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宗教の人は嫌い(皐月物語 66)
藤城皐月は筒井美耶の肩に手をかけて向かい合っていた。手のひらに美耶の体の柔らかさとぬくもりが伝わってきた。皐月はこの万能感を手に入れたような幸せな感覚を知っている。
このまま美耶を抱き寄せてしまおうか、と大胆なことを考えた。相手が幼馴染の栗林真理なら何度も経験しているから慣れている。
しかし、相手は美耶だ。拒否されるかもしれない。胸がドキドキしてしてきた。
皐月が逡巡しているうちに、美耶から笑みが消えた。
(やるか……)
もう迷っている時間はない。少しでも抵抗されたらすぐに押し返して、手を離せばいい。これならきっと大丈夫だろう。
皐月は美耶の反応を試すようにゆっくりと肩を引き寄せた。伸ばした腕を少し曲げ、美耶の体が自分の方に傾き始めたところでブレーキがかかった。
(失敗だ!)
その瞬間、皐月は美耶を軽く突き離した。すると、美耶の上体が反り返ってしまった。後ろに倒れたら危ないと思い、皐月は咄嗟に右手で美耶の左手を掴んだ。美耶が驚いた顔をして皐月を見た。
「行こうぜ」
皐月は何事もなかったかのように装って、美耶の手を引いて歩きだした。この時も美耶が少しでも抵抗したら手を離そうと思ったが、美耶は手を繋いだままでいてくれた。漱水舎で手を清めたばかりなのに、美耶の手のひらは温かく潤っていた。
二人は無言で大本殿前の大きな二の鳥居をくぐった。正面に見える豊川稲荷大本殿は威厳を示すためなのか、高台を作ってその上に建てられている。皐月には大本殿が参道の直線上ではなく、少し右に折れた坂道の先にある意味がわからくて、いつも心がモヤモヤする。
大本殿前の坂の両端に緩やかな階段がある。右側の階段を歩けば手摺の向こうに日本庭園が見えるが、歩幅が合わなくて歩きにくい。
皐月は中央に広く作られた坂を歩いた。この坂には雨の滑り止めになるように石畳に細かく溝が彫られている。皐月は坂を登る前に立ち止まり、その場にしゃがみこんだ。
「この坂の溝って自転車で坂を下る時にブーンって音が鳴るから、気持ちいいんだ。この溝が何本あるか数えたことがあるんだけど、途中で嫌になってやめちゃった」
「うわぁ~っ、暇なことしてしてたんだね」
「本当に暇だったんだ。低学年の頃って、一日がすごく長かった」
美耶もしゃがんで、皐月がやっていたように溝の数を数え始めた。
「なっ? 一番上まで数えたくなっただろ?」
「なるわけないよっ! よくこんな面倒くさいことをしてたね?」
「いつも途中で数がわからなくなっちゃうんだ」
「バカみたい」
二人で笑い合っていると、さっきまでの緊迫感が消えた。皐月は美耶のあどけない笑顔が大好きだ。教室で席が隣同士だった時、皐月は美耶のこの表情が見たくて、いつも笑わせようとふざけていた。
しゃがんでいた二人は立ち上がり、ゆっくりと坂道を歩いて大本殿に向かった。ど真ん中を歩こうとすると、美耶に真ん中は神様の通り道だからいけないと言われた。じゃあということで皐月は右側に寄ったが、美耶は真ん中を避けようとはしなかった。
「そういう話があるみたいだけど、私は全然気にしていないの」
自分で注意しておきながら、美耶はお構いなしに真ん中を堂々と歩いている。
「誰がそんなこと言い始めたんだろうね。そんなの人が多かったらできるわけないのに。エスカレーターの片側を空けるみたいで好きじゃないな、そういう意味不明の規則って」
学校での美耶は決まりごとをあまり守らないタイプだ。皐月はそんな美耶をだらしない奴だと思っていたが、美耶なりの考えがあって規則を無視しているのかもしれない。これからは美耶のことを見直すことにした。
「この参道ってお正月には真夜中でも参拝者で満員になるんだぜ」
「へぇ~、すごい人なんだね。藤城君って真夜中にここ来たことあるんだ」
「一度だけね。元旦だから寒いし、人は多いし……それに眠かったからもう懲りた」
皐月と真理がまだ小さかった頃、お互いの母と四人で豊川稲荷に来て、除夜の鐘を聞いたことがある。今ではいい思い出だが、その頃は母と幼馴染と一緒に初詣をすることがこんなにも幸せなことだとは思わなかった。あの頃の皐月と真理は寒くて眠くて、早く家に帰りたいとぐずっていた。
豊川稲荷の参道の坂を登り切り、皐月は常香炉越しに大本殿を見た。
大本殿は総欅造りの妻入二重屋根三方向拝で、間口が約19m、高さが約30mという立派なものだ。
寺院なのに狛犬ならぬ狛狐が左右に配されているところに神仏習合の名残がある。本殿正面に吊るされている大提灯は高さ3.8mもあり、大迫力だ。
「筒井は初詣、どこに行ったの?」
「玉置神社。十津川村にある神社なんだけど、知らないよね?」
「知ってる知ってる! 秀真に教えてもらったんだ。世界遺産の『紀伊山地の霊場と参詣道』にある神社だよね。なんかすごい神社なんだってね」
「私はそういうのよくわからないんだけど、たぶんすごいんだと思う。大峯奥駈道のなかでも聖地って言われているみたいだし、日本中から参拝者が来るよ」
「なんて神様が祀られてるんだったっけ? 秀真に聞いたけど忘れちゃった」
「国常立尊だよ。地球がまだ天と地や陰と陽の区別がない世界だった頃に最初に生まれたのが国常立尊なんだって。地球の神様ってこと」
「あっ、思い出した。国常立って艮の金神のことだ」
「艮の金神って何? 私、聞いたことがないんだけど……」
皐月はオカルトマニアの友だちの神谷秀真に教えてもらって覚えていることを美耶に話した。
国常立尊が艮の金神と呼ばれるのは大本教という神道系の宗教団体の神話が由来で、オカルト好きにはよく知られている。
もともと金神とは方角神のことで、艮の金神は丑寅の方角、すなわち東北の神ということになる。
大本神話によると艮の金神は地球の丑寅にあたる日本列島の神ということらしい。日本がなぜ地球の東北になるかは皐月にはわからない。
国常立尊は地球を治めていたが、どんな小さな悪も許さないくらい厳しい神だった。その厳格な統治に耐えられなくなった者たちによるクーデターの結果、地球の艮にあたる日本に封印されたという。
陰陽道では東北の方角を鬼門といい、鬼が出入りする方角として忌み嫌われている。大本神話では国常立尊は鬼であるということになる。
大本教は艮の金神の封印を解いて世に出し、世界を立て直そうとした。だがこの霊的クーデターは失敗し、日本政府から弾圧された。
だが本当の立て替え立て直しは次が本番だという。それが今の時代なのかこれからの時代なのかはわからないが、オカルト好きの人たちは今の時代に艮の金神が復活し、今の悪い世界を終わらせることを期待している。
皐月はこんな話を美耶にした。話が長くなり、また陽が傾いた。豊川稲荷の大本殿の前で艮の金神の話を話すことになるとは思わなかった。
「藤城君はその話、信じてるの?」
「そうだな……信じてるかって言われると、信じていないのかも。でも面白い話だなって思うよ。国常立が艮の金神で鬼だってことと、鬼が忌み嫌われている理由とか……まだ俺にはよくわかんないけど、興味深いな」
「ふ~ん。興味を持つのはいいけど、宗教にハマらないでね。私、宗教の人って嫌いだから」
「ハマってねえよ。ただ話がアニメとか漫画の設定みたいで面白いなって思ってるだけだし……」
美耶の反応を見て、皐月は知識をひけらかすことを控えることにした。美耶がオカルト的な話を嫌っているのがよくわかった。実際のところ、今の皐月は神事に関しては信じ切っているわけではない。
美耶の「宗教の人は嫌い」という言葉は重かった。皐月は美耶の言ったことを宗教に深入りするなというアドバイスとして受け止めた。
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