裸足のスポーツ少女 (皐月物語 4)
プールサイドで藤城皐月は入屋千智を直視できなかった。顔から下は見てはいけないものだ。皐月は千智の目だけを見て一緒に帰ろうと誘うと、何のためらいもなくうなずいた。
皐月が同級生の男子と違うところは気軽に女子を誘えるところだ。こういう皐月の振る舞いは一部の男子からはチャラいと評判が悪いが、女子からはそうでもない。
先に着替え終わった皐月は更衣室を出たところで、日陰に入らずに千智を待った。太陽の光を浴びながら長めの髪をくしゃくしゃとしていると早く乾くからだ。
夏休みももうすぐ終わるというのに風もなく、湿度も高かった。水にでも浸かっていないとやってられない暑さで、またプールに戻りたくなってくるほどだ。
私服に着替えた千智が更衣室から出てきた。皐月にとって彼女の姿をまともに見るのはこれが初めてだった。
千智は深めにキャップをかぶり、ストレートの長い髪で耳を隠していた。少し赤みがかった黒紅色の髪がサラサラとしていて美しい。
「そのキャップ、スイムキャップよりずっと似合ってるね」
「何ですか、それ。褒めてるんですか、貶しているんですか」
「褒めてるに決まってるじゃん。それより、どうして髪の毛が乾いてるの?」
「充電式のドライヤーを持って来たんです。藤城先輩も使いますか?」
「いいの? じゃあ借して」
5年生でも女子はやっぱり男子とは違う。皐月はそんな便利なドライヤーがあることを知らなかった。
千智をよく見るといろいろおしゃれなことに気がついた。キャップだけでなく、ファッションがトータルで格好いい。
大きめな白地のTシャツにはアートがプリントされていた。デニムのショートパンツとスニーカーがストリートっぽい。皐月のクラスにはこういうタイプの女子はいない。
「その赤と青のデザインって何?」
「レットナっていう芸術家のアートなんだけど、知ってますか?」
「知らない。れっとな? 外国人?」
「レットナはアメリカ人のストリートアーティストで、結構有名らしいです。私はあまりそういうの詳しくないけど、お父さんがアート好きで、ネットで見つけて買ってくれたんです」
「へぇ~、ストリートアートか。エジプトのヒエログリフっぽくてかっこいいね」
「デザインと色合いが白のシャツに合っていて気に入ってます。ところで、ヒエログリフって何ですか?」
「古代エジプトの遺跡によく刻まれている絵文字のこと。ちょっと調べてみようか」
気になったことをすぐにネットで調べるのは皐月の癖だ。
「あれ? 思ったほど似ていないや。ヒエログリフの印象だったんだけどな……」
「十字架みたいなデザインがキリスト教っぽいかなって感じてました。でも人みたいなデザインもあるし、確かにヒエログリフに似ているかもですね」
「神秘的なデザインのTシャツだね。良く似合ってるよ」
千智は皐月にTシャツが似合っていると言われたことだけでなく、ファッションに関心を持ってくれたことが嬉しかったようだ。
「暑いね。何か冷たいものでも飲んでいかない?」
「お金持っていないから、私はいいです」
皐月は少しでも千智といる時間を稼ぎたかった。ドリンク代をおごってもいいと思っていた。
「体育館にあるウォータークーラーの水飲みましょう。冷たいし、水でいいじゃないですか」
「そりゃ水は冷たいけどさ……。ま、いいか」
「日陰なら涼しいですよ」
暑いから水は美味しかったが、日陰に入っても全然涼しいとは思わなかった。
「千智って、もしかして暑いの強い?」
「暑いのは平気です。でも寒いのは嫌。もしかして藤城先輩は暑いの苦手ですか?」
「苦手~。でも冬が好きでさ、去年なんか冬でも半袖半ズボンだった」
「やだっ! それって変ですよ」
「変かな? カッコよくない?」
「いや、全然」
美し息を否定されたようで、皐月は千智の言葉に思いのほかショックを受けた。だが、それでも腹が立つような嫌な気持ちは起こらなかった。
「友だちはみんなスゲ~って言ってたけどな」
「男子と女子は違います。冬に半袖半ズボンなんて一緒にいたら恥ずかしいから、冬になったら私に寄ってこないでくださいね」
千智の言葉で皐月は二人の関係が冬まで続くことを確信した。そう思うと気持ちに余裕が生まれ、クラスの女子と会話をする時のように話を続けられそうだ。
「そっか。だからうちの親はみっともないからせめて上着だけでも着てくれって言ってたのか」
「今年はちゃんと冬服着ましょうね」
体育館の出入り口の近くにあるウォータークーラーは夏休みなのに律義に水を冷やしてくれていた。飲む人もいないのに電気代が勿体無いんじゃないか、と皐月は水道代が気になった。この日は何かクラブ活動でもあったのか、体育館の扉が開いていた。
「ちょっと中で遊んでいく?」
「いいですよ。私バスケがしたい」
「バスケ得意なんだ」
「スポーツは割と何でも得意です」
「水泳は苦手なのに?」
「あれだけはダメなの、ってもう!」
皐月と千智は体育館の中に入った。皐月は誰もいないアリーナの真ん中で軽く腕を回して準備運動をした。普段の遊びでバスケをしてこなかったので、今度は自分が千智に教わることになるだろうと思い、恥をかきたくないと緊張し始めた。
皐月と千智は倉庫からボールを取り出し、適当にドリブルしてシュートを打って遊んだ。千智はバスケが得意だと言うだけあって、フォームがさまになっていた。
「靴下じゃ滑って動きにくいですね。私、裸足になります」
千智が靴下を脱いだので、皐月も裸足になった。屋内は直射日光がないだけマシだが、やはり蒸し暑い。板張りの床が少しだけ冷たくて気持ちがいい。
千智は両手でシュートをしていた。皐月は漫画やアニメで見たように片手でシュートを打ったが、ボールが重くて思うように投げられなかった。全然リングに入らなかったが、フォームだけははそれなりに真似ができていた。千智はほとんどシュートを外さなかった。
「バスケ上手いね。驚いた」
「何で驚くんですか?」
「だって俺は鈍臭い千智しか知らないし」
「これからは私のことをどんどん見直してくださいね」
千智にワン・オン・ワンをやろうと誘われた。これは絶対にボコられるなと思ったが、やはり皐月は千智の相手にならなかった。
千智はハンドリングが上手過ぎるし、動きが速過ぎてついていけない。右に行くかと思えば、股下でボールを切り返して左へ行く。皐月はその度にひっくり返っていた。
「ひゃ~。参った参った。もうやめようよ。疲れた」
「え~、もうやめちゃうの? 体力ないなぁ」
「体力もないけど、根性がないんだな……。それに負けてばっかで泣いちゃうよ」
「もう、しょうがないなあ。じゃあこれくらいで勘弁してあげます」
千智はまるで疲れを見せずにニコニコしている。これが泳げなかったあの千智か、と見る目が180度変わった。
皐月は遊び以外で運動らしい運動を特にしていない。自分のことをひ弱だと思ったことはなかったが、実は結構ヤバいかもしれないと思い始めた。スポーツをやっている千智は皐月よりもずっと体力がある。
「バスケやってるの?」
「特にやってるわけじゃないけど、お父さんが昔バスケやってて、いろいろ仕込まれたんです」
「バスケの選手とか目指すの?」
「目指さないですよ。だって私、身長がないから無理です。でも中学に入ったら部活はやろうかなって思ってます」
「そっか。バスケ部か。俺、中学になったら部活どうしよう。ドッジボール部なんてないし、野球部は坊主にしなきゃならないから嫌だし……」
6年生にとって中学でどの部活に入るかは重大な問題だ。好きなスポーツの部活に入っても、必ずしも楽しいわけではないらしい。
「バスケやったらいいじゃないですか。結構上手かったですよ」
「え? ホント?」
「はい。フォームも綺麗だし、ドリブルも上手いですよ」
「千智やマンガの真似をしただけなんだけどね」
「きっと飲み込みが早いんですよ。スポーツなら何でも向いてそう」
「体力ないからなぁ……」
「体力なんて運動していれば勝手につくからどうにでもなりまよ」
皐月はどちらかといえばインドア派なので、千智のようなスポーツ少女とは合わないと思っていた。だが千智は素直でいい子だ。
皐月は特別スポーツが苦手というわけでもないし、嫌いでもない。器用な分だけむしろ得意な方で、ドッジボールと野球は自信がある。ただ走るとすぐに息が上がって胸が痛くなるので、わざわざスポーツをやろうとは思わない。
皐月は体力さえつけば千智と一緒にスポーツを楽しめるようになるかもしれないと思った。千智ともっと仲良くなりたい。
「帰ろっか。今日は楽しかった。せっかくプールに入ったのに汗かいちゃったね」
ボールを片付けて靴下を履き、体育館を出た。少し涼風がそよいでいて、中にいるよりも気持ちがよくなっていた。校門から出たら、家の方角次第ではここでお別れだ。
「藤城先輩って家どこですか?」
「栄町だよ。駅前というかお稲荷さんの門前というか」
「私は古宿です。姫街道の向こう。方向が違いますね」
皐月はバスケが下手過ぎて相手にされないと思っていたので、この展開を意外に思った。千智が自分の住んでいるところに関心を示したことが嬉しかった。
「千智ってお稲荷さんに行ったことある?」
「初詣に行ったことがあるくらいかな」
「一番混んでいる時期だね。普段はガラガラで広々としてるよ。早朝なんて誰もいないから気持ちがいいんだ。今度一緒に豊川稲荷に行こうよ」
「今度じゃなくて、今からでもいいですよ」
キャップの奥の瞳がキラキラしていた。皐月はこの目を知っている。買い物に行った時に店員から向けられる目だ。
「ごめん。今日はこの後、家の用事があるんだ。引っ越しがあってね」
「えっ? 藤城先輩引っ越しちゃうんですか!?」
この反応で皐月は確信した。千智は自分に好意を持っていると。
「いや、引っ越すんじゃなくて、うちに引っ越してくる人がいるんだ」
「ん? どういうことですか?」
皐月の家が置屋であること。母が芸妓であるということ。弟子になる人が住み込みのために引っ越してくること。ちょっと普通の家とはいろいろ違うので説明が必要だった。
千智は置屋どころか芸妓も知らなかったので、できるだけ印象が悪くならないように説明をした。母が芸妓ということで悪く言う人もいるので、皐月は千智に話すことをためらった。仮に千智が無反応でも、千智の両親には良く思われないかもしれない。
「芸妓さんなんて、お母さんは綺麗な人なんでしょうね」
「綺麗かなぁ?」
「だって藤城先輩、美少年じゃないですか。だから絶対にお母さん美人ですよ」
「美少年? 俺が?」
皐月は髪を伸ばしているので女の子のようだとよく言われる。中性的な顔立ちを千智は美少年だと感じているのだろうか。皐月は女の子みたいと言われることが嫌いなので、自分では不細工だと思っていた。
「そうですよ。先輩、モテるでしょ?」
「全然。だいたいうちのクラスにアイドルみたいな奴がいて、そいつが女子の人気を全部かっさらっちゃってるから」
「へぇ、そうなんですか」
思わぬ高評価に皐月はびっくりした。自分に好意を寄せるような女子は隣の席の筒井美耶だけだと思っていた。
「今スマホ持ってる?」
「家に置いてきちゃいました」
「そっか。今度また誘おうと思ったんだけどな……。どうしようかな」
「連絡先教えてください。こっちから誘います」
皐月はメッセージアプリのアカウントを千智に教えた。皐月は普段、母親以外とSNSを使っていない。真理とは一応繋がっているが、塾に通うようになってからはほとんどやりとりをしていない。
クラスでは隣の席の美耶と繋がったことがある。だが、やたらとメッセージを送ってきたので、辟易して怒ったことがある。女子がみんな真理のように淡白なわけではないということを知り、皐月はSNSに慎重になっていた。
千智がどんなタイプかわからない。つい勢いで今度また誘うと言ってしまったが、本当は自分から連絡するのはあまり気乗りしない。だが千智から誘うと言ってくれたので、皐月は正直ホッとしていた。