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凛姐さんには逆らえない (皐月物語 15)

 新しい家族四人で朝食を終えた後、藤城皐月ふじしろさつきは自分の部屋に戻り、明日からの新学期に向けて幼馴染の栗林真理くりばやしまりがやり残した宿題に取り掛かった。
 まずは眠気眼ねむけまなこで完成させた自由研究にミスがないかを確認しなければならなかった。徒労に終わるかもしれないが、真理が描こうとしている交通安全のポスターも代わりにやるつもりでアイデアを練ろうと思っていた。
 及川祐希おいかわゆうきは母親たちが家事を終わらせた後、三人で喫茶パピヨンでモーニングに行った。祐希はその後、高校の友だちに会いに出かけるという。お昼は友だちと食べてくるので夕方まで帰ってこないらしい。

 皐月は祐希や母たちと一緒にモーニングには行かず、午後から真理に会いに行く準備をしていた。好きな音楽を聞きながら自由研究のチェックを始めた。宿題の提出は手書きでなければいけないので、本文はベタで印刷して、画像は別にまとめて印刷した。
 自由研究の準備が終わり、音楽を消すと我に戻った。
 皐月は自分は真理と会うのに、祐希が友だちに会いに行くことが、置いてきぼりを食らったような思いになった。これが被害妄想だということはわかっているが、子どもの頃から一人ぼっちは慣れているはずなのに、寂しかった。
 交通安全のポスターは無難なものにしようと考えていたが、すぐにつまらなくなって自分の趣味を前面に出したくなった。
 ポスターは『自転車も止まれ』というタイトルにした。題字を静脈血を連想させる暗褐色を使って指で描いてやろうと思った。事故死なら動脈血の鮮紅色を使うべきだが、見慣れた静脈血の色の方が恐怖心を喚起させる。
 絵のコンセプトは友だちを事故で失った少女にしようと思った。「止まれ」の規制標識の根元に花が供えてあり、女の子が手を握りしめてうつむき加減に立ちすくんでいる。
 皐月は絵を描く時に手が早いので、1時間もかけずに絵を完成させた。本当は背景に色を塗りたくなかったが、学校の宿題では手抜きと思われそうなので、背景は限りなく白に近い紫の単色で塗りつぶすことにした。背景を消すのは対象を抽出する意図があるので、薄い色を塗ることでギリギリの妥協をした。隠喩の効いたいいポスターになったような気がした。

 昼食は母の小百合さゆりと祐希の母の頼子よりこと三人で素麺そうめんを食べた。頼子に夕食の希望を聞かれ、皐月はカレーをお願いした。
 小百合は真理の母の凛子りんこと同じお座敷に呼ばれているので、頼子と祐希と皐月の三人で夕食を食べることになる。百合は検番けんばんで凛子と一緒に稽古した後、豊橋の宴席へ向かう。今日は近場だから皐月が寝る前に帰って来られそうだ。
 昼食後、皐月は真理にメッセージを送った。さすがにもう起きていたようで、すぐに返信が来た。真理が皐月の家まで自由研究を取りに来ると書いてあったが、真理の時間を無駄にさせたくなかったので、自分が真理の家に届けると返した。
 真理の家に宿題をやりに行くと小百合に伝えると、頼子から真理の夕食をどうするか連絡を入れるよう頼まれた。頼子が真理のことを気にかけてくれているのが嬉しかった。

 明日から二学期だというのに昼日中ひるひなかの外はまだ暑い。少し歩いただけで汗が出てくるし、日差しを浴びていると頭がぼ~っとしてくる。
 皐月は豊川駅の東西自由通路のエスカレーターに乗っている途中で差し入れのことを思い出した。昨日の夜、真理に「今度家に来る時はおやつを持ってきて」と言われたのをすっかり忘れていた。今からコンビニまで階段を下りて戻ろうかと思ったが、少し逡巡して買うのをやめた。とにかく暑くて面倒だったのだ。
 真理の住むマンションの部屋の前まで来ると、真理を抱き寄せた時の感触を思い出した。幼馴染というよりも好きな女の子の家を訪ねる感覚になり、インターホンを押す手が少し震えた。
「皐月ちゃん、久しぶりね。暑かったでしょ。さあ、入って」
 ドアを開けたのは真理の母の凛子だった。凛子はお座敷前なのに、すでに綺麗で色っぽかった。
「ちょっと日焼けし過ぎなんじゃない? せっかく色白なのにもったいないな~」
「凛姐さんも明日美あすみみたいなこと言うんだね」
 皐月は中に上がらせてもらって、応接室のソファーに座った。
「美容液塗ってあげようか。美白有効成分のトラネキサム酸が配合されてるのよ」
「凛姐さんの肌が白くて綺麗なのはトラなんとか酸のおかげ? 真理も肌が白いけど、その美容液使ってるの?」
「あの子ってそういうの面倒くさがるのよね。そのくせ美容液を使わなくても白いから羨ましい。引き籠りだから日焼けしないだけって……」

「私のいないところで何の話してんのよ」
 チュール袖の白Tシャツに黒のラインレギパンという部屋着で真理がやってきた。
「俺の顔が黒くて真理の顔が白いって話だよ」
「冬になったらいつも皐月の方が白くなるじゃん」
「真理も少しは外に出て日焼けしろよ。昭和のアイドルは小麦色の肌が健康的って言われてたんだぜ」
「ジジイか、あんたは」
 喫茶パピヨンでモーニングを食べていると昭和歌謡に詳しくなる。マスターの影響でネットで動画を見るようになった。
「皐月ちゃん、何か飲む?」
「コーヒー淹れてあげようか」
 真理は本当にコーヒーにハマっているようだ。
「暑いからお茶がいい。凛姐さん、冷たい緑茶ってある?」
「ペットボトルの『伊右衛門特茶』ならあるよ」
「あれ高いじゃん! 特保だよね」
「ケルセチン配糖体が脂肪分解酵素を活性化させるのよ。ダイエット効果があるかもね」
「じゃあ私も特茶でいい。私だけコーヒー飲んだら口臭が気になっちゃう」
 口臭なんて気にしなくてもいいのにと思った。真理は周りに合わせてしまうところがある。
「凛姐さん、さっきから難しい専門用語ばかり言ってるけど、そういうの詳しかったっけ?」
「明日美の影響よ。あの子、健康オタクみたいなところあるから」

 皐月は母の小百合に聞けなかった明日美の病気のことを、真理の母の凛子に聞いてみたくなった。凛子は明日美と仲が良いので、詳しい情報を知っているはずだ。
「明日美って何かの病気をしてたんだよね。健康に気を使っているのに」
「……まあそういうこともあるわね」
 凛子の表情に陰りが見えた気がしたが、さっと立ちあがってキッチンに行ってしまった。明日美の病気が何だったのか気になるが、凛子も小百合と同じだった。この様子だと凛子は明日美の病気のことを話してはくれないだろう。
 リビングには昨日聴いたインストゥルメンタルが流れていた。昨夜と同じ状況が真理の夏休みの宿題を思い出させた。
「宿題もう終わった?」
「勉強系はなんとか昨日中に終わらせたよ。でも、ついさっきまで寝てた」
「よく頑張ったじゃん」
「でも交通安全のポスターはまだ描けてない。今日中に何とかしなきゃね」
「これやるよ」
 皐月が持って来たポスターの宿題を真理に見せた。
「これ、私の作品として出しちゃうの? こんなの、私に描けるわけないじゃん」
「宿題なんて出せば何でもいいんだよ。しれっとした顔して出しとけ」
「でも、これ余白が多くない? いいのかな……」
「いいんだよ、これで。でも、やっぱり気になるか……。まだ時間に余裕があるから、何か描き足そうか」
 真理は皐月の懸念通りの反応を示した。
「絵の具を用意するから、ここで描いてってよ。あんた、この後何か用事あるの?」
「全然。まあ少し昼寝でもしようかなって思ってたけど」
「眠くなったらここで寝てけばいいよ」

 凛子がお茶とお茶菓子を持って来た。笹の葉に包まれた竹筒がガラスの長角皿に乗っていた」
「これ何?」
「京都の『二條若狭屋』の竹水羊羹よ。青竹に餡を流し込んで、笹で封をしてあるの。見た目が涼やかでいいでしょ」
「チクスイ羊羹って水羊羹?」
「そう。昨日のお座敷でお客様からお土産を頂いたの。京都で人気のスイーツなんだって。私も今日初めて食べるわ」
 凛子が食べ方の説明をしてくれた。
 まず青竹を包んでいる笹の葉を剥がし、その葉を長角皿に敷く。竹筒の底の節に付属の錐で空気穴を開け、竹筒を45度くらいに傾けて軽く振ると竹から羊羹が出てくる。全部出さないで半分くらい出し、一口サイズに切って食べる。
 実際に言われたとおりにやってみるとすごく楽しい。誰が考えたのか、センスのいい和菓子だ。
「この水羊羹おいしいね、お母さん。微かに竹の香りがする」
「こんなの食べたら京都に観光旅行に行きたくなっちゃうね。私もどうせ芸妓げいこをやるなら京都でやってみたかったわ」
「もう京都で芸妓は無理なの、凛姐さん」
「こんなおばちゃんじゃダメよ。やるなら高校に行かないで舞妓さんにならなくちゃ。芸妓はその後ね」
「真理ならまだなれるじゃん」
「あのね……私、受験生なんだけど……」

 水羊羹を御馳走になっていると、皐月は今日の夕食のことを思い出した。
「真理、今日うちで晩ご飯食べる?」
「今日は家で食べるからいいよ。ごめんね」
「じゃあ家に連絡入れておくね」
 スマホを取りだして家に電話しようとしたら、凛子が肩に手を乗せて体を寄せてきた。
「今日は皐月ちゃんがうちで食べなさいよ。鰻でも取ってあげるわ。昨日のお礼よ」
 顔が近かった。凛子は明日美とは違う、扇情的ないい匂いがした。
「凛姐さんって、今日はお座敷?」
「そう。真理を一人にさせちゃ可哀想でしょ。だから一緒に食べてってよ」
 凛子にこんなことを言われて断れる皐月ではない。芸妓の凛は子どもにも容赦がなく、必ず頼みを断れなくなるように誘導してくる。だから皐月は凛子に何かをお願いされて断ったことがない。ただ、今晩はカレーを食べたいと頼子に言ってしまったから困ってしまった。
「真理は塾とか、勉強は大丈夫なの?」
「塾は基本、土日だけだから大丈夫。でも勉強は全然大丈夫じゃないけどね……」
「じゃあ邪魔しちゃ悪いから家で食べるよ」
「そういう意味で言ったわけじゃないから。今日はうちで食べてってよ」
 断る理由を探したが、真理にまでそう言われたらもうお手上げだ。
「じゃあ御馳走になってもいい? 凛姐さん」
「もちろんいいに決まってるじゃない。皐月も遠慮するようになったんだね」
「何それ。人のこと何だと思ってたの?」
「子ども」「ガキ?」
 凛子と真理が同時に言った。さすがは母娘、息がぴったりだ。
「ガキって何だよ……。それに俺はもう少年だ。これでも日々成長してるから」
「ごめんごめん。確かに皐月ちゃん、ちょっと男っぽくなってきたかな。真理もそうだけど、みんなどんどん大きくなっちゃうね。何だか嬉しいような寂しいような」
「娘の成長くらい素直に喜んでくれてもいいのに」
「そういう親の機微がわからないうちはまだ子どもなのよ」
「キビ?」
 皐月がわかる言葉を真理がわからなかった。
「表に出ない微妙な変化のこと。中学受験の範囲外だから、真理には難しいか」
「なんで皐月がそんな言葉の意味を知ってるの?」
 真理が目を見開いて皐月を見る。
「漢字は結構わかるよ、俺。漢検2級持ってるから」
「2級って大学受験レベルじゃん。あんた、いつの間にそんな勉強してたの?」
「すげえだろ……ってまあ、漢字だけなんだけどね、俺のできる勉強は。それよりちょっと家に電話するね」
 皐月は昨日登録した頼子の番号に電話をかけ、真理の家で夕食を御馳走になると伝えた。頼子の言うには祐希も晩ご飯を外で食べてくるらしく、寂しそうだった。頼子の料理を食べられないことを謝ったが、まだ用意をする前だから大丈夫と逆に気を使われた。
 電話の相手が小百合じゃなく頼子だと分かると、電話を代わってくれと凛子に頼まれた。頼子と直接話して昨夜真理がお世話になったお礼をしたいと言う。
 凛子に電話を代わると、今晩の夕食は昨日のお寿司のお礼だということと、また改めて小百合寮に挨拶に行くということを話していた。


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音彌
最後まで読んでくれてありがとう。この記事を気に入ってもらえたら嬉しい。