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刺激的な新しい世界(皐月物語 123)

 いつもは夕食の時間の6時ギリギリに帰ってくる藤城皐月ふじしろさつきだが、この日は時間を余らせて早めに帰ってきた。玄関には一緒に住む及川祐希おいかわゆうきの外出用の可愛いスニーカーが出ていた。祐希は母の頼子よりこが家にいる時は門限を守るようにしているので、祐希はすでに帰宅しているようだ。
 皐月は買ってきた修学旅行に履いていく靴を箱から出して、下駄箱に入れた。家に上がると真っ先に台所にいる頼子のところへ行った。
「ただいま」
「おかえり。皐月ちゃん」
「美味しそうな匂いがするね。今まで家で食べたことのない料理の匂いだ」
「鶏肉のクリーム煮よ。美味しくできているといいんだけど」
「大丈夫だよ、頼子さんならママみたいに適当に料理を作ったりしないから、絶対に美味しいよ。俺も何か手伝いしようか」
「じゃあ、サラダと飲み物を運んでもらってもいいかしら?」
「わかったー」
 皐月は言われたものを居間のテーブルへ運び、食事の用意が終わるまでは2階の自分の部屋に戻ることにした。急勾配の階段を這うようにして上がって部屋に入ると、部屋を仕切る襖の隙間から明かりが漏れていた。祐希がいる。皐月はいつものようにベッドの横の襖を開けなくて、部屋の隅の通路になる襖をノックをして、祐希からの返事を待ってから開けた。
「ただいま」
「おかえり。デートは楽しかった?」
「まあね。祐希はどうだった?」
「うん。楽しかったよ。私はデートじゃないけどね」
 ムキになって言う祐希を見て、皐月はさっきまで会っていた入屋千智いりやちさとよりも可愛いと思った。恋人の竹下蓮たけしたれんとは会わないで友達の黒田美紅くろだみくと遊んでいたという祐希の今朝の話は本当なのかもしれない。
 皐月は嫉妬の苦しみと引き換えに、嫉妬されることの歓びを知った。だが、嫉妬されることの鬱陶しさもわかった。これらは全て恋愛関係ではない祐希とのやりとりから知ったことだ。
 皐月は祐希の変化に気付いていた。祐希が変わったのはいたずらでキスをした時からだ。だが、皐月には変化の理由がわからない。どうして祐希は自分とキスをすることに抵抗がなくなったのか。皐月には祐希が自分とキスをしたがっているように感じた。
 皐月は空いた襖の敷居を超えて祐希の部屋に入った。勉強机で学校の勉強をしていた祐希のすぐ横まで近づいた。
「匂ってみて? 女の匂いなんてしないから」
 皐月は出かける前に祐希に栗林真理くりばやしまりの匂いを嗅ぎ当てられたことがずっと気になっていた。祐希がどのレベルまで匂いがわかるのか、確認しておきたかった。
 祐希は皐月の胸のあたりに顔を近づけて匂いを嗅いだ。何カ所も臭いを確かめて、椅子から立ち上がり、うなじの辺りも匂ってきた。息を吸えば息を吐く。祐希の吐息が顔にかかり、皐月は変な気持ちになってきた。
「何も匂わなかった」
 祐希は嬉しそうに笑っていた。だがその笑みからは純粋な喜びだけでなく、妖しい歓びも見て取れた。
「これで俺と千智の間に何もなかったことがわかっただろ?」
「じゃあ、今度は私も匂ってみてよ。皐月って昨日、私から男の臭いがしたって言ったよね? どうせ今日も疑ってるんでしょ?」
 皐月は祐希の背後に回って肩に手を乗せ、髪の匂いを嗅いだ。今日は汗の匂いもあまりしなくて、整髪料のいい香りがした。
「髪は男の匂いがしないね」
 耳元の髪を手でよけて鼻を近づけた。祐希の項からは体臭の混じった官能的な匂いはしたが、やはり男の臭いはしなかった。皐月が首筋に軽く口を触れると、祐希から小さな声が漏れた。
「ごめん。当たっちゃった」
「もう……わざとでしょ? で、どうだった? 男の匂い、した?」
「全然。女の匂いしかしないよ」
 皐月が背後から抱き寄せると、祐希の頬が熱くなった。
「私……嘘なんかつかないから」
「そうみたいだね。これからは俺、祐希の言うことは全部信じることにするよ」
「そんなこと言っていいの? 私、嘘ついちゃうかもしれないよ?」
「別にいいよ、嘘ついたって。……そのかわり俺が泣かないような優しい嘘にして欲しいかな」
 火照った頬に軽くキスをすると、祐希は身体をねじって唇を合わせてきた。真理と違い祐希のキスは大味だ。蓮に最適化されたものに違いないと思うと気持ちが萎えるが、回を重ねるうちに少し慣れてきた。自分好みに修正してやろうと挿し込まれた舌を抜くと、祐希のスマホに電話がかかってきた。
「祐希、電話」
 肩を押して体を剥がし、皐月は先に1階へ降りようとした。この着信音は頼子だから、夕食の準備が終わった知らせだ。祐希が頼子と話している間に皐月は階段を下りた。

 日曜日の朝、家族4人でパピヨンでモーニングセットを食べていると皐月のスマホにみちるからメッセージが届いた。そこには午前10時に車で家まで迎えに行くと書かれていた。満はいろいろな服屋に連れて行ってくれるようだが、皐月にはどこへ行くのか全く想像がつかなかった。
 皐月が満と外出するのは初めてだ。満とは外出どころか、検番けんばん以外では会ったことがなかった。今まで皐月は満からはそれなりに可愛がられてきた。だが、明日美あすみのようにプライベートの時間を潰してまで買い物に付き合ってくれる程の関係性があるとは思っていなかった。
「10時に車で迎えに来るんだって。夕食までには帰って来られそうだな。もしかしたら昼前に買い物が終わるかも」
「お昼くらい食べてきなさいよ。満のことだから、あんたをドライブの御供にするつもりなんでしょうね。あの子は車好きだから、どこか遠くまで連れて行かれちゃうかもしれないわね」
 母の小百合さゆりが言うように、満が車好きなのは明日美からも聞いていた。ただ、小百合も明日美も車にそれほど興味がないので、満がどのくらい車が好きなのかは想像ができなかった。自分が鉄道が好きなように満も自動車が好きだったら楽しいのになと思った。明日美の助手席に乗った皐月は少し車にも興味を持ち始めていた。

 皐月は今日の買い物に昨日買った靴に合わせ、明日美に買ってもらった黒のテーパードパンツを穿いていくことにした。明日美に買ってもらった上着は修学旅行まで取っておき、白いシャツにベージュのカーディガンというシンプルなコーデにした。これなら最低でも中学生には見えるだろうと思った。
 もうすぐ10時になるので皐月が玄関先へ出ようとすると、小百合も後からついてきた。
「見送りなんていいのに」
「あんたの見送りじゃないの。満にあんたのことをよろしくって言っておきたいから出てきたの」
 パピヨンの角から黄緑色サンバグリーンパールの小さな車が小百合寮の前の狭い路地に入ってきた。
「満かな? あの子の車、初めて見たわ」
 ゆっくりと走ってきたその車は小百合寮の前に止まった。恐ろしく背の低いオープンカーだった。狭い路地なので、どこに止めてもすれ違いはできない。だが、この道はほとんど車が通らないので、道の真ん中に止めても誰の迷惑にもならない。
 車に乗っている満の姿を見て、皐月も小百合も驚いた。後から玄関まで出てきた頼子と祐希も少し引き気味に驚いていた。
 ピンクのウィッグをかぶり、サングラスをしている満は検番やお座敷で見る満とはまるで別人だ。サングラスを外して、屋根を開けた車から満が下りてきた。黒のベロアワンピースに白のレースカラーがピンクヘアーによく合っている。靴のバックルがハートになっているのも可愛い。
「百合姐さん、おはようございます」
「満ちゃん、どうしたの? その恰好」
「カワイイでしょ? 遊びに行く時はいつもこんな感じですよ。でも今日は皐月とお買い物に行くから、一番控え目な服を着て来ました」
「それで一番控え目なの! でも可愛いわね。私も若かったら、一度こういう服を着てみたかったな」
「満姉ちゃん、超可愛いね! まるで地下アイドルみたい」
「地下アイドルって、それ誉め言葉?」
「超誉め言葉だよ。当たり前じゃん!」
 いろいろな地下アイドルを見てきた皐月だが、満ほど可愛いアイドルはそんなにはいないと思った。
「ねえ、満姉ちゃん。これって何ていう車?」
「ビート。ホンダの古い車だよ」
「満姉ちゃんもホンダなんだ。明日美もホンダの古い車に乗ってるよ」
「同じモータースで買ったからね。そこの社長ってホンダ車が好きだから、私たちにホンダばかり勧めてくるの」
 ホンダのビートは1991年に発売されたオープンカーの軽自動車だ。ミッドシップに搭載されたエンジンはF1テクノロジーがつぎ込まれ、自然吸気エンジンながら当時の上限の64馬力を叩き出していた。現在では珍しいMT(Manual Transmission)車だ。
「満ちゃん、今日はどこへ行こうと思ってるの?」
「名古屋に行きます。栄で格好いい服を買おうか、大須で古着を探そうかって思ってます」
「皐月はすぐに大きくなっちゃうから、あまりいい服じゃなくてもいいのよ」
「そーかっ! 背が伸びるスピードが早いってことか。難しい年頃なんですね~」
 小百合は満にお金の入った封筒を渡した。
「これ、ガソリン代と食事代。足りなかったら皐月からもらって。皐月には多めにお金を渡してあるから、遠慮しなくてもいいのよ」
「百合姐さん、いいですよ。私の休日に皐月を付き合わせるようなものですから、お金なんて受け取れません」
「ダメっ! こういうお金はちゃんと受け取りなさい」
「そうですか……じゃあ、余ったお金は服代にまわしちゃいますからね」
 満は笑顔でお金を受け取った。皐月は小百合と明日美のこういうやりとりも見たかったなと思った。母の先輩ぶりが皐月には格好よく見えた。
「頼子さん、こんにちは」
 玄関の中からこちらを眺めていた頼子を見つけ、満が挨拶をした。頼子には名前に姐さんをつけないでさん付けだった。
「満さん、とっても可愛いわ。ピンクの髪もひらひらの服もよく似合ってる」
「ありがとうございます。ところで、あの子が頼子さんの娘さんですか?」
 満が頼子の背後にいる祐希のことを気にしていた。皐月は明日美が言っていた、満が女の子を好きだということを思い出した。
「そう。祐希っていうの。紹介するわね。祐希、こっちにいらっしゃい」
 部屋着のパーカーとジャージ姿の祐希が恥ずかしそうに出てきた。
「はじめまして。及川祐希です」
「こんにちは。芸妓げいこの満です。よろしくね。頼子さんに似て美人で、羨ましいな」
 客の扱いに長けている満の言うことだから、皐月にはどこまで本心なのかはわからない。だが満は祐希を見て本当に嬉しそうにしていると思った。満とは対照的で、祐希は緊張していた。芸妓だけでなくクラブのホステスもしている満のオーラに祐希は圧倒されているように見えた。
「じゃあ百合姐さん。もう行きますね。今日は一日、皐月のことを預かります」
「何時頃に戻って来るの?」
「夕食の時間までには戻ろうと思ってるんですけど、何時までに帰って来ればいいですか?」
「そうねぇ……6時じゃ早いかしら?」
「わかりました。6時ですね」
 満がビートに乗り込んで、助手席に置いていた小さな黒のリボン編上げロリータバッグを膝の上に置き、中に預かったお金を入れた。皐月が助手席に乗り込むと満からバッグを手渡され、持っていてほしいと頼まれた。2シーターのビートには荷物を置く場所がほとんどない。
「それじゃあ、行ってきます。百合姐さん」
「気をつけてね。満ちゃん」
 イグニッションキーを回してエンジンを始動すると、皐月の背中からエンジンの音と振動が伝わってきた。この車は前後の車軸の間にエンジンを搭載しているミッドシップ車だから、エンジンが皐月の背後にある。
「行ってきま~す」
 ビートはゆっくりと走り出した。屋根が開いているので、皐月は後方に流れる小百合たちの方を見ながら手を振った。

 満の駆るホンダ・ビートはゆっくりと焼肉屋の『五十鈴川』の前を通り、突き当りを右折した。いつも買い物をする八百屋の前を通ると、また一本の道に突き当たる。その道は豊川稲荷の表参道で、左折すると豊川稲荷の楼門に至るが、この日は右折した。
 日曜日の表参道は参拝客が多い。それほど広い道ではないので、ゆっくり走らなければならない。そのため、この珍しいオープンカーは参拝客の好奇の目に晒される。皐月は恥ずかしくてたまらなかったが、運転している満は涼しい顔をしていた。
「ねえ、みんなが見てるけど恥ずかしくない?」
「もう慣れた。ビートは目立つから、みんなに見られるのは仕方がないよ。皐月もそのうち慣れるから」
「違うよ。満姉ちゃんがカワイイからみんな見てるんだよ」
「本当にそう思ってるぅ?」
「当ったり前じゃん。俺って嘘下手だから」
 皐月は満がこんなに可愛いとは思っていなかった。満の芸妓姿も稽古姿も可愛いとは思っていたが、満が本気でカワイイを狙いにいくとここまで可愛くなるとは驚きだった。
 古本屋の竹井書店の前を通ると、女店主がちょうど店から出てきたところだった。皐月に気が付いたようで、驚いた顔をしていた。走り去る時に皐月は彼女を目で追って手を振った。表参道を抜けると、道は片側1車線に広がった。
「やっと普通に走れる道に出た」
 満はエンジンの回転数を上げてシフトアップをした。皐月はオートマの車しか知らなかったので、満の操作が何なのか気になった。
「左手で何をしているの?」
「これ? シフトチェンジだよ。エンジンの回転数を上げて、ギアを一つずつ上げていくの。自転車の変速ギアと一緒って言えばわかるかな?」
「わかる。坂道だとギアを軽くするんだよね」
「そう。軽いギアで一所懸命ペダルを漕いでも全然スピードが出ないでしょ?」
「出ない。力が要らないから楽でいいなって思うんだけど、全然先に進まないんだよね」
「車も自転車と同じで、低いギアでいくらエンジンをまわしても出せるスピードには限りがあるの。だからギアを上げていかなきゃ速く走れないの」
 飯田線の踏切に差し掛かると警報機が鳴って遮断機が下りてきた。満は速度を落として停止した。
「今って何速?」
「ニュートラル。わかるかな?」
「ニュートラルって言葉は聞いたことがあるけど、意味はわかんない」
「車でニュートラルっていうと、エンジンを駆動系から切り離して動力が伝わらない状態にすること。だから何速でもない状態。ビートのような車は停止している時にギアをニュートラルにしておかないと、エンジンが止まっちゃうの」
 電車が目の前を通り過ぎるまで、皐月は満からマニュアル車についてレクチャーを受けた。車の仕組みを何となく理解できた気がした。
「皐月が聞いたことのあるニュートラルって言葉は、人間関係で立場が中立って意味だよね、きっと」
「あ~そうだったかもしれない。じゃあ俺が知ってるニュートラルは比喩なんだ」
「そうそう。皐月ってもしかして勉強できる方?」
「まあね。結構できる方だと思う」
「ふ~ん。そうなんだ」
 満の反応が皐月にはよくわからなかった。皐月の印象では豊川の芸妓組合には頭の悪そうな人はいないように感じていた。その中で満は結構バカっぽい扱いを受けていたけれど、説明のわかりやすさから、皐月には満がバカには見えなかった。満がおバカなキャラを作っていると考えると、満のことが少し怖くなった。
「ニュートラルだとエンジンを吹かしても動かないからこういうこともできるの」
 満がアクセルを踏むと、フォンと車が吠えた。いきったやからが暴走族みたいに大きな音を出すのは、ニュートラル状態でエンジンを空吹かししているからだ。
「ビートはね、エンジンが良く回るし、レスポンスもいいからすっごく気持ちいいの。軽自動車だし、ターボもついていないからメッチャ遅いんだけどね」
 満がビートのことを話している時の雰囲気がオタク的な愛情に溢れているように感じた。皐月はオタク気質の人間が大好きなので、満がただの車好きなのか、オタクなのかを話しながら見極めようと思った。
 視界の先に国道151号線を横切る高架の道路が見えた。あれが東名高速道路だ。皐月はまだ車の助手席に乗って高速道路を走ったことがない。
「高速に入るから窓を上げるね。ウィッグが飛んじゃったら大変だから」
 満が風を除けるためにサイドウィンドウを上げた。横の窓を上げるだけで室内に風がほとんど入って来なくなった。それでも屋根が開いているので、解放感はあまり損なわれていない。
 インターに進入してループの道に入ると満がスピードを上げ始めた。皐月の体は横Gで満の方に持っていかれた。ジェットコースターに乗っているみたいだ。
「ヤッホー! 気持ちいいっ! ハハハハハ」
 満のテンションがおかしくなっていた。顔を見ると恍惚の表情をしていた。皐月は満に狂気を感じた。だが狂気は満だけじゃなくて皐月にも伝染したようで、スピードとスリルに気持ちが良くなり、もっとスピードを上げろと興奮していた。今までずっと穏やかな暮らしをしてきた皐月だが、満とのドライブで刺激的な新しい世界を知った。
 ETC のゲートを抜けると、満はアクセルをベタ踏みにしてエンジンを全開にした。レッドゾーンの8500回転まで一気にエンジンを回して、素早くシフトアップをする。軽快なエンジン音と共に加速する景色は低い目線と相まってスピード感が抜群だ。しかしスピードメーターを見ると特別速いというわけではない。
「こんなに目いっぱい走っても、大して速くないんだね」
「だからいいんじゃない。大きいエンジンの速い車だと、街中ではせいぜい1速か2速くらいしか使えないでしょ。ビートなら3速4速、なんなら5速まで使えるんだよ。その方が楽しくない?」
「あ~、力を持て余すか、目いっぱい暴れまくるかの違いってこと?」
「そうそう。皐月はまとめるのがうまいね」
 高速道路をクルージング中、満はずっとビートの魅力について語っていた。皐月が上手に質問したり受け答えしたりしていたので、満はずっと上機嫌だった。満に影響を受け、皐月もすっかりビートが気に入ってしまった。運転免許を取ったらビートに乗ってみたいと思うようになっていた。

ホンダ・ビート


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音彌
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