修学旅行、下鴨神社と御手洗池の水みくじ(皐月物語 138)
相生社で参拝を終えた藤城皐月は下鴨神社(賀茂御祖神社)の楼門を視た。この日は清水寺仁王門、八坂神社西楼門と見てきたが、どちらも朱塗りの立派な門で美しかった。そして下鴨神社楼門もそれらに引けを取らない威容を誇っていた。
下鴨神社楼門は檜皮葺入母屋造で東西に廻廊があり、古代様式を伝えているという。瑞垣や玉垣と違い、廻廊は神域を取り囲むように廊下を巡らせている。下鴨神社の廻廊は飛鳥時代の寺院とは違い、境内を囲んでいるわけではない。
皐月たちの通う豊川市の稲荷小学校では社会見学で三河国分尼寺跡に行った。そこで皐月たちは国分尼寺の復元された中門や回廊を見ている。修学旅行で下鴨神社に来る前に、あらかじめ天平時代の国分尼寺を見ていたせいだろうか、皐月は下鴨神社楼門を見ても感動より懐かしさを感じた。
皐月はここまで清水寺や八坂神社を見て来たせいだろうか、下鴨神社にある種の飽きのようなものを感じていた。美的情操が京都の色に染まり、歓びの感情が麻痺しているようだ。
楼門をくぐると、目の前の舞殿が視界を遮った。下鴨神社の舞殿が地味に見えるのは八坂神社の舞殿が華やかだったためだ。葵祭の時には勅使が御祭文を奏上し、東游が奉納される。この舞殿は華やかな舞台になるのを静かに待っている。
「なんだか小ぢんまりとしているね」
栗林真理が期待外れだったことを感じさせる口調で言った。
「八坂神社や清水寺のような華やかさはないけど、落ち着いた感じだよね」
吉口千由紀の言葉にも少し失望の色が感じられた。
「写真で見るよりも普通の神社って感じがするのはどうしてなんだろう……」
二橋絵梨花まで当てが外れたようなことを言い出した。
「写真はカメラマンの腕がいいんだよ。綺麗なところだけを切り取ったり、焦点距離を変えたり、加工したり色々できるじゃん」
皐月は神社仏閣に慣れ始めた自分を少し責めていたが、慣れていたのは自分だけじゃなかったことに、なんだか安心した。
皐月たちは舞殿と神服殿の間を抜けて中門の前に来た。参拝者はここから入り、幣殿まで行く。
「門の中に門があって、まるでマトリョーシカみたいだな」
皐月が軽い息苦しさを感じながら中門をくぐると、正面に社殿を直視できなくするように蕃塀が立ち塞がっていた。なんだか自分のことを不浄なもののように扱われているようで、少し寂しかった。
「小さな神社がたくさんあって、狭く感じるね」
皐月も真理のように圧迫感を感じた。蕃塀を左に進むと、言社という干支の守護神を祀る社が7社ある。
「これ、全部大国主命が祀られているだよ」
「えっ? なんで別々に祀られてるの? 分ける必要ってある?」
「わからん。大国主命って呼び名が7つもあるんだって。それで、それぞれの社に別名で祀られている」
「別名っていうけど、本当は別々の神様なんじゃないの?」
「そうかもしれないし、違うかもしれない。俺、神様の別名って何かを誤魔化しているような感じがして嫌なんだ」
「へぇ~。皐月のそういうところって、神谷君とは違うんだね」
皐月はオカルト好きの神谷秀真の影響で神社に興味を持つようになった。だが、皐月は秀真ほど素直に神を信じたりできないし、のめり込むこともできない。それは皐月には神道でいう神というものが一体何なのかわからないからだ。いろいろな説明を読んでも納得をしたことがなかった。
神社の本殿の前には拝殿がある。だが下鴨神社には拝殿がなく、いきなり幣殿になっている。
拝殿は参拝者が拝礼をする建物で、本殿は御祭神や御神体が祀られている建物だ。幣殿は祭典の際に神饌をお供えし、祝詞を奏上する建物で、拝殿と本殿の間にある。下鴨神社では幣殿が実質的な拝殿となっている。
皐月たちは幣殿の屋根の起りになっている軒唐破風の所で参拝をした。幣殿の奥に本殿が少しだけ見えた。左側の西本殿の祭神が賀茂建角身命で、右側の東本殿の祭神が玉依媛命だ。
「ねえ、藤城さん。ここで祀られている賀茂建角身命と玉依媛命ってどんな神様なの?」
絵梨花が祭神のことを聞いてきた。事前学習では下鴨神社の起源について調べたが、祭神までは手が回らなかった。皐月と秀真は当日現地で説明すればいいと考えていたが、皐月はこの役割を秀真にやってもらおうと思っていた。一度深呼吸をして、まずは教科書的な説明をした。絵梨花たちの反応を見ながら情報の深度を深めていこうと思った。
「一言で言うと、ここには八咫烏が祀られているんだ」
西本殿に祀られている賀茂建角身命は東本殿に祀られている玉依媛命の父であること。賀茂建角身命には別名があり、八咫烏、あるいは金鵄ということ。八咫烏は初代天皇となる神倭伊波礼毘古命(神武天皇)が日向国を発ち、大和国の長髄彦を滅ぼす際に、熊野国から大和国への道案内をした、という神武東征の話をした。
「初代天皇なんて学校で習っていないよね?」
「宮崎から来て奈良を侵略した人間が初代天皇だなんて、この国のお偉いさんたちは教えたくないんだろうな。こんなの中学受験には出ないから、安心していいぞ、真理」
また、賀茂建角身命は山城の賀茂氏(賀茂県主)や葛城国造の始祖でもあることも話した。
「なんで烏が鴨になったの?」
皐月は真理の着眼点に驚いた。言われてみればその通りだ。単純に鳥の話だとは思わない方がいいのかもしれない。
「さあ? 烏が鴨と結婚して鴨になったのかもね」
「皐月……それ、つまんない」
皐月たちが中門を出ようとすると、神谷秀真と岩原比呂志がやって来た。
「あっ! 皐月たち、今出ていくところ?」
「だいぶ追いついて来たな、秀真。俺たち、御手洗池の辺りにいるから」
「わかった。すぐそっちに行くから」
中門を出た皐月たちは左へ進み、御祈祷・御朱印受付所のところをさらに左に入った。右手に見える梅の枝越しに御手洗川にかかる輪橋が見えた。朱塗りの太鼓橋の袂には注連縄が張られて渡れないようになっているが、渡った先には朱塗りの明神鳥居が立っている。結界の張られたこの輪橋は神のための橋だということを参拝者に示している。
「尾形光琳ってここの梅を描いたんだ。へぇ~」
「二橋さん、それって金屏風の真ん中に川が描かれていて、その両岸に紅白の梅が描かれているやつ?」
「そうそう。吉口さん、知ってるんだ」
「うん。最近ちょっと絵画に興味を持ち始めたから、たまたま知ってた」
絵梨花と千由紀が話していたのは江戸中期の絵師・尾形光琳の最高傑作と言われる『紅白梅図屏風』のことだ。皐月と真理はスマホで画像検索してみた。
「この絵、見たことある。川の真ん中が繋がっていないから、印象に残ってた」
「これって屏風だから、曲げて立てたらいい感じに見えるんじゃない?」
画像検索の結果を渉猟していると、美術館に展示されている『紅白梅図屏風』を見つけた。平らに広げていると連続していなかった川が見事に繋がっていた。真理の言った通りだ。
「屏風絵なんて、広げて見ちゃダメだな。ちゃんと立てかけて見ないと」
下鴨神社の画像検索をすると、輪橋まわりの写真がたくさんあった。皐月は一人でいろいろな角度から輪橋を見てみた。だが、なかなか写真のように煌びやかには見えなかった。指でフレームを作って見てみたが、自分の思い描いているような景色には見えなかった。
「何してるの?」
女子は3人ともみたらし授与所へ水みくじを買いに行っているのかと思っていたが、絵梨花がすぐそばにいた。
「いや……ネットで見るこの辺の写真はすごく綺麗なんだけど、実際この目で見るとなんか違うなって思って」
「それは写真を撮る人が上手なだけだよ。それに美しく見える季節だってあるんだし。藤城さんも私と同じことを感じていたんだね」
皐月は絵梨花にさっき言った言葉を言い返されてしまった。だが、絵梨花に共感してもらえたことが嬉しかった。
「うん。美しい物を見ようと思ったら、情報量を削るってことも大事なんだなって思った。意外にも広い視野が邪魔になった」
「そうだね……。藤城さんも授与所に行こっ! 私たち、ここで買い物するのを楽しみにしていたんだから」
絵梨花に手を引っ張られてみたらし授与所へ連れて行かれた。皐月が絵梨花と手を繋ぐのはこれで二度目だ。前は皐月から絵梨花の手を取った。あの時は真理から隠れるために絵梨花の手を引いた。
皐月は真理や千由紀の目を気にして手を離したが、本心ではこのままずっと絵梨花と繋いでいたいと思っていた。絵梨花は残念そうな顔をしたが、すぐにいつもの笑顔に戻った。いつか絵梨花と二人で京都をまわってみたいと思った。
真理と千由紀はみたらし授与所で目を輝かせていた。店内は御守や御神籤だけを売っているのかと思っていたら、開運グッズのセレクトショップのような品揃えをしていた。
千由紀は和菓子のようなものを手に取っていた。傍に寄って見てみると、それは「置きお香」という、ちりめん細工で出来た和菓子のようなお香だった。火を使わなくていいから安全だし、見た目が可愛い。千由紀は赤い毬の形をした置きお香を授与してもらった。
「私はどれにしようかな」
真理が手に取ったのは竹で編まれた籠に入った、紅葉の形をした琥珀糖だった。シャリッとした食感と音が人気だという。この琥珀糖は透明感があって、宝石のように綺麗だ。真理は紅葉の琥珀糖を授与してもらった。
絵梨花はストラップを見ていた。これは「ぽっくり根付」といって、舞妓さんの履き物のぽっくりのような玉が二つ付いていた。色鮮やかな組紐に宝石のような玉のついた上品な根付で、とても可愛らしい。絵梨花はぽっくり根付を授与してもらった。
「ねえ、絵梨花ちゃん。これってどう? 受験に御利益がありそうじゃない?」
真理が指し示したのは「小田巻キーホルダー」という京組紐をキーホルダーにしたものだった。
この商品には説明書きの上に手作りのポップが添付されていて、そこには「オダマキの花言葉は『勝利への決意』です。試験や試合などの勝負事にぴったりですよ!」と書かれていた。
「小田巻って花なの?」
「小田巻は伝統工芸だよ。京組紐の証紙がついているから。掛け言葉じゃないかな?」
真理と絵梨花が迷っている間に、皐月はオダマキの花言葉をスマホで調べ始めた。花言葉がある以上、オダマキという植物があるはずだ。調べて見るとガーデニング愛好家の間で人気のある花らしい。
「花言葉はこのポップに書いてある通りだ。でも、色によって花言葉が違うみたいだから、気を付けないと。紫色の花言葉が『勝利への決意』で、赤色の花言葉が『心配』、白色の花言葉が『気がかり』なんだって。花言葉を気にするなら、紫に似ている青一択かな……」
真理と絵梨花が顔を見合わせて黙り込んだ。ここに紫色の小田巻キーホルダーはない。真理は皐月の言うように、青を買おうか迷っていた。千由紀が赤のキーホルダーを手に取った。
「別に花言葉なんて気にしなくてもいいんじゃない? だって、これは植物の苧環じゃなくて、伝統工芸の小田巻だよ。私、この赤の小田巻を買おうかな」
皐月は色ごとの花言葉を単純化して話し、深掘りした解釈は省略していた。赤の花言葉の「心配」には愛する人への気遣いや心配を表現していて、その強烈な感情が「心配」という花言葉に繋がっているという。千由紀がこの意味を知っているとは思わないが、なんとなく千由紀らしい選択だと思った。
結局、真理と絵梨花は青色を、千由紀は赤色の小田巻キーホルダを授与してもらった。その後、水みくじを授与してもらい、女子3人は御手洗池へ行った。御手洗池は禊祓の斎場で、葵祭に先立って斎王代が御禊の儀に臨む所だ。
皐月は授与所の前にある緋毛氈の敷かれた床几に腰を掛け、赤い野点傘の日陰で苧環の花言葉をもう少し調べた。すると、青い苧環の花言葉を解説している別のサイトを見つけた。
そこで皐月は青い苧環の花言葉も「勝利への決意」であることを確認したが、他にもう一つの意味があることを知った。それは「捨てられた恋人」だ。浮気をした人間には角が生えるという伝承があり、苧環の花がこの浮気者に生えてくる角の形に似ていることから「捨てられた恋人」という花言葉がつけられたという。
皐月はこの寓意に震えた。皐月は好きな女がたくさんいるくせに、真理の恋人は自分だと思っている。花言葉を予言的に解釈するならば、真理は自分に捨てられることになる。皐月は自分のことを、多くの女性を好きになっても浮気者だとは考えたことがなかった。
小田巻は結びの始まりと終わりが見えないことから、「物事が永遠に続く」という意味合いがある。皐月はそのことも今ここで調べて知った。小田巻に苧環はこじ付けなので、信じるべきは小田巻そのものの解釈の方だ。
皐月は自分の考え方が非常識だということを自覚している。だが、この小田巻の解釈を見つけて勇気を持てた。好きになった人とは永遠に関係を続けたい……皐月はこの身勝手と思われても仕方のない考えをこの先も貫いてやろうと思った。
皐月が床几台から立ち上がると、輪橋の方から秀真と比呂志がやって来るのが見えた。皐月も秀真たちの方へ向かって歩いて出迎えた。
「お疲れ。やっと追い付いたな」
「皐月に女子のこと任せちゃって悪かったな。どうだった?」
「八咫烏の説明はしておいたよ。踏み込んだ説明はしなかったけどね。ただ……」
「ただ?」
秀真に聞いてもわからないと思い、皐月は言うのを躊躇した。
「どうして烏が鴨になったのかって真理に聞かれた。俺、何も答えられなかったよ」
「烏が鴨にか……深いな。こんなの、調べたってわからないかもしれない……」
秀真が考え込んでいると、比呂志が声をかけた。
「神谷氏、御神籤やるって言ってたよね?」
「あっ、そうだった。ちょっと買ってくる」
秀真がみたらし授与所へ向かったので、皐月と比呂志は女子たちのいる御手洗池へ向かった。
「岩原氏は御神籤引かなくてもいいの?」
「僕はもう、お金に余裕がないんだ。グッズを買い過ぎた」
「俺と一緒じゃん。御神籤すら買えね~。岩原氏は秀真に付き合って神社をまわってたけど、楽しかったの?」
「思ったよりも楽しかった。まるで乗り鉄で、全線乗り潰しに挑戦しているみたいな感覚だった。日本中の全部の神社に行こうと思ったら、全線全駅乗下車を達成するよりも難しいだろうな」
「神社は山奥とか山頂とか、秘境にたくさんあるからな……。それこそ日本中の山に登らなきゃいけなくなるから、登山家じゃなきゃ無理だ」
御手洗池では真理たち女子3人が一般の参拝客に交じって水みくじの結果を見ながら談笑していた。皐月は青い苧環の花言葉の「捨てられた恋人」が気になっていたので、真理の御神籤を見てみたかった。
「御神籤の結果、どうだった?」
「そんなの秘密に決まってるでしょ」
「なんだよ、ケチ」
「二橋さんも秘密?」
「ふふっ、私も秘密~」
「じゃあ、やっぱり吉口さんも?」
「うん」
御手洗池は汀が整備されている。池の底はコンクリートで固められていて、葺石が施されている。かつては地下水を水源とした自然の池だったが、賀茂川や高野川に護岸が設けられているため水量が減ってしまった。今ではポンプで水を汲み上げている。
土用の丑の日には「御手洗祭」という、この池の清水に足をつける「足つけ神事」が執り行われる。この日の参拝客は御手洗祭でなくても裸足で御手洗池に入って心身を清めたり、水遊びをしていた。
皐月たちが御手洗池で写真を撮っていると、秀真が小走りでやって来た。妙に嬉しそうな顔をしていた。
「さて、僕も水みくじをやろうかな」
秀真は汀の葺石にしゃがみ込み、水みくじの紙をそっと水に浸した。すると、特殊なインクでアクアフィック印刷された大きな文字がくっきりと浮かび上がってきた。片艶晒クラフト紙は丈夫にできているが、それでも紙が破れないよう、秀真は優しく水みくじを引き上げた。
「小吉か……上から3番目だな。まあ、普通か」
御神籤の運勢の吉凶の順序は一般的に「大吉→中吉→小吉→吉→末吉→凶→大凶」となっている。神社やお寺によっては順位が変わることもあるらしい。
「なあ、ちょっと見せろよ」
「いいよ。ほれ」
秀真から濡れた水みくじを受け取ると、皐月の後ろに比呂志や真理たちも集まって来た。
「そんなにみんなでジロジロ見るなよ。大したこと書いていないから」
皐月は素早く双葉葵の枠の中に書かれた恋愛の項目に目を走らせた。すると見てはならないものを見てしまった。そこには「片思いあきらめよ」と書かれてあった。
「旅行、いいじゃん。『えん方に行くも楽しくすごせる』って」
皐月はあえて恋愛の話題を避けた。秀真の片思いの相手は恐らく、今この場にいる栗林真理か、同じクラスの筒井美耶だ。あるいは真理と一緒にいる二橋絵梨花という線も考えられる。6年4組で絵梨花のことを好きにならない奴なんていないからだ。絵梨花はそれくらい男子の間で人気がある。
「御神籤に書いてある通り、修学旅行は楽しく過ごしているよ。ちょっと御神籤を木に結んでくるね」
秀真は井上社(御手洗社)に手を合わせた後、すぐ隣にある結び所の糸に御神籤を結び、一人で先に御手洗川の対岸から輪橋の鳥居の方へ歩いて行った。後ろ姿が寂しそうに見えた。皐月たちは秀真の単独行動に慣れ始めていたが、とりあえず後を追った。
皐月たちも秀真に倣って、井上社で手を合わせた。井上社はお祓いとお清めの社で、御祭神は瀬織津姫命という女神だ。
瀬織津姫命は古事記や日本書紀には出てこないが、大祓詞という、神道でもっとも重要視されてきた祝詞には罪を祓い清め給う神として登場する。
「この瀬織津姫命を祀る神社は愛知県にもあるんだよ」
「えっ、どこ?」
真理はいつも皐月の蘊蓄に付き合ってくれる。
「北設楽郡東栄町に月っていう集落があるんだ。そこにある槻神社の御祭神が瀬織津姫命」
「月って、あの月」
真理は天を指差した。
「そう。地球の衛星の月。神秘的な地名だろ。実際は普通の山奥なんだけど、そんなところにどうして瀬織津姫命が祀られているのかって考えると、不思議な気持ちになる」
「皐月って、やっぱりオカルトが好きじゃん」
「……そうなのかな?」
「そうだよ。神秘的なことがオカルトなんでしょ? いつかその月神社ってのに行ってみようよ」
「そうだな。槻神社は山奥にあるから車に乗るようになってからの話になるな」
皐月と真理が将来の話をしている時、絵梨花と千由紀がじっとこちらを見ていた。千由紀は良く分からなかったが、絵梨花は含みのある目をしていた。皐月は絵梨花の気持ちに気付いたが、真理は何も感じていないように見えた。
輪橋の鳥居の辺りで写真を撮り、歌会や茶会が行われる細殿と、御蔭祭の時に御神宝を奉安する橋殿を抜けて、輪橋の良く見える橋の上に来た。すると橋殿の前で舞殿や楼門を眺めている秀真を見つけた。
「秀真! お前、一人で先に行くなよ」
「ごめん。僕たちは西参道から境内に入ったから、楼門の前の景色を全然見ていなかったんだ。帰り道の途中だから、先に来ちゃった」
秀真は弱弱しく笑っていた。
「神谷君、もう少し単独行動を控えて欲しいんだけど。神谷君は私たちがどこにいるのか分かっているのかもしれないけれど、私たちは神谷君がどこにいるのか全然わからないんだから」
「ごめん……」
班長の千由紀にきつい口調で注意されると、秀真の顔から笑みが消えた。
「まあ、こうして会えたんだからいいじゃない。それより、ここで少しは遅れを取り戻せたんじゃない?」
真理に言われて千由紀がスケジュールを確認すると、予定時間より25分遅れているが、5分も遅延が回復していた。
「岩原氏に時間を管理されながらまわっていたからね。自分一人だと、こうはいかなかったと思う」
褒められた比呂志は申し訳なさそうな顔をしていた。
「神谷氏がゆっくりと見たい気持ちは痛いほどわかるんだ。だから僕も辛かったけど、修学旅行だから仕方がない。さあ、急いで出町柳駅まで戻ろう」
比呂志が先頭に立って、5人を率いて楼門から神域の外へ出た。あとは糺の森を抜けるだけだ。
楼門を出てから南口鳥居を抜けるまではみんなで下鴨神社で感じたことを話しながら歩いた。下鴨神社はそれほど混んでいなかったので、短い時間の割に落ち着いて見てまわれたことが女子には好評だった。授与所で買い物をしていた時が特に楽しかったようだ。
「頭ではわかっていても、駆け足で旅行するっていうのはなんだか物足りないよね」
「でも、そうやって余韻が残る旅行だから、大人になったらまた修学旅行で訪れた所に行きたくなるんだろうね」
真理と絵梨花が話しをしていて千由紀が聞き役になっていたので、皐月から千由紀に話しかけた。
「吉口さんって尾形光琳の話をしていた時に、絵画に興味を持ち始めたって言ってたよね? 小説だけじゃなくて絵も描いてるの?」
「絵は描いていないよ。観賞するだけ。絵の鑑賞だけじゃなく、評論家の文章を読むのが好き。小説の勉強になるから」
「へぇ~。じゃあ画家を主人公にした小説を書いているとか?」
「そういうわけじゃなくて、ただ見聞を広めているだけ。何の小説かは秘密」
千由紀は読者のことを考えないで、自分で書きたい小説を好きなように書いていると言った。だから読んでくれる人が少ないそうだ。「俺が読む」と皐月が言っても、いつも断られてしまう。この日も断られた。
「なあ、皐月。聞いてくれよ」
千由紀との会話が途切れた隙に、秀真が話しかけてきた。
「下鴨神社って、いろいろおかしいよな?」
秀真は河合神社の御祭神の玉依姫命が変だと言い出した。それは河合神社の由緒書に「玉依姫命(ご祭神は神武天皇のご母神)」と書かれてあったからだ。
玉依媛命は上賀茂神社の御祭神の賀茂別雷命の母、というのが賀茂神社(下鴨、上賀茂両神社)の設定だ。そうなると、神武天皇と賀茂別雷命が兄弟、あるいは同一人物になってしまう。
玉依媛命の父は賀茂建角身命で、別名が八咫烏。だが、この八咫烏は神武天皇が日向から大和へ侵攻する際に先導役として戦に参加している。
神武天皇の祖父(玉依姫の父)は綿津見神という海の神だ。下鴨神社の御祭神の賀茂別雷命ではない。同一神なら綿津見神の別名に八咫烏とあってもいいはずだが、そのような記録はない。
タマヨリヒメの夫にも違いがある。神武天皇の父は鸕鶿草葺不合尊だが、賀茂建角身命の父は丹塗り矢の化身・火雷神だ。
「だからさ、下鴨神社と河合神社のタマヨリヒメは別の神なんだよ。タマヨリヒメのヒメっていう字が、下鴨神社だと愛媛の媛で、河合神社だと姫路の姫になってるじゃん。名前を書き分けて、別の神だって示しているんだよ」
「そうか……同じ敷地内にあるから同じ神様だっていう先入観があったよ。もうちょっと調べていたら気が付いたかもしれないな。皐月はよく勉強している」
「玉依姫ってさ、名前の意味は神霊の依代の女性って意味だからさ、巫女みたいな神に仕える女性の役職なのかもしれないな。あるいは若宮を産む役割の女性とか」
皐月と秀真の話を他の4人も真剣に聞いていた。皐月たちは4人に配慮しようとは思わず、お互いの知識を補完する以外の言葉の説明を省いた。
「まだ変なところがある。ここって三井神社が二つもあるんだ。河合神社の境内にある三井社も賀茂御祖神社(下鴨神社)の摂社の三井神社も御祭神は同じなんだ。賀茂建角身命と伊賀古夜日賣命と玉依媛命」
「こっちは八咫烏系なんだ」
「そう。で、同じ社名で同じ祭神なのに別の社ってわざわざ三井社の由緒書に書いてあったんだ。おかしくない?」
「確かに変だな。同じ下鴨神社の敷地内なら合祀してもよさそうなのに」
河合神社の境内社の三井社は別名を三塚社といい、摂社の三井神社は三身社という。三塚社は鴨社蓼倉郷の総社で、三身社は延喜式内の大社で、山城国風土記に記載されている。
「秀真、メモ取ってたのか」
「スマホがあれば写真が撮れたのにな。まあ、家に帰ったらネットで由緒書の写真を探すよ」
「じゃあさ、下鴨神社の敷地内に同じ神を祀る社が三つもあるってことになるんだ。全然意味がわからん」
皐月のいう三つ目は賀茂御祖神社(下鴨神社)のことだ。同じ神をわざわざ三つに分けて祀ることに意味がないわけがないと思うが、皐月にはさっぱり分からなかった。
「まだ興味深いことがあるんだけどさ。摂社の三井神社って下鴨神社よりも古いんだって」
「へぇ~。じゃあ、あの立派な社の方が新しいってことか。三井神社を大きく作り変えないで、わざわざ隣に下鴨神社を作るなんて、ややこしいことをしているんだな」
「そう。で、もっと古い神社が下鴨神社の中にあってさ。出雲井於神社っていうんだけど、皐月は参拝した?」
「いや、してない」
「そっか……。出雲井於神社はめっちゃ古くてさ、できたのが神武天皇2年なんだって」
「マジか! 神武天皇が即位したのが紀元前660年だから、紀元前659年か……弥生時代じゃん! あ~っ、ちょっとでも見ておけば良かった! 同じ敷地内じゃん」
「行っとけ~!」
「いや、ここから引き返すのは無理だって」
皐月は下鴨神社では女子に付き合うことに専念していた。秀真が全ての摂社末社を見てくると言ったので、細かい神社の話は秀真の話を聞いて、後で調べればいいと思っていた。だが、秀真の話を聞いているうちに羨ましくなってきた。
気が付けば糺の森の終わりに近づいていて、皐月たちは瀬見の小川にかかる紅葉橋の袂まで来ていた。ここには唐崎社の紅葉橋遥拝所がある。
「糺の森は初めて歩いたけど、なかなかいいね。街中にこんな森が残っていたんだね」
「岩原氏は僕に付き合って馬場の方を歩いてもらったからね。ごめんね」
「いいよ。あっちはあっちで悪くなかったから」
唐崎社は下鴨神社の斎院が退下(任を退く)する際に解齋(お祓い)した社で、御祭神は瀬織津姫命だ。唐崎社は応仁の乱で焼失し、再建はされずに同じ御祭神の井上社に合祀された。
「こっちは合祀されたんだ……」
下鴨神社へ行く前と行った後では情報量が違っていたので、皐月はこういうことに引っかかりを覚えた。だが、まだ知識がほとんどないに等しい。真実を求めたいと思えばさらに研究をしなければならないが、千由紀のいう通り、当事者でもないのにそこまでのめり込む必要があるのか、と情熱にブレーキがかかった。
糺の森を抜け、境内の外に出た。旧三井家邸に御手洗があるので、皐月はみんなに寄るかどうか聞いてみたが、誰も寄らなかった。
みんな疲れているようだ。皐月と秀真が喋り続けていたせいか、他の4人の口数が少なくなっていた。皐月と秀真が黙っても、誰も会話をしようとしなかった。
高野川を渡す河合橋に差し掛かったが、みんなで弁当を食べた鴨川デルタは通りの向こうなので、歩道を歩きながらは見えなかった。皐月は高野川を眺めながら、少し感傷的になっていた。
修学旅行は楽しい。確かに楽しいのだが、時間の過ぎるのが早すぎる。見たい物、行きたい所がたくさんあったが、堪能はできなかった。それでも思い出はたくさんできた。
気が付くと前の4人にだいぶ引き離されていた。4人? あと一人は誰だ、と思って振り向くと、絵梨花が皐月のすぐ後ろにいた。
「みんなに遅れちゃったな。追いつこうか」
どうして絵梨花がここにいるのかと、皐月は虚を突かれた。
「藤城さん、何をぼ~っとしていたの?」
「うん。またここに来たいなって思って……」
「また来ようよ」
「そうだね。また来よう」
「二人で来る?」
「えっ?」
絵梨花が妖しい笑みを浮かべていた。清楚で可愛い絵梨花なのに、この時は妙な色気があった。
「走るよ」
絵梨花が皐月を置き去りにして駆け出した。皐月も慌てて後を追った。4人は信号待ちをしていたので、すぐに追いついた。これから出町柳駅で京阪電車に乗り、伏見稲荷大社へ向かう。