霊狐塚に常夜燈が灯る時 (皐月物語 11)
ユニフォームを着た博紀はサッカークラブの帰りだった。学校の体操服と違ってクラブのユニフォーム姿が格好いい。最近でこそあまり皐月とつるんで遊んでいないが、博紀もまた一緒に豊川稲荷で競輪をした悪童仲間だった。皐月は博紀に手招きされた。
「サッカークラブの帰りか?」
「ああ。今日は川高のグランドで練習の日だった。それよりお前、女連れて何してんだ?」
博紀の話し声が小さくなった。祐希と千智に話を聞かれたくないってことは、この二人に興味があるってことなんだろう。
「豊川稲荷の案内だよ」
「観光客?」
「いや、友だち……かな」
「友だちって女子じゃないか。どういう友だちなんだよ?」
最近博紀の言葉からときどき険のある空気を感じる。これは弟の直紀の言うとおり、博紀の嫉妬なのだろう。はしゃぎかかった気持ちが引き、煩わしさがもたげてきた。
「じゃあ彼女たちのこと紹介するわ」
皐月はわざと彼女という言葉を使った。女子のことを彼女なんて言う男子は小6ではいないので、これは博紀に対する精神的な威嚇になる。博紀にしては珍しく、のそのそと自転車を降りた。皐月は博紀を祐希と千智のところまで連れてきた。
「紹介するね。彼は月花博紀。俺と同じクラスで、同じ町内の友だち」
「こんにちは」
いつになく博紀が硬くなっているように見える。皐月は博紀のこんな面持ちをあまり見たことがない。
「彼女は入屋千智さん。小5で直紀と同じクラスだってさ」
「直紀がいつもお世話になってます」
「お世話だなんて、そんな……」
千智はキャップを取らなかった。バイザーに隠れた表情にかすかな警戒心が見て取れる。直紀という言葉に反応したからなのか。直紀絡みの話を膨らませるべきじゃないな、と皐月は思った。
「こっちのお姉さんは及川祐希さん。高校3年生。彼女のお母さんが今度うちの親のお弟子さんになってくれて、一緒に家に住み込むことになったんだ」
「はじめまして、及川です。皐月がいつもお世話になってます」
「いや、こちらこそ……」
祐希のいたずら含みの返しに博紀がどぎまぎしている。祐希がとても嬉しそうだ。ファンクラブの女子たちにチヤホヤされている博紀を見慣れている皐月にしてみれば、祐希に軽くあしらわれている博紀を見ると胸がすく。
皐月は祐希の人をからかうような態度にムカつくこともあるけれど、それでもいじられたいと思うところもあって、そのアンビバレンスに揺れてしまうのが妙に楽しい。博紀も自分と同じ感情を抱いているのだとしたら、皐月にはちょっと穏やかでない。
「博紀君、サッカーやってるんだ」
「こいつ超上手いよ」
「いや、全然……俺より上手い奴なんていくらでもいますから」
「サッカー楽しい?」
「楽しい……かな。辛い時もありますが」
「スポーツなんだから、辛い思いなんてしないで楽しむだけでいいのに。プロを目指すつもりがないんだったら」
「……そうかもしれませんね」
いつも爽やかな笑顔を振りまいている博紀にしては弱弱しい微笑だった。皐月は博紀が辛い思いをしながらサッカーをしていることを、この時初めて知った。博紀は何かの自己紹介文で将来の夢はプロサッカー選手と書いていたが、あんな顔をするようではもう夢を諦めているのだろう。同じクラスになってからは博紀のキラキラしたところばかり目に付いていたので、皐月はこんな弱みを見せる彼を見たことがなかった。
「あっ、ごめんね。変なこと言っちゃって。少しでも上を目指そうという気持ちがあるんだったら、辛くても我慢しなきゃいけない時だってあるよね。苦手の克服とか体力アップとか」
「及川さんも何かスポーツやってたんですか?」
「ソフトボール部だったよ。もう全然強くなかったけどね。私も練習キツかったな。確かに楽しいばかりじゃなかったわね」
祐希が笑うと博紀の表情がほぐれてきた。その祐希の笑顔はまだ自分には向けられたことがないことに皐月は気付いた。皐月は博紀と話している祐希に博紀を取り巻く女子たちに通じるものを感じた。イケメンを前にした女子なんて、まあこうなるわな……と皐月は白けた気分になってきた。
二人がサッカークラブや部活の話で盛り上がっていると、千智が皐月の手を引いて二人から距離を取り、そっと耳打ちしてきた。
「私、さっき奥の院の方を見て回ったんだけど、狐塚へは行ってなかったの。一人で細い道を奥に入って行くのって怖くて……。霊とかそういうのが怖いんじゃなくて、変な人がいたら嫌だなって」
確かにあそこで変な奴に出くわしたら逃げ場がない。千智がここまで人を怖がるのには訳があるに違いない。千智の博紀に対する警戒心も、直紀のクラスで男嫌いと思われているのも、過去の何らかのトラウマが遠因になっているのかもしれない。そう考えるとこうして千智が自分に懐いてくれていることに親愛を超える情を感じないわけにはいかない。皐月は明日美や真理にさえこんな気持ちになったことはなかった。
「さっき『もう帰らない?』って言った時『いいよ』って言ったけど、もしかして本当は行きたかった?」
「うん……。また今度連れてってくれるって言う話だったけれど、またって日が本当に来るのかどうかわからないし……」
「そんな……」
キャップのバイザー越しに見える千智の瞳に微かな光が揺れている。寂しげな口もとを見ると狂おしい気持ちを抑えられなくなる。
「行こう」
「えっ?」
「今から狐塚に行こう」
仄暗い森の中、バイザーで隠され、さらに暗くなっていた千智の顔が月の下にいるように明るくなった。
「うんっ!」
何のてらいもなく皐月は千智の手を取った。千智のほころんだ顔を見て一気に気持ちが昂った。
「祐希っ! 狐塚に行ってくるね! すぐ戻る」
祐希と博紀が振り返るのを見て、皐月は千智の手を引いて狐塚の方へ駆け出した。祐希には手を引かれる千智の姿がとても眩しく見えた。
「あの二人、いいね。アオハルだよ」
夢見心地になっている祐希とは対照的に博紀は呆気に取られていた。
「私も狐塚行きたいな」
皐月たちを目で追いながら誰にともなくつぶやく祐希だが、博紀からは言葉が返ってこない。
「私も連れてってくれないかな? 狐塚」
今度は博紀を見てきっぱりと言った。
「皐月たち、追いかけますか」
「そうだね……でも二人の邪魔しちゃ悪いから急がなくてもいいんだけど」
「俺、自転車出しますよ。後ろに乗ってください」
「二人乗りなんてダメでしょ」
「真面目なんですね。人なんてどこにもいないから、少しくらいならいいでしょ」
博紀が自転車を取りに行き、祐希のところまで戻ってきた。
「これ、ママチャリだよね。意外~。博紀君ってもっと格好いい自転車に乗りそうなイメージだけど」
「一応シティーサイクルですよ、これ。キャリアー後付けしたからママチャリっぽいですよね。でもこのほうが荷物がたくさん載って便利ですから」
博紀が自転車に乗ると、祐希は後部の荷台に横向きに座った。
「そんな乗り方、危ないですよ」
「じゃあ危なくない運転してよ」
「わがままですね、及川さんって」
「わがままな女の子って嫌い?」
「い、いや別に……よっぽどわがままじゃなかったら大丈夫です」
「ふ~ん」
ドギマギしている博紀を見て祐希は薄笑いしている。
日が傾いて薄暗くなった杉林は相変わらず妖しい気配が立ち込めている。樹々は参道なんかお構いなしに生えている。道の真ん中に生えている杉の樹々を軽やかにかわしながら、皐月と千智は薄暗い境内を駆け抜ける。
千智の手を引いても重さを感じないのは千智の走るのが速いからだ。参道の両側に立ち並ぶ千本幟が視界の端を流れていく。右へ分れる細い参道の先はもう暗くなっていて、先がよく見えなくなっていた。
参道の左手に鎮座する供養の法要を行う宝雲殿、修行僧の道場だった万燈堂、弘法大師をお祀りする弘法堂、土蔵造りの大黒堂は今日見なくてもいい。また二人でゆっくり歩こう。今はわき目も振らず霊狐塚へ走るのが楽しい。
奥の院の手前にある霊狐塚の石碑まで来て、皐月と千智は足を止めた。
「ここからは歩こう」
皐月はまだ手を離していない。左へ奥に入って行くと、狛犬ならぬ狛狐の先に石造の鳥居がある。その奥へ向かう細い参道の最奥部が霊狐塚だ。今まで見てきた境内の森よりも樹々は細いが密集しており、明かりが欲しくなるほどに暗い。
「何、ここ。さっき来た時よりもずっと怖い」
「さすがにビビるね」
千智の手を握る力がきゅっと強くなった。手が汗でしっとりしてきた。走っている時の二人は手をつないでいても少し離れていたが、歩いている時はお互いすぐ隣にいる。近くにいると汗の匂いに混じって千智から不思議な香りがしてくる。それは明日美の放つ大人の香りとは違い、幼いながらも魂ごと引き込まれそうな強い香りだ。
手をつないだまま皐月と千智は森の奥へ続く参道を歩いた。二人とも何も喋らなかった。皐月は思いっきり千智と手をつないでいることを意識していた。
狐塚へ向かう道中、参拝客を迎えるために向き合う狛狐が何組も並んでいた。狛狐の間を抜けるたびに皐月と千智から怖さが消えていった。右へ道なりに曲がると薄明るい空間が現れた。石柵の上に赤い花のようなものが浮き上がって見える。この石柵で囲まれた領域が霊狐塚だ。
「うわ~、凄っ!」
数百体の狐の石像がこちらを向いて座っている光景は圧巻だ。狐に掛けられている赤い前掛けが石像とのコントラストで眩しく見える。そしてよく見れば可愛らしいその赤い前掛けが、おどろおどろしい霊地特有の雰囲気を和らげている。
「中、入ってみる?」
「いいの? 中に入っても」
「うん、一応いいってことになってる。でもこういう霊的な場所に入っちゃってもいいのかなって畏れる感覚はすごく大事。千智がなんとなく感じたように、昔は狐塚の中って勝手に入っちゃいけなかったんだって。今は参拝客に開放されて自由に入れるようになったけど」
「う~ん。中には入らなくてもいいかな、今日は。先輩と一緒でもやっぱりちょっと怖い」
「お昼の明るい時だとね、狐たちもなかなか可愛いんだよ。一体一体顔も違っててさ、イケメンもいれば変な顔したやつもいるし。狐に触らないよう気をつければ中に入っても大丈夫だよ。俺も入ったことあるし。千智も近くに住んでいるんだから、またここに来ればいいよ」
「来ればいいって、なんでそんな言い方するの? 一緒に来てくれないの?」
「あ、ごめん。言い方悪かった。もちろん必ずまた一緒に来よう。たださ、カップルで豊川稲荷に来ると別れるっていう噂を思い出しちゃったから、つい気になっちゃって」
「何を今さら……もうカップルで来ちゃってるよ。じゃあこれってアウトってこと?」
「あ~そっか……二人で抜け出して来ちゃったから、今の俺たちってカップルってことになるのか」
「もうっ~そんな変な話、信じないでよ。それにバスケで遊んだ後、今度一緒に豊川稲荷に行こうって誘ってくれたじゃない」
「あのときは噂のこと、すっかり忘れてたんだよな」
「じゃあ覚えてたら誘ってくれなかったってこと?」
「そんなの別のどこかに行こうって誘ってたに決まってるじゃん!」
千智がぐっと身を寄せてきて、バイザーの下から覗き込むように皐月を見上げた。
「藤城先輩、私と別れたくないって思ったんだ」
「そんなこと言ったっけ?」
皐月は少し身体を離し、照れ隠しにそっぽを向いた。
「語るに落ちるって知ってる? 皐月先輩」
「難しい言葉知ってるね」
「あれ、もしかして私のことバカだと思ってた? こう見えても勉強得意だよ」
「そっか……千智って賢いんだ」
人魂のような燈火とともに祐希を乗せた自転車を博紀が走らせてきた。
「あ~っ! 若い二人がイチャイチャしてるぅ」
皐月と千智は手を離し、パッと身体を離した。
「ババアみたいなこと言うなよ、祐希」
自転車を降りた祐希は博紀を見て、いたずらっぽく言った。
「ねえ、私のことババアって言ったよ。皐月ってひどいよね、博紀君」
博紀は困った顔をしていた。
「こんなの絶対、直紀には話せないな……」
皐月と千智の間に割り込んできた祐希は二人の肩に手をまわした。
「ひゃ~っ、凄い数の狐! 異世界感半端ないね! 皐月たち、もう中に入ったの?」
「ううん、入ってないよ」
「じゃあ一緒に入ろうよ」
「俺パス」
「え~っ、なんで? やっぱり怖いの?」
「あ~怖い怖い。もうおしっこちびっちゃいそう」
「千智ちゃんも怖いの?」
「私もちびっちゃうかも」
「マジか!」
祐希はケラケラと笑ってはいたけれど、皐月と千智の様子を見て、さすがにおかしいと感じたようだ。
常夜燈に明かりがついた。それだけで空気が柔らかくなった。淡い明かりに照らされた狐の像は幻想的で美しい。妖気がなくなったかな、と皐月は感じていた。だからといって狐塚の中に入る気にはなれない。
「祐希さん、俺が中を案内しましょうか」
博紀にはこの微妙な空気が読めないか、と皐月は苦笑した。博紀は女の子に媚びるようなことを言うような奴じゃなかったはずだが、この非日常的な薄暗がりの中、夥しい数の狐に見つめられているうちに平常心でいられなくなったのかもしれない。それに皐月は、博紀が祐希に魅入られているのは間違いないと思っている。
「私も今日はやめておこうかな。明かりがついたからもう夜だ。みんなで帰ろう!」
年長者の祐希の一声で四人は狐塚を後にした。博紀は自転車には乗らず、引いて歩いていた。
四人とも話したい事はたくさんあるはずなのに、みんな口数が少なかった。口を開いても当たり障りのないことしか話さなかった。それぞれの想いを胸の中にしまっておくかのように。
夕風は涼しかった。風が千本幟をはためかせる中、四人はさっき来た道と別の参道を戻った。通天廊の下をくぐり、錦鯉のいる庭の池にかかった橋を渡って大本殿前の広い境内に出た。
驚いたことにそこは時間が巻き戻されたかのように明るかった。あと二日で夏休みも終わる。日が短くなってきたとはいえ、午後六時を過ぎてもまだ明るい。さっきまでの暗さは一体何だったのだろうか。
「狐に化かされちゃったね」
祐希と千智がは無邪気にしゃいでいるが、博紀はそれこそ狐につままれたような顔をしている。
「今まで何度もここで日が暮れるまで遊んでいたけど、こんなこと初めてだよな」
「なんか変な感じがしてたけど、お前気がついていた? 博紀」
「気持ち悪いこと言うな……。そういやさっきお前、狐塚でビビってたよな?」
「お前、怖くなかったのか?」
「全然。俺はむしろ中に入りたかったぜ。面白そうだったじゃん」
いつも学校では大らかで余裕がある博紀だが、今日も皐月には妙に突っかかってくる。
「あーっ! 私、全然写真撮ってない!」
突然祐希が大声をあげた。
「まだ明るいから、みんなで写真撮ろうよ」
四人が四人ともスマホを取りだした。大本殿をバックに思い思いの写真を撮った。祐希は皐月と博紀のペアの写真を撮って喜んでいたが、皐月も博紀も少し嫌がっていた。皐月は博紀のスマホで祐希と二人の写真を撮ってやった。照れる博紀の顔なんてあまり見る機会がない。
千智は祐希に皐月と二人の写真を撮ってもらい、嬉しそうだった。皐月も祐希にスマホを渡して二人の写真を撮ってもらった。博紀が弟の直紀のためにと千智の写真を撮らせてもらえないか頼んでいたが、思いっきり拒否されていた。参拝者がいれば四人の写真を撮ってもらおうと思ったが、誰もいなかったのでみんなのスマホでセルフタイマーで集合写真を撮った。
総門の前まで戻ってきた。博紀は自転車に乗って先に帰った。千智も自転車を引っ張ってきて帰ろうとしていたが、表情が暗い。
「二人は今から同じ家に帰るんだね……」
バイザーを下げ、キャップを深くかぶって顔を隠した。
「ちょっとこっち来て」
祐希は皐月に自転車を手渡し、千智の手を引いて皐月から遠ざかって物陰へ連れて行った。千智の耳に手で覆って内緒話をし始めた。「ほんと?」という千智の大きな声が聞こえた。二人でゴニョゴニョ話しているうちに千智は元気を取り戻したようだ。「かわいーっ!」と叫びながら祐希が千智に抱きついている。二人でスマホを取り出して何かをしている。
あまりじろじろ二人を見てはいけないだろうと、皐月は千智の自転車にまたがりながら総門から門前通りをぼんやりと眺めていた。目の前の土産物屋が次々と店を閉め始める。今度こそ本当に日が暮れてきた。
「帰ろうか、皐月」
「二人で何してたんだよ?」
「インスタ交換してたの。千智ちゃん、私の豊川での最初の友だちになってくれるって」
千智がすっかり祐希に懐いてべったりとくっついている。千智はクールな見た目とは裏腹に相当の甘えん坊だ。
「今度部屋に遊びに来てって言われたけど、祐希さんの部屋って先輩の家だよね。遊びに行っちゃってもいいのかな?」
「もちろんいいよ。遠慮すんなよ。でもたいしたもてなしはできないかもだけど」
「私がちゃんとおもてなしするから大丈夫。もっとも私がいない時に来ても保証はできないけどね」
また祐希がいたずらっぽく笑っている。
「千智、もうだいぶ暗いし一人で帰れる?」
「大丈夫だよ。昔行ってた塾の帰りなんてもっと遅かったし」
「気をつけて帰ってね」
「家に着いたら知らせるよ」
皐月と祐希は二人で千智が自転車に乗って帰るのを見送った。一度だけ千智は自転車を止め、振り返って二人に手を振った。「バイバ~イ」と言いながら大きく手を振る祐希を見て、高校生も小学生とたいして変わらないなと皐月は思った。
最後まで読んでくれてありがとう。この記事を気に入ってもらえたら嬉しい。