東寺を駆ける皐月(皐月物語 141)
伏見稲荷大社の参拝を終え、藤城皐月たち6人はJR稲荷駅に到着し、京都行き普通列車の先頭車両に乗り込んだ。ホームには多くの外国人がいたが、先頭車両まで来る外国人はあまりいなかった。
鉄道好きの岩原比呂志は前面展望を見ようと車両の一番前へ行った。比呂志一人分のスペースくらいは空いていたが、自分は見られそうにないと思った皐月は女子たちと一緒にいることにした。
車内は混みあっていたので、比呂志を除く5人はバラバラにならないよう固まっていた。背の低い二橋絵梨花は人に埋もれていた。
「外の景色が見えないでしょ。岩原氏に場所を代わってもらう?」
「大丈夫。みんなに囲まれているから、楽しいよ」
絵梨花の顔は皐月の胸あたりの高さになる。皐月は絵梨花と並んでいる時に見上げられるのが好きだ。でも、いずれ絵梨花とは身長差が開いて大人と子供のようになるだろう。今は絵梨花との身長差がバランス的にいい感じだが、数年後には女子にしては背の高い栗林真理を見下ろす日が来るはずだ。真理とは並んで歩くと見た目のいいカップルになるに違いないと思った。
駅手前で京阪本線と立体交差して、東福寺駅に着いた。今朝この駅で京阪に乗り換えたのは9時過ぎのことだった。皐月には同じ日の出来事とは思えないくらい、遠い昔の思い出のように感じられた。
「二橋さんは東福寺に行きたかったって言ってたよね。僕は東福寺のことをよく知らないんだけど、見所ってなんなの?」
神社仏閣の好きな神谷秀真でも東福寺のことをよく知らないようだ。
「私は枯山水や建物を見てみたかったの。雰囲気を味わいたいってところかな。紅葉の季節が最高なんだって」
この時の皐月には枯山水の良さがまだよくわかっていなかった。小さな写真では見たことがあるが、実際に自分の身を石でできた海の波打ち際に置いてみなければ、その良さがわからないのかもしれない。
「二橋さんは侘び寂びを美しいって感じるんだ。仏像が好きだって言ってたから、煌びやかな世界が好きなのかと思ってた」
文学好きの吉口千由紀が絵梨花に嬉しそうに話しかけた。
「どっちも好きだけど、どちらかと言えば質素さや閑寂さ、非対称や余白を重んじる侘び寂びの方が好きかな」
「私も最近はつつましく質素なものの趣や、時間の経過によって表れる美しさに魅かれるようになってきたの」
皐月はまだ侘び寂びを楽しめるほど精神が成熟していなかった。絵梨花と千由紀の会話を聞き、随分と大人びてると感じた。だが、この修学旅行で皐月も少しはそういったことを楽しめるようになれたと思った。
トラス橋で鴨川を超え、左に曲がりながら進むと新幹線と立体交差した。奈良線は東海道本線と並走し始め、皐月たちからは左手の高い位置に新幹線のホームが見えた。列車は終着駅の京都に到着した。
先頭車両に乗っていた利を生かし、比呂志はみんなを引き連れて電車を下りる乗客の先頭を歩いた。エスカレーターを上って右に曲がり、西口改札口から出た。正面の案内板に従って進むと近鉄京都駅の改札が見えた。近鉄の改札までの移動時間がわからないので、比呂志は急ぎ足で改札を抜け、皐月たちを率いて近鉄の駅へ進んだ。
近鉄の京都駅はJRよりも照明を落としているのか、落ち着いた雰囲気だ。壁や天井には縦格子が施されていて、柱には観光地などのデジタルサイネージが輝いていた。照明を落としているのは美しい観光地が光を放って構内を照らそうとしているからだろう。
改札を抜けると弧を描く櫛形ホームが4面4線あった。左手にはタイムズプレイスという駅ナカショッピングモールがあり、飲食店やカフェ、土産物店にコンビニなどが軒を連ねていた。
比呂志は右手の3番ホームへ皐月たちを導いた。3番ホームの上には新幹線のホームがあり、4番ホームの向こうにはJRの在来線のホームが見える。このダイナミックなレイアウトに鉄道好きの皐月は興奮した。
14時56分発の急行近鉄奈良行きはすでに3番ホームに入線していた。出発までまだ時間に余裕があったので、皐月は真理を連れて駅構内にあるファミリーマート近鉄京都駅3番ホーム前店に入った。
「真理、ジャスミンティー買って」
「いいけど、すぐ飲む?」
「飲む」
「じゃあ、私にも一口ちょうだい」
真理が精算を済ませて、皐月と二人で店を出た。真理が最初の一口を飲んで、残りのお茶を皐月が受け取った。
「思ったんだけどさ……なんか私が一番バカみたい」
「何言ってんの?」
「だって絵梨花ちゃんも千由紀ちゃんも高度な内容の会話をしてるし、神谷君も岩原君も専門知識が豊富だし、皐月はなんかしらんけど、全方位に対応できているって感じだよね。私が一番中途半端」
真理が寂しげにつぶやいた。
「そんなことないだろ。真理は好奇心が旺盛だし、話を良く聞いて、いつも核心を突いた質問をしてくる。真理が一番頭がいいよ。俺たちはただオタク的な知識があるだけだ」
皐月も一口お茶を飲んで、真理にもう一度ペットボトルを手渡した。真理が飲んだお茶を皐月も飲んで、ボトルに蓋をした。
「電車に行こうぜ。次の東寺で最後だ」
「京都、また来たいな」
「そうだな。またいつか来よう。二人で」
「受験が終わったら来たいな」
「え~っ! 俺、金ないぞ?」
「なんとかしなさいよ」
皐月と真理はコンビニを離れ、比呂志たちが乗っている6両編成の先頭車両から乗り込んだ。
京都駅を出た近鉄8400系は4車線ある線路を複雑に合流しながら、2車線に収斂していった。左へ曲がりながら新幹線と国道1号線と同時に立体交差して、マンションの間を走っていると右手に東寺の五重塔が見えた。スピードが上がる間もなく東寺駅に着いた
東寺駅は相対式2面2線のホームを持つ高架駅だ。やや狭めの階段を下りるとガード下に改札口がある。皐月は東寺駅でところどころ目につく安普請に名鉄の駅の雰囲気に近いものを感じていた。
「岩原氏。ここって無人駅なんだ」
「京都駅の隣なのにね。東寺駅は京都駅管理の無人駅なんだ。名鉄でも名鉄名古屋駅の隣の山王駅も無人駅だよ」
改札を出ると目の前に九条通りと呼ばれている国道1号線が走っていた。駅を出て右に進むとモスバーガーがあった。家の近くにモスバーガーがない皐月はこの店が豊川駅のすぐそばにあったらしょっちゅう通っているだろう。
九条通りも電線が地下に埋設されていた。地方都市によく見られるありふれた街並みなのに、電柱と電線がないだけで空が広く開放的な気分になる。路地の先を見ると電線と電柱でゴチャゴチャした日本的な風景が見られた。
背の低いビル街を歩いていると、大きな交差点に差し掛かろうとしていた。その角には愛知県では滅多に見られない京都銀行が建っていた。交差点に近づくにつれて屋根の葺かれた大きな土塀が見えてきた。
京都銀行の角に入ると目の前に屹立した五重塔が出現した。皐月はそのあまりの美しさに茫然となり、言葉を失った。この日はさんざん神社仏閣を見てきたはずなのに、皐月はこの五重塔にどの建物よりも心を奪われた。
車が行き交う幹線道路の向こうに築地塀があるだけでも現実離れしている。それだけでなく、塀の向こうには楠の巨木よりも高く聳える五重塔が立っている。塔の屋根からは相輪が青空に突き上げるように伸びている。
歩行者用の信号が赤だったのは幸いだった。この美しい光景を少しでも長く見られたからだ。いつまでもここで五重塔を見ていたいと皐月は思っていたが、信号はあっけなく青になった。秀真が先頭を切って横断歩道を渡り始めると、皐月もそれに追従した。皐月に一歩遅れて千由紀がついて来た。
「吉口さんも五重塔に見惚れていた?」
「……うん」
「東寺は『唯一残る平安京の遺構』って言われているみたいだね」
「うん。……そう思うと感動で震える」
そんな千由紀に皐月はシンパシーを感じた。それは歴史好きの絵梨花に対する共感とは違っていたが、勝るとも劣らない心ときめくものだった。
「京都にいると、時々無性に過去の世界に行きたくなる。でも無理に決まっているから狂おしい。こういうのって嫌だな……」
最初に話しかけた時以外、皐月は五重塔を見ながら千由紀と話をしていた。教室で芥川龍之介の『羅生門』の話をして以来、皐月にとって千由紀は平安京と紐付いている特別な存在になっていた。
皐月たちは横断歩道を渡り、築地塀沿いに九条通りの歩道を五重塔を見上げながら歩道を歩いた。歩道と築地塀の間には堀があり、内側に傾いているように立つ塀に沿って松が植えられていた。皐月はこれが平安時代の景色だとは思わなかった。歴史的景観の保全に力を注ぐ京都市の取り組みは確実に旅行者たちに届いていると思った。
通り沿いに九条大宮のバス停があった。皐月と比呂志が時刻表を見に行くと、202号系統が清水寺と祇園へ通じていることがわかった。
「次に京都へ旅行に来た時はバスでの移動も考えてみようかな」
「鉄オタの僕が言うのもなんだけど、移動を鉄道縛りにする必要はないよ。今回は修学旅行だから渋滞を避けてバスを利用しなかったけど」
「そうだね。バスの路線図も見ていて楽しいから、次はバス縛りにするのもいいかもしれない」
「藤城氏は極端だな。すぐに縛られたがる」
「藤城君はドMなんだよ」
千由紀の辛辣な冗談に真理がケラケラと笑った。
九条通りの車の往来を見ずに築地塀を見ながら堀沿いの歩道を歩いていると、気分は平安京エイリアンだな、と皐月はレトロゲームで遊んだことを思い出した。
「東寺の南大門って、平安京復元模型を見たら朱塗りの柱に白壁の、今まで見てきた楼門のような建物だったよ。でも実物は渋いお寺って感じだね」
真理は南大門を見て絵梨花に違和感を訴えた。
「今の南大門は桃山時代に建てられたものだから、装飾が派手なんだよ」
「桃山か……。ここは平安時代っぽくないんだね」
南大門の右横に「真言宗総本山 東寺」と彫られた大きな石碑が建っていて、その石碑の上に大きな鳥が止まっていた。
「何だ? あの鳥。写真を撮って検索してみよう」
スマホを持っていた秀真が画像検索をすると、どうやら青鷺らしい。皐月たち6人は誰も間近でこんなに大きな野生の鳥を見たことがなかった。みんなは京都の街中にこんな鳥がいることに驚いた。
「青鷺は縁起がいいって言われているみたいだよ。幸運の前兆だとか、蘇る命の象徴だとかネットに書いてある」
秀真が画像検索のついでにスピリチュアル的な意味を調べて、みんなに教えた。この青鷺は人に慣れているのか、悠々としていた。確かに見ていると幸せになれそうな気がするな、と皐月もその解釈に納得した。
「門のところにもう1羽いるよ」
千由紀の言葉で南大門を見ると、鳩たちと一緒に青鷺がいた。
「大きいね。近づくの、怖いな……」
「真理の方が怖いって、あいつは絶対にそう思うよ」
真理が犬を怖がっているのを皐月は知っていたが、青鷺まで怖いとは思わなかった。大きな動物が怖いのだろう。
「青鷺が襲ってきたらあんたを盾にするからね」
南大門は立派で大きかった。豊臣秀頼にって建てられた南大門は明治28年に三十三間堂の西大門を移築したものだ。
門柱に備え付けられた屋根付き提灯台には大きく「東寺」と書かれた提灯が下がっていた。この提灯は江戸時代っぽいが、仁王像があるはずの空間に鉄製の柵があり、このデザインが明治時代っぽい。
門をくぐると参拝客が数えるほどしかいなく、境内は広々としていた。目の前には金堂がどっしりと構えており、右手には五重塔が建っていた。落ち着いた空間なのに、皐月の心は昂ってきた。
「平安京復元模型によると、境内に廻廊があったんだよね。建物も朱塗りの柱に白壁だったけど、実際の建物は白木造りで、当時の様子とは全然違う。まあ、今の東寺も落ち着いていて、好きだけどさ」
真理は平安時代の貴族的な雰囲気が好きなのかな、と皐月は意外に思った。
「どの建物も一度は焼けているんだよね。五重塔なんか5代目だよ」
「うわ~っ。京都って治安が悪かったんだ」
金堂の手前には柵がめぐらされていた。柵の奥の伽藍と庭園は有料エリアだ。皐月はここの入場料を払えるよう、ぎりぎりの金額を残している。
6人は柵の前の欅の樹の下を通って左に回り、玉砂利の敷かれた広い楠の並木道へ入った。楠の並木が二重になっているこの参道のような空間は建物に近づくなと、遠まわしに訴えかけているようだ。
楠越しの右手には金堂と講堂があり、左手には築地塀に囲われた灌頂院と本坊がある。本坊には勅使門があり、天皇との関係を想起させる。
「なんだか近寄りがたい雰囲気があるね」
「そりゃ、俺や真理みたいなどこの誰だかわからない一般人なんて、東寺にしてみれば用のない人だからな。境内に入れてもらえるだけでもありがたいって思わなきゃ」
「へぇ~。皐月って意外に卑屈なことを考えるんだね」
「人を入れるかどうかは寺の自由だから、俺たち観光客はいつ出禁にされても文句は言えない。まあ、ありがたく拝観させてもらうよ」
皐月は東寺に神社では感じなかった疎外感を覚え、無邪気に楽しむことができないでいた。そんな雰囲気を感じたのか、真理は皐月から離れて絵梨花や千由紀のところへ行ってしまった。
一人になった皐月のもとに秀真と比呂志が寄ってきた。
「皐月、なんかピリピリしてない?」
「そう?」
「うん。岩原君もそう思うよね?」
「そーだね。藤城氏はちょっとイライラしているみたいだ。どうかしたの?」
話そうかどうか少し迷ったが、皐月は秀真や比呂志を友人と見込んで心の内を話すことにした。
「修学旅行の前に訪問先の歴史とか勉強してきたじゃん。で、実際に来てみると、知識を仕入れてきたおかげでやっぱり面白いんだよね。でも俺さ……どこに行っても何も感じないんだ」
「どういうこと?」
「神社やお寺に行っても、神や仏なんて何も感じない。歴史を勉強しても、本当かなって疑っちゃう。こんな気持ちで参拝するくらいなら、何の知識もない状態で雰囲気だけを感じていた方が幸せなんじゃないかって思うんだ」
皐月は話をしていて泣きそうになった。感情が昂ると涙が出るのは皐月が最も嫌っている悪い癖だ。
「何も感じないってことはないでしょ。絶対に皐月なりに何かを感じているって。だって清水寺や鴨川デルタで気持ちいいって言ってたじゃん。そういう感覚でいいんだよ。皐月は神仏に対する認識が間違っているのかもね」
秀真には狂信的なところがなく、どこか醒めているところもある。皐月は秀真がそんな感じなので付き合っていけると思っている。
「歴史を信じられないってのはわからないでもないけどね。歴史なんてその時の権力者にとって都合の悪いことは消されているはずだし。そのへんは物語だって割り切るしかないよね。矛盾や謎を追及するのはミステリー小説みたいで面白い。皐月だってそう思うだろ?」
皐月だって秀真のように折り合いを付ければいいことくらいはわかっている。まだそういうことができるほど大人じゃないことも自覚している。だが、言葉にできない不快感もある。
「藤城氏は鉄道を愛するようにオカルトを愛したらいいんじゃない? でもオカルトは鉄道と違って毒が強いよね」
「岩原君、いいことを言ったつもりなのかもしれないけど、意味分かんないよ」
「そう? 神谷氏も鉄道を愛したらわかるかもね。僕の言った言葉の深さが」
比呂志と秀真が笑い合っているのが皐月には救いだった。比呂志の言う通り、皐月は京都の寺社に来て初めて宗教や歴史の毒に触れたのかもしれないと思った。
皐月たち3人はいつの間にか楠の並木道を通り抜けていた。真理たち3人は男子よりも先に進んでいて、石畳の上を右に曲がって食堂を見ながら歩いていた。食堂は文字通り僧侶たちが食事をする食堂だったが、今は堂内で写経ができ、御朱印もいただける施設になっている。
食堂の向かいには夜叉神堂という小さなお堂が東西2棟ある。それぞれに雌雄の夜叉が祀られていて、案内板には東が雄夜叉(本地文殊菩薩)、西が雌夜叉(本地虚空蔵菩薩)が祀られているとある。当初は南大門の左右に祀られていたらしい。
夜叉は古代インドの鬼神で、男はヤクシャ、女はヤクシニーと呼ばれるクベーラ(毘沙門天)の眷属だ。かつて夜叉が南大門に祀られていたというのが興味深い。鬼に東寺を護らせていたとは、一体どういった神経だったのか。皐月は豊川稲荷で祀られている荼枳尼天を知って以来、夜叉女に魅かれている。
秀真と比呂志は賑やかな食堂へ行き、皐月は一人、誰もいない夜叉神堂の西の棟を見ていた。石畳側からはお堂の後ろしか見られない不思議な造りになっているので、ぐるりと表にまわって御堂を見た。閉じられた御堂の格子戸を見ながら、どうして夜叉が菩薩なのかを考えていると、背後から声を掛けられた。
「藤城君、外面如菩薩内心如夜叉って言葉、知ってる?」
振り向くと千由紀が立っていた。
「知らない。どんな字?」
千由紀は皐月の手を取って、掌に一文字ずつ読みながら指で漢字を書いた。全部で10文字もあったが、意味は難しくなさそうだ。
「見た目は菩薩のようでも、心は夜叉みたいだっていう意味であってる?」
「そう。読んで字の如し。女はそういうものなんだって仏典に書いてあるらしいよ。修行僧への戒めだったみたい。藤城君も気を付けてね」
千由紀は皐月から手を離した。千由紀の手に触れるのはこれが初めてだったので、皐月はドキドキしてしまった。千由紀はどうして自分にこんなことを言い出したのか。
「じゃあ、吉口さんも心は夜叉なの?」
「私は見た目も夜叉だけどね」
楽しそうに笑う千由紀は確かに身も心も夜叉に違いないと思った。だが皐月には千由紀の涼しげな目元と通った鼻筋が広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像に見えないこともなかった。しかしこのことは誰にも言えないな、と思った。
土産物屋があり、その一角が拝観受付所になっていた。観智院には参拝する時間がないので、東寺の伽藍と庭園に限定された安いほうのチケットを買って中に入った。
「あ~あ……失敗したかも……」
「どうしたの? 絵梨花ちゃん」
「この庭園がこんなにいいとは思わなかった。こんなの、いくら時間があっても足りない……」
「本当だね。ここなら一日いても飽きないかも」
東寺庭園は池泉回遊式庭園で、瓢箪池を中心に四季折々の変化を楽しめるよう様々な植物が植えられている。園のどこにいても五重塔が見られるので、季節を変えて何度でも来たくなる庭園だ。
班長の千由紀が五重塔までの先導を絵梨花に任せ、東寺に来ることを熱望していた絵梨花の好きなように庭園を鑑賞してもらうことにした。絵梨花は不二桜の右手を抜ける苑路を選んだ。
「東寺といったら空海だよね。空海が嵯峨天皇から東寺を下賜されて、初めて教王護国寺って呼ぶようになったんだ」
皐月は絵梨花の横を歩き、あらかじめ調べていたことを記憶を頼りに語り始めた。絵梨花の知っている内容かもしれないが、この時は無性に絵梨花に話したくなっていた。
空海は東寺を密教の奥義を師匠から弟子へ伝える道場にして、高野山を修行のための道場にした。また、空海は東寺で歴史上初めての一寺一宗のシステムを採用した。排他的に思えるが、これは「真を護るためにやるのだ」と弟子たちに宣言したと言われている。
「ミッキョウって何なの?」
音声だけでは真理でも意味がわかりにくかったようだ。皐月は真理に密教の説明をした。
密教とは秘密の教えのことで、教義を誰にでも別け隔てなく教えるものではなく、修行によって直接教えを授かった人だけに示す教えのことだ。
「秘密の教えか……なんか嫌な感じ」
「俺も真理と同じ。俺は密教ってよく知らないんだけど、なんか気に入らないんだよな」
絵梨花と秀真がびっくりした顔で皐月のことを見た。
「真言密教の根本道場で何言ってるんだろうね、俺。ごめん……ちょっと一人にさせて」
皐月はみんなから逃げるように駆け出した。とりあえず五重塔に向かって走り、塔の周りの広場の隅にあるベンチに腰掛けた。息が切れたので背もたれに寄りかかり、呼吸が落ち着くまで目を閉じていた。少し楽になったので目を開くと、空と五重塔だけが見えた。近くで見ると五重塔は大き過ぎて、美しいとは思えなかった。
残された5人は皐月の思いがけない言動に戸惑っていた。
「皐月はちょっと様子がおかしかったね。何か苛立っているっていうか……。まあ、皐月は情緒不安定なところがあるから」
皐月と幼馴染の真理は他の4人に比べて冷静だった。小さな頃からお互い慰め合って生きてきたので、メンタルの変調には慣れている。
「皐月は神仏や神社仏閣の歴史について勉強してきたことと、修学旅行で体験したことのズレを気にしていたよ」
「どういうこと? 神谷さん」
「皐月はね、神社やお寺に来てみても、神や仏を何も感じられないし、歴史を勉強しても信じられないって言ってた。知識と現実の差に失望したみたい」
秀真は自分にも思い当たる節があり、同じ体験をしたことがあるので皐月の気持ちが良くわかる。ただ、秀真は皐月のように疑問を持っても保留して、そういうものだと思うようにしている。秀真はそうして自分の心を守っている。皐月のように疑問に感じながら関心を持ち続ける姿を見ていると、壊れやしないかと心配になることがある。
「僕は藤城氏を見ていて、一緒に鉄道を見に行く時のような無邪気さがないなって感じた。僕の鉄道への愛情と違って、藤城氏の神社仏閣への関心は好きや楽しい以外の感情がいろいろある」
比呂志は自分が好きなこと以外に関心が薄いことを、皐月と付き合うようになって初めて気が付いた。皐月は学校の勉強もできるし、友達と馬鹿話もできる。女子とも仲が良くて、運動神経も悪くない。比呂志はそんな皐月に憧れているし、時に妬ましく思う時もある。
「私がさっき夜叉神堂で藤城君と話した時は祀られていた神様のことを考えていたのか、すごく集中していたよ」
千由紀は夜叉神堂で皐月を見た時の印象を言えなかった。皐月の手を取り、掌を指でなぞった時の胸の高まりは誰にも知られたくなかった。
「藤城さんの様子が変わったのって、私が伏見神寶神社で藤城さんを非難するような言い方をした時からだよね。あの後、藤城さんはいつもより優しく接してくれたけど、本当は傷ついていたんだ……」
絵梨花はすっかり悄気返っていた。絵梨花は自分の存在だけで周囲の女子を傷つけたことがあったので、言動だけは注意深くしてきたつもりだった。自分の言葉で人を傷つけるのは、豊川に引っ越してきて初めてのことだった。
「絵梨花ちゃん、それは気にし過ぎだよ。私なんかもっとひどいこと言ってるし、絵梨花ちゃんが言ったことなんて全然大したことないよ」
「そうかな……」
真理は皐月が人に言われた言葉で自分を責めたのを、あの時初めて見た。絵梨花の言う通り、皐月は絵梨花の言葉に相当堪えていたように見えた。真理は絵梨花を慰めてはいたが、それ以上に絵梨花の言葉が皐月を変えたことを意識させたくなかった。
「私、ちょっと皐月の様子を見てくる。絵梨花ちゃんたちは庭園を見ながら来て。せっかく東寺まで来たんだからさ、皐月の世話は私に任せて楽しんで来てよ。待ち合わせは五重塔の前ね」
そう言って真理は皐月のもとへ駆け出した。皐月の心配はしていないが、そばにいて、少しでも二人になれる時間を作りたかった。
ベンチに座って五重塔を見上げている皐月の隣に真理が座った。皐月は真理に反応を示さなかったので、真理から皐月に話しかけた。
「五重塔ってこんなに大きかったんだね。遠くから見ると美しいのに、こんなに近くで見ると全然美しくないね。凄いとは思うけど」
「こんなでかいもの建てちゃって、昔の人って何考えてたんだろうな。意味わかんね~」
「別にわかんなくたっていいでしょ。でも、こうして私たちが喜んで見ているんだから、五重塔を作った人たちは喜んでいるだろうね」
「アホか。死んだ人が喜んでいるわけねーじゃん」
皐月は五重塔だけを見て、真理の方を一切見ようとしなかった。
「じゃあ、五重塔を守ってきた東寺の人たちは観光客がお金を払って見に来てるんだから、いっぱい儲かっちゃって喜んでいるよ」
「拝観料なんかで維持費を賄えるわけねーだろ。バカ」
「なによ! さっきから感じ悪いなー」
「あ……ごめん」
この時、初めて皐月が真理の顔を見た。いたずらがバレた時のような顔をしていた。
「まあ、いいけどさ……。それよりみんな心配していたよ。皐月が一人になりたいって言い出したから」
「もう大丈夫だよ。落ち着いた」
「そう? ならいいけど」
真理から見て、確かに皐月は落ち着きを取り戻したようだった。無理に平静を装っているようにも見えなかった。
「真理ってさ、神とか仏とか信じてる?」
皐月は真剣な顔をしていた。真理は皐月が何かに集中している時に真剣な顔になることを知っているが、その顔を自分に向けられるとは思わなかった。
「神社で御守を買ったよ」
「じゃあ、信じてるってこと?」
「さあ……。たぶん信じているんだと思うけど。でも、神様なんて人によって捉え方が違うでしょ。少なくとも私は皐月の信じている神様は信じていない」
「なんだよ、それ……」
「あと、神社で祀られているような、昔の知らない人たちが信じていた神様も信じていない」
皐月は二度も信じていないと言われ、黙り込んでしまった。返す言葉がなかった。
「人は誰でも神様に対する認識が違うんだから、皐月もあまり神経質にならなくてもいいよ」
真理は秀真が「皐月は神仏に対する認識が間違っているのかもね」と言ったのを聞き、皐月のことをよくわかっているなと感心した。幼馴染では友達には勝てないし、恋人になっても勝てないところがある。
「ありがとう。俺、ちょっと考え方が独りよがりになっていたみたいだ」
皐月が爽やかな顔で微笑んだ。真理も頬笑みを返すと、皐月は少しはにかんだように頬を赤く染めた。後ろに伸びをして身体を支えている皐月の手に、真理はそっと手を重ねた。
「私ね、皐月が神社やお寺の話をしてくれたの、すごく楽しかったよ。皐月のお陰でそういう方面にも興味が出てきた。皐月もオカルトのことを気楽に楽しめたらいいね」
「そうだね」
瓢箪池を右から回ってきた絵梨花たち4人の姿が遠くに見えた。真理は重ねた手を離し、ベンチから立ち上がった。
「皐月、みんなを迎えに行くよ」
「おう」
真理と皐月は手を振って、絵梨花たちに向かって走り出した。絵梨花たちも皐月たちに向かって駆け寄って来た。6人は五重塔の基壇の前で再会した。
「ごめん。みんなに心配かけたみたいだな」
「瓢箪池越しに見る五重塔は良かったよ。皐月も見てくる?」
「いや、俺はいい。また東寺に来るから。それより先を急ごうぜ。仏像を見る時間がなくなっちゃう」
この日、五重塔の初層の内部は拝観できなかったので、内観できる金堂に向けて皐月たち6人は歩き出した。五重塔を背にして金堂に向かっていると、皐月はみんなと一緒に時間旅行をしているような不思議な感覚になっていた。東寺にいることが急に楽しくなってきた。