不気味な友だち (皐月物語 5)
家の方角が違う藤城皐月と入屋千智は校門前で別れた。
皐月は水道水を飲んだだけでは物足りなかったので、コンビニか駄菓子屋で何かを買って飲もうと思った。ここから最も近いのはコンビニだが、寄り道をしようとすると家を通り過ぎてしまう。お店ではないが、もっと近くに検番があることを思い出し、ちょっと寄っていこうと思った。
検番とは芸妓衆に仕事を手配する事務所であり、芸事の稽古場でもある場所だ。豊川の検番は所属する芸妓の子供の面倒もみてくれる託児所の役割も果たしていた。
皐月や幼馴染の栗林真理は小さい頃によく検番の世話になっていた。検番に来ていた芸妓たちも気が向けば皐月や真理の遊び相手になってくれた。皐月はここで花札と女の人に甘えることを覚えた。
芸妓組合の組合長は皐月が6年生になった今でも、検番に遊びに行くと温かく迎え入れてくれる。学校帰りに立ち寄れば、いつもおやつや飲み物をくれる。
皐月が学校帰りに毎日のように検番へ寄り道をしていたのは低学年の頃までだった。母の百合(芸名)はよく長唄や舞踊の稽古をしていたので、寂しい時は検番に行けば母に会えた。
その頃の皐月は母に会いたい一心で検番に立ち寄っていたが、やがて小遣いをもらいに検番に行っていた。検番の組合長や芸妓たちからはちゃっかりしていると思われていただろう。だがこの行動は母に会いたい気持ちを隠すためにわざと悪ぶっていただけだった。
皐月はスマホを持たされるようになった。すると、世界が広がるにつれて寂しさが薄れてきて、今ではめったに検番には立ち寄らなくなっていた。
この日、皐月が検番に立ち寄ろうと思ったのは暑くて何か飲み物をもらおうという理由だけではない。家に引っ越してくる新弟子のことや、彼女の娘が芸妓になるのかどうかということを知りたかったからだ。
通学路は車も通れない細い路地になっている。営業していない料亭やバー、旅館などの廃墟が解体されず残っており、昼ですら退廃的な感じがする。そんなうらぶれた路地裏に検番の勝手口がある。
「なんで入屋と一緒にいたの?」
「うわっ!」
背後からいきなり声を掛けられた。考え事をしていて上の空になっていたので、彼が近づいていたことにまるで気が付かなかった。
「なんだ、ブキミか。びっくりしたな~。今日も全然気づかなかったわ」
「ねえ、皐月君って入屋と仲いいの?」
ブキミとはあだ名で、イントネーションは科学と同じ。彼の名前は月花直紀。直紀は気配を消していきなり現れてくるのが不気味だからブキミと呼ばれるようになった。直紀はブキミと呼ばれることを面白がっている。
「うん。まあ仲はいいかな」
「マジで? だって入屋って男子と全然話さんよ。男嫌いだって噂だし」
「情報詳しいな。なんでお前がそんなこと知ってんだよ?」
「同じクラスだからね」
「ああ、そっか」
「それよりなんで皐月君と入屋は仲がいいの?」
「ちょっと学校で話したことがあってさ。その時から友だちになったんだ」
直紀には本当のことを言えなかった。泳ぎの下手な千智のプライドを守らなければならないし、水着の女子と一緒にいたことを直紀に知られると、からかわれそうだから隠しておきたい。
「なんかよくわかんないや。入屋ってさ、すげぇモテんだよ。クラスの男子のほとんどがあいつのこと好きなんじゃないかな」
「じゃあブキミもあの子のこと好きなんだ」
「俺は別に好きじゃないけどさ……でも結構いいなって」
「かわいいし、性格もいいよね。俺もいいなって思うよ」
「げっ! 皐月君ズルい。入屋と喋れる分だけ有利じゃん」
「何わけわかんないこと言ってんだよ。お前はあの子と同じクラスなんだから、いつだって喋れるだろ?」
直紀には千智とSNSで繋がっているなんて口が裂けても言えない。皐月は直紀にライバル視されてしまったようだ。
「兄貴がさ、皐月君のそういうレベルの高い女子と仲良いところにヤキモチを焼いてるんだよね。やっと意味がわかった」
直紀の兄の月花博紀は皐月と同じクラスで、千智に話したアイドルみたいな奴だ。
目の大きなイケメンで、タレントのオーディションを受ければ合格しそうなルックスだ。運動神経抜群で足が速く、校外のサッカーのクラブに入って活躍している。
勉強も男子の中では皐月に次ぐ成績だ。先生からの受けもよく、学級委員を務めている。皐月でさえ女子が騒ぐのも無理はないと思う。博紀にはファンクラブまであり、アイドルに憧れがある皐月は博紀のことを羨ましいと思っている。
性格も温厚な博紀だが、皐月に対しては冷淡なところがある。それは他人から見ても全然わからないレベルの些細なことだが、皐月には博紀の棘のある態度にムカつくことが多い。
ただ、どうして博紀が自分にだけ冷たい態度をとるのかがわからなかった。だが、今の直紀の言葉でおおよその察しがついた。
「ブキミってさ、俺が入屋さんと仲がいいと、俺のこと嫌いになっちゃうわけ?」
「別に嫌いになんかならないけどさぁ……正直面白くないかも」
「俺からしたらさ、あんなかわいい子と同じクラスのブキミに嫉妬しちゃうんだけどな~」
「皐月君って入屋と付き合ってるの?」
「付き合ってねえよ。まだそんなに仲がいいってわけでもないし」
仲がいいわけじゃないってのは嘘で、すでに仲良くなっている。どうやら直紀には一緒にバスケをしていたところは見られていなかったらしい。
「そうだよね。兄貴が言ってたけど、皐月君って筒井って子と仲がいいんだよね。お似合いだって」
「何だよ、お似合いって。筒井とは席が隣同士だから、仲良くなるに決まってんじゃん。それよりさ、博紀ってそんなことまでお前に話してんの? 信じられん……」
検番の勝手口の前で皐月と直紀は別れた。直紀はこれから塾の夏期講習だ。
直紀は博紀に何もかも劣っているが、卑屈にならずに兄を自慢に思っているところに好感が持てる。皐月は博紀と二人で遊ぶことはほとんどないが、直紀とはよくつるんで、いろいろなところに遊びに行っている。
直紀は芸妓がいる検番のことを甘美な大人の世界だと思っているらしい。そんな場所に出入りしている皐月に憧憬の念を抱いているようだ。
皐月は芸妓なんてガサツな人ばかりだと思っているけれど、直紀の美しい誤解をそのままにしておいてやりたいと思った。