夜にふたり(皐月物語 154)
1泊2日の修学旅行を終え、児童たちを乗せたバスが法隆寺から稲荷小学校へ帰って来た。校庭の隅には保護者の車が30台ほど停まっていた。児童全ての保護者が来ているわけではないが、帰って来る児童たちを出迎えるため、半数近くの児童の保護者が学校まで迎えに来ていた。
バスの中で眠っていた藤城皐月は隣の座席にいた二橋絵梨花に起こされた。
「藤城さん。着いたよ」
腿をツンツンされ、皐月は目を覚ました。熟睡していたせいか、寝起きでまだ頭がボ~っとしている。
「あっ……俺、寝ちゃってたんだ。二橋さん、いつ起きたの?」
「私はずっと起きてたよ」
「えっ!」
びっくりして、意識は一瞬にしてクリアになった。皐月は思わず絵梨花の顔を見たまま固まってしまった。何か言おうと思っても適切な言葉が出てこなく、何も言えずに茫然としていた。
眠いから肩を貸してほしいと言われ、絵梨花は伊賀から豊川までずっと皐月にもたれかかっていた。寝息を立てていたようにも思えたが、それは絵梨花のことを気にしていたせいで、呼吸がよく聞こえていただけなのかもしれない。
「先に降りるね」
顔を赤くした絵梨花はそそくさとバスの外へ出て行ってしまった。前の席の栗林真理と神谷秀真もすでにいなくなっていた。まわりの児童も次々と降り始めていたので、皐月も慌てて修学旅行の栞をナップサックに詰め込んで席を立った。
児童たちはバスを降りるとトランクから荷物を取り出し、先生の誘導に従って学年集会のようにならんだ。皐月は悪友の花岡聡に声をかけられた。
「先生、気持ち良さそうに寝てたな」
「ああ。疲れてたみたいだ」
「お前、二橋さんと寄り添って寝てたよな。ムカつく……」
やはり皐月の懸念通りの展開になった。聡はまだ直接言ってきてくれる。だが、他の男子は心に恨みを溜め込んでいるに違いない。
「何の話だよ、それ。俺が二橋さんと寄り添って寝てた?」
「とぼけんなよ」
「知らねーよ。俺、バスレクが終わったらすぐに寝ちゃったし」
皐月が怒気を露わにすると、聡は黙り込んだ。聡は皐月の言葉の真偽を判断しかねているようだ。この返しは皐月が咄嗟に捻り出した解答だった。自分が絵梨花より先に寝たことにすれば、自分と絵梨花を見た奴らはそれぞれ信じたいように解釈をする、というのが皐月の目論見だ。
「二橋さんが俺に寄り添ってたって、本当なのか?」
「ああ……」
「マジか……。なんで俺、寝ちゃったんだろう。もったいねー」
「クソがっ!」
聡は怒って行ってしまった。だが、これでうまく誤魔化せたかどうかはわからない。皐月は今後、クラスの中での振舞いに気をつけなければならないと思った。下手をすればイジメの対象になる。
「藤城」
振り向くと、そこには村中茂之がいた。茂之は筒井美耶のことが好きだから、絵梨花のことで恨まれる筋合いはないはずだ。しかし警戒は緩められない。
「今、花岡と話していたことは本当なのか?」
「ああ、本当だ。俺が先に寝ちゃったから、その後のことは何があったのかわからない」
「ならいいんだ。月花の奴が気にしてたから、ちょっと確かめに来た」
「博紀が? それなら直接聞きに来ればいいのに」
「あいつ、そういうのダメなんだ。プライドが高いから」
月花博紀はファンクラブができるくらい女子にモテるる。それなのになぜか皐月に好意を寄せる女子ばかりを好きになる。そのせいで博紀はときどき皐月に対して不機嫌な態度を取ることがある。
「自分の知らないところで敵意を向けられるのはたまらないな……」
「お前はやることが目立つんだよ。俺は藤城のそういうところ、嫌いじゃないんだけどさ。でも、虫が好かないって奴も多いからな」
「……わかってる。サンキュー、茂之。これから気をつけるよ」
皐月は茂之にここまで気にかけられているとは思わなかった。茂之の好きな筒井美耶に好かれている皐月は恨まれても仕方がないと思っていた。茂之は博紀よりも器の大きな男だ。
児童を乗せたバスが校庭を出て、奈良へ帰っていった。児童たちの整列が終わると、修学旅行の解散式が始まった。
校長の挨拶から始まり、引率の責任者だった3組の北川先生の挨拶が終わった。最後は修学旅行実行委員の委員長の皐月が挨拶をする番だ。
皐月は北川からマイクを受け取り、朝礼台に上がった。児童を迎えに来ている保護者たちを見て、年下の彼女の入屋千智の姿を探した。出発式の時に来ていた千智だが、この時はいなかった。
「実行委員の藤城です。修学旅行お疲れさまでした。稲荷小学校130名、特に大きなトラブルもなく豊川に帰ってくることができました。みなさん、修学旅行でいい思い出はできましたか? 初日の京都では千年の都の文化の厚みを、二日目の奈良では古代日本での国造りの情熱を感じることができたと思います。
「修学旅行で見たこと、感じたこと、思ったこと、どうか家族に話してください。照れ屋さんの人はがんばって、一言でもいいので話してみてください。そして、修学旅行に行かせてくれたことへの感謝の気持ちを伝えてください。楽しい思い出、ほろ苦い思い出、甘酸っぱい思い出……みなさんそれぞれ、一生忘れられないものになるでしょう。僕たちはこの修学旅行で少しは成長したと思います。この成長の勢いに乗り、残りの小学校生活を楽しんでいこうと思います。
「修学旅行ではいろいろな方のお世話になりました。小学校最大のイベントを支えてくださった先生方。僕たちをここまで育ててくれた保護者の方々。ここにはいませんが旅先でお世話になった関係者の方々。旅の安全を見守ってくださった神様仏様。ありがとうございました」
皐月は解散式の原稿を完璧には憶えていなかったが、とりあえず話し始めてみると、スムーズに言葉が出てきた。我ながらまあまあのスピーチになったと思った。
解散式が終わり、児童たちはそれぞれ家路についた。保護者が迎えに来た児童たちはそれぞれの保護者と合流し、迎えの来なかった児童たちは帰り道が同じ方向の者同士でなんとなく固まって帰り始めた。
「皐月」
声をかけたのは博紀だった。珍しいな、と思った。
「俺のとこ、お母さんが迎えに来てるんだ。同じ町内だからお前も一緒に帰ろうって言っててさ」
「そうか。わかった」
皐月は一人になりたい気分だったが、博紀の母に誘われたのなら断れない。博紀の家に遊びに行った時にはいつも手作りの美味しいお菓子を出してくれる。
皐月が博紀と歩いていると、遠くで栗林真理と目が合った。真理は絵梨花と一緒に帰るつもりなのか、絵梨花と絵梨花の母と一緒にいた。絵梨花とは後で会う約束をしているので、ここで言葉を交わす必要はない。
皐月が博紀の母、月花静子と会うのは久しぶりだった。皐月が博紀と遊ぶために博紀の家に行くことはなくなったが、弟の直紀を遊びに誘いに家へ行くことはある。
「皐月君、久しぶりだね。さっきの挨拶、良かったよ」
「本当? 大人の人に褒めてもらえると嬉しいな。ありがとう」
「今日は百合さん、お仕事?」
「うん。金曜日はいつもお座敷が入ってるよ」
博紀の母の静子と皐月の母の小百合は喫茶店でよく顔を合わせる。子供同士が同級生なので、ときどき話をすることがあるようだ。だが、皐月も博紀も親同士で何を話しているのかはわからない。
「皐月君は修学旅行でどこが一番良かったの?」
「僕は法隆寺かな。楽しかったのは京都だけど、法隆寺は飛鳥時代にタイムスリップしたみたいで不思議な気持ちになった」
「お前はガイドをしてくれた女子大生のお姉さんが一番良かったんじゃないのか?」
「お姉さんは2番目に良かったね」
皐月は軽く受け流したが、静子は楽しそうに笑っていた。親の前でよくそんなことが言えるな、と皐月は少し博紀に腹を立てた。きっと絵梨花とくっついて寝ていたことを根に持っているのだろう。
「博君はどこが良かったの?」
「俺か……。そうだな……東大寺かな。授業で習った大仏を自分の目で見たのはちょっと感動だった」
博紀が東大寺を気に入っていたのが意外だった。
「博紀はてっきり、京都の映画村だと思ってた。映画村って面白そうじゃん」
「まあ、面白かったけどさ……。昔の街並みを再現していても、やっぱり作り物だからな……。本物の方が感動するよ」
皐月と月花親子は家の近くまで修学旅行の思い出話をしながら歩いた。静子は皐月が話の神社仏閣の話を面白がって聞いてくれた。また、皐月が歴史の勉強をしてから修学旅行に臨んだことに感心していた。
皐月は博紀の様子をずっと観察していたが、この様子なら絵梨花のことでトラブルになることはないと確信した。クラスの中心人物の博紀との関係がこじれなければイジメに発展することはない。6年4組は穏やかなクラスだ。
豊川稲荷のスクランブル交差点で皐月と博紀たちは別れた。二人の家は通りを挟んだ反対側にある。
「じゃあ、また月曜日な」
「おう。静子さん、さようなら」
「バイバ~イ、皐月く~ん」
駅前通りのアーケード街にはすでに照明が灯っていた。行き交う人たちが気持ち急ぎ足に見える。真理と会う頃にはすっかり夜になっているだろう。駅前通り越しに親子で歩いている博紀たちを見ていると、皐月は少し羨ましくなった。
駅前通りから裏路地に入り、焼肉屋の『五十鈴川』の前まで来ると自宅の行燈の灯っているのが見えた。一日しか家を開けていないのに、皐月は随分長い間、家を開けていたような気がした。
玄関には鍵が掛けられていた。住み込みの及川頼子が家にいれば、皐月が帰宅するまでは鍵が開いている。この日は頼子もお座敷に出ているようだ。
鍵を開けて家の中に入ると、居間の明かりがついていた。机の上に置き手紙と、皐月と祐希の二人分の夕食代が置かれていた。手紙には帰りが遅くなると書いてあった。
(祐希は帰りが遅くなるのかな)
皐月は荷物を居間に置いたまま、二階にある自分の部屋に急いだ。机の引き出しの中に入れてあったスマホの電源を入れ、立ち上がるまでに再び居間に降りた。
荷物の中から洗濯物を取り出し、洗濯かごの中に放り込んだ。買って来たお土産を全てテーブルの上に並べ、これから持ちだすものだけを残し、後日配る物をリュックサックの中に戻した。
スマホにはメッセージがたくさん来ていた。
祐希からは文化祭の準備で帰りが遅くなることと、夕食を食べてから帰ることが書かれていた。とりあえず了解と返信しておいた。
立花玲央奈からは写真も一緒に送られていた。玲央奈には帰宅したことと、これからお土産を配りに行くことを書いて送った。
入屋千智からは労いの言葉と、明日の待ち合わせ時間の確認のことが書かれていた。皐月は玲央奈に送った文面のコピペと、お土産を買ってきたことを送信した。
芸妓の明日美と満からもメッセージが届いていた。これは他愛もない短文なので、明日美には帰宅したことと、明後日の日曜日に家へお土産を渡しに行くことを伝えた。満にはこれから会いに行くので、返信をしなかった。
見知らぬ二人からもメッセージが届いていた。誰かと思って見てみると、清水寺の仁王門の前で写真を撮ってくれた二人だった。彼女らは短いメッセージと写真を送ってくれた。インスタの相互フォローをすることになった。
皐月はお土産と夕食代を持って家を出た。真理とは豊川稲荷駅の前で待ち合わせをすることになっている。豊川稲荷駅は初めて入屋千智を家に招いた時に待ち合わせをした場所だ。
時間は6時を少し過ぎていた。駅前通りには家路につく学生や労働者が増えていて、皐月のいつも見る光景とは異なっていた。稲荷小学校の児童は一人も見かけなかった。
ミニストップの前を歩いていると、豊川駅の東西自由通路から真理が降りてくるのが見えた。ここからなら豊川稲荷駅まで行かなくても、豊川駅前のバス停の前で真理に会える。皐月は真理に手を振って駆け寄った。
「すっかり暗くなっちゃったな。もう秋だね」
「皐月、そんな格好で寒くないの?」
「何言ってんの? 俺が寒いわけないじゃん。オールシーズン半袖半ズボンでも余裕だぜ」
「そんなみっともない格好したら、一緒に歩いてあげないからね」
真理にも千智と同じことを言われた。半袖半ズボンのことを礼賛してくれるのは男子の友達だけだ。
「まずは玲子さんの店に行こうか。もうお客さんって来てるのかな……」
「仕事の邪魔になりそうだったら、お土産を渡してすぐに帰ろう」
皐月と真理は駅の近くにある玲子の店「Coro Da Noite」へと向かった。
Coro Da Noite はポルトガル語で「夜の合唱」という意味になる。この店は豊川芸妓組合の組合長の娘、玲子が経営しているクラブだ。ここのキャストの満と薫は芸妓と掛け持ちをしている。
「ねえ、皐月。私、玲子さんのお店に入ったことないんだけど……」
「俺も営業中には入ったことない。なんか緊張するな」
「どう見ても小学生が入れる店じゃないよね」
Coro Da Noite は皐月や真理が入ったことのある飲食店とは違っていた。店に窓はなく、電飾が煌びやかで、どことなく南国を思わせるような雰囲気が漂っている。子供の目から見ても、スナックや居酒屋とは違った高級感と異国情緒を感じる。
「俺が先に入るよ」
重い扉を引いて中に入ると、ブラジリアン・ジャズが流れていた。真っ先に皐月たちを見つけてくれたのは満だった。店で見る満は芸妓姿やロリィタ・ファッションの時とは違って華やかで、肌の露出の多い衣装は子供には目の毒なほど色気があった。
「わぁ~、若いお客さんがきた」
「満姉ちゃんにお土産を持ってきたんだよ。あと、玲子さんにも」
店内を見渡すと離れたボックス席に2組の客がいて、キャストの子たちと楽しそうにお酒を飲んでいた。
「本当? ありがとう。まあ、中に入って。あっ! もしかして真理ちゃん?」
満は皐月から少し離れた所に隠れるように立っていた真理を見つけた。
「……こんばんわ」
「真理ちゃん、久しぶり。大きくなったね~。真理ちゃんも入って」
先に入っていた皐月が薫と挨拶を交わしていると、店の奥から玲子ママが現れた。玲子は皐月や真理の母たちと同じ世代で、かつては豊川の芸妓のエース的存在だった。
「皐月君、お店に来てくれたんだ。何か飲んでく?」
「ありがとう。でも、今日はいいや。俺たち、お土産を渡しに来たんだ。さっき修学旅行から帰ったところだよ」
満に促され、真理も玲子に挨拶しに来た。真理はこの店に来てからずっと緊張している。
「真理ちゃんと会うのって1年ぶりくらいかな? 綺麗になったね。大きくなったら凛ちゃんよりも綺麗になるよ」
「御無沙汰してます。これ、京都で買ったお土産です」
真理は京都駅の『辻利』で買った『京らんぐ』というラングドシャ・クッキーサンドを渡した。これは抹茶を茶筅で泡立てたようなエアインチョコが入ったものだ。
「ありがとう、真理ちゃん。早速開けてもいい?」
「どうぞ」
抹茶色のクッキーは見るからに美味しそうだった。満と薫と、手の空いているブラジル人のグラマラスな女性、セシリアが寄って来た。セシリアの香水は刺激的な匂いだった。
「玲子サン。食ベテモイイデスカ?」
「どうぞ、食べて」
『京らんぐ』はマットリップの塗られたセシリアの口の中に消えた。
「トッテモ美味シイデス。抹茶大好キ」
満と薫、玲子も『京らんぐ』を美味しそうに食べてくれた。皐月と真理は顔を見合わせ、安堵の笑みを浮かべた。
「真理ちゃんたち、何か飲んでいく?」
「いえ。これから検番の京子お母さんにもお土産を渡しに行くんです」
「あら、そうなの。残念ね。じゃあ、私からお母さんに電話しておくから」
玲子は京子に電話をするために店の奥に入っていった。皐月は満にお土産を渡した。
「満姉ちゃんって日本酒飲んだっけ?」
「飲むよ~。日本酒、大好き」
「良かった……。清水寺で盃を買って来たんだ。
皐月は清水坂にある朝日堂の小さな袋を手渡した。この中に流天目の盃が入っている。満が日本酒を飲むことは部屋に行った時に部屋の中を観察して予想できていた。だが、ここでは知らないふりをした。
「ちょっと見てもいい?」
「いいよ」
満が袋の中に入っている箱から盃を取り出した。皐月としては頑張ってお金を出したつもりだが、物が小さいだけに安物と思われるか心配だった。
「模様が真ん中に向かって流れているんだね。なんかいい感じ」
満が盃を見ていると、薫と玲子が覗き込んできた。
「青が落ち着いていて、いい色だね。皐月、センスいいじゃん」
「ありがとう、薫姉ちゃん」
「これって天目だね。満ちゃん、いい物を貰ったわね」
玲子はこの盃が小学生にとっては高い物だとわかったようだ。
「いい物なんだ……。皐月、ありがとう。晩酌の時に使わせてもらうね」
「へへへ……。早く満姉ちゃんたちと一緒にお酒が飲めるようになりたいな」
「お酒なら今飲めばいいじゃない。玲子ママ、私のおごりで皐月に『美少年』を出してあげて」
「バカ。小学生にお酒を出したらお店が潰れちゃうよ。さあ、皐月君と真理ちゃんはもう行きなさい。これからお客さんが増えるから。お母さんには電話をしておいたから、待ってるよ」
「はい。じゃあ検番に行ってきます」
「今度はもう少し早い時間に遊びに来てね。真理ちゃんもまたおいで」
「はい。ありがとうございます」
皐月と真理はみんなに頭を下げて、店を出た。玲子だけでなく、満と薫も手を振ってくれた。その背後でセシリアが大きく両手を振ってくれた。
皐月と真理は豊川駅の前まで戻らずに、真理の通学路を歩いて検番まで歩いて行くことにした。道には街灯が少なく暗いが、皐月の家の前の裏通りよりは明るい。
「満さんも薫さんも綺麗だったね。私、夜職の人って生で初めて見た」
「クラブの衣装って大人の女って感じだな。ヤベ~よ」
「あんた、満さんにデレデレしてたでしょ?」
「してねーよ!」
皐月も真理も無言のまま、暗い夜道を気怠く歩いた。二人の間が気まずい雰囲気になった。皐月は満とのことがあるので後ろめたい気持ちを隠していたが、真理がクラブで二人の間に何を感じたのかはわからない。
皐月は満と話す時は注意深くしていたつもりだった。真理は皐月が満にお土産を渡す理由も知っているはずだ。皐月は女性と接する時は今以上に感情を表に出さないよう気をつけなければならない。ただ秘密にするだけではダメなことがよくわかった。
「皐月ってさ、暗いところで見るといつもより格好良く見えるね」
「何だよ。それって明るいところで見ると格好良くないって言いたいわけ?」
真理がクスクス笑っていた。
「何笑ってんだよ」
「だって可笑しいじゃない。私、皐月に同じことを言われたことあるんだよ。もう忘れたの?」
「そんなことあったっけ?」
真理にそう言われると、あったような気がしないでもなかった。それを確かめようと真理の顔を見ると、確かにいつもよりも可愛く見える。皐月はこの時、全てを思い出した。
「俺ってその時、真理が答えたことと同じことを言ったんだ……」
「そう。可笑しいでしょ?」
皐月は苦笑いをするしかなかった。
「でも、褒めてあげたんだからいいじゃない」
真理が腕を取って、皐月に寄りかかってきた。月明かりに照らされた真理は可愛いというよりも美しかった。
真理は歩きながらずっと皐月のことを見つめていた。同じことをしていると歩きにくいので、皐月は真理に付き合って見つめ続けるようなことはしなかった。キスを求めているのかと思った。ここで口づけをすれば普通に並んで歩けるようになるだろう。
だが、皐月はそんな気持ちにはなれなかった。さっきまで満と一緒にいた緊張感が残っていて、急に気持ちの全てを真理に向けることができない。満はまだ皐月の世界から消えずにはっきりと残っている。
「真理。ハラ減ったな。今日、晩飯何食べる?」
「え~っ、そんなのまだ考えてないよ……」
皐月は真理にまだ頼子もお座敷に出ていることを話していなかった。真理は一人で夕食をとるつもりらしい。
「晩飯、一緒に食べようか」
真理が一瞬、固まった。
「えっ? 今日、頼子さんもお座敷に出てるの?」
「そうみたい。家に帰ったら置き手紙があった」
「なんで今まで黙ってたのよ」
「忘れてたんだよ」
真理の機嫌は直ったが、またすぐに怪訝な顔になった。
「じゃあ、祐希さんは?」
「友達と食べてくるから、帰りが遅くなるんだって。明日、高校の文化祭なんだ。準備が遅れてるってメッセージが来てた」
「遅くなるって、何時?」
「それはわからないけど、そんなに遅くならないだろ」
何を考えているのか、真理は再び黙り込んでしまった。そのまま二人は無言で暗い夜道を歩き続けた。
皐月と真理は県道495号線宿谷川線に出た。横断歩道の手前から検番の玄関の行燈に明かりが灯っているのが見えた。
「こんばんは」
皐月と真理が検番の玄関の引き戸を開けると、京子はすぐに迎えに出てきた。芸妓がお座敷に出ている間、組合長の京子は検番で待機している。
「真理の顔を見るのは久しぶりだねえ。ずいぶん女っぽくなって……」
「お母さんも元気そうでよかった。京都のお土産を持ってきたの」
「玲子から聞いてるよ。まあ、上がって」
皐月と真理は検番のリビングへ通された。この部屋の調度類は昭和時代から買い替えずに使われている物が多く、時が止まっているような空気がある。皐月たちは本革張りの使いこまれたソファに座らされ、京子は奥へお茶を取りに行った。
真理がテーブルの上に二つのお土産を並べて置いた。京子がお茶を運んでくると、そのお土産を見て喜んだ。
「お土産を買って来てくれたの? ありがとう。嬉しいわぁ」
「これは清水寺の産寧坂にある、『まるん』というお店の『舞妓さんしょこら』。こっちは『鶴屋長生』というお店の『京のわっかさん』。お母さんの口に合うといいんだけど……」
「真理、ありがとう」
「皐月と一緒に買ったんだよ」
「皐月もありがとうね」
皐月は京子へのお土産を買うまでにお金を使い過ぎて、真理にお金を出してもらっていた。
「あんたたち、まだ晩御飯食べていないんだろ? お寿司でも取ってあげるよ」
「ホント? ここんとこ、ずっとお寿司を食べていなかったから、ラッキー」
「お母さん、ありがとう。私もお寿司なんて久しぶり」
「すぐに出前を頼むからね」
京子は皐月の母の百合とその弟子の頼子、真理の母の凛がお座敷に出ていることを知っている。修学旅行から帰って来ても、家で待っている母がいない寂しさもわかっている。皐月も真理も京子がその埋め合わせをしてくれようとしていることをわかっていたので、遠慮なく甘えることにした。
「ちょっとお土産を見せてもらってもいいかい?」
「見て見て」
まず初めに京子が手に取ったのは『舞妓さんしょこら』だ。これはおすまし顔の舞妓がプリントされたショコラクッキーの詰め合わせで、簪を挿した舞妓が可愛すぎて真理が選んだものだ。
「ウチの娘たちもこれくらい可愛かったらねぇ」
「舞妓さんは若いから可愛いんだよ。それにウチの芸妓さんだってみんな綺麗じゃん」
次に京子が手に取ったのは『京のわっかさん』だ。ドーナツの形をした最中とクッキーを組み合わせたもので、抹茶、いちご、ほうじ茶味などの詰め合わせになっている。
「どれもこれも、みんな美味しそうだねぇ。あんたたち、食べなさい」
「いいの?」
「京のわっかさん」は皐月が自分も食べたくて選んだものだ。皐月はつい本音が漏れてしまった。
「私たちはいいよ、お母さん。せっかくだから検番に来たお姐さんたちに食べてもらって」
真理の言葉に皐月は思わず顔を見た。真理は皐月を窘めるような顔をしていた。
「そうだよ。お土産だし、みんなで食べて」
「いいのかい? 皐月、本当は食べたかったんだろ?」
「いいって、いいって。でも、お腹が空いちゃったな。何かお菓子とかある?」
「ああ……饅頭があったかね。持ってきてあげるよ」
京子は饅頭を取りに台所へ行った。年齢を感じさせないきびきびとした動きだった。
「ちょっと、皐月。みっともないよ」
「ごめんごめん。つい誘惑に負けちゃって……。俺たちってすっげー美味そうなもん買ってきたよな。そうなると、やっぱ食べてみたくなっちゃうじゃん」
「そんなの今度京都に行った時にまた買えばいいでしょ。お土産を食べたいんなら、後で自分用に買った八ツ橋を食べさせてあげるから」
変な誘い方をするな、と皐月は笑い出しそうになった。だが、これで真理の家に上がり込む口実ができた。自分から真理の部屋に行きたいと言うのは簡単だが、満と会ったばかりの今は言い出しにくかった。
台所から京子が小皿に載せた饅頭を持ってきた。その饅頭は乾燥しないよう、一つずつ袋に入っていた。
「北城屋の『黒たまかりんとう』だよ。明日美が安城のお座敷でお客さんにもらったんだって。お寿司が来る前だから、一つにしておいたよ」
「ありがとう、お母さん」
皐月と真理は黒糖が香ばしく、サクっとした饅頭を食べながら、二人で修学旅行の思い出話をした。皐月は真理が何を思いながら京都や奈良を見ていたのかを、この時初めて知った。真理は皐月の想像以上に神社仏閣を楽しんでいたようだ。京子は皐月と真理の話を嬉しそうに聞いてくれた。
京子の取ってくれた寿司はいい寿司だった。大トロなどの高いネタもあった。京子は真理が検番に来てくれたことを喜んでいたようだ。真理は皐月のように検番に遊びに来ることがないので、皐月や凛から話を聞かない限り、京子は真理の成長ぶり真理の成長ぶりを知り得ない。
「ごちそうさま。お母さん」
「俺、お腹いっぱいになっちゃった。美味しかったよ。ありがとう」
「また検番に遊びにおいで」
皐月と真理は検番を後にした。二人にとって京子と会ったことは修学旅行から帰って来て初めて母のもとに帰ってきた感覚に近かった。だが、母にはまだ会えていないので、京子と会ったことでかえって寂しさが募った。
検番を出たのは7時半を過ぎていた。9時には家に帰ろうと思っていたので、真理の部屋にあまり長くいられない。皐月はこの中途半端な時間に物足りなさを感じていた。
「駅前通りから行こう」
真理はさっき来た暗い道を歩きたがっていたが、皐月は歩き慣れていない夜の裏道よりも、アーケードの明かりに照らされる道を選んだ。暗い道は寂しいし、来た道と同じ道を歩いていると、満のことを考えてしまう。
「何か食いもん買ってく?」
「あんた、さっきお腹いっぱいって言ってたじゃない」
「だってお母さんにお代わりなんて言えるわけないだろ。もうちょっと何か食べたいな」
「じゃあ、コンビニで何か買ってく?」
「俺、今はガツンと肉を食いたいんだよな~」
「口が臭くなるの、やめてよね」
皐月と真理は宿谷川線から駅前通りのアーケードに入った。このまま歩いて行くと博紀の家の前を通ることになる。博紀に見られることはないと思うが、少し意識をしてしまう。
「皐月は明日はどうしてるの?」
「明日は祐希の高校の文化祭に行ってくる。真理は塾だよな」
「うん……土日は塾。私も文化祭、行きたかったな~」
「まあ、真理は来られないと思ってたから、最初から誘わなかった」
「ふ~ん。まあいいか」
真理が祐希の高校の文化祭に行きたがるとは思っていなかった。おそらく本音ではないだろう。皐月は真理の考えていることがよくわからない。真理はこの後、コンビニに着くまで一言も話さなかった。
皐月はミニストップでジューシーチキンの辛口を一つだけ買い、真理はたまごサンドを買った。
「なんだ、お前も食うのかよ」
「悪い?」
「多かったら俺が食ってやるよ」
「足りなかったらあんたのチキン、もらうから」
皐月と真理はミニストップを出た。まだ夜が早いのに、駅前のタクシープールには車が一台も停まっていなかった。
「さて、真理ん家に行こうか」
「何しに来るの?」
真理はいたずらな笑顔で皐月を見ていた。
「何って、八ツ橋を食べに行くんだよ」
「八ツ橋だけ?」
「ああ。八ツ橋食ったら、すぐ帰るわ」
今度は皐月がいたずらな顔で真理を見た。
「じゃあ買ってきた八ツ橋、全部食べるまで帰さないから」
「八ツ橋は一つでいいよ」
「ダメ~」
真理が走りだしたので、皐月は後を追いかけた。真理が東西自由通路の階段を駆け上がるので、面倒だと思いながらも皐月も後に続いた。体力のない真理は階段を上り切ったところで立ち止まって息を整えていた。
「お前、なんで階段なんかで上がるんだよ。エスカレーターを使えばいいじゃん」
「ちょっと走ってみたくなっただけ。いいじゃない、別に」
「……まあいいけどさ。で、気分はどう?」
「うん。悪くない」
真理はまだ肩で息をしていた。
「そうか」
「うん。……行こ」
「おう」
真理はまた駆け出した。
「おい! まだ走るのかよ」
「早く帰りたいのっ!」
そういうことならと、皐月は遠慮なく真理を追い抜き、先回りして真理のマンションの玄関の前に先着した。
「おかえり」
「ただいま」
皐月と真理は同時に周りを見た。豊川駅東口に誰かを迎えに来る車がやって来た。少し離れたところに人が歩いている。
「早く家に帰ろうよ」
「そうだね」
皐月は真理に手を引かれ、煌々と明かりに照らされたエントランスへ吸い込まれていった。