修学旅行の朝、東大寺の大仏よりも尊い女神(皐月物語 145)
藤城皐月にとって朝6時の起床は造作もないことだ。完全に朝型の人間なのだ。いつも通り5時半に起きると、旅先の宿ではやることが何もなかった。洗面所で顔を洗おうと思い、エレベーター裏にある男性用トイレに行くことにした。
皐月の家とは違い、ホテルの廊下は明かりに照らされて明るかった。シンとした館内を歩いていると、妙な高揚感が湧き上がってきた。非日常的なのだ。旅をしているんだな、と思った。
トイレの前にカートが置かれていた。清掃中で使えないのかと思っていたら、ごみ袋を持った老人が出てきた。
「おはようございます」
皐月は小さな声で彼に挨拶をした。昨日、クリーンセンターで会ったお爺さんだ。
「おはようさん。ああ……昨日の少年やな。朝が早いな。眠れへんかったんか?」
彼は皐月のことを覚えていた。修学旅行実行委員の江嶋華鈴と昼食のごみをクリーンセンターに捨てに行った時、皐月たちは彼に優しくしてもらった。印象的だったあの人に、皐月はもう一度彼に会いたいと思っていた。
「いつもこの時間に起きるんです。早くからお仕事をされているんですね」
「ホテルの朝は早いねん。お客はんが起きてくるまでにごみを集めなな」
「トイレ、使ってもいいですか?」
「ええで。自分の部屋のトイレを使わへんのか?」
「僕が部屋のトイレを使ったら、うるさくして友達を起こしてしまうかもと思ったんです」
「そうか。よう気ぃつく子ぉやな。ここならおっきな音出しても平気やで」
「じゃあ、でっかいおならでもしちゃおうかな」
「ははは。存分にしたらええ。ほなな」
皐月がトイレから部屋に戻ると、皐月の隣の布団で寝ていた村中茂之が目を覚ましていた。
「お前、どこに行ってたんだよ?」
「トイレ。この部屋の使ったらうるさいかなって思って」
「そんなに気を使わなくてもいいぞ。どうせ6時には起きなきゃいけないんだし」
皐月は昨夜、井上昂に言われた「藤城って村中の好きな女にモテるよな」と言われたことを思い出した。皐月には茂之が嫉妬しているかどうかはわからない。だが、茂之から特に敵意を感じることはなかった。
「俺さ……寺とか全然興味がなかったけど、実際に行ってみるといいもんだな。清水寺とか金閣寺とか、すっげー良かった」
「俺も茂之と同じこと思った。またいつか、絶対に訪れたいと思ったよ」
修学旅行で訪れた場所は特別だ、と皐月はいろいろな大人から聞いていた。いつか必ず再訪するらしい。
「今日は東大寺と法隆寺か……。どんな感じなんだろう」
「昨日は平安時代で、今日は奈良時代とか飛鳥時代って感じなんじゃないかな? 今日は昨日よりもっと昔に遡るぞ」
「そうか……。俺も藤城みたいに社会が得意だったら良かったな。俺なんかにそういうの、わかるかな?」
「わかるよ。それに歴史が得意じゃなくても、歴史を好きになったなら良かったじゃん」
皐月と茂之が話をしていると、他のクラスメートたちが目を覚まし始めた。茂之はみんなが起きる前に顔を洗いたいと言い、立ち上がって部屋の洗面所へ行った。
起きた者から布団を片付け始めた。敷布団と掛布団を畳んで、部屋の隅に重ね、枕を布団の上にまとめて置くのが学校からの指示だ。
朝食の前に出かける準備を済ませておかなければならない。バスに積み込む荷物と持ち歩く荷物に分け、ナップサックに財布、水筒、栞、筆記用具、雨具などを入れておく。だが、水筒はまだお茶の準備ができておらず、財布はまだ先生がまとめて預かっている。これらは朝食後にナップサックに入れる。
部屋着から外出着に着替えた。この日の皐月のコーデは白いシャツにネイビーのチルデンニットベストを重ね、ベージュのチノパンを穿いた。ベストは芸妓の満と名古屋の大須商店街の古着屋で買ったものだ。中性的で昭和レトロなのが皐月の自慢だ。
「藤城は着替えるの早ぇな」
「5時半には目が覚めちゃったからな」
花岡聡が洗面所から戻って来た。昨夜の皐月は月花博紀に独占されていたので、聡とほとんど遊べなかった。聡は京都巡りの班の奴らとトランプで盛り上がっていた。
部屋長の茂之に率いられ、皐月たちは609号室を出た。どの部屋の児童たちも同じ時間に部屋を出たので、階段は小学生男子で溢れかえることになった。食堂のある5階では4階から上って来た女子たちと合流することになり、階段出口付近で渋滞した。
大食堂の席順は決まっていなかったが、誰に指図されなくてもみんな夕食の時に座った場所と同じ席に座った。藤城皐月のテーブルでは隣に花岡聡が、向かいに神谷秀真と岩原比呂志が座り、別のテーブルで隣の席になったのは月花博紀だ。
「朝ごはんもなかなかのものですな~」
皐月は朝食の献立を見て、芸妓をしている母の弟子の及川頼子が初日の朝に作った朝食を思い出した。
この日の献立は湯豆腐と焼き魚がメインで、ひじき、ウィンナー、ごぼうサラダの小鉢と、出し巻、サラダ、わかめと油揚げの味噌汁というボリュームのあるものだった。もちろん熱々のご飯もあった。
修学旅行実行委員副委員長の江嶋華鈴がみんなの前に出てきた。
「手を合わせてください。いただきます」
6時45分になり、華鈴の挨拶で朝食が始まった。
「なあ、先生。今日の江嶋も可愛いな」
「だから、あいつはいつも可愛いって。花岡は気付くのが遅ぇよ」
今日の華鈴は白のハイネックトップスと、フリルがキュートなビスチェで、台形スカートがトップスにセットアップされていた。前開きボタンが優等生らしいが、ベルトのハートバックルが可愛い。黒のレギンスが脚を細く見せていた。
「今日ってさ、東大寺で大仏見た後で二月堂に行くグループと、鹿と遊んだりお土産を買ったりするグループに分かれるじゃん。花岡はどっちに行く?」
「そんなの鹿に決まってるだろ。お土産代もまだ残ってるしな。藤城はどっちだ?」
「俺はもちろん二月堂。秀真たちは?」
「僕も当然、二月堂に行くけど、岩原氏は鹿の方に行くんだよね?」
「動物が好きだからね。それに栗田氏からも誘われてるし」
オカルト好きの秀真が二月堂に行くのは順当だが、比呂志が来ないのは意外で、皐月は少し寂しかった。別のテーブルだが、隣に座っている博紀がこっちを見ていたので、皐月は博紀にも話題を振ってみた。
「博紀は鹿と二月堂、どっちにする?」
「う~ん。どうしようかな……。なあ、二月堂ってなんだ?」
「二月堂は国宝に指定されているお堂のことだ。『お水取り』っていう、お堂から火の粉を撒き散らすオカルトっぽい行事が春の風物詩として有名なんだけど、俺たちには関係ないか。でも、二月堂から見る景色はきれいらしいよ」
「ふ~ん。で、二月堂に仏像はあるのか?」
博紀が仏像に興味を持っているはずがない。これは二橋絵梨花を意識した言葉に違いないと皐月は思った。
「あるよ。大小二躰の十一面観音像がある。でもこれらはいまだに誰も見たことのない絶対秘仏だから、俺たち参拝客は見ることができないんだ」
「なんだ。仏像は見られないんだ。じゃあ、どうしようかな……」
博紀はどちらに行くか、はっきりと言わないまま食事に戻った。皐月としては博紀に絶対秘仏のところを突っ込んでもらいたかった。
朝食を終えた者から食堂を出て行った。皐月は聡が食べ終わるのを待ってから一緒に食堂を出ると、吉口千由紀と野上実果子が深刻な顔をして話をしていた。
「おはよう。どうした?」
実果子が泣きそうな顔をしていた。言葉を発したら涙が溢れそうな感じだったので、千由紀が代わりに事情を話した。
「実果子がね、藤城君と交換した匂い袋をなくしたんだって。でも、大切にナップサックに入れておいたから、なくなるわけがないって。誰かに隠されたか、捨てられたんだと思う。部屋とかトイレとか探したんだけど、全然見つからないの……」
皐月と実果子が匂い袋を交換したことは3組の間ではかなり話題になっていたようだ。それを面白くないと思い、意地悪をする奴が現れるというのはありそうな話だ。
「そうか……。俺も探してみるよ」
聡に先に部屋に戻ってもらうように言い、皐月は階段をダッシュで下りた。心当たりが一つだけあった。
実果子の匂い袋がホテル内で捨てられたのなら、全てのごみはクリーンセンターに集められるはずだ。清掃係の人は早朝からトイレのごみを回収していた。匂い袋があるとすれば、まだクリーンセンターにあるという可能性がある。
1階に着くと、皐月はまずフロントへ行き、匂い袋の落し物があるかどうか尋ねてみた。
「落し物や忘れ物はないですね」
「じゃあ、クリーンセンターに匂い袋がごみと一緒に捨てられていなかったか、問い合わせてもらえますか?」
「わかりました。少々お待ち下さい」
フロントの女性は内線でクリーンセンターに問い合わせをしてくれた。何を話しているのかは聞き取れなかったが、話が長いな、と皐月は焦れる思いがした。
「あなたは今朝、6階の御手洗いでうちの清掃の者と会っていますか?」
「はい。カートにごみを回収していた係の人と会いました」
「匂い袋はあったと言ってます。ただ、それがあなたの探しているものなのかはわからないので、確認に来てもらえるか、と言われました。場所はわかるそうですが、御案内しましょうか?」
「いえ、大丈夫です。昨日、昼食のごみを捨てにクリーンセンターに行ったので、道順を覚えています。ありがとうございました」
皐月は大きく頭を下げると、従業員の出入り口から中に入り、クリーンセンターに向かった。
複雑に入り組んでいるバックヤードだが、印象的だったので景色を覚えていた。クリーンセンターにはすぐに着いた。今朝会った老人が手を振って待っていた。
「ああ、やっぱりあんたか。受付のお譲ちゃんが可愛い男の子が来てるって言うとったさかいピンときたんや。ところで少年。あんたが探してるのんはこれか?」
彼は昨夜皐月が作った匂い袋の紐をつまんでいた。パッと見では特に汚れた様子はなかった。
「これです! ありがとう!」
皐月はその匂い袋を手にとって、香りを確認した。変な臭いもついておらず、皐月が作った爽やかな香りがまだ濃く残っていた。
「4階の女子トイレの汚物入れの中にあったんや。でも、その匂い袋の外には汚物が入ってなかったからな、すぐに気ぃついたし、臭ならんで済んだねん」
皐月は言葉に詰まり、涙が溢れてきた。どうして捨てられたのかという怒りはなく、ただ見つかって良かったという喜びしかなかった。
「それにしたかて、あんたはようここにあると気がついたなぁ。これって体験学習の品やろ? たまにこういうことがあるねん。そやけど、誰もここに辿りつけへんねん」
「僕は逆にここにしかないと思ったんです。だって、どれだけ探しても見つからないって言ってたから、捨てられたんだなって思いました」
「そうか。あんたは誰かに頼まれたんやな。せやったら、早う持って行ってやったらええ」
皐月は深々と老人に頭を下げ、走って実果子のもとへ向かった。
皐月がフロントに戻ると、すでに何人かの周到な児童がロビーへの移動を終えていた。館内の時計を見ると、すでに7時25分になっていた。7時30分が集合時間なので、実果子を探して匂い袋を渡す時間がない。これから大勢の児童が階段を下りてくるので、皐月は禁じ手のエレベーターを使って6階まで上がることにした。
皐月たちの部屋には茂之が一人残っていた。茂之は皐月の水筒を持って待っていた。
「お前、何してたんだよ」
「ごめん。実行委員の仕事をしてた。失くし物を探しにホテルのごみ収集所まで行ってたんだ」
「そうか……大変だったな。バスの時間に遅れるから行こうぜ」
茂之は部屋長なので、先生から皐月の財布を預かっていた。財布を受け取った皐月は茂之と最後に609号室を出て、階段を駆け下りた。途中、4階に実果子と千由紀が残っているか覗いてみたが、もう誰ひとりいなかった。
ロビーではすでにクラス毎に児童が集まっていた。この後、1組から順番にバスに乗り込み、東大寺へと移動する。皐月は3組が集まっている方へ視線を向けた。4組の千由紀が落ち込んでいる実果子に寄り添っていた。
「野上」
実果子たちのところへ駆け寄った。泣いたのだろうか、実果子の眼の周りが赤くなっていた。それが一重瞼によく映えていて魅入られてしまったが、皐月はクリーンセンターで見つけた匂い袋を実果子に見せた。
「見つかったよ。よかったな」
「ありがとう……」
「清掃の係の人が拾ってくれてたんだ。どこで見つけたのかは忘れたって言ってた」
「そう……。戻って来てくれたんだから、どこでもいい」
「うん。俺が作った匂いも大丈夫だったよ。爽やかないい匂いだ。ほれ」
実果子の鼻先に匂い袋を当ててやった。スパイスを多めに入れて甘みを抑えた香りは皐月が自分自身の鎮静効果を期待して作ったものだ。
「いい匂い……」
「だろ? じゃあ、俺たちはクラスに戻るから」
皐月と千由紀は実果子に手を振って、4組の集まっている場所へ戻った。3組の女子も男子も皐月のことを見ていた。好奇な視線が刺さる感じが不愉快だった。この中に実果子の匂い袋を捨てた奴がいると思うと、実果子の身が心配になった。
出発の時刻の7時50分が迫っていたので、1組から順に席順に整列してバスに乗り込んだ。皐月たち4組のバスの席順は教室と同じにすると、担任の前島先生に決められていたので、皐月の隣は二橋絵梨花だ。皐月は窓際の席を絵梨花に譲った。
「今日は東大寺と法隆寺だね。二橋さんは今日、何を楽しみにしてるの?」
「東大寺だと、やっぱり盧舎那仏像かな。あと、行けるかどうかわからないけど、法華堂の仏像を見てみたい。拝観料がいるんだけど、天平時代の仏像があるんだよ」
「法華堂か……。俺は二月堂への裏参道とか二月堂からの眺望を見たいと思っていたんだけど、法華堂の仏像も見てみたくなっちゃった。どんなスケジュールになるかわからないけど、なんとか見られたらいいね」
東大寺の見学は時間が全く読めない。見学時間は1時間40分もあるけれど、その間に学級写真を撮ったり、学級単位で大仏殿を見る予定になっている。それに境内が広いので、移動するだけでも時間がかかる。
残った時間を大仏殿以外のお堂の勉強班と、お土産を買ったり鹿と遊んだりする観光班に分かれる。担任の前島先生はこの班分けを当日に現地で行うと言った。児童のその時の気分を優先したいらしい。他のクラスでは班行動にしたり、学級行動にしたりと、東大寺での過ごし方がバラバラだ。前島先生は児童を信頼して行動の自由度を高くしてくれるので、ある意味いい加減でもある。
「私ね……単純に仏像を見ることを楽しみにしていたんだけど、背景知識があった方がずっと面白いってことを藤城さんや神谷さんに教えてもらったよ。もう少しお寺や仏像のことを勉強してから来るべきだったって後悔している」
「まあ、後悔なんかしなくてもいいじゃん。修学旅行はあくまでもリハーサルで、次はしっかり勉強してから訪れるってことでいいと思うよ」
「でも、次に参拝する時はこのメンバーじゃないんだよ?」
なんという目で見るんだ……と、皐月は戸惑った。絵梨花の瞳はさっき見た実果子と同じように潤んでいでいた。
「まあ、そうかもしれないけど……俺は二橋さんに仏像を見に行きたいって誘われたら、必ず馳せ参じるから」
「その約束、絶対に忘れないでね」
東大寺に到着するまでの間、皐月と絵梨花は東大寺や法隆寺について、お互いの関心のあることを話し続けた。皐月は話題を高尚な方向へ誘導し、絵梨花を好きになってしまいそうな気持ちを逸らそうと言葉を尽くした。そうこうしているうちに、あっという間に東大寺に着いた。
大仏殿前駐車場で大型バスを下りた稲荷小学校の6年生たちは学級ごとに分かれて東大寺の参拝をすることになる。ひとまずどのクラスも南大門を抜けて大仏殿に行く。
6年4組は担任の前島先生を先頭にして、ぞろぞろと歩き出した。他のクラスと比べて、4組が最も列が乱れていた。
駐車場を出て参道を左に曲がると、目の前に大きな門がある。それが南大門だ。右に曲がると右手に土産物屋が立ち並んでいて、その正面に奈良公園が広がっている。
「見て! 鹿だよ!」
クラスの女子たちが鹿を見て騒ぎ始めた。公園内だけでなく、参道にも鹿がのこのこと歩いていた。人懐っこいのか、まるで人を怖がっている様子がない。鹿たちは鹿せんべいを持っている観光客に群がっていて、それを見た児童たちは後で自分たちも絶対にやる、とテンションが高くなっていた。
石畳の広い参道には日本人だけでなく、外国人観光客も大勢いた。だが、京都の寺社とは違い、奈良の東大寺は境内が広いので、人の数が多くても混雑している感じはしなかった。
皐月は先生の隣を歩いてみたいと思い、最前列へ出た。クールで知的な前島先生は皐月の憧れの女性の一人だ。先生とは親しくなれるものなら親しくなりたいと、ずっと思っていた。
「先生は東大寺に何度も来ているんですよね。どこが一番のお気に入りなんですか?」
皐月はまだ前島先生とあまり雑談を交わしたことがなかった。4組の児童で前島先生と親しくしている者は学級委員の月花博紀と二橋絵梨花くらいのものだろう。修学旅行実行委員の皐月と筒井美耶も少しだけ先生と親しく話をしたことがある。
「そうね……私は二月堂の裏参道が好きですね。風情のある素敵な小径なんですよ」
「あっ! それ知ってる。ネットの動画で見ました。今日は絶対に歩きたいなって思ったんです」
「ぜひ歩いてみてください。本当はクラスの子たち全員に歩いてもらいたいと思っているのですが、鹿と遊んだり、お土産を買いたい子もいるから強制はできないんです。私もできれば今日も裏参道を歩いてみたいと思っているのですが、仕事中なのでそうもいかないんですね。私はこの参道でみんなを見守っています」
前島先生は寂しさを隠そうとしていたが、皐月にはあからさまに伝わって来た。思っていたほどクールな先生じゃないんだな、と感じた。
「せっかく奈良に来たんだから、先生も一緒に行こうよ。班行動で自由にさせるクラスもあるんでしょ?」
1組の太田先生と3組の北川先生のクラスは班行動で自由にさせ、2組の粕谷先生は多数決で土産物屋と奈良公園で鹿と遊ぶことに決めたという。先生が4人全員で駐車場近辺で待機していることを、皐月は実行委員副委員長の江嶋華鈴に見せてもらった教員用の資料を見て知っていた。
「藤城さんは鹿よりもお寺を見たいのですね」
「はい。法華堂と二月堂には行きたいと思っています。法華堂の仏像を見る時間ってあると思いますか?」
「法華堂ですか……。藤城さん、いい趣味をしてますね。仏像を見る時間は没頭しなければ取れると思いますが、正倉院まで見ようと思ったら時間が足りなくなるでしょう」
時間の調整が難しいと皐月も思っていた。タイムテーブルがはっきりしないので、事前に参拝の時間を算出することができなかった。
「先生に連れて行ってもらえると助かるな。先生、僕たちを二月堂と法華堂に連れてってよ。先生のお薦めの裏参道も歩いてみたい」
皐月はつい、言葉遣いで敬語を使うのを忘れてしまった。別に先生がいなくてもなんとかなるとは思っていたが、皐月はどうしても前島先生と一緒に二月堂裏参道を歩いてみたくなっていた。
「そうですね……。人数次第では引率が必要になるかもしれませんね。後で他の先生方に相談してみます」
前島先生率いる6年4組の児童たちは南大門のかなり手前で立ち止まり、先生が学級所有の古いデジカメで児童たちのスナップ写真を撮った。皐月は神谷秀真や岩原比呂志、栗田大翔たちと一緒に写真に映った。花岡聡は皐月に絡みついていた。
南大門は東大寺の正門で、国内最大の山門であり、国宝に指定されている。天平時代に建てられた門は平安時代の大風で倒壊し、現在の門は鎌倉時代に再建されたものだ。
南大門は東大寺復興に尽力された重源上人によって再建された二重門だ。二重門とは上層と下層の両方に屋根が付く二階建ての門のことで、上層と下層の屋根が同じ大きさなのが珍しい。屋根裏まで達する21mの大円柱が18本も使用されていて、大仏様という、天井がなく、貫を使い構造を強化している建築が特徴的だ。門の下から見上げると、朱の剥げた貫が幾重にも重なって大きな門を支えている。
4組の児童たちが南大門を抜けようとすると、風が抜けた。大きな門幕がたなびいて、歓迎されているような思いがした。皐月が阿呆のように屋根裏を見上げていると、二橋絵梨花と栗林真理が熱心に金剛力士像を見ていた。絵梨花が左側の阿形を、真理が右側の吽形に見入っていた。仏像好きの絵梨花が仁王像を見ているのはわかるが、皐月には真理が食い入るように見ていることが不思議だった。
「どうした、真理。お前、こういうのに興味あったっけ?」
「これ、運慶が作ったんだよ。絵梨花ちゃんが見ているのは快慶が作ったの。運慶・快慶が共作した仏像はここだけなんだって。皐月、知ってた?」
「いや、知らなかった。運慶・快慶が凄い仏師だってことは知ってたけど、コラボしてたんだ」
「そうなの。24時間365日見られる国宝の仏像は東大寺だけなんだって。なんだか私も仏像とか、好きになってきたかも」
皐月は昨夜、村中茂之が言っていた言葉を思い出した。修学旅行は人をお寺好きに変えるようだ。
「金剛力士像が向い合って立っているのは珍しいんだってね。こんな怖い像に双方から見られると、悪いことなんてできないなって思う」
「そうだな。確かに敬虔な気持ちになる……いや、ビビってるだけか」
南大門の影の中にも鹿がいた。鹿と戯れたくなってしまうが、野生の鹿なのでそっとしておかなければならない。絵梨花と左右入れ替わって、皐月と真理は快慶の阿形の像を見ようと思った。だが、4組の児童たちはどんどん先へ進んで行ってしまった。
「どうしよう……。ゆっくり見ていられない」
「とりあえず二橋さんが見終わるまで待って、走って追いかけよう。ところで真理たちはどうして別々に仏像を見てたの? 一緒に見ればいいのに」
「それはやっぱり、お互いに自分の世界に入りたいじゃない。だから私が絵梨花ちゃんと逆の金剛力士像を見るようにしたの」
「じゃあ、俺って真理の邪魔をしちゃったんだ……」
「いいよ、皐月なら私の世界に入って来ても」
真理も像を熱心に見始めた。皐月はクラスの子たちとの距離を考えながら、南大門を離れるタイミングをはかっていた。この二人は放っておくと、いつまでも金剛力士像を見ていそうな雰囲気だ。
「ごめんね。待ってもらっちゃって。もうみんな行っちゃった?」
我に帰った絵梨花が皐月のもとに来て、謝った。今ならまだ追いつける距離だ。
「大丈夫だよ。まだ追いつく。やっぱり学級移動だとゆっくり見られないね」
「しょうがないよね。修学旅行だもん」
「じゃあ、行こうか。真理、行くぞ」
後ろ髪を引かれるような顔をして真理がやって来た。
「走ることはないけど、ちょっと早歩きで行こう」
皐月の周りに鹿がまとわりついてきた。さっきから妙に鹿が懐いてくる。何か鹿の餌の匂いでも付いているのかと、思わずナップサックの匂いを嗅いだ。
南大門を出た皐月と真理と絵梨花は中門に向かった。左手には東大寺ミュージアムが見える。ここには東大寺の歴史と美術をテーマとした寺宝が展示されている。時間があればぜひ見てみたい所だ。
正面の石畳の参道の両側には松並木になっていて、並木の奥の右手には東大寺寺務を司る本坊の、左手には僧侶が仏教の研究をする勧学院の築地塀が見えた。皐月はこの衆生を寄せ付けない雰囲気に東寺に通じるものを感じていた。
参道正面の中門の向こうに大仏殿の寄棟造の屋根が見えた。金箔が貼られた鴟尾が輝きを放っていて、眩しかった。
稲荷小学校の児童たちは参道を右に入り、鏡池の畔に集合した。これからここで学級写真を撮ることになる。ここで撮影すると、鏡池は児童たちで隠れてしまうが、児童たちの背後に中門と金堂(大仏殿)を入れることができ、フレームの両端に松を配置できる。美しい構図だ。
皐月が着いた時は6年1組が撮影を終えたところだった。実行委員副委員長の江嶋華鈴のクラスだ。素早く華鈴を探すとすぐに見つかった。皐月の視線を感じたのか、華鈴もこっちを見ていた。手を振りたい衝動に駆られたが、左右に真理と絵梨花がいたので何もできなかった。華鈴もすぐに目を逸らした。
前島先生が他の3人の先生たちと話をしていた。これは皐月が提案したことに違いないと思った。簡単に話がまとまったのか、先生たちはすぐに散り散りになった。
学級写真は北川先生が学校所有の一眼レフで写真を撮った。北川先生の3組の写真は1組の太田先生が撮影した。3組の撮影をしている時、皐月は野上実果子を探した。実果子が皐月を見ていたので、視線を感じた皐月はすぐに見つけられた。やはり実果子に手を振るわけにはいかなかった。
4組の学級写真を撮り終わると、花岡聡が皐月に話しかけてきた。
「藤城たち3人は仲がいいな。賢い奴同士ってつるむんだな」
「そういうわけじゃないんだけどさ、真理も二橋さんも南大門の仏像に夢中になってたから、俺引き剥がしていたんだ」
「あの門の両側にあった、でっかい仏像か。あれ、怖ぇな」
「すげー迫力だよな。でも、仏像好きにはたまらないんだと思う。俺でももっと見ていたいって思ったくらいだ」
「そうか……。藤城もそっち側の奴だったな」
聡の言い方には棘があったが、絵梨花のことを好きな聡にしてみれば皐月の行動は面白くないはずだ。
「藤城さん」
前島先生に呼ばれたので、皐月は小走りで先生のもとへ行った。
「藤城さんの提案が通りました。私が二月堂と法華堂の引率をすることになりました」
「先生……嬉しそうですね」
普段はあまり表情を出さない前島先生の顔がにやけていた。
「何でも言ってみるものね。あっさり受け入れられたし、粕谷先生には感謝されたわ。本っっっっ当……最高!」
皐月は無邪気に喜ぶ前島先生の顔を初めて見た。なんて可愛らしい人なんだと、好きになりそうになった。
「先生。二月堂の裏参道ってそんなにいいの?」
「いいよぉ~。私は奈良で一番好き。ああ、今から楽しみ。さあ、大仏殿に行きましょう」
前島先生は4組の児童を集合させ、大雑把に列を作って中門に向って歩き出した。
「ねえ。あんた、前島先生と何か面白いことでも話してたの?」
「なんだ? 面白いことって」
真理が変なことを聞いてきた。
「だって、前島先生のあんな緩んだ顔って初めて見た。どうしたのかなって思って」
「ああ……。大仏殿を見た後で、前島先生が二月堂と法華堂へ行く班の引率をしてくれるんだって。最初はそういう予定はなかったんだけど、俺が前島先生に連れてってくれよって言ったら、実現したんだ」
皐月は真理に先生たちの事情を説明した。
「なんで皐月がそんなこと言ったの?」
「前島先生って二月堂へ行く途中の道が好きなんだって。でも仕事で行けないからって、つまんなそうにしてたから、俺が一緒に行こうって誘ったんだ。引率だったら仕事になるじゃん」
「ふ~ん。そういうのって、なんか皐月らしいわ。でも、良かったね。先生、行きたい所に行けて」
「先生がそんなに行きたい所って、どんな所かな~。真理も二月堂に行くんだろ?」
「当たり前でしょ」
「良かった……。真理が一緒に来てくれなかったらヤダなって思ってたんだ」
「本当?」
「ああ。だって俺、もうカネ持ってねえし」
「なによ、それ! 私は金蔓か」
突き飛ばしてくる真理の掌を避け、皐月はそっと耳元で呟いた。
「フェイクだよ」
普通に話をすると聞こえそうな位置に絵梨花がいた。これだけ言えば真理なら意図を読み取ってくれると思った。
東大寺中門はすぐ目の前に迫っていた。これからいよいよ奈良の大仏とご対面だ。この参道を歩いている間、皐月は大仏のことをすっかり忘れていた。皐月にとって、大仏よりも生きている女神たちの方が尊い存在なのだ。