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芸妓の子、皐月 (皐月物語 1)

 藤城皐月ふじしろさつき芸妓げいこ百合ゆりのもとに生まれた。
 生家は愛知の豊川稲荷の表参道の裏通りにあった。料亭や小料理屋やバーが並ぶ車も通れない小径から、さらに脇に入る細い道のどん詰まりに隠れるように建っていた家だ。二部屋しかない小さな一軒家で、皐月は母とほぼ二人で慎ましく暮らしていた。ちなみにその建物は今ではもう廃屋になっている。
 皐月の父親はあまり家に寄りつかない男だった。たまに家に帰ってきても殴られた思い出くらいしかなく、皐月にとって父親は恐怖の対象でしかなかった。百合は芸妓の師匠の和泉いずみを頼り、父親が家に帰ってくる日には皐月を和泉の家で寝泊まりさせるようになった。和泉はもう年配なのでお座敷に呼ばれることは滅多になかった。和泉の家は泉寮という置屋おきやで、百合の家からすぐ近くにあり、まだ歩けない皐月が這ってでもいけるところだった。
 泉寮には若い富美佳ふみかという芸妓が一人住み込んでいた。皐月は和泉と富美佳の二人によく可愛がられた。富美佳は明るく大雑把な人で、陰のある百合とは対象的な女性だった。百合はそんな富美佳に憧れていたので、安心して皐月を泉寮に預けられた。
 家が近かったこともあり、離婚が成立して父親が家を出ると、百合はすぐに皐月を迎えに来た。環境の変化にうまく対応できなかった皐月は寂しくて泣くことも時にはあったが、あまり手のかからない子だった。

 皐月が物心がついた頃になると、藤城家は生家からかつて旅館だった大きな家に引っ越していた。そこで母は小百合さゆり寮という置屋を始めていた。離婚して親権を手放した父が小百合寮に父が来ることはなかった。
 小百合寮では離れて暮らしていた祖母が同居するようになった。また、若い弟子を取り、寮に住み込んでもらった。置屋を立ち上げてからの百合は以前にも増して芸妓の仕事を増やしていたので、子育てに十分な時間をかけられなかった。
 祖母はあまり母性のない人だったので熱心に皐月の面倒を見てくれなかった。だが、新弟子の寿美すみはまだ馴染み客のいなかったので、百合よりも暇が多かった。寿美が子供好きだったので、皐月はとても可愛がられた。寿美のサバサバした性格も皐月の教育にいい影響を与えてくれたようだ。

 年に一度、芸妓組合の団体旅行があり、皐月も毎年必ず一緒に連れて行ってもらっていた。寿美や富美佳だけでなく、よその華やかな芸妓のお姉さん方にも可愛がってもらえた。それでも同じ年頃の子供がいないと、やはり皐月にはそれほど楽しいものではなかった。ただ新幹線に乗っている時だけは目を輝かせていて、この時の体験がきっかけで皐月は鉄道好きな男の子になった。
 皐月が保育園に預けられるようになった年の旅行の時、皐月と同じ年の子が連れてこられた。その子はりんという新人の芸妓の子で、真理という名の同じ年の女の子だった。皐月は男の子だったが、女の子の真理とはすぐに仲良くなれた。

 百合の本名は藤城小百合ふじしろさゆり、凛は栗林凛子くりばやしりんこという。芸妓は名前の一部を取って芸名にしている人が多かった。
 二人は同じシングルマザーだった。境遇が似ている母親同士は同じ年の子どもを持つ者同士、自然に仲が良くなった。両家は家族付き合いをするようになり、お互いに頼り合う関係になった。
 凛にお座敷が入るといつも真理は皐月の家に預けられるようになった。これでは凛が百合に頼ってばかりのように思えるが、いつも祖母と二人でいる皐月が寂しそうにしているのを見て、百合は心を痛めていた。少しでも家が賑やかになればいいと思い、真理を家で預からせてくれと百合から凛にお願いしたくらいだ。百合は凛に小百合寮に移籍して住み込むように勧めたが、凛には恋人がいたのでアパート暮らしを続けたいと言われた。

 皐月も真理もひとりっ子だったせいか、真理が小百合寮に預けられた時はいつも嬉しくなって、寝る時間までずっと二人で遊んでいた。真理は凛のお座敷がない日でも小百合寮に泊まりたいと言い出すようになり、凛を寂しがらせた。時には凛が皐月を家に呼び、真理と一緒に夕食を食べさせたりした。狭い部屋を凛は気にしていたが、皐月は部屋数ばかり多い小百合寮に比べて和んでいた。赤ん坊の頃に住んでいた小さな家の記憶が作用していたのかもしれない。
 凛は百合に皐月の髪を伸ばすように勧めた。爽やかな短髪が良く似合う皐月だったが、長髪の方が中性的になって可愛いと熱く語るのは完全に凛の趣味だった。家で真理と皐月にウィッグをつけて遊んでいた姿が良く似合っていたのだ。
 皐月も髪を伸ばしたいと言ったのは凛の教育の成果だった。皐月がいいと言うなら仕方がないと百合はしぶしぶ長髪を認めたが、髪が伸びるにつれこれはこれで可愛いかもと喜んだ。

 皐月と真理は同じ小学校に通うことになった。小学校へは同じ町内の通学班で分かれて集団登校をする決まりになっていた。同じ町内の中でも二人は住んでいる地域が違うので別々の通学班になり、一緒に通学することはできなかった。
 皐月は家から離れた保育園に通っていたので、同じ通学班の子たちとは初対面だった。家では真理とばかり遊んでいたせいか、同じ班の男の子たちになかなか馴染めなかった。少し上の上級生からは髪の長いことを女みたいだとからかわれ、泣かされたこともあった。それでも時が経つにつれ、真理ほどの親近感は持てないけれど、それなりに近所の子たちと仲良くやっていけるようになった。
 小学4年生になると皐月の祖母が身体を壊し、亡くなった。これでもう小百合寮では真理を預かることができなくなってしまった。
 百合と凛は百合の師匠である泉寮の和泉に子供を預かってもらうことになった。しかし弟子筋である百合はともかく、何の縁もない凛は和泉に真理を預けることにためらいを感じていた。
 凛は恋人の支援を受け、駅前にマンションを購入し、セキュリティーに子供を任せるという選択をした。そして真理を家から遠く、拘束時間の長い中学受験塾に通わせることにした。真理が一人になる時間の多くを塾に任せるという目論見があったことは否定できない。だが男に頼らなければ家一つ買えなかった自身の身の上を鑑みて、真理には男に頼らなくても生きていける自立した女性に育ってほしいという凛の願いが塾通いには込められていた。

 小百合寮に住み込んでいた寿美が馴染みになった客と結婚するというので寮を出ることになった。そうなると百合にお座敷が入った日は、家に皐月が一人になってしまう。百合は仕事を減らして家にいる時間を増やそうと思ったが、お座敷を減らしたところで皐月が一人になる時間をなくすことはできない。家政婦を雇おうと思ったが、和泉がうちで預かるから心配するなと言ってくれた。家政婦に払うお金を考えると和泉の心遣いがありがたかった。百合のお座敷のある時は和泉の家に皐月を寝泊りさせることになった。
 家が近いとはいえ、皐月にとって週の過半を他人の家で暮らすことは初めての経験だった。晩御飯のお世話になるだけなら皐月も気にならなかったが、和泉と過ごす時間が長くなるにつれて遠慮する気持ちが芽生え始めた。
 皐月は泉寮の二階の三部屋を全て自由に使わせてもらえた。だが自分の部屋を与えられたところで、心から伸び伸びとすることができなかった。部屋が広々としていることがかえって皐月を寂しい気持ちにさせた。
 寂しさを紛らわせるため、百合が皐月にスマホを買い与えた。漫画やゲームを買うお金も糸目を付けずにもらえるようになり、皐月はひたすらそれらにのめり込んだ。
 皐月は小学5年生になった。家庭科の調理実習で料理の仕方を覚えると、和泉の家でも料理を手伝うようになった。和泉は感心して褒めてくれたが、これは皐月が実家に戻って一人でも暮らしていけるための練習のつもりだった。
 小学校でスマホの持ち込みが条件付きで容認されるようになったのをきっかけに、皐月は家に戻りたいと和泉と母に願い出た。スマホのアプリで今日あった出来事をマメに送ること、自分に何かあったとしても GPS 機能がついているのでどこにいるかすぐにわかること、寂しかったらいつでもビデオ通話で話ができること。これらのメリットを材料に皐月は必死で母を説得した。
 百合は夜が遅くても必ず帰宅する。和泉の家に皐月を預けておくよりも、家に戻す方が自分が寂しくないと判断した。そしてついに皐月は家に戻ることができた。ただし、夕食だけは今まで通り和泉の家でお世話になることが条件だった。



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