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法隆寺の南大門を抜けると飛鳥時代だった(皐月物語 148)

 稲荷小学校の児童たちを乗せたバスは10時50分に東大寺を出た。次の訪問先は法隆寺だ。この修学旅行では法隆寺が最後の訪問先となる。
 藤城皐月ふじしろさつきのバスの席は教室と同じ二橋絵梨花にはしえりかの隣だ。バスの席決めを担任の前島先生から聞かされた時は何も感じなかったが、皐月は絵梨花と二人の時間が異様に多いことに今さらながら気がついた。
「東大寺、良かったね」
「そうだね。良かった」
 皐月から絵梨花に話しかけた。クラスの男子で絵梨花に話しかけることのできるのは皐月しかいない。絵梨花はクラスでは高嶺の花的な存在なので、みんなは絵梨花の可愛さに腰が引けている。
「次は法隆寺か……。平安時代から奈良時代になって、今度は飛鳥時代まで時代を遡ることになるわけだ。俺、時代が昔になるほどワクワクするんだよね」
「藤城さんは古代史が好きなんだ」
「うん……」
 皐月は言葉に詰まった。自分はどうして歴史でも古代が好きなのだろう……。改めてゆっくり考えたいところだが、今は絵梨花が待っている。
「歴史って本当にあったことみたいに書かれているけれど、確かなことじゃないよね。史料が残っていても、それが本当かどうかなんてわからないし。史料の残っていない古代は、古代になればなるほど、その確からしさがあてにならなくなって……。そんな幻想の世界と今が繋がっていると思うと、なんだか楽しくなるんだ」
 楽しくなるは嘘だ。嘘っぽい記述を見るとイライラする。皐月は神社や仏閣の由緒を調べていた時にさんざん経験してきた。
「私も歴史が好き。東大寺や京都ではときどき過去に飛んだような不思議な感覚になる瞬間があったの。特に東寺や東大寺で仏像を見ている時に、そう感じた」
 皐月も絵梨花と同じことを感じていた。それは小説を読んでいる時に入り込む世界よりも強烈な体験だった。皐月が歴史を好きなのはそういうことなのかもしれないと思った。
「私ね、修学旅行で行ったところは全部、いつかもう一度訪れようと思っているの」
「俺もそう思ってる。修学旅行ってそういう意図があるよね」
 皐月は前の席に座っている栗林真理くりばやしまりを意識して言葉を選んだ。皐月はできることなら絵梨花と二人で京都や奈良を歩いてみたいと思っている。だが、それを真理に悟られたくない。
「将来、京都や奈良に旅行する時は修学旅行と違って、一カ所にたっぷり時間をかけて見てみたいな。そうなると、やっぱり一人旅になるかなぁ。誰にも気を使わなくてすむし」
 一人旅と言っておくのが無難だと、皐月は真理のことを気にしながら話した。もしかしたら二人の話声は真理に筒抜けになっているかもしれない。本心では絵梨花と二人で神社仏閣巡りもしてみたいと思っているが、この気持ちは真理だけでなく、絵梨花にも気付かれたくなかった。皐月は自分の気が多いことに罪悪感をおぼえている。
「へぇ、一人旅か……。藤城さん、寂しくないの?」
「う~ん。寂しい時もあるかもね」
「そう……」
 母子家庭に育った皐月は親の仕事の都合で祖母に面倒を見てもらっていた。その頃は祖母に面倒を見てもらっていたにもかかわらず、寂しかったという記憶だけが鮮明に残っている。
 だが、母親が同じ芸妓げいこをしていた真理と、お互いの家で留守番をするようになった。二人で過ごす時間が増えるにつれ、一人でいる寂しさを感じることがなくなった。真理の家の事情で離れ離れにさせられたが、その頃はもう一人になっても寂しくなくなっていた。
「そういう時は言ってね」
「あっ……うん。じゃあ、そっちもそういう時があったら、言って」
「うん」
 皐月は絵梨花に倣って小声で指示代名詞を多用し、誰かに聞かれても分かりにくいように話した。皐月は絵梨花も真理を気にしながら話していると確信した。
 絵梨花の表情を見ると、言外の意まで見透かされているような気がした。絵梨花とは年下の彼女の入屋千智いりやちさとに通じる相性の良さがあるのかもしれない。
 もし絵梨花の手に触れても、絵梨花は嫌がらないかもしれない。皐月の鼓動が高まってきた。絵梨花の顔を見ると、絵梨花も皐月を見ていた。この目をした女子なら口づけだってできそうな気がした。皐月は固く口を閉じた。
 この後、皐月と絵梨花は東大寺を振り返った話を続けた。持てる知識をフル稼働させて、丁寧に文章を書くような話し方を心がけた。話題が尽きることがなく、法隆寺に着くまでの間、会話が途切れることなくずっと話し続けることができた。

 稲荷小学校の児童を乗せたバスは法隆寺観光自動車駐車場へ到着時間よりすこし早目に着いた。およそ1時間の移動だった。
「みんなテンション低いな。法隆寺で喜んでいるのって、俺と二橋さんくらいしかいないんじゃないかな?」
「そんなことはないでしょ? 神谷さんは違うの?」
秀真ほつまは寺よりも神社派だから」
 バスが停車したので、前の席から順にバスを降りた。皐月と絵梨花は法隆寺に胸を躍らせていたが、他の児童たちはあまり興味がないのか、あまり楽しみにしているようには見えなかった。同じ班の栗林真理や吉口千由紀よしぐちちゆき神谷秀真かみやしゅうまですら気持ちが沈んでいるように見えた。
「真理。いよいよ法隆寺だな。ワクワクしないか?」
「そうだね。皐月ほどじゃないけど、楽しみだよ」
 真理の笑顔を見ると、確かに言葉通り楽しそう見えた。だが、真理は小さくため息をついた。
「どうした?」
「うん……。ちょっと疲れが出てきたみたい」
「ああ、疲れか。俺、全然疲れていないや」
「あんたはいつも元気だよね。でも、いきなりスイッチが切れるように寝ちゃう。今でもそう?」
「まあ、寝付きはいいよ。眠気がなくても、寝るつもりで目を瞑るとすぐに眠れるから」
 皐月はみんなのテンションが低いという認識を改めた。児童たちが法隆寺にどれほど興味があるかはわからないが、ただ単に修学旅行で疲れているだけなのかもしれないと思うことにした。
 駐車場を出ると2車線の県道146号があり、上下車線の間に松並木の歩道がある。児童たちはみんな風情のある松並木の中を歩きたがっていたが、そこへ入れる切れ目が目の前にはなかった。これでは遠回りをして歩道に入らなければ、県道沿いの歩道を歩くしかない。駐車場出口から松並木に入れるようになっているといいのにと思った者は少なくないはずだ。
 京都と比べると、法隆寺前の参道は閑静だ。観光客もさほど多くなく、道も広いので空間に余裕がある。通り沿いには食事処や奈良漬を売る店などが並んでいるが、京都の店のような華やかさや賑わいはない。だが、落ち着きはある。
 稲荷小学校の児童たちは歩道の終端の横断歩道で道を渡り、少し戻ったところにある松本屋へ行った。法隆寺に行く前に少し早い昼食をとることになっている。

 松本屋は大きな店で、大和路で最大の食堂だという。店舗入口にはレトロなガラスのショーケースがあり、食品サンプルが陳列されていた。他にも柿うどんや柿ソフトクリームなど、お店イチオシの食べ物のタペストリーが掛けられていた。柿色のざるうどんという、ここでしか見られない麺は見るだけで好奇心と食欲が増してくる魅力的な名物料理だ。
 少し早い昼だったので、店内にはまだ一般の客が少なかった。稲荷小学校の130人の児童たちは二階へ上がった。二階にはすでにどこかの中学校の生徒たちがハンバーグ弁当を食べていた。中学生の人数は稲荷小学校の倍くらいはいるだろう。
 稲荷小学校の児童たちは空いている場所に隅から順に座った。京都のホテルの食堂のように何組はどこと、あらかじめ座席を決められないので、先生が児童の来た順に手早く場所を割り振った。皐月たちは班で固まっていたので、16人で1組のテーブルにまとまって座ることができた。
「まだお腹が空いていないな……」
 皐月の隣に座っている神谷秀真かみやしゅうまがこぼしていた。皐月はすでにお腹が空いていたので、頭の中が中学生たちが食べているハンバーグで一杯になっていた。
秀真ほつまは法隆寺の何が楽しみ?」
「そうだね……やっぱりレプティリアンかな」
「ああ、あの五重塔にある塑像そぞうか。でも、あれって他の仏像に隠れて見えないらしいじゃん」
「見えないかもしれないけどさ……。場所はわかっているんだから、そこにあるのは確かだし、心の目で見ればいいんだよ」
 秀真のいうレプティリアンとは爬虫類人という、オカルト界隈では地球を影で支配している宇宙人のことだ。一般的には創作物に出てくる架空の生き物だが、半人半獣は神話の世界では良く出てくる。法隆寺五重塔の「釈迦の入滅を悲しむ弟子たちの塑像」の中にはそんなものが3体も紛れ込んでいる。
 稲荷小学校の席にカレーが運ばれてきた。カレーは学校給食では人気の献立だが、児童の間ではどことなく「なんだ、カレーかよ」という空気になっていた。だが、カレーの魅惑的な香りは食欲を刺激するのか、児童たちは黙々と食べ、学校給食並みに食べ終わるのが早かった。

 松本屋を出た稲荷小学校の児童たちは南大門前の広場に集まった。ここで各クラスに法隆寺のガイドの人が一人ずつ引き合わされた。学校はベテランのガイドを4人頼んだが、一人が体調不良のため来られなくなり、急遽女子大生が一人アルバイトでやって来た。その女子学生は4組の担当になった。
「みなさん、こんにちは。本日は法隆寺のガイドをさせていただきます、立花玲央奈たちばなれおなと申します。大学で歴史の勉強をしています。どうぞよろしくお願いします」
 女子の間でざわめきが起こり、男子は硬直した。他クラスの男子が遠くから羨望のまなざしを注いでいた。立花は黒髪のミディアムストレートで、透明感のある清楚な女性だ。整った顔立ちはとても知的に見えた。皐月も他の男子と同様、立花を見て恋をしそうになった。
 立花のファッションはグレーデニムパンツに白のTシャツと白ニットベストを合わせた、淡色でまとめたコーデだった。スニーカーを履き、リュックを背負った姿は旅行者のように見えた。
「立花さん。ちょっとコースのことで相談があるのですが……」
 前島先生が立花と参拝コースの打ち合わせを始めた。皐月は前島先生に近づき、話の内容を聞こうと思った。
中宮寺ちゅうぐうじへ行って、児童たちに菩薩半跏像ぼさつはんかぞうを見せたいのですが、無理でしょうか?」
 時刻は12時30分になろうとしていた。13時40分にはガイドを終え、南大門を出なければならないと、立花は人材センターから指示をされていた。
「所要時間はおよそ1時間ですね。駆け足でまわっても厳しいと思います。予定に組まれているコースや、お話しする内容を少し変更してもいいですか?」
「それはお任せします。立花さんの自由にしていただいて結構です」
「わかりました。……私も中宮寺の菩薩半跏像は見るべきだと思っていたんです。先生のご希望に沿えるよう、尽力いたします」
「よろしくお願い致します」
 前島先生が立花に頭を下げた。立花はセンターから手渡されたマニュアルをリュックに片付け、資料なしで語り始めた。
「それではこれから法隆寺を参拝します。参拝前に法隆寺の成り立ちについて説明します」
 立花によるガイドが始まった。他のクラスもそれぞれのガイドが話を始めていたが、1組だけは先に南大門をくぐって行った。
「みなさんの中に法隆寺がいつ建てられたか知っている人はいますか?」
「はい!」
 立花の質問に皐月しか手を挙げなかった。皐月の班のメンバーは修学旅行前に全員で確認しているはずだった。記憶が曖昧なのか、人前で発言するのを嫌がっているのかわからない。秀真は憶えているはずなのに、挙手をしないので皐月は少し腹が立った。
「ではそこの君。お名前は?」
「藤城皐月です」
「ありがとう。では藤城さん、答えてもらえるかな?」
「はい。607年、遣隋使派遣と同じ年です」
「わぁっ! 遣隋使まで言ってもらえた。ありがとう~」
 立花は大げさに手を叩いて皐月のことを褒めた。まるで習い事の先生みたいだと思ったが、馬鹿にされているようであまり気分が良くなかった。
「では、藤城さん。誰が法隆寺を建てたか知ってますか?」
「一応、推古天皇と聖徳太子ってことになってますが……」
 皐月は不承不承に答えた。
「その通り、正解です。ありがとう。法隆寺は推古天皇が53歳、聖徳太子が33歳の時に完成しました。法隆寺を造ろうと決めたのは推古天皇の2代前の用明天皇で、推古天皇のお兄さん、聖徳太子のお父さんだった人です。時は586年、推古天皇が32歳で聖徳太子が12歳の時でした。聖徳太子がみんなと同じ年の時に法隆寺を造ろうという話になったんだね」
 聖徳太子が自分たちと同じ12歳の時に法隆寺建立が決められたことを知り、皐月たち4組の児童は歴史上の人物の聖徳太子に親近感を抱いた。だが、自分が親から今、でっかいお寺を建てるよと言われても、絶対にピンとこないだろう。
「法隆寺は1993年に世界文化遺産になりました。正式には法隆寺地域の仏教建造物といって、法隆寺の建造物47棟と、法起寺の三重塔を加えた48棟が登録されています」
 立花のガイドぶりを見て、3組担当のベテランガイドが安堵した顔で児童を率いて南大門をくぐった。立花は3組のガイドを見送って、4組の児童たちの方を見た。
「皆さんの前に見える門は南の大きな門と書いて、南大門といいます。室町時代に僧侶同士の争いで焼けてしまったものを作り直したもので、飛鳥時代に作られたものではありません」
 皐月は立花の言う僧侶同士の争いが気になった。法隆寺は聖徳太子によって創建された寺院なのに、十七条憲法にある「和を以て貴しと為す」とは程遠い愚行が理解できなかった。
「すみません。質問してもいいですか?」
「はい。いいですよ、藤城さん」
「今言われた『僧侶同士の争いで焼けてしまった』というのは、どういうことですか?」
 立花は皐月の顔をまじまじと見た。少し考えて、立花は説明を始めた。
「法隆寺には役職による身分制度がありました。仏教の研究に専念する学侶がくりょうと、法要など行事の執行に専念する堂衆どうしゅうという二つの階級がありました。役職による身分の差というよりも、僧侶の出身の家柄で役職を分けられていたようですね。その結果、学侶の方が身分が高いとされていました。ここまでは大丈夫ですか?」
「はい」
 聞き慣れない専門用語が二つも出てきたが、それ以外は立花が簡単な語彙を用いてくれたので皐月には理解できた。だが、他の児童たちが立花の話を理解できたかどうかはわからない。立花は児童たちを観察し、説明を続けた。
「身分の高いお坊さんたちと、身分の低いお坊さんたちの仲が悪くなって、争いにまで発展してしまいました。その時、身分の低いお坊さんたちが南大門を燃やしてしまったのです。これを南大門焼打事件といいます」
 立花が易しい言葉で言い換えたので、児童たちにも事件の概要が伝わったようだ。
「織田信長が両者を仲直りさせようとしたのですが、本能寺の変で亡くなってしまったので有耶無耶になってしまいました。でも、その後は身分制度がなくなって平和になりました」
 皐月は立花のガイドを聞き、改めて南大門を見た。入母屋造の本瓦葺屋根が大きく反り上がり、大垣と呼ばれる築地塀ついじべいがなだらかに下がって伸びている。
 皐月は南大門の屋根と門の形に双曲線のような美しさを感じていたが、南大門にそんなくだらない歴史があったと思うと、仏教の無力さに何とも言えない遣る瀬ない気持ちになった。

「皐月。この門も南大門なんだね。どうしてお寺の入口は南大門ばかりなの? 東寺も東大寺も南大門から入ったよね?」
 隣にいる真理が話しかけてきた。これは皐月も同じことを疑問に思っていたので、あらかじめ調べてあった。
「それは北極星信仰だよ。北極星って北半球では動かないように見えるじゃん。だから古代中国では北極星を宇宙の中心であり、根源であると考えられていたんだ」
「ポラリスなんてたまたま地軸の延長線上にあるだけでしょ?」
「まあね。でも、昔は北極星を神格化していたんだ。北極星には宇宙を統一する天帝という神がいるってね。で、古代中国の仏教にその考え方が取り入れられて、日本の古いお寺では本尊を北を背にして南を向かせるようになったんだ」
 皐月は真理には気兼ねなく語彙レベルを上げている。
「だからお寺には南大門から入って、北に向かって拝むんだね」
 真理の隣にいた絵梨花も皐月の話に耳を傾けていた。真絵梨花にも遠慮なく話せるし、秀真にはもっと語彙レベルを上げても問題ない。
「じゃあ、平安京や平城京の羅城門が南にあるのも北極星信仰なんだ」
 真理の後ろにいた吉口千由紀よしぐちちゆきも話に加わってきた。千由紀は皐月よりも多くの言葉を知っているので、千由紀と対等に話すために皐月は語彙を増やさなければならないと思っているくらいだ。
「たぶんそうだと思う。日本の天皇は古代中国の皇帝が北極星を背にしていたことを真似たんだ。平城京は唐の都、長安を手本にして造られたわけだし」
 皐月は歴史的なことまで突っ込んで勉強してこなかった。南大門ばかりに気を取られていて、羅城門まで気が回っていなかった。教室で千由紀たち女子三人と芥川龍之介の『羅生門』を読んで、文学論を戦わせたことを思い出した。これが皐月が文学に興味を持つきっかけとなった。
「創建当初の法隆寺は南北じゃなくて、西に22度傾いていたんだ。だから、法隆寺は本来、北極星信仰とは関係なかったんだ」
 皐月の横でうずうずしながら話を聞いていた秀真が話に加わってきた。皐月はこの話を秀真から聞いていたので、秀真の言いたいことをわかっている。だが、今は真理の「どうして南大門から入るのか」という話題だ。
 秀真が話したがっているのは若草伽藍とアケメネス朝ペルシアの都だったペルセポリスのことだ。法隆寺若草伽藍とペルセポリスは傾きが同じことから、当時のペルシアの宗教だったゾロアスター教と法隆寺の関係性が指摘されている。
「4組も移動します」
 前島先生の掛け声で4組も移動を始めた。話のいいところで流れが途切れてしまい、秀真は不満顔だった。前島先生先生に率いられ、皐月たちは南大門をくぐった。
 南大門を抜けると、その先の景色は飛鳥時代そのものだった。電線もなく、自動車もなく、見えるのは法隆寺の中門ちゅうもんと五重塔。そして青い空だ。
 御影石の張られた参道は両脇に白砂が敷かれ、築地塀ついじべいに囲われていた。塀の奥には僧侶たちの暮らす子院しいんがある。
 よく見ると、左手の築地塀は中門にかけて広がっている。上土門あげつちもん唐門からもんの辺りから少しずつ道幅が広くなっている。見ていると遠近感がおかしくなるが、そのことが南大門から中門へ至るこの短い参道をとても風情があるものにしている。
 皐月は東大寺中門などの透塀すきべいも好きだが、版築はんちくで造られた法隆寺の築地塀も好きだ。塀になる場所を板で囲って、その間に土を入れて硬く突き固める工法でできた塀は古代の歴史的な建造物でよく採用されている。
 何層にも分けて突き固められた塀の断面はミルフィーユのように 横に筋が付いたようになる。皐月は長い年月の間に風雨に浸食され、縞模様になっているところに侘び寂びを感じていた。
 3組が参道右側の護摩堂の門前で撮影をしていた。このアングルだと右に築地塀、奥に中門と五重塔を入れられる。中門の右側と五重塔の左側が老松にかかるような構図が素晴らしい。
 撮影は地元のカメラサークルに入っている、3組の北川先生によって行われた。皐月は北川先生のことをあまり好きではないが、先生が持っている一眼レフのカメラには憧れを抱いている。
 6年3組の撮影はすでに終わろうとしていた。皐月は素早く野上実果子のがみみかこを探した。すると、実果子も皐月を見ていたようで、すぐに目が合った。実果子とは修学旅行ではもう話す機会がないだろう。皐月は二人とアイコンタクトが取れただけでも良かったと思った。
秀真ほつま。ディープな話はまたにしようか」
「そうだね。さすがに話のスケールがでかすぎる。それに僕もまだよくわかっていないし、記憶も曖昧だ」
 3組の撮影が終わり、皐月たち4組の撮影の番になった。ガイドの立花が前島先生からスマホを借り、撮影に臨んでいる児童たちの撮影をし始めた。

 4組も撮影が終わって先へ進むと、西大門と東大門を結ぶ参道と交わる辻へ出た。ここから見る360度の景色は飛鳥時代そのものだ。
 東西に延びる参道の南側は築地塀で子院を隠している。塀の土が丁子色ちょうじいろ桑色くわいろの層になっていて、所どころ白茶しらちゃけている。築地塀や塀から頭を出している子院の屋根の丸瓦と平瓦はそれぞれ微妙に色が異なり、浅葱鼠あさぎねず空色鼠そらいろねず白鼠しろねずみ、所どころ生成色きなりいろのモザイク柄になっているのが味わい深い。
「皐月。行くよ」
 気が付くと通りの真ん中で、一人立ち尽くしていた。皐月は真理に声をかけられるまで、そのことに気付かなかった。真理と一緒に絵梨花と千由紀も微笑んでいた。
「ここ……いいよね」
「またタイムスリップしてたの? 皐月は夢想壁があるよね。邪魔したくなかったけど、今は修学旅行だから」
「……うん。わかってる」
 真理の言う通り、確かに皐月は過去に遊んでいた。立花から南大門焼打事件の話を聞き、世界遺産だと澄まし込んでいた法隆寺が急に生々しい場所に思えたからだ。信長ほどの人物が仲裁に入る争いとはどんな争いだったのだろう。皐月は今、その舞台に立っている。
「藤城さん、行くよ」
 気が付くと絵梨花に背中を押されていた。皐月の心はまだ現代になかったようだ。皐月たちは中門ちゅうもんのある一段高いところへ石段を上った。

 中門の前には4組の児童が集まっていた。ガイドを終えた3組の児童たちはガイドの男性に連れられて中門前の石段を下り、廻廊の西側へ移動した。3組と入れ替わりで4組が石段を上り、中門の柵の前まで来た。皐月はもう一度、実果子とアイコンタクトを取ることができた。
「この門は中の門と書いて、中門ちゅうもんといいます。国宝に指定されています。本来、中門はこの廻廊の中にある塔や金堂への入口として造られた物ですが、法隆寺の中門は出入り口としては使用されていません。中門は儀式や重要行事のための門なので、一般人は通ることができません」
 皐月は東大寺の中門や、清水寺の西門さいもんも通れなかったことを思い出した。清水寺の西門は勅使門ちょくしもんという、天皇の勅使だけしか通れない門だ。東大寺や法隆寺の中門もそういう類の門なのかもしれないと、皐月は理解した。
「この中門は世界最古の木造建築であり、日本最古の金剛力士立像が安置されています。これらは日本最古の仁王像で、711年に造られました」
 711年は三ケ峰に稲荷神が降臨した伏見稲荷の始まりの年だ。皐月は神々を祀る神社に悠久を感じていたが、法隆寺も遠い昔にできた寺だと改めて実感した。
「金剛力士像は南大門に置かれるのが一般的ですが、法隆寺では再建当初から中門に置かれています」
 法隆寺の創建が607年なので、金剛力士立像が711年にできたという話に皐月は違和感を覚えた。
 法隆寺は670年に全て焼失し、708年から715年の間に再建されたという。711年に金剛力士像は作り直されたということになるので、創建当初に現在の金剛力士像やその他の仏像群が存在していたのかが気になる。
「金剛力士像は守り神なので、お寺の入口である南大門に置かれることが普通です。皆さんが訪れた東大寺は南大門に金剛力士像が置かれていて、中門には兜跋毘沙門天と持国天が置かれていますね」
 東大寺はそこら中に武神を配している。法華堂の堂内には金剛力士像も四天王像もあった。皐月はさすがに守り神が多過ぎると感じていた。あるいは法隆寺のガードが甘いのか。
「皆さんの中で阿吽あうんの呼吸という言葉の意味を知っている人はいますか?」
 立花からの質問に誰も手を挙げようとしなかった。その様子を見た皐月がサッと手を挙げた。
「藤城さん、どうぞ」
「はい。阿吽の呼吸とは二人で何かをする時に、何も言わなくてもお互いの気持ちがわかり合っている状態のことだと理解しています」
「正解です。わかりやすい説明、ありがとう。藤城さんと私も阿吽の呼吸ですね」
 周りの視線が皐月に集まった。嫌な感じのする視線だ。みんなが何を思っているのか皐月にはわからなかったが、誰でもいいから答えようとしろよ、ともどかしさが募った。
「右側の口の開いている赤い方を阿形像あぎょうぞうといい、左側の黒い方を吽形像うんぎょうぞうといいます。この2体の金剛力士像は一対で造られるのが原則です。阿吽の呼吸の阿吽とは、阿と吽の二人の金剛力士たちが戦う時のコンビプレーから生まれた言葉です」
 男子たちは立花の言ったコンビプレーに反応して、喜んでいた。言葉の意味や金剛力士の働きについて直感的に理解したようだ。
「阿吽という言葉の意味は、阿が口を開いて出す声で、吽が口を閉じて出す声ということで、呼吸を意味します」
 皐月は神社の狛犬を思い出していた。狛犬も阿吽の口をしている。
「密教という仏教の秘密の教えでは、阿が言葉の始まりで、吽が言葉の終わりということから、宇宙に存在する全ての始まりと終わりの象徴と考えられています」
 日本語も「あ」から始まり「ん」で終わる。漢字の「子」も「はじめ」と「おわり」の組み合わせだ。皐月はこの手のオカルトにはあまり興味がないが、秀真が喜びそうな話だと思った。
「密教では呼吸に関する修行もあるようですが、私は密教のことはよく知りません。密教の僧侶になって修行を重ねないと教えてもらえないのです」
 男子たちは秘密の仏教や修行という言葉に反応して目を輝かせていた。僧侶が不可思議な能力を発揮するのはアニメではよくある話だ。秀真が立花に質問したくてうずうずしているのが伝わってきたが、秀真は皐月のように女性に話しかけることができない。

「それでは今から伽藍がらんの中に入ります。この廻廊に囲まれた空間は聖域です。サンクチュアリーと言った方が格好いいかな。私は修学旅行で法隆寺に来て奈良や仏教や歴史のことが好きになりました。私のようになれとは口が裂けても言えませんが、一人でも法隆寺のことを好きになってもらえると嬉しいなって思っています。それでは行きましょう」
 皐月はすでに法隆寺のことが好きになっていた。清水寺や東寺などの京都の寺や、東大寺とも違う独特の空気が法隆寺にはある。皐月はこれから伽藍の中に入れると思うと、胸が高鳴った。
「なあ、皐月こーげつ。あのガイドさんってオカルトのことを質問したら答えてくれるかな?」
「どうだろうね。秀真ほつま、お前が質問してみればいいじゃん」
「無理だよ、そんなの。僕は皐月みたいに女の人と話せないから」
「じゃあ、機会があったら俺が聞いてみるよ。でも、ガイドさんの仕事を邪魔できないから、できたら聞くって感じだけどな」
 前島先生と立花がスケジュールの話をしていたのを聞いていたので、皐月はやたらと質問できる状況ではないことを理解していた。中宮寺に行くために立花はガイドする内容を大幅に削るはずだ。
「法隆寺のこと、もっと勉強しておけばよかった。僕は神社の方が好きだけど、法隆寺っていいね」
「俺もそう思ってた」
 皐月と秀真は期待に胸を膨らませながら、伽藍前の松林の中をみんなの後について、クラスの最後尾を歩いていた。


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音彌
最後まで読んでくれてありがとう。この記事を気に入ってもらえたら嬉しい。