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どうして漸近線なんて知ってんだよ (皐月物語 38)

 次の麻雀の対局を始める前に、前回の対局でトップだった入屋千智いりやちさとの好きな音楽を流すことになった。対局中に映像はいらないと千智が言うので、Spotify で Prince の曲を流すことにした。操作は今泉俊介いまいずみしゅんすけが行った。
「入屋さんって洋楽聴くんだ。なんか意外だな」
「両親が80年代の洋楽が好きで、小さいころからよく聴かされてきたの」
「そういや入屋はいつもステファニーと英語で喋ってるよな。俺たち、入屋たちが何話してるのか全然わかんねえよ」
「そんな大したこと話してないよ。私だってまだ少ししか英語話せないから」
「そうか? 全然そんな風に見えないけどな」
 月花直紀げっかなおきはクラスで千智がステファニーと英語で話しているのをあまりよく思っていないようだ。直紀ですらそう感じるのなら、クラスの女子からは相当疎まれているのだろうな、と藤城皐月ふじしろさつきは思った。
 ミニコンポのスピーカーからいい音で『Let's Go Crazy』が流れ始め、麻雀が再開された。抜け番は前回トップだった千智だ。
 対局が始まっても皐月はまだ集中できず、ほとんど上の空のような状態だった。皐月はさっき千智に言われたことをまだ引きずっている。一緒に遊ぶのは難しいってどういうことだ……。
「ロン」
 俊介の親っ跳おやっぱねに打ち込んで一発終了。皐月が無造作に捨てたドラの中が当たり牌だった。
「お前、ここで初牌しょんぱいのドラ切るか?」
 罰ゲームを回避できた月花博紀げっかひろきなのに、皐月を非難するような口調だ。誰が見ても危険牌なのがわかる。
「あちゃ~」
 普段の皐月ならあり得ないミスだった。俊介が2回鳴いたのすら気づいていなかった。
「先輩のせいで私の好きな曲、1曲しか聴けなかった……」
「皐月君の歌なら兄貴と違って聴いてる方が罰ゲームにならなくて助かるなぁ」
「あんまりマニアックな歌を選択したら一緒に歌ってあげられないからね」
「お前、洋楽を聴きたくないからワザと負けて早くゲームを終わらせたな」
「そんなわけねえだろ!」
 みんなの軽口に癒されていると、博紀からいやらしい攻撃を受けた。さっき及川祐希おいかわゆうきのことでいじったのを根に持っているのかもしれない。
「そうなの?」
 千智が博紀の言うことを真に受けて、泣きそうな顔をしている。
「違う。俺がわざと負けるわけないじゃん。さっきはちょっと集中力を切らしていただけ」
「確かに皐月君らしくないよね、さっきのミスは。いつもなら守り固いし。僕は最初から自分の力だけで自摸和了つもあがりするつもりでいたからドラが出てきてびっくりしたよ」
「皐月君、なんかボ~ッとしてたよね。どうかしたの?」
(ここはみんなにスルーしてもらいたかったのに、どうして俊介も直紀もおれに構うんだ……)
 みんながその気なら自分から話題を変えるしかない。
「じゃあおれ、『26時のマスカレイド』の曲歌うわ」
「皐月君、それって今朝言ってた最近ハマっている地下アイドル?」
「そう。好きなアイドルの中の一つ。もう解散しちゃってるし、地下アイドルの部類になるのかな、テレビの歌番組に出ていなかったからみんな知らないよね」
「へぇ~、知らないけど楽しみだよ。YouTube で検索するから曲名教えて」
「片仮名で『ゼンキンセン』ね」
「『ゼンキンセン』って何? 聞いたことない言葉なんだけど」
 直紀じゃなくても5年生にわかる言葉ではない。
「ねえ先輩、漸近線って数学の歌?」
「千智は漸近線知ってるんだ。5年生ってまだ反比例習ってないよね」
「だからさ、『ゼンキンセン』って何なの? 教えてよ」
 皐月と千智が自分のわからない話をしていて直紀が答えを急かす。
「漸近線っていうのはね、曲線のグラフがあって、その曲線に限りなく近づくんだけど絶対に交わらない線のこと。6年になると習うよ」
「なんじゃ、そりゃ」
「6年だってまだ習ってないぞ。なんでお前らそんなこと知ってるんだ?」
 博紀が怪訝な顔をして言う。
「俺は教科書もらったらすぐに全部目を通すから、教科書の範囲なら全部わかるよ」
「私は塾で習った」
「塾?」
 誰よりも先に皐月が塾に反応した。
「俺の通ってる塾じゃそんなことやってないぞ」
 直紀はスポーツでは博紀に勝てないので、せめて勉強では負けないようにと評判のいい学習塾に通っている。だから直紀はクラスでは勉強ができるほうだ。でも直紀の通う塾に千智はいない。
「私の通ってる塾は中学受験塾だから、6年生の単元を先取りしてるの」
(ああ……そういうことか)
 皐月は千智が言ってた「一緒に遊ぶことが難しい」という意味がこれでわかった。幼馴染の栗林真理と同じパターンだ。
「さっき後で話すって言ったのはこのこと?」
「うん」
 これから千智とあまり会えなくなるということは変わらないのに、なぜかホッとした。
「何だよ、皐月君たち。二人しかわからない話なんかしちゃって。僕たちにも教えてよ」
 俊介が今の話を詳しく聞きたがっている。皐月も千智の塾のことをもっと知りたかったので塾のことを聞いてみたかった。ただ、こんな人前で話せることなのかどうかがわからない。千智の表情を読んでみると、聞いても大丈夫そうな気がした。
「千智は塾があるから、これからはあまり気安く遊びに誘えないって話だよ。千智の行く塾って名古屋?」
「ううん、岡崎。家も塾も駅から近いから、そんなに遠くないよ」
「そっか岡崎か。それって東岡崎駅だよね。うちのクラスにもその塾に通ってる子いるわ」
「ああ、栗林くりばやしさんのことか」
「違う。真理は名古屋の塾。東岡崎は二橋にはしさん」
「えっ? 二橋さんって中学受験するの?」
「なんだお前、知らなかったのか? 一緒に学級委員やってるじゃん」
「知らねえよ。それよりなんで皐月がそんなこと知ってんだよ」
「真理に話を聞いてたからな。真理も二橋さんも博紀のファンクラブの会員じゃないから博紀には情報入ってこないんだな」
 皐月はファンクラブができるほどモテる博紀を羨ましいと思い、博紀はファンクラブに入っていない頭のいい二人が皐月と仲がいいことを羨んでいる。
「だから二橋さんって頭いいのか……。あの二人は異次元だもんな」
「入屋だってすげ~頭いいんだよ、クラスで。でも入屋って1学期は塾に行ってなかったんだよな。なんで勉強できるの?」
「えっ……それは東京にいた時に中学受験塾に行ってたから。でも私、勉強そんなにできないよ」
「そういや真理もそんなこと言ってたな。あいつ、夏休みに成績悪かったってすっげー落ち込んでた」
「マジか、あの栗林さんが……。一体どんな世界だよ」
 スピーカーから Prince の代表曲の一つ『When Doves Cry』が流れ始めた。ギターソロのイントロから複雑なパターンだがシンプルな音のリズムが繰り返される。Prince の変な唸り声のような声が発せられてイントロが終わる。
「そんな話よりも先輩、早く歌ってよ。私ずっと楽しみにしてたんだから」
「この歌、もうちょっと聴きたかったんだけどな……でもまあ、負けたから歌うわ」
 俊介が気を利かせて1番が終わるまで Spotify を止めるのを待っていてくれた。それが皐月の興味のためなのか、千智の好きな曲を長くかけたかったのかはわからない。お喋りをしていたおかげで千智の好きな曲をたくさん聴けてよかったと皐月はほっとした。千智の好きな Prince の曲は、皐月だけでなく俊介も気に入ったようだ。

 俊介が一時停止していた YouTube の動画を再生すると、イルミネーションの輝く夜の往来の中、一人の女性がたたずんでいるシーンから『ゼンキンセン』のビデオが始まった。
「♪『ねぇ』君が本当の気持ちに気付いてくれるその時まで、僕は何も出来ないんだよ」
 サビから始まるこの曲を澄んだ高温で歌い上げる皐月に千智が目を見張っている。時々音を外したりして技術的には未熟だが、伸びのある声質が皐月の自慢だ。俊介が指笛を鳴らして盛り上げる。
「あ~っ、ぼくも皐月君と一緒に歌いたかったな~。でもこの歌知らんし」
 間奏で俊介が嘆いている。皐月も俊介が一緒に歌える曲だったら気が楽だとは思ったが、自分がこの歌を歌いたかった。
「♪今、君と出会えていればよかったのかな」
 サビに入る手前のこのフレーズの後、26時のマスカレイドの大門果琳だいもんかりんがビシッと決めるポーズを皐月が真似すると、千智が大いに喜んだ。気分が良くなってここから始まるサビは振り付きで歌ったら、俊介がメロディーを覚えたのか、歌詞を見ながら一緒に続きを歌ってくれ、ワンテンポ遅れて見よう見まねで一緒に踊ってくれた。
「はい終わり~」
 1番が終わり、皐月は速攻で動画を止めた。
「なんだよ! 今ノってきたとこなのに!」
 俊介がマジでキレている。本当は皐月もいい感じで気持ちが良くなってきていたが、うっかり博紀を見たら急に気持ちが萎えてしまった。
「1番で終わりって博紀が決めたじゃん。怒るなら博紀に怒れよ」
「俺に振るなよ! お前、踊りながら歌ってキメえよな」
「はあっ? お前の下手糞な歌の方がよっぽどキメえわ」
「なんだと、この野郎!」
「喧嘩吹っ掛けてきたのはお前だろうが!」
 皐月は自分から八つ当たりをしたのはわかっていたが、博紀に予想外の方向から攻められ、つい熱くなった。
「もうっ、ケンカやめて。バカっ!」
 感情を抑えながら言った千智だが、バカのところだけは抑えきれなかったような勢いがあった。
「この歌の後半のサビでさ、来栖くるすりんが『バカっ!』って言うんだ。それが超かわいくてさ」
 皐月は千智に叱られたことを無視して、俊介が食いつきそうなネタをふった。
「なんだよ、それ見たかったな。やっぱ最後まで歌いたかったよ」
「まあ、また動画でも見てよ。でも千智の『バカっ!』の方がかわいかったけどな」
「先輩……本当にバカかも」
「皐月君ちょっとキモいよ」
「そうか、キモいか……直紀に言われちゃ怒る気にもなれないな」
 確かにキモいわな、と思うと力なく笑うしかなかった。ただ直紀も一緒に軽く笑ってくれたので、今までカリカリしていたのがアホらしくなってきた。博紀も機嫌が直ってなんとか場が収まった。

挿入歌

26時のマスカレイド-ゼンキンセン(Music Video)


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音彌
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