一年前、いつも隣にいた女の子(皐月物語 80)
低学年の子たちの返却ラッシュがピークを過ぎ、図書室のカウンターに空白の時間ができるようになった。
誰もいないタイミングを見計らって藤城皐月と入屋千智が本を借りに行くと、6年生の図書委員の野上実果子が不機嫌そうな顔をして皐月を見ていた。5年生の時の実果子はいつも教室でこんな顔をしていたので、同じクラスの男子だけでなく、女子でさえも実果子に話しかける子はいなかった。
「何しに来た?」
「何しにって、さっき本を返したから新しく本を借りに来ただけじゃん」
皐月の隣にいる千智が少し後ずさりをしたのを感じた。茶髪の根元が伸びたプリン頭の実果子は見た目が怖い。こんなビジュアルでよく図書委員が務まるなと思うが、実果子は笑うと優しい顔になるので、小さな女の子たちからは慕われているようだ。
「昨日も本借りたよな。もう返したのか? ちゃんと読んだのか?」
「読んだよ。いい本だったから、本屋で同じの買った」
「金持ちか」
「京都のガイドブックだから欲しくなったんだよ。修学旅行に持っていくかもしれないし」
「ふ~ん。浮かれてんな、お前」
少し間ができた隙に千智が5年生の図書委員の月映冴子に借りていた本を渡して返却を依頼した。千智は機を見るのに敏い子だ。
「俺、修学旅行の実行委員だからな。それに委員長になったし」
「委員長? 藤城が? 華鈴じゃないのか?」
「江嶋は副委員長」
「なんで華鈴を差し置いて藤城が委員長なんだよ。委員長といったら華鈴だろ?」
「しゃーねーだろ。みんな北川にビビってて、誰も委員長をやりたがらなかったんだから。それで俺が立候補したんだよ」
「そうか……華鈴もビビりだからな」
「ああ。そうしたら北川が江嶋を副委員長に指名してさ。あいつ、昔から俺のこと全然信用してねーんだよ。『お前には有能なサポートがいないと安心して任せきれん』だってさ」
「あいつ、相変わらずムカつくな」
実果子の表情から緊張が解けた。北川に対しては皐月も実果子も思うことがあるので、こういう時は気が合う。
「それにさ、『藤城、お前その頭で修学旅行に行くのか? 旅行までに黒く染めておけ』なんて言うんだぜ。超ムカつく。野上は髪のこと何も言われないのか? 北川って担任だろ?」
「何も言ってこないよ。5年の時からずっとこんなだし。それにあいつ、私のこと見放してるから」
「そんなことねーだろ。あいつ、お前の担任じゃん。先生たちって、クラス決めの時に好きな子を選んで自分の生徒にしてるんだぜ。逆に目をかけられてるんじゃね?」
「嫌だよ、気持ち悪いな」
クラス決めの際、問題児はクラスを分けられるという。だから、皐月は実果子や華鈴とクラスをバラバラにされたと思った。
「校長先生は俺の髪の色のこと格好いいって言ってくれるから、学校的には髪の色に関しては強制できないんじゃないかな」
「注意はするけど、反発されたらそれ以上は何も言わないってことか?」
「いや、注意すらできないと思う。先生も親とはトラブルになりたくないだろう」
横で千智と冴子が黙って皐月たちを見ている。皐月はこの辺りで話を切りたいと思っていたが、実果子はまだ話し足りなさそうだ。
「でも藤城と華鈴のコンビなら北川的には一番安心じゃないの。あいつ、あんたらに私のこと押し付けてたくらいだし」
「何言ってんだ、お前。別に押し付けられてたとか、そんなことねーだろ」
「みんな影で言ってたじゃないか、問題児を一つの班に集めて隔離してるって」
「まあ、俺も問題児の一人だからな。真面目なのは江嶋だけだったし。でも俺たちって別に何も問題起こさなかったじゃん」
皐月は実果子や華鈴たちと過ごした5年の2学期3学期は穏やかで楽しい毎日だと思っていた。それくらい平和だった。1学期は荒れていた実果子も、2学期からは何の問題も起こさなかった。
実果子が皐月との話をやめ、返却された本を積み上げ始めた。なにやら積む順番を気にしているようで、背表紙を見ながら分類して、本の山を三つ作った。
「藤城、返却手伝って」
「えっ?」
「今日は本が多いんだよ。重いから持っててよ」
「野上、俺に仕事押し付けようとしてるだろ」
「そんなことないよ」
皐月は女子から何かを手伝ってくれと頼まれると嫌とは言えない性格だ。しかし今だけはやりたくなかった。
せっかく千智と会う時間を作ったのに、邪魔されるのは面白くない。だが実果子の仕事が大変そうなのは見ていればわかる。
千智の方をチラっと見ると、冴子と楽しそうにカウンター業務をしている。二人は同じクラスだし、千智は冴子と仲良くなりたいと言っていた。ここは二人にしていた方がよさそうだ。
「じゃあ、少しなら手伝うわ。サクっと終わらせようぜ」
「そのつもりだから藤城に頼んだんだよ」
皐月は積み上げられた本を持ちあげる前に、首からかけているQRコード付きの名札を千智に手渡した。
「千智、代わりに本を借りておいてもらっていい? 俺、ちょっと野上の手伝いしてくるから」
「わかった。私も月映さんのお手伝いしてるね。図書委員ってちょっとやってみたかったの」
皐月が両手で本の山を持ち上げようとすると実果子からストップがかかった。
「左手だけで持てよ。やり方、教えてやるから」
本の山を少し傾けて手のひらを上向きに差し込み、本を左腕の方に傾ける。本が崩れないように左腕で支えて、右手を本に添えて持ち上げる。重そうに見えた本の山だが、左腕で本が安定し、重さも分散されているので想像以上に軽く感じる。
「一人で本を元の場所に戻す時はこうやってる。今日は藤城が持ってくれるから楽だわ~」
「なんだ、これなら一人でもできるじゃないか」
「一人だと、本を本棚に戻す時が大変なんだよ」
皐月は実果子の後について行き、返却済みの本を棚に戻すのに付き合った。本が棚の順番通りに積まれているので、効率よく書架を回れる。実果子が意外にも効率的に仕事をすることに感心した。
「なあ、あのかわいい女の子って藤城の彼女なのか?」
「彼女って恋人ってことか?」
「何とぼけてんだ。さっき、あの子のことを名前で呼んでただろ?」
稲荷小学校で女子の名前を呼び捨てにする男子はいない。大抵は名字にさん付けだ。
「あ~そういうことか。もし千智が俺の恋人だったら、何だって言うんだよ?」
「質問に質問で返すなよ。あの子が藤城の彼女かって聞いてんの」
「うるせーな。人のことに首を突っ込んでくんなよ。お前に関係ねーだろ」
皐月にしては珍しくきつい口調だった。
実果子とは軽い口喧嘩なら昔からよくしていたが、お互いに本気で怒りをぶつけ合ったことはなかった。皐月の怒りを買い、実果子がしょんぼりしているように見えた。
「わかった。……一つだけ言いたいんだけどさ、もしあの子が藤城の彼女なら、他の女にあまり優しくするなよ」
「なんだ、それ」
「なんでもねーよ」
「じゃあ俺、野上のこと手伝わなきゃよかったかな。お前も一応、女だし。千智以外の女の子に優しくしちゃだめなんだろ?」
「じゃあもう手伝わなくてもいい! 本、貸せ。後は自分でやるから」
実果子に蹴りを入れられた。こういうことは5年生の時も時々あったが、今日は今までで一番強く蹴られた。痛みで思わず声が出そうになった。
さすがに煽るような言い方をした自分が悪いと思ったので、実果子に仕返しをしないで、黙って痛みを我慢した。
皐月は持っていた本を無言で実果子に渡した。返却本はもう残り少なくなっていた。本を受け取った実果子の顔が引きつって涙目になっていた。
「次の本の山を取ってくる。さっさと片付けようぜ」
皐月は実果子に背を向けて、早歩きで図書室のカウンターに向かった。
さっきまで誰もいなかったカウンターでは低学年の女の子たちが千智に一所懸命話しかけていた。みんな少し緊張しながらも、楽しそうだった。隣にいる冴子が千智たちを優しい目で見ていた。本を抱えた皐月は冴子に一言声をかけた。
「本もらっていくね」
「お手伝い、ありがとうございます」
「千智ってちびっ子に人気があるんだね」
「入屋さんはかわいい人ですから」
皐月は冴子と言葉を交わすといつもかしこまってしまう。両手がふさがっているので、軽く頭を下げて実果子の元へ向かった。
皐月は冴子のようなタイプの女子に会ったことがなかった。冴子はおそらく優等生なのだろうが、華鈴や絵梨花とはタイプが違う。冴子は年下なのに、畏れ多い雰囲気を出している。
皐月が戻ってくると実果子は泣き笑いのような顔をしていた。そんな実果子の顔を見ると肩の力が抜け、ホッとした。実果子と一緒にいると全然気取らなくてすむ。
「もう手伝ってくれなくてもいいのに。早くあの子のところに行ってあげたら」
「ちゃんと仕事を片付けないと千智に怒られるからな。あの子は一度始めたことは最後までやらないと気が済まないんだって。途中で手伝いを投げ出したら俺、千智に怒られちゃうよ」
「私に『もういい』って言われたことにすればいいのに」
「いいよ、別に。それにこうして野上と一緒に仕事してると、5年生の時を思い出して懐かしいじゃん。俺、あのクラスはあまり好きじゃなかったけど、野上や江嶋と同じ班で、2学期からずっと一緒にいられたのは楽しかったよ」
皐月と実果子はすぐに仲良くなれたわけではなかった。いつもイライラしていた実果子に皐月はなかなか話しかけられなかったし、話しかけても無視されたり、冷たくあしらわれることが多かった。
それでも話しかけ続けているうちに実果子も応えるようになり、冬になる頃には普通に話せるようになっていた。
「……藤城さ、さっき言ったよな?」
「何を?」
「……なんでもない。それより手伝いは今持ってる本だけでいいよ。どうせ昼休み中に片付かないし、残りはいつも放課後に片付けてるから」
「あと少しで終わるじゃん。全部やっちゃおうぜ。放課後の仕事なんて少ない方がいいだろ」
「いいよ、あんたの時間取っちゃうから。せっかくかわいい女の子と遊んでいたのに悪いって」
カウンターを見ると、カウンターで千智と冴子が話をしながら何か作業をしていた。低学年の子たちはもう帰り、図書室には読書をしている児童が数人残っているだけだ。
「千智は月映さんと話をしているみたいだから大丈夫。それより図書室って、本を載せて運ぶ台車はないの? いちいち手で運ぶなんて大変じゃん」
「折り畳み式のブックカートを買おうっていう話はあったみたいだけど、返却の本っていつも大した量じゃないから、図書委員が手で運べばいいってことになった。今日はたまたま返却が多かったけどね。本を戻しきれなかったら放課後にやればいいし、次の日に仕事を残して帰っちゃう図書委員もいる。昼休みギリギリに返しに来る子もいるから、そういうのは仕方がないんだけど」
実果子と皐月が本を棚に戻していると、冴子と千智がやって来た。千智は皐月と同じやり方で本を左手で運んでいた。
「野上さん、残りの本は私たちが戻しておきます」
「そう? ありがとう。千智ちゃん、本重くない?」
「いえ、大丈夫です。あれっ? 私の名前、ご存じだったんですか?」
「藤城が千智ちゃんの話ばかりしてたから。千智千智って」
「おいっ!」
「入屋さんも藤城さんの話ばかりしてたんですよ。先輩先輩って」
「ええーっ! 月映さんまでそんなこと言う?」
皐月と千智が照れているのを見て、実果子と冴子が笑っている。
実果子は5年生の時にセルフブリーチした髪が伸びてプリンになって、ちょっとヤンキーみたいだ。冴子はセンター分けのワンレンセミロングで大人っぽく落ち着いている。そんな見た目のタイプが真反対な二人が仲良くしているのを見ていると嬉しくなる。
皐月は実果子が他の女子と仲良くしているところをほとんど見たことがない。同じクラスの吉口千由紀と仲が良かったらしいことを、昨日の図書室でのやりとりで初めて知ったくらいだ。
実果子は5年生の時、クラスの女子とはうまく付き合っていなかった。それは実果子の髪の色や服装が小学生らしくなくて怖そうだということもあるが、言動に悪い大人特有の険があったからだ。
冴子は5年生でありながら妙に落ち着き払っている。表情は豊かではないが、笑顔に品があり、言葉遣いが丁寧で怜悧な印象だ。それでいて千智をいじるような剽軽なこともする。皐月は冴子の人柄に底知れなさを感じている。
「後は私と冴ちゃんでやるから。図書委員じゃないのに手伝ってもらっちゃって悪いね」
「いえ。図書委員の経験ができて楽しかったです」
千智から実果子に本が手渡された。
「ありがとう。もうすぐ昼休みが終わっちゃうけど、藤城のお世話は千智ちゃんに任せた」
皐月は千智とカウンターの中に入り、返却棚に置いておいた皐月の借りる志賀直哉の『小僧の神様・一房の葡萄』と、千智が借りる芥川龍之介の『トロッコ・鼻』を持って図書室を出た。
皐月たちは教室に戻る途中の階段の踊り場で話をしようと思ったが、人通りが多く目立って仕方がないので、この日は別れた。