好きな人の恋人(皐月物語 160)
藤城皐月と黒田美紅は占い館の模擬店を出た。
「もうバンド演奏は終わってるはずなんだけどな……」
「もう少し他のところも見てみる?」
「そうだね……」
皐月は及川祐希が入屋千智を連れて戻って来ないことを訝しく思っていた。祐希は千智を恋人に会わせているんじゃないだろうか。もしそうなら、千智は祐希の誘いを断ることはないだろう。
妄想とはわかっていながら、皐月は祐希が千智を他の男に曝すことが気に食わなかった。ゾワゾワした気持ち悪さを何かで紛らわせたくなった。
「俺、ここに入ってみたい」
皐月が指差したのはダンス部の部室だった。ここではダンスレッスンをしてもらえるようで、入口には「ダンスを覚えて帰ろう」という張り紙があった。
「皐月君って手相占いで運動が苦手みたいなこと言ってなかった?」
「ああ……あれは嘘。占いの人に嫉妬されたくなかったから、ヤバそうな質問は全部逆に答えた」
「じゃあ、運動神経がいいんだ」
「特にいいってわけじゃないけど、まあまあかな。ネット動画を見ながらダンスの真似事とかはしてるよ」
「へえ~。皐月君が踊ってるところ、見たいな~」
「これから見られるじゃん」
皐月は美紅に連れられてダンス部の部屋に入った。踊っていればモヤモヤした気持ちが晴れそうな気がした。
部屋の中では大人の人やお年寄りたちが古い洋楽に合わせてロックダンスの練習をしていた。まだぎこちない動きだったけれど、皐月は踊る人たちのことを格好いいと思った。
別のグループでは小中学生たちがヒップホップのステップの練習をしていた。皐月のクラスでは友だちの花岡聡が格好つけて踊っていて、皐月は聡からランニングマンやチャールストンを教えてもらったことがある。
「あれっ? 黒田さんじゃん。ダンス部に来てくれたんだ。踊ってく?」
美紅に華やかな男子生徒が明るく話しかけてきた。
「踊るのは私じゃないよ。こっちの彼」
この時、皐月は初めて美紅に体を触られた。手を掛けられた肩が温かかった。
「そうか。君が踊るんだね。俺は青木健人。黒田さんと同じクラスなんだ。君の名は?」
「藤城皐月です」
「皐月君か~。君、バイブスあるね。髪の紫のところとか、超イケてんじゃん」
皐月はこれまで桜淵高校の中を歩いて来て、男子生徒に覇気のなさを感じていた。だが、この健人は他の男子とは違い、自信に満ちあふれていた。
「皐月君、ダンスは得意かい?」
「う~ん……。得意ってわけじゃないけど、動画を見て真似して踊ったりはします。全然うまくないけど」
「そうか! 踊ったりするんだ。じゃあ今日はどんなダンスを覚えて帰りたい? できる限り対応するよ」
皐月は決められたメニューがあると思っていたので、選択肢の広さに戸惑った。ダンスの種類とか、名称とか、細かいことを何も知らない。とりあえず流行っているダンスは遊びで経験があるので、やったことのないダンスを覚えたいと思った。
「じゃあ、大人の人たちが踊っているのをやってみたい。あの人たちが踊ってる曲って、昔の洋楽ですよね?」
「そう。80年代のロックだよ。じゃあロックダンスの基本ステップを覚えてみようか。皐月君には俺がマンツーマンで教えてあげるよ」
青木は皐月にロックダンスの基礎を教えてくれた。この日は時間がないので、スクーバー、スクービードゥ、スキーターラビット、ブレイクダウンの4つに絞って練習をした。
青木は一つ一つの動きを区切りながらやって見せて、皐月がそれを真似るという教え方をした。動きが確実になったらスピードを上げて、連続すると一つのダンスが完成する。その調子で皐月は短い時間で4つのダンスを全て憶えた。
「今日覚えたことは家で反復練習してね。繰り返すことで少しずつ身についてくるから。練習を続けていれば必ず『できた』っていう瞬間がくるから」
「はいっ! 青木先輩」
「君みたいな子に先輩って呼ばれるの、嬉しいね~」
「青木先輩には感謝です。もっとダンスの勉強したくなりました」
「いいね~。じゃあ、曲に合わせて踊ってみようか。今覚えたダンスを組み合わせるから、後ろから俺のことを見て真似してね。手が空いている部員も一緒に踊ろう」
さっきからずっと皐月たちのことを見ていた女子部員たちが集まって来た。彼女たちは皐月に代わる代わる声をかけてきた。チヤホヤされていると、『Earth, Wind & Fire』の『September』が流れ始め、女子部員たちが一斉に踊り始めた。
皐月は慌てて前で踊っている青木の真似をした。ミドルテンポのロックナンバーはダンス初心者には心地よかった。
皐月がダンス部員たちと踊っていると、いつの間にか祐希と千智がこの部屋に来ていた。千智はキャップを深くかぶっていて、視界には一人の知らない男子生徒も映っていた。懸念通りの展開になったようなので、皐月は踊ることだけに集中してレッスンを終わらせた。
美紅と千智が嬉しそうに拍手をしていたが、祐希が顔を強張らせながら皐月に近寄って来た。隣には男もいた。
「あれっ? 及川さんと皐月君って知り合いなんだ。竹下も来てたんだな。ステージどうだった?」
「まあまあかな」
皐月は青木が竹下と呼んだ男を見た。彼が祐希の恋人の竹下蓮だ。
竹下は背の高い男だった。彫りの深い外国人のような顔をしていた。ステージ用にメイクをしていたが、皐月は特に格好いいとは思わなかった。だが、一緒に踊った女子部員たちの反応をみると、女子生徒の間で人気があることがわかった。
「なあ、祐希。紹介してくれよ」
竹下が慣れ慣れしく祐希に話しかけたのを見て、皐月はイラっとした。
「うん……。彼がいつも話している皐月君」
皐月は上から見下ろしてくる蓮に値踏みされているような不快感を覚えた。この時ほど自分がまだ背が伸びていない小学生だということを忌まわしく思ったことはなかった。
「はじめまして。藤城皐月です」
皐月は自分でも意外なほど心を揺らさず対応ができた。竹下の顔を見るまでは嫉妬で狂おしくなるんじゃないかと思っていたが、自分の顔面が竹下に負けているとは思わなかったのが良かった。それに、友だちの月花博紀の方が圧倒的にイケメンだ。
「俺は竹下蓮。祐希のクラスメートだ」
皐月には竹下がどういうつもりでクラスメートと言ったのかわからなかった。言うことがいちいち癪に障った。
「恋人でしょ? いつも祐希さんから竹下さんの話を聞かされているから知ってます」
皐月は最上級の営業スマイルで対応した。祐希の恋人を目の当たりにするまでは竹下蓮の幻想に対して複雑な思いを抱いていたが、実際に竹下と会ってみるとバカな男だと思った。
「祐希、そんな話をしていたのか。恥ずかしいな……」
竹下は照れ笑いをしていた。皐月は昨夜の祐希とのことを思い出し、苛烈な感情が湧き上がってきた。
祐希のキスの下手なのはこいつのせいだ。欲望に任せて祐希を食ってきたと思うと、竹下のことを殺したくなってきた。だが皐月は気持ちを切り替え、性的技巧で小学生に見下されているこのでかいだけの男を憐れに思うことにした。
千智の方を見ると、早くこの場を離れたがっているように見えた。皐月もこの場にいる必要がないと思った。祐希と竹下からそっと離れて、千智のそばへ行き、青木のところへ連れて行った。
「青木さん。今日はダンスを教えてくれてありがとう。彼女の前で格好いいところを見せられてよかった」
「そうか。彼女が皐月君の恋人なんだね。メッチャかわいい子だね」
女子部員たちが悲喜交々の顔をしていた。皐月はもう、女子のこういう反応に慣れてきた。
「教えてもらったダンスは家で反復します。他のダンスも教えてもらったチャンネルを見て練習します」
「踊れるようになったら俺のアカウントに動画を送ってよ。うちの女子部員たちはみんな皐月君のファンになったみたいだから、見せてやりたいんだ」
皐月と青木はSNSのアカウントを交換した。動画を送る気はないけれど、皐月は青木のことを気に入ったので、縁を繋げておきたくなっていた。
女子部員たちが千智の手前、遠慮がちに皐月に話しかけてきた。竹下や祐希の前で女子高生たちの相手をするのは気分が良かった。彼女らのお陰で皐月の殺伐とした心が癒されてきた。祐希は皐月を見ても笑っていなかったが、千智は幸せそうな顔で微笑んでいた。
「じゃあ、行きますね。お世話になりました」
「うん。じゃあね」
皐月は青木たちダンス部員に手を振って教室を出ようとした。最後に美紅にも挨拶をした。
「美紅さん。今日はいろいろ付き合ってくれてありがとう。高校の文化祭、楽しかった」
「私も楽しかったよ。じゃあね」
祐希にも一言「行くわ」と声をかけて、ダンス部の教室を出た。竹下がいると思うと振り返ろうという気にもならなかった。
祐希たちと別れた皐月と千智は校舎を出て、校庭の隅にある木の下の日陰に入った。この辺りは人が来ない。
「ふぅ……。ちょっと疲れた」
「皐月君のダンス、カッコよかったよ」
「ありがとう。まだ基本ステップしかできないけどね。千智、祐希の彼氏のところに連れていかれたんだ」
「うん……」
この時の千智の反応は明るくなかった。
「大丈夫だった? バンドの人たちってチャラいタイプばかりだったでしょ?」
「彼氏さんはそうでもなかったんだけど、他のバンドの人たちが私のことを珍しがって絡んでくるのが嫌だった」
どんなことがあったのか気になったが、皐月は千智が嫌だったと言うことを聞くことはできない。
「それに……」
「それに?」
「なんとなくだけど、祐希さんが軽く見られているような感じがした」
「それってバンドのメンバーだけじゃなくて、彼氏からも?」
「うん……」
皐月はドキッとした。自分にも身に覚えのある話だ。
皐月は同級生の筒井美耶に対してぞんざいな扱いをしている。美耶のことを軽く見ているつもりはないが、美耶は自分への好意を隠そうともしないので、好意に甘えているのかもしれない。
「千智がそう感じたのなら、きっとそうなんだろうね」
皐月は暗い気持ちになってきた。竹下蓮は祐希以外にも付き合っている女がいるのかもしれない。バンドメンバーはそのことを知っているから、祐希のことを軽く見ているのかもしれない。
稲荷小学校で男子が女子を軽く扱うような奴はいない。それはまだ自分たちが小学生なので、高校生のように恋愛関係でドロドロとしていないからだ。ファンクラブのある月花博紀は女子からの好意を一身に受けているが、女子に接する態度は紳士的だ。
「祐希さんが軽く見られているのを受け入れている感じがしたのも嫌だった」
祐希が高校の中でずっと暗い感じがしたのは、高校での自分のポジションを知られたくなかったからだと思った。
「皐月君は出逢った時からずっと優しかった。皐月君を好きになって良かった」
皐月は千智のキャップを取って、顔を見た。哀しみを湛えた千智の顔は美しかった。皐月は自分の顔を目を隠すように千智のキャップを深くかぶった。
「そんな真っ直ぐな言葉、俺にはもったいないな……」
皐月にはこれ以上かける言葉がなかった。自分のような汚れた奴のことを好きになった千智をまともに見ることができなかった。
だが、千智と二人でいる時は誰よりも千智のことを愛しているという自負はある。この日のように祐希と一緒にいたとしても、千智のことしか考えられないくらい好きだと思えた。自分の中では祐希よりも千智の方が大切な存在だ。
「さあ、これからどうしようか。『ふれあい動物園』に行ってみる?」
「ううん。もう帰りたい。この後、おばあちゃんのところにお見舞いに行かなきゃいけないから」
「そうだったね。バンドを見に行って、予定が狂っちゃったからね。それにもうすぐ文化祭も終わりの時間だし」
「ごめんね、皐月君。本当はもっと一緒にいたいんだけど……」
皐月はキャップを取って、再び千智にかぶせた。顔が良く見えるようにバイザーを上に上げた。
「俺たちはいつでも会えるからいいよ。今日はこれで帰ろう」
千智の手を取った。皐月ははいつものようにへらへらと笑うことができなくて、無表情を維持するのが精いっぱいだった。しばらく見つめ合っていると、千智がかすかに微笑んだ。皐月はこの時、千智の手の熱さやっと気がついた。
皐月と千智は桜淵高校を後にした。皐月も千智もしばらくは口を開かずに、物思いに耽りながら閑静な住宅街の中を歩いた。
陽はまだ高かった。だが、知らない町を歩いていることが皐月を寂しい気持ちにさせた。それでも隣に千智がいるだけで随分心強いものだと思った。
「さっき千智たちがバンドを見ている間にね、美紅さんと焼きそばを食べに行ってたんだ」
「お昼、足りなかったの?」
「オムレツだけじゃね。やっぱり炭水化物が欲しくなっちゃってさ」
皐月は千智に焼きそばを食べた時の話や、その後で手相を見てもらった話をした。杉浦佳奈や渡辺天音と知り合いになったことは伏せておいた。
「手相占いによると、俺は文系で才能を発揮できるらしいんだ。人と関わる仕事や人気商売が向いてるんだって」
「ああ……。なんとなくわかる」
「えっ? なんで?」
「だって皐月君って人当たりがいいから。それに、私の父と兄が理系なんだけど、皐月君とは全然雰囲気が違うから」
「雰囲気?」
「父も兄も感覚より理屈を重んじるところがあるんだけど、皐月君にはそういう冷たさを感じないから」
皐月には千智の言うことがピンとこなかった。それはまわりに理系の人間がいなく、花柳界の人間しかいないからだろう。
「千智は自分のこと、文系と理系のどっちだと思う?」
千智はしばらく考え込んだ。
「う~ん。どうだろう……。今は理系の道を進もうって思っているけど、深く考えた上で進路を考えているわけでもないからな……」
「千智は図書室の文学全集を読んでいるから、俺から見たら文学少女だよ」
「えへへ。国語は得意だよ。でも算数も理科も得意なんだよね~」
「じゃあ、千智は文系と理系の二刀流になれるかもね」
小学五年生にして幼馴染の栗林真理が目指す中学の過去問で合格ラインを余裕で超えている千智だ。そんな才気溢れる少女に文系も理系もないのかもしれない。皐月も千智のようになれたらと憧れている。
「バンドはどうだった?」
皐月は祐希の恋人の竹下蓮のバンドには特に興味がなかったが、この流れで聞かないのも不自然だと思った。
「祐希さんの彼氏のバンドを見たけど、みんな楽しそうだったよ。でも、知らない曲ばかりだったし、演奏もあまり上手じゃなかったかな」
「じゃあ苦痛な時間だったね」
「そんなことないよ。祐希さんの好きな人を見られたし、高校生の文化祭だなって感じで楽しかった」
千智はステージで見たことをたくさん話してくれた。バンド以外にもDJに合わせて歌って踊るグループや、アイドルの振り付けをコピーした女子生徒たちが良かったらしい。千智は芸能関係に疎いけど、皐月が見たら女子生徒がコピーしたアイドルがどのグループなのかわかっただろう。
皐月が気になったのは、ここでも祐希の恋人の話がほとんど出てこなかったことだ。余程話したくないことなのだろう。このことは千智には聞かず、祐希に聞かなければならない。
皐月と千智は新城駅に着いた。電車の発車時間まで少し時間があったので、皐月は駅舎の写真を何枚も撮った。駅訪問と鉄道写真は皐月の趣味だ。
「男の子が電車好きなのはわかるけど、皐月君みたいに駅舎が好きって人は珍しくない?」
「少数派かもしれないね。でも、鉄道ファンだけじゃなく、写真好きの人や街歩き好きの人とも共感できる趣味かなって思う。今日は千智と一緒に新城の街歩きができて楽しかったよ」
「私も楽しかった。もっと時間があればいいのにって思った」
「小学生じゃなかったら、地元のカフェに入ったり、食堂でご飯を食べたりできるのにな……。小学生だけで入るのは抵抗があるし、店の人も困るかもしれない」
皐月が気にしているのは年齢だけではない。お金のことも重大な問題だ。子どもの小遣いでは移動だけでも経済的に苦しい。
皐月と千智が自分たちを入れて駅の写真を撮っていると、地元の人に声をかけられて二人の写真を撮ってもらうことができた。二人の自撮り写真を撮ろうと思っていたが、スナップ写真までは期待していなかったので嬉しかった。
皐月と千智が新城駅の木造モルタル駅舎のコンコースに入ると、豊橋駅の普通列車はすでに3番線に入線しているのが見えた。新城駅が始発なので、改札を出てすぐの1番線ではなく、跨線橋を渡った3番線に列車が停車していた。
「祐希さんは毎日見ている景色なんだろうけど、私たちは初めて見る景色だね」
「うん。みんな違う世界を生きているんだな」
跨線橋を渡り、電車の車内に入った。中は空いていたので、進行方向右側に座った。皐月は窓際に座っている千智に外を見てもらい、その先に富永神社があることを教えた。
「俺、神社巡りが好きでさ。またいつか、新城の富永神社に行こうと思ってるんだ」
「富永神社はどんな神社なの?」
「素戔嗚尊が祀られている神社でね、京都の八坂神社の系列の神社なんだ。俺ん家の近くの豊川進雄神社と同じだから、ちょっと気になってた」
皐月は新城駅から豊川駅へ電車が走っている間、修学旅行で八坂神社に行った話や、日本の歴史のミステリーの話をした。こんな話は面白くないだろうなと思ったが、千智はよく聞いてくれて、質問して話を掘り下げてくれた。頭のいい子だと思った。
豊川駅に着いた。改札を出る時、皐月は塾から帰って来る真理と出くわさないか緊張した。だが、駅構内では知り合いには誰とも会わなかった。東西自由通路を下りると、千智は自転車置き場へは向かわず、名鉄の豊川稲荷駅へ行こうとした。
「自転車で来たんじゃなかったんだ」
「この後、市民病院に行かなきゃいけないから電車で来たの」
「じゃあ改札まで送るよ」
皐月と千智は豊川稲荷駅の改札で別れた。千智を見送り一人になると、皐月は急に怖くなった。目の前に千智がいないだけで自分はこの世界でたった一人のような気がしてきた。
周囲を見回せば人はいる。だが、皐月はそれらの人を誰も知らない。今日はあんなにも多くの人と会っていたのに、まるで夢を見ていたような感覚だ。校庭の木の下で触れた千智の掌の熱さでさえ、今はもう記憶に残っていなかった。