揺れる思いを持て余す (皐月物語 18)
栗林真理と藤城皐月は出前の鰻重を食べた後、ネットで好きな動画を見ながら小一時間ほどまったりと過ごした。
二人は学校ゆっくりと話をすることがない。人目もあるし、時間の制約もある。だから皐月は動画なんか見ていないで、真理ともっといろいろな話をしたかった。
皐月と真理は成長し、お互いに相手の微妙な状況を想像できるようになっていた。皐月は真理の受験のことを気にしているし、真理は皐月の家に知らない親子が住み込むようになったことを気にしている。だが成長したがゆえに、二人はこの場ではデリケートな話題を避けていた。
それぞれの家を行き来していた子どもの頃、二人は何のためらいもなくお互いを尖った言葉で傷つけ合っていた。でも、今では相手の気持ちを汲み取れるようになった。この距離感は幼馴染にして初めて味わうことのできる幸せだ。
「じゃあ、また」
「おやすみ」
皐月が真理の家を出る時、交わした言葉はこれだけだった。また会う約束をしなくても、明日になれば教室で会える。真理は休み時間や昼休みも受験勉強をしているので話しかけにくいが、二学期からは今まで以上に声をかけてみようと思った。
豊川駅の東口から東西連絡通路を上がっていくと、ちょうど豊橋行きの乗客が改札口から出てくるところだった。この時間になると、新城方面から来る下り列車にはあまり人が乗っていない。
もしかしたら及川祐希がいるかもしれないと思い、皐月は足を止めて遠くから改札口を眺めていた。
そんなに人が出てこなかったので、遠目でもすぐに祐希がいるのがわかった。一緒に家に帰ろうと思って駆け寄ろうとした時、祐希が隣の男と話をし始めた。
皐月は慌てて足を止めた。祐希からは見えにくい券売機の端まで移動して、祐希と男の様子をうかがった。男は改札から出ずにしばらく祐希と話をしていたが、二人揃って新城方面の下りホームに引き返して行った。
祐希が改札を出ないでホームへ戻るとは思わなかった。皐月は自分の存在に気付かれたのかと思ったが、祐希の視線は一度もこちらに向かなかったので、それはないと思い直した。
あの男はきっと祐希と同じ高校の人だろう。しかし月花博紀ほどイケメンではないように見えた。自分だってあんな男には負けてない……皐月に妙な対抗意識が起こった。こんなことを考えるくらいなら、一緒にいた男の顔をもっと良く見ておけばよかったと、今さらながら後悔した。
二人の気配だけでは彼が祐希の恋人なのかどうか、よくわからない雰囲気だった。どちらかの片想いなのかもしれないが、皐月はそれが祐希ではなく、あの男の片想いだったらいいのにと思った。二人が恋人同士であることを否定しようとする自分自身の気持ちが気持ち悪かった。
次の下り列車が来るまでまだ15分はある。きっと祐希と男は人目のない夜のプラットホームで何かをしているのだろう。祐希たちの行動は皐月にも察しがついた。
祐希は家を出る時に友だちに会いに行くと言っていたが、それは男に会いに行くことだった。そして祐希はそのことを自分に知られたくなかった。
祐希が家を出る前に、頼子が祐希にきつく当たっていた。これだって頼子が祐希が男に会いに行くことを非難していたのかもしれない。昨日の夕食の時に話題に出た、祐希が東京に出たがっていることだって、あの男を追って東京で一緒に暮らしたいと思っているんじゃないか……。
皐月は誰もいなくなった改札口をぼんやり眺めながら、次から次へと心に引っかかっていたことに自分なりの解答を出していった。
面白くなかった。祐希が知らない男と一緒にいたのを見たことで、さっきまで真理と一緒にいた余韻が消えてしまったからだ。それに昨日会ったばかりの祐希に、自分が嫉妬のような感情をいだいている。皐月はこの訳のわからない自分の感情を持て余していた。
皐月は祐希が改札から出てくるのを待たずに家に帰ることにした。いつも通る駅前商店街のアーケードを通らずに、西本町の飲食店から左に曲がる狭く暗い路地を歩きたかった。店やアーケードの明かりでさえ今の皐月には眩しすぎた。
小百合寮の行燈が見えた。闇に浮かぶ小さな光が皐月のざわつく心を落ち着かせる。玄関の格子戸には鍵がかかっていたので解錠して中に入った。
「ただいま……」
頼子の作る食事を食べられなかったことが後ろめたい。
「おかえり。遅かったね」
「晩ご飯を食べた後、真理とちょっとカラオケしちゃった」
「街の子ってそんな風に遊ぶのね」
街の子という言われ方に少し抵抗を感じた。カラオケは咄嗟についた嘘だ。
「頼子さん、ごめんね。今日一緒にご飯食べられなくて」
「そんなこと気にしなくてもいいのよ。それに凛子さんから事情は伺っているし」
「でも……」
いつもの皐月なら母の小百合に対して上辺だけの言葉で謝ったりするが、今の頼子には言葉以上に申し訳ないと思った。
「皐月ちゃんは優しい子ね。私にそんな気遣いしなくてもいいのよ。祐希なんか全然そんなこと気にしないで、自分勝手なことばかりするんだから。今日だってまだ家に帰っていないし」
「え? まだ帰ってないの?」
知ってた。祐希はもうそろそろ豊川駅を出る頃だ。ここは祐希のためにも知らないふりをしなければならないし、頼子のためにも共感しているところを見せておきたい。
「明日から学校なのに何してんのかね。そうそう、皐月ちゃん。必ずとは言わないけれど、忘れなかったらこういう時、これから連絡してもらえるかな。家でただ待つだけの生活って、私ちょっとつらいの」
「うん、わかった」
皐月には頼子の気持ちがよくわかるが、母を待っていた自分よりも離婚した頼子の方がつらいのだろう。一緒に暮らす人に心配をかけるわけにはいかない。皐月は新しい生活のことを少し重く感じはじめた。
お風呂が沸いていると言われたので、皐月はすぐに入ることにした。今日は生活リズムが狂っているので早く落ち着いて寝てしまいたい。それに祐希が家に帰ってきた時に顔を合わせたくなかった。
皐月が風呂に入っていると、祐希が帰ってきた。頼子が何か怒っているような声が浴室まで聞こえてきたが、どんな話をしているのかはまでは聞き取れない。
親に叱られているところなんて人に見られたくないと思うと、やはりあらかじめ風呂に避難しておいて良かったと思った。皐月は他人の家族と同じ家に一緒に暮らすことの複雑さを感じないわけにはいかなかった。
風呂を出て、エアコンで涼しい居間でお茶を飲みながらインスタの鉄道写真を見ていると気持ちが鎮まった。この部屋には祐希も頼子もいない、自分一人だけの世界だ。眠くなるまで居間でゴロゴロとした。
自分の部屋に戻ると、エアコンがついていないので蒸し暑くて気持ち悪かった。部屋を隔てている襖の隙間から光が見えるので、祐希が部屋にいることがわかった。一応挨拶をしておこうと思い、襖をノックすると返事があった。そっと襖を開けると、エアコンの冷たい空気が流れ込んできて気持ちが良かった。
「おかえり。帰ってたんだね」
「ただいま。お風呂に入っていたみたいだから声をかけられなかったよ」
皐月も自分の部屋のエアコンの電源を入れた。
「明日から学校だね。高校って楽しい?」
「楽しいよ~。小学生の時よりも楽しいかな。皐月は学校楽しい?」
「そうだね……まあつまんなくはないかな」
「皐月って好きな子いるの?」
「え~っ、そんなのいないよ。なんでそんなこと聞くの?」
「好きな子ができると学校って楽しくなるよ」
「そんなもんかね…」
祐希が恋バナをしたがっているのがわかる。しかも自分の好きな人のことを聞かれたがっている。
「こっちの部屋においでよ」
どうせさっき一緒にいた男の話をしたいんだろう。なんか面倒だな……と思いながらも、誘われるままに祐希の部屋に入って畳に腰を下ろした。皐月は幼い頃から芸妓の明日美に「女の子の話は聞いてあげなさい」と言われてきた。気が進まないが、今日は試しにその言葉を実践してみようと思った。
「じゃあ祐希が高校楽しいのは好きな人がいるから?」
「そうだよ」
「そっか……。じゃあ明日が待ち遠しくてしかたがないね」
「うんっ!」
嬉しそうな顔をして、もっと聞いてくれという感じを出している。そんな祐希を見ていると、皐月は年上なのに祐希のことをかわいいなと思った。でも祐希の嬉しそうな表情は、隣の席の筒井美耶が自分に向けてしている顔とは何か違うし、昨日出逢った入屋千智とも違う。この違和感が皐月をモヤモヤとさせる。
「そういえば千智からメッセージ届いてた?」
「うん、来てたよ。知ってたんだ」
「先に俺のところにメッセージが来てたんだ。祐希によろしくって書いてあったから、自分でメッセージを送ればいいじゃんって返しておいた」
「そんな言い方したらだめでしょ」
こういう言い回しはだめなのか、と皐月は反省した。女子と話すのは簡単だけど、上手く話すのは難しい。皐月は女子相手でも男子のように話してしまう。
「なんかね、千智って祐希が高校生ってことでメッセージを送るのに躊躇してたんだって。別に祐希だったら遠慮したくてもいいのにね」
「うん。それは千智ちゃんの言葉から何となく伝わってきたから、いつでもメッセージちょうだいねって書いておいた」
「ありがとう」
「千智ちゃん、明日学校行くの楽しみって言ってたよ」
「そっか。それは良かった」
口が滑った。ここで「良かった」はない。こんな言い方をすると、千智が自分に学校へ行きたくないと言ったことがバレてしまうかもしれない。
「千智ちゃんは皐月と会えるのが楽しみなんじゃないの?」
「だったら嬉しいな。俺も千智と会えるのは楽しみだよ。でも学年が違うから会えるかな? だいたい一学期の間、俺、千智のこと全然知らなかったくらいだし」
皐月の不安は杞憂だった。祐希は皐月の小さな失敗に気付かなかった。それよりも皐月は何カ月もの間、あんな美少女の存在に気付かなかったことが不思議でならなかった。
「そのうち千智ちゃんのこと、どんなに人混みに紛れていてもすぐに見つけられるようになるよ」
祐希は自分と千智をくっつけようとしているのだろうか。そう思うと皐月はこれ以上祐希の相手をするのが苦痛になってきた。そもそも祐希の恋バナだって聞きたくなかったし、明日美のアドバイスなんて一度くらい無視してもいいや、とやさぐれた気分になってきた。
「言うの忘れてたけど、頼子さんが祐希に、風呂に入るようにって言ってた。祐希の後に頼子さんが入るんだって」
祐希を急かすように言い、皐月は自分の部屋に戻った。さっき真理の家で少し眠ったはずなのに、皐月はもう眠くなっていた。
真理は睡眠が受験勉強の妨げになると言って悩んでいた。眠気をどうしても我慢できないと言う。塾の子たちは睡眠時間を削って勉強しているから背が低いと言っていた。皐月も眠いのを我慢して勉強するのは荼枳尼天の自由研究で懲りた。
祐希が風呂から上がって来るまでに眠れたらいいなと皐月は思っていたが、あっという間に寝落ちした。