いよいよ現実味を帯びてきた修学旅行(皐月物語 90)
給食の時間はどの班も修学旅行の話題で持ちきりだった。
そのきっかけになったのは、朝の会で担任の前島先生が今日の予定の確認の話をしたことだった。5・6時間目の学活で修学旅行の初日の班行動の、京都の訪問先を最終決定すると発表した。
この時、教室中が色めき立った。みんなの心の中でふわふわしていた修学旅行がいよいよ現実味を帯びてきたことを、ほとんどの児童が実感することとなった。
この日の給食の献立は八宝菜だった。春巻きとたまごスープも付いて、白米のご飯で食べる組み合わせだ。
藤城皐月は八宝菜を見て、江嶋華鈴の両親が中華料理の店をやっているのを思い出した。
皐月は昼休みに児童会室で華鈴と会う約束をしているので、早く給食を食べてしまおうと気合が入っていた。だが、訪問先の話題で盛り上がると、教室を抜け出すことができなくなってしまうかもしれない。
「班長、どうしよう。どこに行くか、なかなか決まらないね」
「みんながあそこも行きたい、ここも行きたいと欲張り過ぎるからでしょ」
修学旅行実行委員会の委員長として委員を率いている皐月は、ここぞとばかり班行動の班長を務める吉口千由紀に甘えた。委員長になって初めてわかる、リーダーの後について行くだけでいい一般人の気楽さだった。
「モデルコースの中から選べばいいのよ」
現実的な考え方をする栗林真理らしい意見だ。ほとんどの班はモデルコースの中から選ぶらしい。
班行動での行き先は児童の自由に決めてもいいとされている。だが、何もかも自由にしていいと言われると、最初のうちは児童は大喜びをするが、最終的には具体的にプランを作る段階で困る。
それを見越して学校側は10通りのモデルコースを作成していた。モデルコースの作成は6年生の担任たちが過去の修学旅行の班行動のデータを参考にしたそうだ。各クラスの先生たちはあらかじめ全児童に訪問先の順路を詳細に書かれたプリントを配布していた。
「モデルコースは良くできていると思うけどさ、微妙に行きたくないところが混ざっているよね。なんかイマイチつまらんないんだよな……」
せめて一カ所はミステリースポットに行きたいと主張し続けている神谷秀真は学校から提示されたモデルコースに不満がある。
「つまらないところなんてないでしょ。そこをつまらないって思うのは神谷さんの問題なんじゃない?」
歴史が好きな二橋絵梨花にとって、京都の何もかもが興味深いらしい。自分の興味の対象外をつまらないという秀真のことにカチンときているようだ。このクラスやこの班に馴染んできたのか、いい子の見本のような絵梨花も負の感情を素直に出せるようになってきた。
修学旅行初日の京都観光のルートを決めるにあたって、学校側はモデルコースの中から選ぶことを推奨している。だが児童の自主性を育むことも考えて、部分的に行き先を変更してもいいことになっている。
もし児童が望むなら、観光ルートの何もかもを自由に決めてもよいが、そのかわり自分たちでタイムテーブルを作成して、先生の承認をもらわなければならない。
班行動で京都を旅行できると聞かされた当初は、どの班も好き勝手なことを言い合って盛り上がっていた。皐月たちの班も大いに盛り上がり、議論が交わされた。
その後、学校側から具体的な旅行プランを示されると、みんなの興奮が徐々に冷め始め、モデルコースを見ながら現実的に話し合いを行うようになってきた。
「とにかく絶対に行きたいところだけを決めようよ。ルートは僕が考えるからさ」
鉄道オタクの岩原比呂志が燃えている。班の女子たちから交通機関の知識を当てにされたのをきっかけに覚醒したようだ。守備範囲外のバスの路線図を見ているうちに、新たな世界が開けたと喜んでいる。
最近では、比呂志と皐月は休み時間の短い時間のたびに、二人でバスの路線図を眺めて遊んでいる。
「とりあえずみんな、絶対に行きたいところを一カ所だけ言って」
岩原比呂志が班のみんなに聞くと、食べかけていた八宝菜を一気に啜った。比呂志は食べながらではなく、食べ終えてから話をしたがっていた。
「私、清水寺」
真っ先に栗林真理が答えた。
「僕は下鴨神社にしておく。世界遺産だから異論はないよね」
神谷秀真は木嶋坐天照御魂神社を諦めた。だが藤城皐月は秀真の真の目的を知っている。
秀真の本当の目的は下鴨神社の摂社の河合神社だ。ここは八咫烏が祀られている。八咫烏は色々な意味で興味深い。
「俺は祇園ね。あと八坂神社も」
「藤城氏、一カ所って言ったよね?」
「祇園と八坂神社はセットじゃん。八坂神社から祇園四条駅に行く途中で、祇園の花見小路通を歩こうよ。それに清水寺から祇園に行くのだって、歩いて八坂神社を経由するわけだし、八坂神社は重要な中継点だ」
「まあ、そういうことならしょうがないか……」
一瞬だけ比呂志に怒られたが、事情を説明するとすぐに納得した。比呂志は皐月が清水寺と下鴨神社を接続するために八坂神社を入れたことを理解したようだ。これは二人で一緒に地図を見て、地理が頭に入っていたので阿吽の呼吸で伝わった。
皐月は八坂神社に行くのなら知恩院にも寄りたかった。だが時間のことを考えると諦めざるを得ない。皐月は吉口千由紀に欲張り過ぎと言われた犯人の一人だ。
「私は東寺に行きたいな。講堂の立体曼荼羅が見たい」
二橋絵梨花は今まで話題に上がらなかった東寺を見たいと言い出した。皐月はてっきり広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像を見たいのかと思っていた。
「だって広隆寺は方角が違うでしょ。それに弥勒菩薩像は法隆寺で見られるから、今回はいいかなって思ったの」
絵梨花は仏像を軸に訪問先を考えているのかもしれない。ならば三十三間堂はいいのか、と思ったが、絵梨花も三十三間堂を諦めたのかもしれない。
「私は伏見稲荷大社に行ってみたい。でもあそこは広すぎるから、千本鳥居の中を歩ければ、全部まわらなくても満足かな」
吉口千由紀は班長だからなのか、遠慮がちだった。方角的には下顔神社からのアクセスがいいから、伏見稲荷は有りだと皐月は思った。
「伏見稲荷に行くなら伏見神寶神社に行こうよ。僕はここで十種神宝ペンダントを買いたいんだ。千本鳥居を少し歩いた所にあるから丁度いいと思うよ」
「それってどういうこと?」
千由紀は伏見神寶神社のことを知らないようだ。皐月もこの神社のことは初耳だった。
「伏見神寶神社は伏見稲荷の中にある神社で、千本鳥居を抜けていく途中の丘にあるんだ。この神社は伏見稲荷よりも古いって言われているんだよ。いや~、吉口さんが伏見稲荷って言ってくれてよかった! 僕、伏見神寶神社のことすっかり忘れてたよ」
「私はよくわからないけど、神谷君がそんなに喜んでくれるなら良かった」
皐月は秀真の言う伏見神寶神社のことを何も知らないことが悔しかった。後で情報を注入してもらわなければならない。
「岩原氏はどこに行きたいの?」
「僕はいいよ。これ以上希望しても、まわり切れないと思うから。それに、今挙げたところだって、全部まわり切れるかどうかわからないし……」
「それじゃあ、あんまりだと思う。どうしよう……」
千由紀が悩み始めた。班長としての責任を感じているのかもしれない。もしも時間が足りなくなったら、千由紀は伏見稲荷を諦めてしまうかもしれない。
「僕は移動で鉄道に乗れるだけで楽しいから、気にしないでほしい。関西の私鉄に乗ることが僕の修学旅行だから。この心理は女性の方には理解ができないかもしれないけど」
「俺はわかるぞ、岩原氏」
皐月は比呂志のオタク心がよくわかる。京阪電車に乗れるだけでも楽しいし、比呂志のことだ、あわよくばダブルデッカーに乗ろうと目論んでいるに違いない。
伏見稲荷大社から東寺に行く時は、JR西日本の奈良線と近畿日本鉄道の京都線にも乗れる。三河に住んでいる人間にとって、関西の路線に乗れるのはそれだけで嬉しいことなのだ。
給食の時間が終わって昼休みになると、皐月は急いで児童会室へ向かった。訪問先を決める話が長引いてしまった。後のことは班長の千由紀と比呂志に任せておいても問題なさそうだ。
修学旅行実行委員の副委員長の江嶋華鈴と、書記の水野真帆はすでに児童会室に来ていて、何かのプリントを見ていた。
「お待たせ~。二人とも来るの早いね。何してんの?」
「水野さんが作ってきてくれたアンケート用紙を印刷したの。これならいい観光ガイドを作れると思う」
「へ~。見せてもらってもいいかな?」
真帆が印刷されたアンケート用紙を皐月に手渡した。皐月は真帆の仕事ぶりに敬意を示し、意識を集中してプリントの中身を確認させてもらった。
修学旅行実行委員より、アンケートの協力をお願いします
修学旅行のしおりに、みんなが旅行前に楽しみにしている訪問先の特集ページを作ろうと思っています。
答えていただいたアンケートは全てしおりに掲載します。みんなで修学旅行を盛り上げましょう!
1 あなたが修学旅行で最も楽しみにしている訪問先はどこですか? 京都・奈良のどこかを教えてください。(例:清水寺、法隆寺など)
2 その場所の見所など、楽しみにしていることを教えてください。(一言でも構いません。書かなくてもいいです)
3 修学旅行のしおりに、このアンケートに答えてもらえた人の名前を掲載したいと思っています。名前をのせてもいいという人は名前を書いてください。名前を知られたくない人は名前を書かなくても構いません。
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4 修学旅行のしおりをにぎやかにするイラストを募集します。
修学旅行を連想させる建物や小物、人物などのイラストをいただけると実行委員はうれしいです。義務ではありません。描かなくてもいいです。実行委員に協力してやってもいいよっていう人だけにお願いします。
プリントを見た皐月は真帆の考えた文面に感心した。
「すごくよくできてると思う。わかりやすい言葉で書かれているし、強制している感じもしない。これなら高い回答率が期待できるかも」
「ありがとう。私、ちょっと自信なかったんだよね。相手が児童会や先生じゃないから、言葉の選び方が難しくて……」
皐月は真帆のことを自信家なのかと思っていたが、思っていたよりも繊細な感性の持ち主なことを知った。
小学校では発達段階に差があって、自分が当たり前のようにわかることでもわからない子がたくさんいる。真帆はそのことをわかっている。
「掲載とか募集とか、小学校では習わない漢字を使っているところをどうしようかなって話していたの。言葉を言い換えようか、平仮名にしようか、ルビをつけようかって」
あらかじめ華鈴がアンケート用紙の中身をチェックをしていてくれた。華鈴も皐月ならスルーしそうな細かいところによく気がつく。児童会は低学年も相手にするので、こういう配慮ができるのは当たり前のことなのかもしれない。
「たぶん、このままで大丈夫じゃないかな。掲載も募集もよく見る言葉だし。面倒じゃなかったらルビを振ってもらってもいいかな?」
「わかった。じゃあそうするね」
真帆が皐月の要求に即座に対応し、現行のファイルを書き直した。
「イラストの募集、いいね。このアンケートでイラストがいくつか集まったら、実行委員に描いてもらわなくて済むね」
「そう言ってもらえると嬉しいな。勝手にこんな項目増やしちゃったから、怒られるかなって心配だった。僭越なことをしたって意識はある」
「水野さんって、児童会でもそういうことする時があるよね」
「あっ、会長もしかして怒ってた?」
「別に怒ってないけどさ……でも、的外れなことされたら注意しようとは思ってたけどね」
「ごめんね……。私ってすぐに出過ぎたことをしちゃうから……」
「いいよ。水野さんのすること、全部プラスになることばかりだったから。優秀なスタッフに恵まれて、私は幸せだと思ってるよ」
「よかった……会長、怒ってなくて」
「その会長っていうの、やめてよ。ここは児童会じゃないんだから」
華鈴の話を聞いていて、皐月は自分もまた幸せなんだなと思った。有能な真帆だけでなく、華鈴まで自分をサポートしてくれる。この二人のお陰で修学旅行実行委員の委員長が楽なポジションに思えてくる。
「水野さんにお願いがあるんだけどさ、ちょっと面倒な文字入力をしてもらいたいんだけど」
「いいよ」
皐月は修学旅行のしおりに載っている規則の一つ一つに理由を付け加えたいことを告げた。皐月と華鈴で話し合っていることを文字起こししてもらいたいと頼んだ。
「ここでやるなら、音声入力にしようかな。ここなら静かだし、変なノイズが入らないから」
「音声入力なんてできるんだ」
「うん。手入力よりもずっと早いよ。でも編集する手間は増えるから、どっちが楽かはわからない」
「水野さんがやりたい方でいいよ」
「じゃあ音声入力でお願いします」
とりあえず試しに少しやってみることにした。真帆がしおりの規則の文を読み上げ、それに対して皐月と華鈴が理由を考えて発言する。画面を見ていると、かなり正確に文字に変換されている。少し手直しするだけで実用的に使えそうだ。
「これなら明日中にできちゃいそうだね。明日の昼休みもここに集まってもらってもいいかな?」
「私は大丈夫。水野さんはどう?」
「私もいいよ。早くできる仕事は早く終わらせちゃいましょう」
「じゃあ、俺と江嶋はあらかじめしおりを読んでおいて、理由を考えておこうか。明日この場で迷うのも時間の無駄だし」
「そうね。その方がいいわね」
「でも、この程度の量だったら俺が家で一人でやっちゃってもいいんだけどな」
「また一人でやろうとする。二人でやるって言ったでしょ?」
「わかったわかった。二人でやろう」
自分が一人で仕事を済ませてしまえば華鈴も楽なのに、どうして一緒にやりたがるのか。皐月には華鈴が二人で仕事をしたがるのが不思議だった。