいたんだ。自分も興味があるしね。でも宗教のこととか歴史のことはさっぱり分からない。時間が足りなかったな……」
「私は受験勉強ばかりしてた。……ごめんね」
「いいよ。今みたいに分からないことを聞いてくれると、こっちも知識を披露できる機会をもらえるから楽しい」
絵梨花だけでなく、真理にも褒められて秀真は生まれて初めて味わう歓びを感じていた。
本堂の檜舞台に出ると、皐月と比呂志が欄干に手を掛けて景色を眺めていた。絵梨花と千由紀は檜舞台にいなかった。
「お待たせ~。絵梨花ちゃんと吉口さんは?」
「ああ、二人は礼堂で仏像を見てるよ。二橋さんは仏像が好きだからね~」
「皐月は仏像見たの?」
「まあ一応」
「絵梨花ちゃんたちみたいにちゃんと見なかったんだ」
皐月は絵梨花の仏像好きについて行けないと感じていた。あれは絵梨花の推し活なのかもしれない。
「そういうわけじゃないけどさ……俺、昔からああいう仄暗い空間って苦手なんだよな。それに内陣には本尊がないって言うじゃん。だから、まあいいやって思って。身代りに手を合わせてもなんだかな……」
「藤城氏、そういうバチ当たりなことを言うもんじゃないよ。僕は十分感動したけどな」
「じゃあ岩原氏はどうして俺と一緒に出てきたんだよ?」
「まあ、僕も外からの参拝で十分満足したってことで」
清水寺の本殿の本尊は人々を苦難から救う十一面千手観世音菩薩だ。内陣の奥の内々陣には秘仏、十一面千手観音立像が安置されているが、参拝客はその仏像を拝むことができない。代わりに前立仏として本尊と同じ姿を縮尺した仏像を拝むことになる。
「屋根のない舞台って開放的で気持ちがいいよな。真理もこっちに来て、下を見てみろよ」
「ここ、前下がりで怖くない? なんか下に転がり落ちそうなんだけど」
「清水の舞台から飛び降りても生存率80%だっていう話だから、落ちても割と大丈夫みたい」
「死ぬに決まってるでしょ!」
真理と秀真も欄干の所まで来て、檜舞台からの眼下の景色を見た。舞台からは音羽の瀧も見えた。秀真はスマホで音羽の瀧や、舞台から見た風景の写真を撮り始めた。
「ここからの景色は悪くないけど、特に絶景っていうわけでもないね」
「真理もそう思った? 俺も『あれっ?』って思った。目の前の森はいい眺めだよね。子安塔の向こうに阿弥陀ヶ峰が見えるのも悪くない。でも街は遠すぎるし、ちょっとしか見えない。さっきあさひ坂の展望台で見た景色の方が良かったかも」
清水の舞台からは樹々の向こうに京都の街並みが見える。街並みと言っても現代の集合住宅や雑居ビルで、その中に京都タワーが聳え立っているだけだ。
街の解像度を上げたければ西門の横から見た方がよい。そこから山下の景色を眺めると参道を行き交う人々や土産物屋や門前町に暮らす人々の家もよく見える。遠くには五山送り火の左大文字で有名な大文字山も見える。
「私も本尊にお参りしてこようかな。神谷君、一緒に行こ?」
「あ……うん。皐月、スマホ頼むわ」
皐月は舞台をうろうろしながら写真を撮っていた秀真からスマホを受け取った。その時の秀真の顔がどことなく遠慮がちに見えた。秀真は皐月と真理の仲の良いところを間近で見てきた。秀真なりに皐月と真理の仲を気にしているのかもしれない。
真理と秀真が二人で参拝に行く後姿を見ていると、皐月はモヤモヤしたものを感じた。真理が自分以外の男と二人で連れ立って歩いているのを初めて見た。
秀真と真理は教室で皐月の席の前で並んでいる。二人は最近、修学旅行をきっかけにしてときどき雑談をするようになった。真理も秀真も異性に対して気安く話せるタイプではないので、二人の変化を喜んでいたが、皐月はこの時初めて真理のことで秀真に嫉妬した。