法隆寺西院伽藍で見た同級生女子のアルカイック・スマイル(皐月物語 149)
稲荷小学校6年4組の児童たちは法隆寺西院伽藍の南西の端にいた。これから拝観受付を通り、廻廊の中に入るところだ。児童たちの先頭には案内人の立花玲央奈がいて、最後尾には担任の前島先生がいた。藤城皐月と神谷秀真は前島先生のすぐ前にいた。
「先生は東大寺と法隆寺、どっちが好きですか?」
皐月の問いかけに前島は思い悩んだようだ。
「藤城さんは難しいことを聞いてきますね。そうだな……景観では東大寺、情景では法隆寺ってとこかな。違いはわかる?」
前島が敬語を使わないで話す時は先生ではない。皐月はこの状態の前島先生が大好きだ。
「法隆寺の方が心を動かされるってこと?」
「よくわかってるわね」
拝観受付から廻廊に入ると、飛鳥時代の光景が目に飛び込んできた。この時、皐月は全身がぞわっとし、涙が溢れそうになった。飛鳥時代は皐月にとって縄文時代や弥生時代よりも現実離れをしていた。その夢のような世界が今、目の前にある。
廻廊にはエンタシスの柱が透塀と平行に真っ直ぐ並んでいる。石灯籠と松の向こうには五重塔と金堂が建ち、屋根の長い庇が建物に深く影を落としている。青い空に瓦の明るさ、影の暗さと地面の白砂の明るさのコントラスト、そして手前に生える松葉の緑の配色が美しい。
ガイドの立花に連れられて、4組の児童たちは中門へ向かって廻廊を歩いた。右手にある古代に作られた連子窓を通して伽藍の外の庭が見えた。皐月は連子子の隙間から見える光に悠久を感じていた。
「なあ、皐月。レプティリアンって五重塔のどこにあるか知ってる?」
「北側だ。秀真、それくらい覚えておけよ」
「お前って記憶力が良過ぎなんだよ。よくそんな細かいことまで覚えてるな」
「やっぱ覚えるのは大事だよ。いちいち調べていたら頭が回らないじゃん」
黙っていてくれないかな、と皐月は秀真を鬱陶しく感じていた。静かに飛鳥時代の空気に浸っていたかった。だが、修学旅行でそんな思いが叶うはずもないし、秀真が五重塔の爬虫類人の塑像を楽しみにしていることもわかっていた。
ガイドの立花玲央奈が児童たちを中門の石貼りに集め、五重塔を背にして児童たちに向き合った。
「今みんながいる、廻廊に囲まれている空間を西院伽藍といいます。伽藍とは元々はお坊さんたちが集まって修行をする場所のことなんですけど、今ではお寺の主な建物のことを表しています。西院伽藍とは西側にある伽藍という意味で、後で東側にある東院伽藍にも訪れる予定です」
立花はいちいち伽藍、西院の意味を説明をしているが、小学生に仏教用語は難しい。
「みんなは『がらんどう』という言葉を聞いたことがあるかな? 意味がわかる人っている?」
がらんどうは皐月が東寺で班のみんなに説明した言葉だ。誰も答えようとしなかったら自分が答えるつもりでいた。
「はい!」
声の主に視線が集まった。みんな驚いた顔をしていた。
「ではそこの君。お名前は?」
「花岡聡です」
聡はうっすらと笑みを浮かべていた。アルカイック・スマイルとはいえない下卑た笑顔だった
。
「ありがとう。では花岡さん、どうぞ」
「『がらんどう』は臍の下の体毛のことです」
「それは『がらんどう』ではなく、ギャランドゥね。下ネタ禁止!」
大げさに怒って見せる立花に男子は爆笑し、女子から一斉にブーイングが出た。聡が周りの女子から一斉に叩かれているのを見て、皐月はこの空気を変えたいと思った。
「はい! 『がらんどう』は中に何もなくて広々としているという意味で、お寺の伽藍が語源の言葉です。法隆寺で例えると、仏像を安置する前の金堂や五重塔の中の空っぽな様子を表しているのかなって思ってます」
「ありがとう……。藤城さんって仏教のこと詳しいのね」
「ただのキモオタです」
皐月は聡に向かってパンチを打つ真似をして窘めた。皐月の解答で場の緩んだ空気が締まった。
「法隆寺は607年に聖徳太子によって建てられました。今は聖徳太子のことを厩戸王と習いますね。で、その有名な聖徳太子もこの西院伽藍で修業していたんだなって想像したくなると思うんですが、実は聖徳太子はここで過ごしたことがないんです。理由がわかる人はいますか? 思い付きで答えてもいいよ」
皐月は理由を知っていた。誰も答えなかったら自分が答えようと思ったが、自分ばかり答えるのは気が引けると感じていた。
「……はい」
立花が嬉しそうな顔をした。皐月や聡以外の男子が手を挙げた。
「ではそこのあなた。お名前は?」
「神谷秀真です」
「ありがとう。それでは神谷さん、お願いします」
「はい。聖徳太子が法隆寺で過ごしたことがなかったのは、そもそも聖徳太子が実在しなかったからです」
秀真の顔が紅潮していた。授業でもまったく発言しない秀真なのに、頑張って答えたことが皐月には感動的だった。
「う~ん。神谷さんのそのお話はとても興味深いですね。私も神谷さんの言う通りだと思っています。よくそんな話を知ってますね」
秀真は男子たちの羨望の眼差しを受け、嬉しそうに照れていた。
「聖徳太子はいなかったかもしれないけれど、厩戸王がいたことは確実視されています。それに、法隆寺は聖徳太子が造ったと公式に発表しているので、この質問には聖徳太子がいることを前提にして、聖徳太子がこの西院伽藍にいなかった理由を聞いてみたいな。他に何か思い付いた人はいるかな?」
皐月は周囲を一瞥し、誰も挙手しないのを確認して手を挙げた。
「はい。藤城さん」
「法隆寺は670年に火事で全焼しています。607年に建てられた最初の法隆寺は今とは別の場所にあったので、昔ここで聖徳太子が修行をしていたと想像しても、それはないということです」
「ありがとう。藤城さんの言う通りです。火事の前後で伽藍の場所が変わっています」
また藤城か、という視線が痛かった。「キモオタうぜぇ」という声も聞こえた。じゃあお前らが発言しろよ、と皐月は思ったが、立花の質問は小学生には高度過ぎた。皐月は前島先生の意に沿って、ガイドの時間を短縮しようと頑張ってきたが、もう発言をするのをやめようと思った。
「法隆寺は創建当初、ここから南東に200メートルくらい離れた所にありました。最初の法隆寺の伽藍は若草伽藍と呼ばれています。若草伽藍は現在の西院伽藍よりも規模が小さかったようです」
皐月は立花の話を面白いと思っていたが、まわりの児童たちにはいまいちピンと来ていないように見えた。
「若草伽藍の中には金堂と塔しかありませんでした。伽藍は聖なる空間なので、人の出入りする講堂、経蔵、鐘楼などは伽藍の外に置かれていました」
児童たちの様子を見て何かを感じたのか、案内人の立花は方針を変え、人材センターから渡された資料をナップサックから取り出して、マニュアル通りのガイドに切り替えようとしていた。
「私たちがいるこの場所も、昔は若草伽藍と同様に金堂と塔しかなかったんです。こうして観光客が出入りできる今日では、伽藍も聖なる空間ではなくなってしまいました」
皐月には立花の苛立ちや悲しみが伝わってきた。皐月は立花に二人は阿吽の呼吸だと言われたことを思い出した。立花の苛立ちが皐月の苛立ちと響き合ったものだとしたら、自分が彼女を悲しませたことになる。そう思うと皐月は立花に対して申し訳ないと思い、いたたまれない気持ちになった。
案内人の立花玲央奈は淡々と廻廊や五重塔、金堂のガイドをし、もう児童に質問を投げかけることはなかった。立花は注意深く言葉を選び、小学生にもわかりやすいように努めていた。児童たちにはそこそこウケてはいたが、皐月にはそんな立花の話が物足りなかった。
皐月は一気に退屈になった。もう立花のガイドを聞こうとせず、みんなから少し離れ、ひたすら廻廊を眺めていた。はじめはエンタシスの柱の並びに心を奪われていたが、よく見ると飛鳥時代に作られた回廊の虹梁のしなりの美しさに気がついた。連子窓の連子子の間から見える風景が古いフィルムの映画のようだ。次に法隆寺に来る時は、廻廊のにもたれながら昼寝をしてみたいと思った。
「藤城さんはガイドさんの話を聞かないの?」
前島先生が友達のように皐月に話しかけてきた。
「調べたらわかる話を聞いてもしかたがないから、ひたすら廻廊を見ていました。できるなら一日中、ここにいたい……」
「藤城さんもそう思うんだ……。私も法隆寺に来るたびに、同じことを思っているの。藤城さんと私は気が合いそうね。でも……」
「でも?」
「あなたは誰にでも気が合いそうだって思わせてしまうところがあるみたい。おそらくあのガイドさんも私と同じことを思っている」
この時の前島先生は先生ではなかった。皐月は前島に女を感じ、少し怖かった。
「それって悪いことですか?」
「悪くはない。……悪くはないけど、良くもない」
「どうして? 気が合うなら、いいに決まってるでしょ」
「そうね……。じゃあ、訂正します」
皐月は前島の言葉を待っていたが、前島は何も言わず立花の飛鳥建築の話を聞いていた。
立花はガイドを終え、児童たちを伽藍の中で自由にさせた。児童たちを見送ると、立花が前島先生のもとへやって来た。
「生徒さんたちの自由にさせたんですけど、良かったですか?」
他のクラスはガイドの後について法隆寺の建物や仏像を見てまわっていた。
「いいですよ。ガイドは立花さんに一任していましたから。説明に過不足はなかったし、見るべきポイントも話してもらえたから助かりました。後は児童たちに好きにさせた方がいい思い出になると思います。ありがとうございました」
「ちょっと参拝時間が短いかもしれないんですけど、10分後に出口前に集合にしました」
「ほとんどの子たちは10分もあれば十分だと思いますよ。藤城さんは一日あっても時間が足りないようですが」
急に話を振られて、皐月はうろたえた。大人同士の話をされて、皐月は居心地の悪さを感じていたからだ。
「藤城さんが私の質問にたくさん答えてくれて、とても助かったんです。無言になられちゃうと辛いんで、本当に嬉しかった。藤城さん、ありがとう」
皐月は無言で頭を下げた。
「でも、途中から話を聞いてくれなくなっちゃったから寂しかったな」
「すみません。でも、伽藍の黒土の話は面白かったですです。僕はその話のこと、全然知らなかった」
皐月が立花のガイドで興味を引いたのは、戦前は伽藍の地面に黒土が敷かれていた話だった。当時の伽藍内の雰囲気は陰鬱だったらしい。黒土と白砂と入れ替えたことで伽藍内が明るくなったという。
「さて……みんなの写真を撮りに行こうかな。藤城さん。あなたも仏像を見に行ってらっしゃい」
「はい。でもその前にガイドの立花さんと一緒に写真を撮ってもらえませんか? ねっ、先生いいでしょ?」
立花とは修学旅行で縁が切れてしまう。皐月は彼女のことを好きになっていたので、せめて写真だけでも残したいと思った。
「許可が必要なのは私じゃなくて、立花さんじゃないの? すみません、この子と一緒に写真を撮ってもらってもいいですか?」
「もちろん、いいですよ」
「やった! ありがとう」
皐月が喜んでいる横で、立花が少し照れくさそうにしていた。大学生の立花玲央奈は皐月の知る年上の女性たちとは全然違うタイプだ。知的な玲於奈に皐月はほのかに恋心を抱き始めていた。
「立花さんのスマホで撮りましょうか。学校のカメラで撮影すると、他の男子に怒られちゃうから」
前島先生は立花からスマホを受け取り、廻廊を背景にして皐月たちの写真を撮ることにした。
「先生、格好良く撮ってよ」
「はいはい。藤城さんはまだ子供ね」
写真を撮り終えると、立花が困った顔をしていた。
「この写真、どうしよう。どこに送ったらいいですか?」
「ここに送って」
皐月はパスケースに入れてある自分のSNSのアカウントのQRコードを見せた。この手は昨日の清水寺で一度成功している。
「あなた、用意がいいわね。いつも連絡先を持ち歩いているの?」
前島先生に疑惑の目を向けられた。皐月は自分の行動を不自然だと自覚している。旅先で知り合った人とそれっきりになるのを惜しんで、連絡先を持ち歩くことにしていた。
「修学旅行だからに決まってるよ。ネットで持っていると便利な物を調べたら、QRコードって書いてあったんだ」
「へぇ~。今時の子はこういうのを持ち歩いているんだね」
「学校がスマホを持っていくのを禁止してるからだよ」
立花は前島先生からスマホを受け取り、皐月のスマホに写真を送信した。これで彼女とは一期一会にならずにすんだ。
「お~い!」
五重塔から秀真が走ってきた。法隆寺の中を走る秀真を見ていると、皐月は妙に楽しくなった。自分たちと同じ年頃の僧侶も秀真と同じように伽藍の中を走っていたのだろう。そう思うと初めて法隆寺のことを身近に感じることができた。
「皐月もレプティリアン、見に来いよ。ギリギリ見えたぞ」
「ホントかよ? 行く行く」
皐月はレプティリアンの仏像が見えるとは全然思っていなかった。秀真のことだから少し見えただけで喜んでいるのだろう。それでも皐月は一目見てみたいと思っていた。
「ねえ、神谷さん。そのレプティリアンっていうのは何なの?」
「先生。五重塔に頭が蜥蜴みたいな仏像があるんです。レプティリアンはそういう生き物で、SF小説や陰謀論などによく出てくるんです」
皐月は秀真の常識的な説明に安堵した。いつもの秀真なら暴走し、陰謀論を熱く語り始めているだろう。さすがに大人が相手だと話が違ってくる。
「神谷さんが言っている仏像は鼠、鳥、馬の頭をした塑像のことだよね?」
「ガイドさん、知ってるんだ。あれってやっぱり宇宙人だと思う?」
「さぁ……私にはよくわからないな。でも有名みたいで、ガイドをしていると質問をされるの。法隆寺の謎だって答えるしかないのよね」
秀真の話がいきなり宇宙人に飛び、立花は少し引き気味だった。同じ界隈の人同士なら話が早くなるが、まだ立花が同類かどうかはわからない。この辺りが秀真の悪いところだが、同士にはたまらなく面白い。
「メソポタミアのウバイドでレプティリアンのフィギュリンが発掘されたんだけど、それが法隆寺の侍者像の顔と良く似ていて、そんなのが偶然で片付けられるはずがなく、絶対に何らかの関係が……」
「おい、秀真! 五重塔に行くぞ。時間がなくなっちゃうじゃんか」
「あっ……悪ぃ悪ぃ」
テンションの上がり過ぎた秀真を見るのは楽しい。皐月は笑いながら、秀真を立花や前島先生から引き剥がした。立花を前にして、秀真は張り切っていたようだ。
「先生。みんなの写真を撮るんだったら、僕と秀真の写真も撮ってよ」
「はいはい。じゃあ、金堂をバックに撮ろうか」
「立花さんも一緒に写ってくれると嬉しいな」
皐月はずうずうしく立花に声をかけた。彼女は快く了承してくれて、皐月と秀真の間に入ってもらった。皐月はいかにも陽キャのポーズを取り、秀真は陰キャを思わせる硬い表情で撮影した。
「ありがとう。じゃあ、僕たちは仏像を見てきます」
皐月と秀真は頭を下げて、五重塔へ駆けて行った。前島と立花はぼんやりと二人を眺めていた。
「先生。あの二人、面白い生徒さんですね」
「そうなのよ。私が今まで受け持った児童にはいないタイプの子たちなの。神谷さんはびっくりするくらい博識で、藤城さんが彼のことを師匠と慕っているんだって」
「へぇ~。私には藤城さんの方が師匠っぽく見えるんだけど」
「神谷さんは言いたいことを言っちゃう子で、藤城さんは相手に合わせて対応を変えられちゃう子なの。二人はいいコンビね」
皐月と秀真の二人はいろいろな角度から五重塔を眺めていた。立花の視線は皐月を追っていた。
「立花さんが私のクラスの児童だったら、藤城さんに恋をしていたかもしれないわね」
「えっ? ちょっと先生、何を言っているんですか!」
「だってあなた、さっきから藤城さんばかり見ているじゃない」
「そんなこと……」
否定しながらも、立花は皐月を目で追い続けた。皐月と秀真が五重塔の北面に消えると、立花は前島を見た。
「藤城さんって綺麗な顔してますよね。目の保養になるな~。先生が羨ましい」
「そんな目で児童を見るわけがないでしょ。それにうちの子たちはみんな可愛いから」
「そうかな? 先生だって藤城さんと話している時、時々女に戻ってましたよ?」
いたずらな目で見られた前島は立花に共犯者のような親近感をおぼえた。藤城皐月と気が合う者同士、気持ちが通じ合わないはずがないことに、立花の言葉で気がついた。
「先生。私もみんなの写真を撮るのに協力します。藤城さんのスマホに送ればいいですよね?」
「彼のスマホじゃなくて、私のスマホに送ればいいでしょ?」
「あはっ。そうしま~す。前島先生と藤城さんと分けて送信します」
前島と立花も中門の石貼りを下りて、伽藍の中へと入って行った。
法隆寺の五重塔は現存している塔の中では日本最古のものだ。法隆寺には初層(一階)にある塑造塔本四面具が和銅4年(711)に造られたものだという記録が残っているので、五重塔の完成はそれよりも古いことが確実視されている。
日本の寺の塔は吹き抜けになっていて、楼閣ではない。階層構造にしていないので、外観を重視する自由な作りにすることができる。法隆寺五重塔は五重目の軸部を初層の半分の大きさにしたことで、非常に安定感のあるデザインにすることができた。
塔身と相輪が二対一という美しい比率になっている。軒の出を大きくすることで塔身を深く影に沈めている。皐月は東寺の五重塔を美しいと思ったが、法隆寺の五重塔にも心を奪われた。
「おい、わかるか?」
「どれだよ……金網越しじゃわかんね~」
「釈迦の頭らへんに小さいのがあるだろ。前の坊さんに隠れていて見にくいけど」
「う~ん。……あれか! でも、正直よくわからん」
「まあ実物が見られただけでもいいじゃん」
皐月と秀真は五重塔の北面で涅槃像土を見ていた。これは釈迦の入滅の際に悲しみに泣き叫ぶ弟子たちの姿を塑像で表したもので、法隆寺の泣き仏が有名だ。だが、皐月と秀真のお目当ては爬虫類の頭をした侍者像だ。
「あれ、隠してるよな。見えないように置いたって意味ないじゃん」
「皐月は不満気だな。僕はそこそこ満足してるよ。レプの像は小さいし、まあこんなもんだろうって予想はついていたし」
「秀真は物わかりがいいんだよ」
皐月たちは次に西面の釈迦入滅後に仏舎利(遺骨)を分けている場面を表す分舎利仏土を見た。皐月には遺骨の価値がさっぱりわからない。
「なんか洞窟みたいだね。インドってこんな感じなのかな?」
「宗教って洞窟が好きだよな。あんなの、暗くて息が詰まるじゃん」
皐月は暗くて狭いところが嫌いだ。閉所恐怖症のきらいがある。
次に南面の弥勒仏像土を見た。皐月も秀真も弥勒菩薩が大好きだ。ここでは弥勒菩薩が説法をしている場面を表しているが、金剛力士がいて物々しい。
「洞窟みたいだな……。これが兜率天?」
「皐月。弥勒菩薩は娑婆世界に下生して、3回説法を行って衆生を救済するっていうでしょ。竜華三会のシーンじゃないかな?」
「でも龍華樹なんて生えていないじゃん。じゃあ、どこだよ?」
皐月と秀真の対話が熱を帯びてきたところに栗林真理が一人でやって来た。
「あんたたちって、いつも楽しそうだね」
そう言う真理も楽しそうに二人を見て微笑んでいた。
「まあ、秀真と二人なら気を使わなくてもいいからな」
「でも、栗林さんが来てくれたんだから、これからは栗林さんにもわかるように話そうよ」
「真理はいいよ。興味のあることなら質問してくるし。なっ?」
「私のことはお構いなく。どうぞ、続けて」
真理は皐月たちに構わず、弥勒仏像土を見始めた。皐月は以前から真理のこの態度が気になっていた。オカルトに興味があるのかないのかわからないし、訳の分からない話を聞かされてどう思っているのかもわからない。皐月が注入し続けてきた断片的な知識をどのくらい吸収しているかもわからない。それでも真理はいつも楽しそうにしている。
「ねえ、皐月。こっちの面の像って色を塗った跡があるね」
「南面の方が傷みやすいみたいで、補修したり彩色したりしてきたみたいだね」
「ふ~ん。この弥勒菩薩のことって、神谷君が清水寺で話してたよね。釈迦が入滅してから弥勒菩薩が出現するまでの仏のいない世界では地蔵菩薩が人々を救済する役割を担っているって」
「凄っ! 栗林さん、よくそんな話を覚えてるね!」
「そんな話って、神谷君が熱弁していたじゃない。お地蔵さまの話が印象的だったから、忘れられないよ」
「いや、真理の凄えのは、そこで弥勒のことまで憶えていたことだよ。話の流れだと地蔵のことは憶えていても、弥勒のことまでは憶えられないだろ?」
皐月も真理の記憶力に舌を巻いていた。聞き慣れない言葉を一度聞いただけで憶えられるものだろうか。
「だって、皐月が話してくれたことがあったでしょ? 弥勒菩薩は仏教の救世主だって。私、救世主の考え方に興味を持って、弥勒菩薩のことを調べたことがあるよ。だから、憶えていたんだよね」
皐月が真理と話をする時は自分のアイドル趣味を語ることが多かったが、6年生になってからはオカルト好きの神谷秀真や鉄道オタクの岩原比呂志との会話の内容を真理に話すことが多くなった。鉄道の話は真理のウケがあまり良くなかったので、オカルト話を語ることが多くなっていた。
「皐月が『弥勒は釈迦の次に出てくる未来仏』だって教えてくれたのはいいんだけど、『未来仏って格好良くね?』って何度も言うから、面白くて憶えちゃってたの」
「俺、そんなこと言ったっけ?」
「言った言った。『格好良くね? 格好良くね?』ってバカみたいに」
真理がケラケラと笑うので、皐月は恥ずかしくなって顔を背けた。すると、6年2組の集団が皐月たちの見ている五重塔初層の南面に集まって来た。
皐月たちは最後の東面へ基壇の上を移動した。東面には維摩詰像土が祀られている。維摩詰像土では病に臥した維摩居士に文殊菩薩が会いに来た場面が表されている。維摩と文殊が仏教の議論をしているところだ。
皐月は東面が維摩経の場面を再現しているということは知っていたが、維摩に関する知識が全くなかった。ここは見ないでスルーしようと思ったが、維摩詰像土の前には同じ班の吉口千由紀がいた。
「吉口さん、ここにいたんだ。維摩に興味があるの?」
「うん……。武者小路実篤が『維摩経を読んで偉大な知己に逢ったような気がした』って言ってたから、ちょっとここが気になって」
皐月は武者小路実篤の小説を読んだことがない。だが、文学好きの千由紀が興味を示しているのなら、維摩経は面白いんじゃないかと思った。
「秀真は維摩経のこと知ってる?」
「いや、知らない。僕は仏教には疎いから」
「真理が知るわけねーよな」
「ムカつく言い方だなあ。まあ、知らないけど」
皐月たちが話しているところにガイドの立花がやって来た。
「君たち、維摩詰像土に興味があるの? ごめんね。ここのガイドを省略しちゃって」
「維摩詰像土の場面のことじゃなくて、維摩経のことを話していたんです。誰も維摩経を読んだことがないから、内容がわからなくて……」
「維摩経を読んでいる小学生なんているわけないでしょ。話題に上がるだけでも凄いわ。君たちって面白いね」
立花はとても嬉しそうな顔をしていた。
「じゃあ、簡単に維摩経のガイドをするね。みんなは二項対立ってわかる?」
皐月は具体例ならすぐに思い浮かんだので、それを言語化しようと考えていたら、真理が答えられた。
「二つの概念が矛盾または対立の関係にあることですよね。例えば善悪とか、敵味方、損得みたいな」
「そう。……あなた、凄いわね。私がバイトしている塾の中学生でもわかる子は少ないと思うよ」
立花は驚きの目で真理を見つめた。
「維摩経では二項対立で考えることの危険性を説いているの。二項対立はとても便利な思考法だけど、物の見方が単純になり、偏りやすくなるの。その結果、分断したり原理主義になったりするんだけど、難しいかな?」
立花は語彙のレベルを上げていたが、皐月たち4人は全員理解していた。
「あと、固定観念の危険性も説いています。固定観念はものの捉え方を歪めてしまうの。だから、こだわりや執着を手放して、何物にもとらわれない自由で伸び伸びとした考え方や行動ができるようになることを推奨しています」
立花は話を切って、4人を見ていた。
「それだけ?」
話が続かないので、立花に話を促した。皐月はもっと維摩経について教えてもらいたくなっていた。立花の話した内容はエッセンスの一部だ。
「ええ。今日のところはこれだけでいいかな。後は興味があったら維摩経を読んでみてね」
立花は基壇を下り、五重塔から離れて皐月たちの写真を撮り始めた。皐月は特に自分にスマホを集中的に向けられているような気がしていた。
皐月たちは隣の金堂へと移動を始めた。集合時間まで残された時間はほとんどなくなっていた。急ぎ足で金堂を見なければならない。
6年1組の児童たちが金堂から出てきた。皐月は金堂を見ずに、江嶋華鈴の姿を探した。華鈴はガイドの男性の隣にいて、何かを話していた。皐月の視線に気がついたのか、皐月と華鈴は視線が合い、互いに軽く微笑んだ。華鈴の笑顔はアルカイック・スマイルだった。
案内人の立花は五重塔に集まって来た他の4組の児童たちに話しかけに行き、千由紀は一人で鐘楼の方へ歩いて行ってしまった。二橋絵梨花の姿も見ないし、皐月は真理が一人でいることが気になった。
「真理は吉口さんや二橋さんと一緒じゃなかったんだ」
「あの二人はそれぞれ自分の世界に浸りたいみたいだから、邪魔しないようにしたの」
「なんだ。だったら俺のところの来ればよかったのに」
「あんたはガイドさんや先生と話しこんでいたでしょ。それに神谷君もいたし。まあ、神谷君がいても来ちゃったけどね」
一緒にいた秀真が真理の言葉に照れていた。真理は修学旅行の期間中、ずっと機嫌が良さそうに見えた。受験勉強を始める前の真理に戻ったようだ。
「金堂って格好いいね。広がる屋根が好き」
「その屋根を支えるために裳階ができたんだろうな。飛鳥時代の建物って、ちょっと違うね。まずは屋根ありきって発想だったのかな」
「見た目重視なのがいいよね。実用とか信仰とかあまり考えていないって感じで」
二人でいる時間が長かったからなのか、皐月は真理といると何の気も使わずに気楽でいられて、相性の良さは真理が一番のような気がする。
皐月と真理と秀真は東側の入口から金堂の中に入った。中には3組の児童たちは見終わって出ようとしているところだった。集団の最後尾に野上実果子の姿を確認したが、彼女が振り返ることはなかった。
この薄暗い金堂の中には中の間に釈迦三尊像が安置され、東の間には薬師如来坐像、西の間には阿弥陀三尊像が安置されている。本尊釈迦三尊像の左右には毘沙門天と吉祥天の立像が配され、内陣の四隅には四天王立像が物静かに本尊を護っている。
堂内では文化財保護のため、直接仏像を見ることは許されていなかった。外陣の隙間の金網越しにしか内陣の諸仏や外陣の壁画を見ることができない。内陣に吊り下げられた天人や鳳凰の舞う華麗な天蓋も細部まで観賞することは叶わなかった。だが、皐月はこの中にある飛鳥・白鳳の熱い情熱を感得した。
栗林真理と二橋絵梨花が並んで内陣の中を覗きこんでいた。どこにいるのかわからなかった絵梨花は金堂の中にいた。皐月と秀真は絵梨花のもとへ行った。
「二橋さん、ずっと金堂にいたの?」
「先に大講堂の薬師三尊像を見てきたの。残った時間を全て金堂に注ぎ込もうと思って」
皐月は絵梨花らしい選択と集中だと思った。とにかく仏像を見る時間を確保したかったんだろう。
「薬師三尊像は良かった?」
「良かったよ。法隆寺では平安中期の仏像も飛鳥時代の仏像と比べられちゃうから可哀想。古さに価値があるのなら、薬師三尊像だって十分価値がある」
「そうか……。俺も見てみたいけど、もう時間がないな。二橋さんは五重塔の仏像は見なかったの?」
「五重塔は今回は見送ることにしたよ。金網越しに塑像を見るのはまたにする。法隆寺には何度も訪れるつもりでいるから」
絵梨花は金堂の釈迦三尊像のようにアルカイック・スマイルの顔を見せていた。それは仏像とは比べ物にならないくらい魅力的な表情だった。絵梨花と二人で法隆寺に来られたら、どんなに楽しいかと思った。
「鐘楼の辺りから見る五重塔は良かったよ。たぶん、西院伽藍の中では一番良く見えるんじゃないかな? まだ見ていなかったら行ってみるといいよ」
「へぇ~。じゃあ、行ってみようかな。秀真も来る?」
「僕はもう少しここで仏像を見ているよ。皐月、一人で行ってきたら?」
「真理は?」
「私も時間までここにいる」
皐月は迷った。ここで仏像を見ていたい気もするが、金網越しに隙間から覗き込むような見方はストレスがたまる。最後にもう一度だけ釈迦三尊像を見て、一人で金堂の外に出た。
皐月は西院伽藍の白砂の上を鐘楼に向かって駆け出した。どのクラスかわからないが、大講堂で児童たちが仏像を鑑賞していた。鐘楼の前で吉口千由紀がぽつんと一人で五重塔を見ていた。
「吉口さん」
「藤城君、どうしたの?」
「二橋さんにここから見る五重塔がいいって聞いたから、来てみた」
絵梨花の言う通り、確かにここから見る五重塔は美しかった。今までは見上げるように塔を見ていたが、少し離れた鐘楼から金堂と五重塔を合わせて見ると、飛鳥時代に身を置いているような錯覚を起こす。
「吉口さんは法隆寺では単独行動なんだね」
「そうだね。いつか書きたいと思っている小説の取材のつもりでいるから」
「ごめん。じゃあ俺、邪魔しちゃってるじゃん」
「藤城君はいいの」
千由紀までアルカイック・スマイルを浮かべていた。千由紀の笑顔も釈迦三尊像よりも魅力的だ。
「奈良のお寺を舞台に恋愛小説を書いてみたいなって思っているの。ドロドロの恋愛小説をね」
「ドロドロって……」
皐月は千由紀の顔をまじまじと見た。そこにはもうアルカイック・スマイルはなかった。千由紀は妖しく微笑んで皐月のことを見つめていた。
「その小説に出てくる悪い男をね、藤城君をモデルにしようかなって思ってるの」
「俺が悪い男のモデル?」
「そう。ピッタリでしょ」
千由紀には自分の本性を見透かされているのか、と皐月は一瞬緊張した。だが少し考えれば、千由紀が皐月の恋愛事情を知っているわけがないことに気付く。
「恋愛経験なんかないくせに、そんな小説を書けるのかよ?」
悪い男扱いをされ、皐月は報復のつもりでキツいことを言ってみた。
「嫌なこと言うなぁ……。いつか書きたいって言ったでしょ。小学生の今、そんなドロドロの恋愛小説なんて書けるわけないじゃない」
千由紀は怒っているような、傷ついているような、複雑な表情を見せていた。皐月は千由紀を真理と同じように扱うべきではなかったと反省した。
「そりゃそうだ。でも、なんで俺みたいな善良な男をモデルにしようと思ったの?」
皐月は精神的優位に立ったような気がした。恋愛なら自分の方がはるかに経験を積んでいる。しかも現在進行形で。
「藤城君のその言い草がいかにも悪い男って感じだよね。それに身近にいて、取材しやすいでしょ? 芥川の『地獄変』は読んだことある?」
「いや……ないけど」
「一度読んでみるといいよ。私、良秀の狂ったような芸術至上主義にシンパシーを感じているから」
皐月には千由紀の言っていることがさっぱりわからなかった。だが、狂ったような芸術至上主義というのはなんとなくわかる気がした。普段は物静かな千由紀だが、内に狂気を秘めている気がしないでもない。
「修学旅行が終わったら、『地獄変』を読んでみるよ。『歯車』も『羅生門』も面白いから、きっと『地獄変』も面白いんだろうね」
何を緊張しているのか、千由紀の呼吸が乱れていた。皐月は千由紀と初めて真理と同じように遠慮なく話せた。返ってくる言葉も心地よかった。まだ二人の仲はぎくしゃくしているが、この先はもっと気安く話ができる関係になれる予感がある。
大講堂にいたのは3組の児童たちだった。実果子を探していると、向こうが先に皐月の視線に気がついた。隣にいる千由紀が実果子に手を振ったので、皐月も一緒になって手を振った。実果子は頬の横に軽く手を挙げるだけだったが、離れていても弾ける笑顔になったのがわかった。
「藤城君って実果子と匂い袋の交換をしたんだよね。意味わかってたの?」
「そんなの知るわけないじゃん。変な都市伝説みたいなのがあったみたいだな」
「ふ~ん。オカルト好きの藤城君でも知らなかったんだ」
「別に俺、オカルト好きじゃないし。それに変な噂を建てられたら、野上が迷惑するじゃん」
すでに3組では皐月と実果子ができていると評判になっている。こんな話を持ち掛けてくるくらいだから、その噂は千由紀たちの耳にも入っているのだろう。それなのに、なぜか真理や絵梨花からはこの話が出てこなかった。
「で、どうするの? 実果子のこと」
千由紀の直接的な尋問に皐月は身構えた。いくら相手が千由紀でも、ここまで踏み込んで来られると不愉快だ。
「どうもこうもないよ。勝手に変な噂を流されて。……こう見えても俺は怒ってるんだ」
せっかく法隆寺にいるのに、つまらない会話なんかしたくなかった。皐月は千由紀から離れようと思った。
「ごめんね……藤城君」
皐月の言葉は思っていたよりも千由紀にダメージを与えていた。皐月は千由紀のことをもっと反発してくるタイプだと思っていたので、認識を改めなければならなくなった。
「いいよ、別に。それよりそろそろ時間だから、出口に行こうか。ほら、みんな集まり始めているよ」
廻廊の南東の角に4組の児童が大勢いた。時計を見ると、すでに集合時間になっていた。
「廻廊を歩いていこう。俺、この廻廊が大好きなんだ」
「私も好き。もう、ずっとここにいたいってくらい好き」
「なんだ、俺と同じじゃん。吉口さんとも気が合いそうだな。恋愛小説を書く時は、一緒に奈良に取材に来ようか。俺ってその小説のモデルなんだし、もう一度法隆寺にも来たいし、付き合うよ」
「じゃあ、その時はお願いする」
俺をモデルにどんな小説を書くつもりなんだ、と皐月は千由紀の書く恋愛小説が気になった。どうせ書くなら格好良く書いてもらいたいものだ。モデルの権限で書いた小説を絶対に読ませてもらわなければならない。
みんなのいるところに着く手前で、ガイドの立花が皐月と千由紀のツーショット写真を撮った。西院伽藍での立花は案内人というよりもカメラマンのように振舞っていた。だが、他のクラスの様子を見ると、自分たち4組が一番楽しそうに見えた。