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久しぶりに来た図書室は思ったよりも狭かった(皐月物語 70)

 藤城皐月ふじしろさつきが自主的に本を探しに図書室へ来たのは小学6年生になって以来、この時が初めてだった。皐月に読書の習慣がないわけではなかった。ただ好きな漫画や鉄道関係の本が図書室には置かれていないので、図書室に用がなかっただけだ。
 久しぶりに来た図書室は思ったよりも狭かった。背が伸びたせいか、本棚が低く感じる。
 古本屋の竹井書店と比べると、皐月には図書室の蔵書が小さい子向けの幼稚なものばかりに見えた。それでもよく見ると、学習図鑑は充実しているし、歴史や偉人などの漫画も揃っている。図書室には以前は気付かなかった面白そうな本がたくさんあることを発見した。皐月は図書室と疎遠だったことを後悔した。

 まずは修学旅行の行き先を決めるために、ガイドブックを確保しなければならない。
 稲荷小学校は毎年、京都と奈良に修学旅行に行っている。そのため図書室には京都と奈良のガイドブックが何冊か備えられていた。他の地域は東京しか置かれていなかった。
 京都の本は3冊置いてあった。『まっぷる 京都』『るるぶ 京都』『地球の歩き方 京都』があり、皐月はどれを選ぼうか迷った。3冊全部持っていこうかと思ったが、こういうことをすると同じ班で学級委員の二橋絵梨花にはしえりかに叱られてしまう。
 普段から中学受験の勉強をしている絵梨花や栗林真理くりばやしまりなら『地球の歩き方』のような、情報量が多くて分厚い本の方が好みなのかもしれない。
 だが皐月はメジャーな訪問先の情報だけがあればいいと考えていた。とりあえず写真が多くて見やすい『るるぶ』を選んだ。
 『るるぶ』はエリアごとに情報がまとまっていた。修学旅行のように短時間でたくさん回るといったニーズにかなうだろう。ネットで情報を調べるのもいいけれど、実際本を手に取ってパラパラ見てみると、ネットよりも本で調べた方がいろいろ楽しそうだ。
 図書室で『るるぶ』を見るだけでは時間が足りないので、皐月は『るるぶ』を借りてしまおうと思った。『るるぶ』を手に取って貸出カウンターの方を見ると、図書委員はまだ来ていなかった。

 真理と絵梨花が図書室に来るまでの間、皐月は文学の棚を見ておこうと思った。読書の時間に絵梨花が読んでいた『羅生門』の収録された『トロッコ・鼻』があると聞いていたからだ。
 皐月は『羅生門』をネットの青空文庫で一度読んだだけなので、絵梨花と同じ注釈の充実した本で読み直してみたいと思っていた。絵梨花や文学好きの吉口千由紀よしぐちちゆきと『羅生門』について話す機会があったら、二人が目を瞠ることを言ってやりたいという目論見もあった。
 絵梨花の読んでいた本は図書室のカウンター正面の壁面の本棚に並べられていた。これは『少年少女日本文学館』シリーズ全20巻の中の一冊だ。
 ここには他にも『少年少女世界文学館』が全24巻、『少年少女古典文学館』の全25巻セットが揃っている。このシリーズが本棚の最上段に横一列に並べられているとなかなか壮観だ。

 皐月は『トロッコ・鼻』を手に取ったが、左隣の本が貸し出し中だったのが気になった。これは『少年少女日本文学館』の第6巻なので、借りられているのは第5巻の本だった。
 貸出中の本が何なのか調べてみると『小僧の神様・一房の葡萄』という本で、志賀直哉や有島武郎の短編小説が収録されているものだった。
 皐月はこの両作家のことを教科書で見たことがあったが、名前だけしか知らなかった。絵梨花や千由紀のように稲荷小学校でこんな文学書を読んでいる子がいることに驚いた。
 千由紀が読んでいた川端康成の『雪国』も探してみた。見落としのないよう気を付けて探してみたが、残念ながら稲荷小学校の図書室には置いていなかった。『雪国』は小学生向けの話ではないのだろう。
 その代わりに『少年少女日本文学館』の第9巻に川端康成の小説『伊豆の踊子・泣虫』が収録されていることがわかった。『雪国』を読んでいた千由紀なら『伊豆の踊子』も読んだことがあるかもしれない。千由紀に感想を聞いてみて、面白そうだったら借りて読んでみようと思った。

●148 図書委員

 図書室のカウンターにはいつの間にか女子の図書委員が一人いた。彼女は顔を伏せていたので、誰なのか良くわからない。
 藤城皐月ふじしろさつきがその図書委員を見ていると、向こうもこちらの気配を察して顔を上げた。その涼しげな顔を見て、皐月は彼女が月映冴子つくばえさえこだということに気がついた。
 冴子は5年3組の女の子で、皐月が以前昼休みに入屋千智いりやちさとに会いに行った時、千智を呼んでもらおうと声をかけた子だった。冴子は自分より年下なのに、皐月には使いこなせない丁寧な言葉遣いをしていたので印象に残っていた。
 皐月は手に取った『るるぶ 京都』と『トロッコ・鼻』を見て、芥川の本を棚に戻した。稲荷小学校では一度に一冊しか本を借りられないので、どちらか一冊を選ばなければならない。今は自分の趣味より修学旅行の調べ物を優先したいので、『るるぶ』を貸出カウンターへ持っていった。

「貸出お願いします」
「はい」
 皐月は本とQRコードの印刷された名札を冴子に手渡し、貸出の手続きを行った。慣れた手つきで迅速に処理をし、皐月に本と名札を返した。
「藤城さんは以前、入屋さんに会いに来た方ですね」
 皐月はいきなり名前を言われて驚いた。冴子は皐月の顔を見て微笑んでいた。彼女の笑顔を見たのはこの時が初めてだった。
「よく覚えていてくれたね。なんかちょっと嬉しいかも」
「だって髪の毛を紫に染めてる人なんてこの学校にいないですから」
 冴子の大人びた表情は本気を出した時の明日美あすみに雰囲気が似ていた。明日美は芸妓げいこだが、冴子はまだ小学5年生だ。あの妖艶な微笑みは子どもの出せるものではない。皐月は千智から聞いていた冴子のキャラとのギャップに驚いた。
「派手かな? あまり目立たないようにインナーカラーにしたんだけど」
「華やかで素敵ですよ」
「へへへ、ありがとう」
 皐月は明日美や他の芸妓衆にかわいがられてきたので、大人の女性に免疫がある。だからここで年下の冴子にニヤけた顔を見られずにすんだ。
「藤城さんって、入屋さんの好きな人なんですよね。覚えてますよ」
 冴子に言われた「入屋さんの好きな人」という言葉に動揺した。皐月は願望を一瞬で見透かされたような気がした。
 冴子は簡単に自分の喜びそうなことを言うが、それが本気なのか冷やかしているのかがわからない。千智が人に自分のことを好きだと言うわけがないからだ。
 皐月は年下の冴子に瞬殺されたような気分になった。恥ずかしくなって顔が熱くなってきた。

「おい藤城。お前、何デレデレしてんだよ」
 乱暴に話しかけてきたのは5年の時、皐月と同じクラスだった野上実果子のがみみかこだった。
「なんで野上がここにいんの?」
「図書委員だよ。それよりうちのかわいい後輩にちょっかい出さないでくれる?」
「ちょっかいなんが出してねえよ」
「冴ちゃん、大丈夫だった? あのお兄さんに変なこと言われなかった?」
「楽しくお話していましたよ」
「おい、野上。人聞きが悪いこと言うなよ」
「あんたは見境ないからな。藤城は昔から女と見たらすぐに話しかける」
「なんだよ、それ! ……まあ女に見境がない男ぐらいじゃないと、お前となんか仲良くできるわけねえよな」
「どういう意味だよ、それ?」

 実果子はこの小学校では珍しく髪を脱色している。言葉遣いや立ち振る舞いに粗暴なところがあり、5年の時のクラスでは浮いた存在だった。
 皐月は実果子と席が隣同士になったのをきっかけによく話をするようになった。今ではこうしてきわどい冗談を言って笑い合える関係になっている。
「ところであんた、何の本借りたの? ……京都? 旅行にでも行くのか?」
「何言ってんだよ。修学旅行で京都に行くだろ。班行動で京都を回るから、行き先を決めるんだよ」
「ああ、そうだっけ。京都か……あんま興味ないから忘れてたわ」
 実果子が修学旅行のことを知らないはずがない。皐月は実果子が3組であまり幸せではないのかもしれないな、と思った。それでも実果子は図書委員を楽しそうにやっているようなので、少し安心した。
 図書室に出入りする児童が増えてきた。低学年の子たちが次々と本を返しに来る。実果子と冴子は仕事が忙しくなったので、皐月は借りた本を持ってカウンターを離れた。

●149 児童会長

 藤城皐月ふじしろさつきは図書室の空いている席に座り、借りた『るるぶ』を読み始めた。映える写真がたくさんあり、どこもかしこも行ってみたくなる。神谷秀真かみやしゅうまが言うように、訪問先を絞り込むのは大変かもしれない。
「あ~っ! 藤城君に先を越された」
 背後から声をかけてきたのは児童会長の江嶋華鈴えじまかりんだった。華鈴と皐月は5年生の時の同級生で、実果子と同じく席が隣同士になって仲良くなった女子だ。
「江嶋も班行動の資料を探しに来たのか? まだ他の本が残ってるぞ」
「どうせ藤城君が一番いいの取ったんでしょ。あ~あ、やられたちゃったな……」
「嘆く暇があったらさっさと取ってくれば? 他の6年生が来たら取られちゃうぞ。あっ、ちなみに本があったのはあそこね」
 皐月が『るるぶ』があった場所を指差すと、華鈴は急いで本を見に行った。華鈴は『地球の歩き方 京都』を選んで持ってきて皐月の正面に座った。
「ここ座ってもいい?」
「どうぞ。でももうすぐ俺の班の奴らもここに来るぜ。おっ、江嶋はそっちの本を選んだのか……。俺、迷ったんだよな。そっちの方が分厚いから、情報量も多いかなって」
「じゃあ私が先に取っても、藤城君が選ぶ本は変わらなかったわけだ。慌てちゃってバカみたい。……それにしても珍しいね、藤城君が図書室に来るなんて」
「まあな。修学旅行だしな。それにしてもあいつらおせぇな~」

 図書室は利用する児童で賑わってきた。栗林真理くりばやしまりならともかく、二橋絵梨花にはしえりかにしては来るのが遅い。絵梨花は人を待たせるような子ではないと皐月は思っていた。
 焦れながら入口を見てみると絵梨花たちがやって来た。真理だけでなく吉口千由紀よしぐちちゆきも一緒だった。
「遅えぞ」
「真理ちゃんが味噌汁と麦ごはんをお代わりしてたから遅れちゃったの。ほんとビックリだよ」
「お代わり? お前、人を待たせておいて、よくメシなんか食ってられんな?」
「野菜たっぷりの味噌汁って久しぶりだったし。それに皐月が本探しててくれるんだったらいいかなって思って」
 舌を出してウインクをした真理がかわいかった。それに野菜たっぷりの味噌汁が久しぶりだと言われると、怒る気になれなかった。
 真理は普段、あまり栄養のあるものを食べていないのかもしれない。受験勉強が忙しくて、自炊をする暇なんてないのだろう。俺んにご飯を食べに来ればいいのに、と思った。
「まあいいけどさ……」
 いつの間にか絵梨花と真理がお互いに名前を呼び合う仲になっていた。
「藤城さんって真理ちゃんには優しいんだね」
「真理には、じゃなくて真理にも、だからね。そこんとこ間違えないように」
「藤城君って二橋さんにも優しいんだね」
 千由紀がニヤニヤしながら突っ込んできた。千由紀も随分表情が柔らかくなった。
「吉口さんにだって優しいよ、俺。まあ真理には優しくする必要はないかな」
「ひどいっ! 扱い悪過ぎない?」
「なんだよ、お前の方が扱い悪いじゃねえか。俺が待ってるのをわかってて、メシなんか食ってやがって」
「藤城、うるさいっ!」
 図書委員の野上実果子のがみみかこに一喝された。こういう時の実果子は迫力があるので、下級生たちがびっくりしていた。優等生の絵梨花と真理は同級生からこんな扱いを受けたことがないだろう。

「ごめんな、江嶋。うるさくしちゃって。野上に怒られちゃったな」
「相変わらずだね。5年生の時もこうやって藤城君の巻き添えになって、実果子に怒られてたな。なんか懐かしいね」
 実果子に聞こえないような小さな声で皐月と華鈴は話をした。実果子はカウンターで図書室利用の下級生の相手をして忙しそうだ。
 皐月は横に並んで座っている絵梨花たちに『るるぶ』を渡した。横一列に並ぶと話がしにくくなるので、皐月はテーブルの反対側まわり、華鈴の隣の席へ移動した。
「とりあえず3人で『るるぶ』見てみてよ。俺はこの本借りたから、家でゆっくり読めるんで、お先にどうぞ」
「皐月。あんた、この本借りたの?」
 真理が意外そうな顔をしていた。
「まあね。だってその方がいいでしょ。借りておけば教室でも見られるじゃん。返却日までは毎日学校に持ってくるからさ、班のみんなだって読めるし。なんなら他の班の奴らにも見せてやろうかな」
「だったら買えばいいのに」
「あっ、そうか……買えば旅行に持って行けるか。その方がいいかも」

「藤城さんって他の班の人のことまで考えてたのね。絶対、私より学級委員に向いてると思う」
 絵梨花はよく人のことを褒める。だが皐月は過大評価をされているようで落ち着かない。
「最初から他の班の奴らのことなんて考えてなかったよ。ただぱっと本を見た時にそう思っただけで……。なあ江嶋、お前もその本借りて、1組の奴らに見せてやったら?」
「そうね……うちの学校って4組まであるけど、京都の本は3冊しかないし……。借りちゃっていいのかな? 全クラスに行き渡らなくなっちゃうし、どうしよう……」
「そんなの気にしなくてもいいんじゃないの? 2組や3組の奴らが俺たちみたいに本を借りに来るかどうかなんてわかんないじゃん。それに俺、明日この本返却するからさ。それに、家に京都のガイドブックがある奴だって何人かいるだろうし、江嶋がそこまで気を使わなくたっていいんじゃない?」
「そうだね。私が気にしたって仕方がないか。じゃあ借りようかな。それとも買ってしまおうか……って高っ! やっぱり借りよ。もし買うんだったら藤城君と同じ『るるぶ』にするよ。じゃあね」

 スッキリした顔で華鈴は貸出カウンターへ行った。貸出の手続きをしている間、去年同じクラスだった実果子と何かを話していた。
 ときおり二人でこっちの方を見て笑っていた。何がおかしいのか皐月は少し気になったが、二人とも楽しそうなので手を振った。もっと笑われるかと思ったが、華鈴も実果子も手を振り返してくれた。


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音彌
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