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泣きたくなるような幸せ(皐月物語 167)
藤城皐月は後ろの席の吉口千由紀と修学旅行での約束を果たすべく、夏休みの自由研究を学校へ持ってきた。自由研究のレポートには豊川市内の全ての駅のデータと訪問記が書かれている。
「藤城君。これ、タイトルが悪いよ。『豊川市全駅データ』なんて、やっつけ仕事にしか見えない」
「ははは……。まあ宿題だし、適当に書いたから」
「私は鉄道に興味がないから、目を通そうとも思わなかったよ。完全にスルーしちゃった。表紙のどこかに訪問記って書いてあったら読んだのに」
「タイトルを見ただけじゃ、中に訪問記があるかなんてわからないからね。別に人から注目を浴びたいわけじゃなかったから、これでいいんだよ」
皐月は夏休み中に豊川市内の全駅に足を運んで、見たことや感じたことをエッセイにまとめ、宿題として提出した。データはウィキペディアを丸写しした手抜きだが、エッセイは皐月のオリジナルだ。
千由紀の目当てはこの訪問記だ。千由紀は栗林真理が自由研究で茶吉尼天について書いたレポートを読み、真理に文才を感じていた。だが、そのレポートが皐月によって書かれたものだと知り、皐月の駅の訪問記を読んでみたくなったという。
「藤城氏のレポートはなかなかの力作だよ。将来はトラベルライターになれるかもね」
鉄オタの岩原比呂志に褒められ、皐月は悪い気がしなかった。自分では訪問記を力作だと思っていた。だが、文学少女で自分でも小説を書く千由紀に見られるのは恥ずかしい。
「岩原氏は俺の駅訪問の全てに付き合ってくれたんだよね。本当に感謝している」
「僕も藤城氏のお陰で駅訪問の面白さに目覚めたからね。一生かけて日本中の駅巡りをするっていう目標ができた」
三人で話していると、皐月の隣の席の二橋絵梨花が興味を示した。皐月の前の席の栗林真理と神谷秀真も振り向いた。結局、修学旅行の班の六人で皐月の豊川市全駅訪問記について話すことになった。
「吉口さん。読み終わったら、私も藤城さんの自由研究を読ませてもらっていい?」
「それは藤城君に聞いてみよう。藤城君、二橋さんにも見せていい?」
「もちろんいいけど、駅の話なんか面白いのかな?」
「鉄道好きの人が駅で何を感じているのかが面白そう」
小説を書いている千由紀が自分の訪問記に興味を示すのはわかるが、絵梨花が自分の書く文章に興味を持つとは思わなかった。皐月は絵梨花が自分に訪問記への興味以上の関心を示しているように感じた。真理の絵梨花を見る目つきが一瞬だけ険しくなった。
「僕も神社仏閣の訪問記を書いてみようかな。皐月も書かない?」
秀真が嬉しそうに皐月に話しかけてきた。
「宿題でもないのに? 備忘録みたいな感じでってこと?」
「そういうのもいいけど、エッセイをネットに載せてもいいし、動画制作をするのも面白そうだ」
「うえ~っ! 面倒じゃん。俺、パス」
秀真も皐月や比呂志のように凝り性なところがある。だが、皐月には秀真の向かう方向が間違っているような気がした。
「秀真さ、俺たちってもっと他にやることがあるんじゃないの? 俺は修学旅行から帰ってから聖徳太子周辺の勉強を始めようかと思ってる。自分の知識のなさと、知識の曖昧さが嫌なんだ。まずはそこから固めていこうかなって思ってて……」
「皐月は真面目だな……。でも、言われてみるとその通りかも。地元の神社仏閣に詳しくなるよりも、歴史的に重要な神社仏閣から先に勉強した方がいいよな」
「そうそう。優先順位が大事」
皐月の言葉に真理が感心していた。
「私はそれがわからなかったから、成績がなかなか上がらなかったのよね。優先順位が大事って言っても、優先順位の上位よりも最優先を最初にやらないとダメだからね。グッドを捨てて、ベストを先にやらないと」
今度は皐月が真理の言葉に感心した。真理の成績が急上昇した理由がわかった気がした。
昼の掃除の時間に皐月と千由紀が二人になる瞬間があった。その時、千由紀が皐月に話しかけてきた。
「修学旅行の時、私の家に芥川全集を見に来たいって言ってたよね? あれ、いつにする?」
皐月はすぐに何の話か思い出せなかったが、京都行きの新幹線の中で話したことを思い出した。
「行ってもいいの?」
「うん」
「そうか……。あの時、嫌そうな感じがしたんだけど」
「それは、もういいの。藤城君は私の家がスナックだってことを知ってるし、藤城君なら私の家が水商売でも変な目で見ないと思うから」
千由紀は「家がスナックだから、飲み屋街には行きたくない」と言った。清水寺から八坂神社へ向かう時、皐月は石塀小路を通りたかった。だが、千由紀の言葉に共感したので、祇園に行くのをやめることにした。
千由紀が家のことを気にする気持ちはよくわかる。皐月も親が芸妓だということで、何度もからかわれたことがあるし、殴り合いの喧嘩になったこともある。親の仕事は自分ではどうにもならない。
「吉口さんの都合のいい日はいつ?」
「私はいつだっていいよ」
「じゃあ、明日でもいい?」
「いいよ」
皐月はこの日、芸妓の明日美の家に行く予定を入れていた。明日の水曜日は明日美にお座敷が入っているので会いに行けない。
友だちと遊ぶなら、明日美と会えない日にしなければならない。これからは頻繁に明日美に会いに行くつもりでいるので、スケジュールの管理に細心の注意を払わなければならない。
藤城皐月は一度家に帰ってから、明日美の家に行った。何度も通っているせいか、皐月にはもう緊張感はなかった。今はただ、明日美に会える喜びだけがあった。
「いらっしゃい。来てくれて嬉しい」
「俺も来たかった」
明日美は白のパーカーにグレーのスウェットを合わせていた。ラフな格好をしているが、お土産で買ってきたフリージアのピアスをしてくれていた。小さくて透明なフリージアは可憐でかわいかった。
リップの赤がいつもよりも鮮やかだ。扇情的な色で、皐月は少しらしくないと思った。いつもならどこかはかなげで透明感があるのに、この日の明日美は妙に肉感的だ。
「今日は珍しいハーブティーを淹れてあげる。ガラスのタンブラーに映えると思うよ」
「ハーブティーなんて飲むんだ。明日美はお洒落だね」
「薫ちゃんに教えてもらったの」
薫は明日美と同じ芸妓仲間だ。満の恋人で、クールな美人のレズビアンだ。皐月は薫とそれほど親しくないので、薫の趣味や私生活のことをほとんど知らない。満と会った時も薫のことをあまり話してはくれなかった。
皐月はリビングのラグマットに座り、真っ白な部屋を見回した。何度もこの部屋を訪れているうちに、この無機質な部屋にも慣れてきた。今ではすっかり落ち着けるようになっていた。
明日美が用意していたお茶のセットとお菓子を持ってきた。電気ケトルはガラスでできていて、茶こしが付いていた。このケトルは温度設定や保温ができる優れ物だ。皐月の家には鉄の薬缶しかないので、ポットの中が見えるのが格好いいと思った。
「私、ハーブティーって初めてなのよね。どんな風になるんだろう」
「初めてなんだ。明日美の部屋はシンプルだし、意識の高い暮らしをしているのかと思った」
「全然なんだな、それが。片付けが面倒だから物を置かないだけ。お茶はペットボトルで済ませることが多いし。でも、たまにはこうしてお茶を淹れるのもいいね」
明日美がケトルにティーバッグを入れると、透明なお湯が青く染まった。初めて見る青いお茶に皐月は驚いた。
「何? この青いお茶は」
「バタフライピーっていうのよ」
「バタフライピー? 変わった名前だね」
ガラスのタンブラーに注がれたハーブティーは一見、深い海を思わせるような神秘的な液体だ。しかし、湯気が立っているので入浴剤を入れたお風呂のお湯にも見える。
「飲ませてもらうね」
「どうぞ」
皐月は熱いお茶を一口飲んだ。
「これは……普通にお茶の方が美味しいかも」
「まあ、美味しいものではないよね。好んで毎日飲みたい味じゃないかな……。バタフライピーのことは薫ちゃんに教わったの」
明日美は芸妓仲間の満や薫と仲が良い。だが、プライベートで明日美が二人と行動することはない。薫が明日美のことをどう思っているかはわからないが、満は明日美に憧れている。
「薫ちゃんはバタフライピーのリキュールを使ったカクテルをいろいろ作って試しているんだって。私は家ではお酒を飲まないから、ご相伴にあずかれないな……」
「薫姐さんはお洒落なお酒が好きなんだ。満姉ちゃんは日本酒が好きなのにね。京都のお土産にお猪口を買ったんだ。明日美はどんなお酒が好きなの?」
芸妓といえば客のお酒の相手をするイメージだが、皐月には昔から明日美がお酒を好んでいるようには見えなかった。
「私はお酒が弱いの。飲むと気持ちが悪くなるし、頭も痛くなる」
「そんなんで、よく芸妓なんかやってるね?」
「そうだよね……。本来は芸妓には向いていないかも。でも、お酒の味は好きだよ。特にウイスキーが好き」
「ウイスキー! 大人だね」
明日美の部屋にはウイスキーが見当たらない。飲むならベッドサイドかリビングなので、好きと言いながらも明日美は日常的にお酒を飲んではいないようだ。
「大人かな? でも弱いから水割りとかハイボールは飲めない。それに、薄めちゃうと美味しくないから、私はストレートでお猪口の半分くらいを舐めるだけ」
「舐めるって、どういうこと?」
皐月は犬や猫がお皿を舐める絵が頭に浮かんだ。
「ほんの少しだけ口に含んで、口の中で吸収させちゃうの。胃に入っちゃうと気持ち悪くなるから、私は本当に少しずつ舐めるようにしか飲めない。でも、刺激的だし、香りがいいからウイスキーは好き」
皐月にはお酒のことはまるで想像がつかない。
皐月が母の小百合と二人で暮らしていた時、母は家で一切お酒を飲まなかった。同級生の及川頼子と一緒に暮らすようになってから晩酌をするようになった。
小百合はお座敷から帰ってくるといつもお酒に臭いをさせている。疲れていて、呂律が回らない話し方をしている母を見ていると、皐月は母が無理をしてお酒を飲んでいるようにしか見えない。
「俺のママってお酒弱いの?」
「百合姐さんは強くはないと思う。でも、お客さんに付き合って飲んでいるから、私よりは強いみたい。私がお酒を飲めないから、お座敷が一緒になると、百合姐さんが私の分まで客のお酒の相手をしてくれるの。いつも申し訳ないって思ってる……」
小百合が明日美よりも満や薫と同じお座敷になりたがる理由がわかったような気がした。お酒が強い満と薫が一緒なら、小百合はあまりお酒を飲まなくてすむ。
母の話をしていると、藤城皐月は明日美に甘えたくなってきた。
テーブルで座っていても足が触れるだけだ。手を伸ばせば触れることができるが、それだとわざとらしくなる。皐月はハーブティーを飲みながら、いたずらに時間が過ぎていくことに焦りを感じ始めた。
「ねえ。俺、本を持ってきたんだ。ベッドで横になって読んでもいい?」
「いいよ。私も隣で読もうかな」
皐月と明日美はお互いに顔を見合わせて、苦笑した。考えていることは同じだった。ただ二人ともまだ慣れていないだけだ。
皐月は文庫本を片手に、明日美のベッドの布団の中に入った。少し遅れて、明日美も文庫本を持って同じ布団に入った。皐月は芥川の『歯車』を、明日美は漱石の『こころ』を持っていた。
「今日は上着を脱がないのね?」
「脱ごうかな……。明日美の匂いがついちゃうもんね。でも、ベッドに入る前に上着を脱ぐと、これからエッチなことを始めるみたいで気が引けちゃって……」
「そんなの気にしなくてもいいのに。私もパーカー脱いじゃおうかな」
明日美はベッドに座り、パーカーを脱ぎ始めた。タンクトップの下には何もつけていなかった。皐月もシャツを脱いで、Tシャツになった。二人とも脱いだものを床に落とした。
皐月と明日美は最初だけは本を読み始めるような素振りをした。体と体が触れ合うと、二人ともすぐに本を投げ出した。ベッドに入る時点でお互いの気持ちはわかっていた。
皐月はリップが取れないよう、そっと口づけをした。唇を合わせるだけのキスをして、明日美の顔を見た。明日美は相変わらず美しかった。
「今日の口紅は色っぽいね。キスして汚したくないな……」
「じゃあ、やめる?」
明日美はいたずらな顔をしていた。
「いやだ。嫌に決まってるじゃん」
「皐月はエッチだね」
クスクスと笑う明日美を見て、皐月は汚してやりたくなった。
いつまでも明日美と体を寄せ合っていたかったが、帰りの時間が迫っていた。皐月は今頃になって明日美の食事のことを思い出した。
「今日の夕食は何?」
「そうねぇ……冷凍したお肉があるから、焼いて食べようかな」
「何の肉?」
「鶏のもも肉だけど、どうかしたの?」
「俺、鶏ももならバターで焼くのが好き。ママと二人で暮らしていた時は自分でも料理をしていたんだ。簡単な物しか作れないけど」
「バターか……。美味しそうだね」
「塩胡椒で味付けをしてたんだけど、途中でカレー粉をかけて味変するのもいいよ」
皐月は小学5年生の時、家庭科の調理実習の授業で料理の仕方を習った。それ以降は時々、食事代を浮かせるために自炊をするようになった。
「じゃあ、今夜は皐月に教わった味付けでやってみるね」
「野菜も食べなきゃダメだぞ」
「面倒だな……」
「俺が切ってあげようか? なんなら晩ご飯全部作ってもいいけど」
「皐月の料理か……食べてみたいな~。またいつか、作ってよ」
「今から作ったっていいんだよ?」
「嫌。今日はこのままがいい」
皐月は明日美に抱き寄せられ、小さな子供のように胸に顔をうずめた。床の上には文庫本とTシャツも落ちていた。
藤城皐月が家に帰ると、すでに母の小百合と及川頼子が帰っていた。夕食時間の少し前に頼子の娘の祐希が高校から帰ってきた。
この日は家族四人で穏やかに食事をした。皐月は家族の団欒の中で、一人家で食事をしている明日美を思い、切なくなっていた。それでも自分の気持ちを誰にも悟られないように明るく振る舞わなければならない。こういうのが道化なんだと思った。
食事は美味しいし、母や頼子や祐希との会話も楽しかった。だが、皐月はどこか上の空だった。食べ物を口にするたびに、明日美がちゃんと食事をしているのかが気になった。
皐月は夕食を終えて入浴をすませると、久しぶりに算数の勉強をした。もう一度、栗林真理から借りている『特進クラスの算数』に取り組んでみようと思った。
受験算数の知識なしで『特進クラスの算数』に手を出しても難し過ぎたが、『応用自在』を終えてからだとよくわかる。難問に取り組むためには特殊な知識のステップアップが必要だった。
皐月は『特進クラスの算数』に挫折した時、5年生の入屋千智に問題を見てもらったことがある。千智は「この参考書の全ての問題は解けない」と言った。この言葉は皐月に気を使っての言葉だろう。千智はほとんどの問題を解いてしまいそうな雰囲気を出していた。
皐月は算数に飽き、すぐに歴史の勉強に切り替えた。すぐに切り替えるというのは千智の勉強のやり方だ。今までの皐月は一休みして、漫画や動画を見ていた。千智は疲れるまでずっと勉強を切り替えながら続けられるので、5年生にして中学入試を突破できる学力を身につけたのだろう。
皐月は歴史の勉強を趣味として始めることにした。きっかけは修学旅行で、興味を持った聖徳太子の時代のことをもっと知りたくなったからだ。聖徳太子が実在したかどうかはわからないが、法隆寺は自分の目で見た。今、皐月は飛鳥時代に魅かれている。
何をどう勉強したらいいのかわからないので、修学旅行の時に法隆寺のガイドをした大学生の立花玲央奈に聞いてみた。
玲央奈は何冊かその時代を扱う本を読んだ後、興味が続くなら『日本書紀』を勉強するのがいいと言った。聖徳太子の一次資料は『日本書紀』だからというのが理由だ。時間がかかるけれど、自分なりにノートにまとめるのがお薦めらしい。
玲央奈は「また奈良に遊びに来て」とメッセージをくれた。これは個人的なメッセージだ。
皐月は小学校を卒業したら一人で奈良に行くと伝えた。建前を真に受けて「予定が合えば少し会いたい」とメッセージに書くと、予想に反して玲央奈から「絶対に来てね」と返事が来た。皐月はこれを建前とは考えたくなかった。次に玲央奈と会うまでに飛鳥時代の知識をしっかりと頭に入れておこうと思った。
皐月が勉強をしていると及川祐希が風呂から上がってきた。皐月の部屋の扉をノックして入ってきた。
「皐月はえらいね。勉強してたんだ」
「そうだよ。だから邪魔すんなよ」
「邪魔なんかしないよ~。ちょっと部屋を通らせてもらうからね」
そう言いながら祐希は部屋の隅の出入り口を通らずに、皐月のベッドに乗って部屋を隔てている襖を開けた。祐希は自分の部屋の照明をつけ、襖を開けたまま布団を敷き始めた。
皐月は気が散って、集中力を取り戻せなかったので、歴史の勉強をやめた。ベッドに寝転んで、芥川龍之介の『歯車』を読むことにした。
明日は吉口千由紀の家に行って、芥川全集を見せてもらう。皐月はそれまでにもう一度、通して読んでおきたかった。明日美の家では一行も本を読めなかったからだ。
襖を閉めて本を読んでいると、しばらくして祐希が襖をノックした。
「いい?」
祐希は皐月の返事も聞かずに襖を開けた。何も言わずに祐希はベッドに上がってきて、皐月の隣で横になった。
「頼子さんが上がってきたら、どうすんだよ?」
「まだお風呂だよ」
「でも、もうすぐお風呂から上がるだろ? そうしたら一度、自分の部屋に戻ってくるじゃん。頼子さんとママが晩酌をするまで、こっち来んなよ」
「嫌だ。皐月、寝ちゃうかもしれないでしょ? それにお母さんが二階に上がってきたら、すぐに部屋に戻るから」
祐希が抱きついてきた。祐希は恋人だった竹下蓮と別れてから開き直っている。祐希は今夜も甘えてきた。
祐希がキスをしてくるので、明日美のことを気にしながら消極的に応えた。本当は勉強したり本を読んだりしたかった。それなのに今日もこういう流れになってしまう。これからもこんな日が続くのかと思うと、皐月は憂鬱になってきた。
風呂上がりの祐希からはトイレタリーのいい匂いがした。だが、人工的な香料に祐希だけの匂いが混ざり合う。密着している体からは体温が伝わってくる。
今は寂しくないはずなのに、肌を合わせていると皐月はなぜか寂しかった幼少期の頃のことを思い出す。そして肌の温もりで寂しさを忘れる。これは祐希だけではなく、明日美や真理でも同じことを感じる。昨日の江嶋華鈴にも同じことを感じた。
この快感は性的なものだけではない。皐月はこの泣きたくなるような幸せを死ぬまで求め続けることになるのだろうと思った。
「祐希」
「……っ、なに?」
「好きだよ」
「……うれしい」
皐月はついさっき、明日美にも同じことを言った。真理にもいつも、同じことを言っている。心が痛い。でも、言葉に嘘はない。皐月にはこの世界には自分と目の前の祐希しかいないと思うことしかできなかった。
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