分不相応な恋(皐月物語 114)
豊橋の中心街に入ると、明日美の運転に集中力が高まっているように感じた。スマホのナビを見ると、もうすぐ目的地だ。豊橋の駅前大通には路面電車が走っている。鉄ヲタの藤城皐月はテンションが上がってきたが、明日美は慣れない道のドライブに緊張しているようだ。
「明日美、あのビルのところに駐車場があるみたいだよ」
「もうそこに停めちゃおうか。お店に駐車場があるかどうか、わからないし」
24階建ての白い高層ビル「emCAMPUS」の地下には豊橋まちちか駐車場がある。その駐車場を出ると、すぐに水上ビルと呼ばれる、長屋ビル群の大豊商店街がある。皐月たちの向かうアパレルショップはその商店街の店舗だ。
水上ビルとは東西 800m にわたって連なる、昭和30年代に建てられた板状建築物群の通称だ。水上ビルはレトロな外観がそそるディープな商店街で、豊橋ビル、大豊ビル、大手ビルの3群を総称したものだ。それらは暗渠化された牟呂用水の上に建設されているため、水上ビルと呼ばれている。このトリッキーな建物は今の法律では違法建築になってしまうので建て替えができないらしい。水上ビルは耐用限界が近づいているため、近い将来に取り壊されることが運命づけられている、儚い空気を纏う建築物群だ。
明日美は駅前大通から地下駐車場に辷り込ませた。車で地下に潜っていくのは皐月には初めての経験だ。世界中で軍事衝突が起こっている昨今、皐月はこの地下駐車場に核シェルターを連想して、変な興奮をした。この瞬間、愛知県に核攻撃がなされたとしても、地下に避難している皐月と明日美はワンチャン生き残って、荒廃した新世界のアダムとエバになれるんじゃないか、と中二病的な妄想した。
駐車場の中は空いていて、大きなレジェンド・クーペでも取り回しがしやすそうだ。地下なのに照明で明るく、皐月の想像していた以上に健全な空間だ。明日美は前後左右に車が止められていないところを選んで、悠々と前から車室に車を入れた。明日美がホルダーからスマホを外したので、皐月も Spotify の音楽を止め、FMトランスミッターからスマホを外した。車内はエアコンの小さなモーター音と、静かなエンジン音だけしか聞こえなくなった。
「ふう……着いた」
「お疲れ様。明日美の運転、思ったよりも上手かったよ」
「車がいいのよ。レジェンドは古くても、一応高級車だから」
エンジンを切ると、車内はさらに静かになった。皐月はこの静寂の中で、ずっと明日美と二人きりでいられたらと思い、もう服を買うことなんてどうでもよくなっていた。明日美はバッグから眼鏡ケースを取り出して、黒縁の太いフレームの眼鏡をかけた。眼鏡に度が入っていないことを皐月はわかっていた。
「やっぱり眼鏡、かけるんだ」
「これがないと落ち着かないのよね」
以前、明日美と二人で検番から家に帰る時に眼鏡姿の明日美を見た。美しい明日美でも、この眼鏡をかけていると地味で目立たなくなっていた。だが今日は髪型もメイクも違っているので、眼鏡をかけていても華やかさが漏れ出している。
「じゃあ、行こうか」
「えっ? ……」
「どうしたの?」
「さっき、後で抱きしめてくれるって言ったじゃん」
「こんな所で? 監視カメラに映っちゃうよ?」
皐月の言葉をあっさりと躱した明日美は先に車を出ようとした。皐月もあわてて助手席のドアを開けた。レジェンドのフロントドアは大きくて重かった。
豊橋まちちか駐車場にある事前精算機の横を抜け、緑の看板に描かれた案内を頼りに、スロープすぐの自動ドアから emCAMPUS EAST という複合施設に入った。ここは商業施設や行政施設のほか、図書館やオフィス、住宅(129戸)が入居している。皐月と明日美は1階の emCAMPUS FOOD には寄らず、外へ出た。
地上には豊橋市まちなか広場という、かつてあった狭間児童広場を再整備した美しいエリアがある。皐月たちは多目的空間という楕円形のイベントスペースから左へ進んだ。みどりの空間というアンジュレーションを横目に見ながら並木通りを抜けると水上ビルのある大豊商店街に出られる。
「きれいな所だな~。ビルもでっかいし、都会みたい」
「皐月は都会に憧れているの?」
「うん。最近ちょっと憧れ始めた。真理が名古屋の中学に行くって言ってたり、頼子さんの子の祐希さんも高校卒業したら東京へ行きたいって言ってるから、影響を受けたのかも」
「じゃあ、皐月は大人になったら都会に出ていくのかな?」
「……わかんないけど、一度は住んでみたい」
並木通りを抜け、水上ビルが並ぶ通りに出た。背の低いビルが横に長く広がり、1階の高さでアーケードが作られている。令和のキラキラした emCAMPUS とは対照的で、昭和のノスタルジックなアーケード街が味わい深い。皐月の住む豊川商店街も大概古いが、水上ビルはガチだ。豊川駅前の商店街や豊川稲荷の表参道は戸別になっているので徐々に建て替えが進んでいるが、水上ビルの店は大きなビルのテナントなので、古い建物がそのまま残っている。
昭和の雰囲気は水上ビルの方が圧倒的だ。昔は水上ビルも華やかだったのだろうが、現在ではタイルで粧飾された外観や、アルミサッシ丸出しの窓もレトロの味になっている。アーケードの錆びた柱や金具、色褪せたり禿げたりした塗装などが今でいう昭和の雰囲気ということになるのかもしれない。経年劣化したコンクリートやタイルの外観の店舗に、その古さを利用したレトロな作りや、抗うように個性的なファサードの店が立ち並んでいる。
「ヤベ~。こっちも面白いや」
「皐月はレトロも好きなのね」
「小百合寮も昭和の建物だから、こういう場所は落ち着くのかな。昭和の歌謡曲も好きだし」
「検番の建物も昔のままだよね。私のしている芸妓って仕事も昭和の仕事って感じだし……」
皐月には明日美がこの場の雰囲気を楽しんでいないように見えた。よくよく考えてみると、皐月は明日美が無邪気に楽しんでいる姿をまだ見たことがない。それでも自分のことを猫可愛がりしていた時の明日美は嬉しそうにしていたと思う。
「ねえ、皐月。この店じゃない?」
「もう着いちゃった……」
皐月たちが目指す『コンパル』は emCAMPUS から近かった。皐月は大回りをしてでもこの商店街を見て回りたいと思ったが、明日美のことを気遣って店に直行した。
コンパルは店の外から中が見えにくいファサードデザインになっていた。無機質でお洒落な感じはするが、店舗の中に入るのには少しだけ勇気がいる。皐月が店に入るのを躊躇して小さな窓から店の中を見ていると、明日美は扉を開けてさっさと店の中に入っていった。
「いらっしゃいませ」
落ち着いたトーンで男性の店員に声をかけられた。明日美が軽くお辞儀をしたので、皐月もそれに倣って軽く頭を下げた。店員はその男性一人しかいなかったので、彼が店長なのだろう。
コンパルの店内は皐月の近所にあるアパレルショップとは違い、陳列されている服の量が少ない。この店はいろいろなブランドの服が店主の販売コンセプトに沿って置いてあるセレクトショップだ。
皐月は小中学生の女の子向けのファッション雑誌を読むことがある。掲載されている商品はお小遣いの範囲でも買えそうな価格なのに、この店の服は子供が買える金額ではない。だから皐月はこの店を候補から除外したのだが、明日美がこの店に決めてしまった。
この店の服はモノトーンの配色で統一されている。明日美が価格を気にしないでこの店に決めたのは、売られている服が明日美の好みだからなのだろう。皐月は実際に店に来て、店内に身を置いていると場違い感に困惑した。
明日美が黒のテーパードパンツの前で立ち止まって商品を物色し始めた。
「ねえ、皐月って身長何センチ?」
「前に身体検査で身長を測った時は162cmだったけれど、あれから背が伸びたって言われるようになったから、165cmくらいはあるんじゃないかな?」
「う~ん。じゃあサイズはSかな? Mでもいけるかな?」
皐月の年頃になると、子供服では小さすぎ、メンズだと大きすぎてしまう。母の小百合が服選びで悩むと言うので、皐月は学校指定の体操服の短パンばかり穿いている。
明日美はすぐに候補を決めた。黒のテーパードパンツで、2プリーツのスラックスだ。今穿いているチノパンとシルエットが違い、裾に向かって細くなっている。これなら脚がスリムに見えそうだ
「明日美の選んだパンツって、Mサイズより上しかないんじゃないの?」
他のボトムスを見てもSサイズは見つからない。皐月はここに来て初めて小百合の悩みを理解した。
「店長さんに聞いてみよう」
明日美がチラッと店長の方を見ると、穏やかな笑顔でゆっくりと近付いてきた。
「すみません。この店はSサイズを置いていないんですか?」
「申し訳ございません。店舗にはMサイズからしか置いていないんです。取り寄せすることもできますが、ウエストを詰めることもできますよ」
皐月はこのパンツが気に入ったので、何とかこれに決めたいと思った。Sサイズを買っても、どうせすぐに穿けなくなりそうな気がしたので、オーバーサイズを買って直した方がいいんじゃないかと思った。
「試着してみたいな……。お姉ちゃん、いけそうだったらこれに決めちゃってもいい?」
皐月はあえて明日美のことをお姉ちゃんと呼んでみた。店長に姉弟だと思わせたいからだ。明日美は一瞬驚いたが、すぐに元の表情に戻った。
「いいけど、他に見なくてもいいの?」
「いい。俺、このパンツ気に入っちゃったから」
皐月は店長に案内されて試着室に入り、パンツを穿き替えた。予想通り、ウエストのサイズがメンズのMサイズでは太過ぎた。試着室のカーテンを開け、店長に見てもらうと、彼はお尻のベルトループの辺りを摘んで、チャコペンで印をつけた。
「これくらいならウエストを詰めても形が崩れないので、きれいに直せますよ」
ウエストをピン止めして、テーパードパンツを穿いた姿を鏡で見てみると、確かにデザインのバランスは崩れていない。ウエストが絞られたことで、むしろ皐月の好みになっている感じがした。
「身体が大きくなったら元のサイズに戻せます。当店にお持ちしていただけましたら、無料でお直しします。その時に裾の丈出しもしますよ」
「本当ですか? 嬉しいな。でも元に戻すのは自分でやってみたいから、やり方を教えてもらえますか?」
「わかりました。お直しする時にご説明しますね。では裾上げの寸法を測らせてもらいます」
「あの……これからも身長が伸びると思うのですが、裾の長さって自分でも変えられますか?」
「はい。ご自身で裾直しをされる方もいらっしゃいますよ。縫製しないで『すそ上げテープ』というものを手芸センターで買って、アイロンで接着して寸法を直す方法もあります。このテーパードパンツはアイロンを使えるので、すそ上げテープはお薦めです」
「へ~。じゃあ自分でなんとかなりそうだな……。お姉ちゃん、これ似合ってる?」
「うん。格好いいよ。よく似合ってる。女の子にモテモテになっちゃうね」
皐月には明日美の考えていることがよくわからなかった。明日美は本気で他の女にモテていいと言っているのが、あるいは姉の振りをして弟に彼女ができることを望んでいるのか。
「すみません。これ、買います」
「ありがとうございます」
皐月はモヤモヤを振り払うように購入を決めた。試着室のカーテンを閉め、ボトムスを穿き替えた。脱いだテーパードパンツを店長に渡すと、縫製をする作業場までついて来るように言われ、直しの手順を教えてもらった。作業手順の写真を撮らせてもらえたので、元に戻すだけなら迷いなく自分でもできそうだ。直しは10分もかからないらしい。
この間、明日美は皐月のトップスを選んでいた。皐月が明日美のもとへ行くと、すでに選び終わっていたようだ。
「皐月、私のことお姉ちゃんって呼んだね。店員さんに姉弟と思わせてくれたんだね」
「だってしょうがないじゃん。俺が恋人じゃ、幼過ぎるだろ? 明日美に恥をかかせちゃうじゃん」
「皐月は気が利くんだね。でも、そんなことしたら辛くなっちゃうでしょ? いいのよ、恋人として振る舞ってくれても」
「ダメだよ。大人が小学生と付き合ったら犯罪だろ? やっぱりバレないように気をつけなきゃ……」
「大丈夫よ。誰も私たちが付き合っているなんて思わないから」
それはそれで屈辱的だな、と皐月は悔しかった。早く背を伸ばして、体つきも大きくしたいと思った。見た目の雰囲気や立ち振る舞いなら、背伸びをすれば大人っぽくなれるかもしれない。今はその方向で頑張るしかないと皐月は今後の身の振り方を固めた。
「ちょっとこの服、合わせてみて」
明日美に手渡されたのは白のクルーネックニットだった。白いルーズフィットのトップスと黒のテーパードパンツの組み合わせはコントラストが強く、小学生にしては華やかに見え、色気がありすぎるような気がした。ユニセックスな感じが明日美の好みなのか。ストリートっぽいのは皐月の好みでもある。
「これならテーパードパンツとよく合うね。俺、この服気に入ったよ。でも両方買うと高すぎない?」
「思ったよりも安いね」
「高いよっ!」
母が考えていた予算は1万円だが、ここで買うものは上下合わせると4万円を超えている。皐月は明日美にこんな金額を出させることへの罪悪感と、母から預かったお金を自分のものにする背徳感で情緒不安定になってきた。
「でもいいじゃない。皐月に似合っているんだし。それに皐月が格好良くなると、私が嬉しいから」
「さっき俺が女の子にモテモテになっちゃうねって言ったよな。俺が他の女からモテてもいいのかよ?」
「私はナンバーワンの芸妓なのよ。皐月はそんな私のことが好きなんでしょ?」
「……うん」
「私も皐月が学校で一番人気になったら嬉しいな」
明日美が芸妓の顔になっていた。のみならずナンバーワンの威厳さえ漂わせていた。確かに皐月は時々見せる明日美の芸妓としての妖艶な美しさに惹かれていたが、今の明日美は皐月には近寄りがたい格の違いを感じる。今更ながら、皐月は明日美との恋を分不相応だと思い知らされた。
「でも、あんまり皐月が他の女の子からチヤホヤされると、嫉妬しちゃうかも……」
「大丈夫だよ。俺、モテねえから」
明日美の顔が芸妓から普通の女の子の顔に戻っていた。これでは自分のことを大好きな筒井美耶や、自分のことを好きかもしれない江嶋華鈴となんら変わらないと思った。
「じゃあ、そういうことにしておいてね」
明日美は微笑んでいるが、皐月には明日美の顔が今にも壊れてしまいそうなガラスの仮面に見えなくもなかった。