その言葉が聞けて良かった(皐月物語 77)
風呂から出た藤城皐月は自室に戻り、ベッドで寝そべりながら修学旅行のしおりに目を通していた。皐月が見ているのは実行委員会で配布された過去のしおりだ。
しおりには今までの実行委員たちの修学旅行への思いが込められていて、読んでいるだけで京都や奈良への期待が膨らんでくる。自分たちもこういうしおりを作れるのかと思えば、まあ作れるだろうと思う。皐月は読み物としてもっと面白いしおりを作り、一生手元に残しておきたいものにしようと考えていた。
しおりに目を通し終わると、さっき買ってきた『るるぶ』を開いてみた。学校の図書室で借りた古い版に比べ、最新版の『るるぶ』は誌面が洗練されていて華やかだ。
だが修学旅行は行動や小遣いの制約が多いので、『るるぶ』に載っているような食事や買い物はできない。この本で提案されている旅のプランは今の皐月にとっては刺激が強すぎる。早く大人になって無制限にお金を使える観光旅行ができるようになりたいと、期待のベクトルが目の前の現実から遠ざかっていく。
及川祐希が階段を上ってくる音が聞こえた。傾斜のきつい小百合寮の階段はギシギシという足音だけでなく、ペタペタと手をつく音もする。祐希がこの家にすむようになってからは、階段を上る音がときめきに変わった。
風呂上がりの祐希が洗面台でドライヤーをかけ始めた。皐月は髪を乾かす時の音を聞くと、いつも不埒な衝動に駆りたてられる。
部屋の扉をそっと開けて祐希の姿を覗き見ようか、あるいは下の階に下りることを口実に話しかけようか。結局何の行動も起こさずに、一人ベッドの上で悶々とすることを繰り返している。
祐希が小百合寮に越してきて間もない頃、皐月は一度だけ髪を乾かしている祐希の姿を見たことがある。
その日、皐月は一階にいた。二階の自分の部屋に戻る時、普段通りに階段を上ると、Tシャツとジャージ姿の祐希が濡れた髪にドライヤーをかけていた。
階段を上り切る手前から見上げた時の祐希は洗面台の照明を背にしていて、少し眩しかった。体の輪郭が淡く輝いていて、暗がりに浮かび上がって美しかった。
皐月は女子高生のプライベートの姿を初めて見た。それは見慣れた芸妓の艶やかさとは異質の色気で、強く望みさえすれば小学生の自分でも手の届きそうな少女らしさだった。
祐希が皐月に気付き、無防備に振り向いた時の姿が今でも忘れられない。その時の祐希は着飾った芸妓をはるかにしのぐ、刺激的な色気があった。
祐希が自分の部屋に戻ってきたことを襖越しに感じると、皐月はヘッドホンを装着し、スマホから音楽を流した。これは妄想を断ち切るために自分の世界に浸るためだ。だが、ベッドの上にいると落ち着かないので、勉強机に移動することにした。
ノートPCを立ち上げていると隣の部屋の祐希から声がかかったようだ。しかし、ヘッドホンの音量が大きくて、祐希の声に気がつかなかった。ベッドの横の襖が開き、大きな声で呼びかけられて皐月は初めて祐希に気がついた。
「ねえねえ。今、大丈夫?」
祐希がこの家に来た当初は皐月の方から話しかけていたが、最近は祐希の方から話しかけてくることが多い。皐月は祐希の方に向き直った。
「少し話さない?」
「いいよ」
祐希に誘われて席を立ったが、皐月は祐希の部屋には入らずに、ベッドをソファーのようにして腰掛けた。祐希はこの襖の前に物を置かないようにしているので、祐希の部屋に行かなくても話ができる。
「皐月って修学旅行の委員をしてるんだよね。どう? 楽しい?」
「そうだね……俺、委員長になっちゃってさ、なんか責任重大でちょっとプレッシャーかな」
皐月はまた彼氏の話でも聞かされるのかと思っていたが、自分のことを聞かれて少しホッとした。恋人の話をされてもあまり楽しくない。
「委員長なんて修学旅行の学校代表じゃない。ちょっとすごくない? 私の高校の修学旅行の委員長って同じクラスの男の子だったんだけど、陽キャって感じの子だったよ。毎日遅くまで委員の子たちに囲まれて、その彼が中心になって活動してた。いつも忙しそうだったけど、すごく楽しそうだったな……」
「へえ~、楽しそうか……。俺も楽しくやれたらいいな。それで高校生の実行委員長ってどんなことしてたの?」
「私は委員じゃなかったかよくわかんないけど、とにかく修学旅行を盛り上げようとはしていたかな。あとはね……一般の生徒から見て目立つところだと、委員長は挨拶や司会みたいなことをする機会が多かったかな。修学旅行に行く前に集会があって、みんなの前で修学旅行の意気込みみたいなことを話したり。あと出発式ってのがあってね、そこでも挨拶してた。皐月って大勢の人の前で話すのって大丈夫?」
「大丈夫……かな? そういう経験がないから何ともいえないんだけど、まあなんとかなるでしょ。……そうだ! 人前で話すのは副委員長に全部やってもらえばいいや」
「こらっ! 委員長のくせにそんなこと言っちゃだめでしょ。そういうのは委員長の大事な仕事なんだから」
皐月は修学旅行実行委員への取り組み方で祐希に叱られた。自分では正しいと思っていたことを責められたのは心外だった。それに、子ども扱いされているのも気に入らない。
「違うって。副委員長は児童会長だから学校代表みたいなのに慣れてるし、俺みたいな奴の言葉よりも会長の言葉の方が説得力があるでしょ?」
「俺みたいな奴なんて言わないの。皐月が委員長にふさわしい人になればいいんだから」
「なんて言うかな……適材適所ってやつ? 副委員長って児童会で会長をやっているせいか、カリスマ性があるんだよね」
江嶋華鈴は児童会長をつとめるようになってから凛とした雰囲気を出し始めた。先生からのバックアップもあり、今では振舞いが威厳に満ちている。
「じゃあ皐月は何をするの?」
同じようなことを華鈴にも言われた。華鈴は「委員長として修学旅行実行委員会をどうしたいの?」と聞いてきたが、それは副委員長として華鈴が皐月と一緒にやれるかどうかを確かめるためだった。だがどうして祐希に叱られたのか、皐月にはよくわからない。
「俺はもっとみんなを引っ張ったり、影から支える仕事に力を入れたいって思ってる。その方が自分の持ち味を生かせると思うから。委員の仕事を全体的に見て、効率よく、クオリティーを高くするって感じでね。でも人前に立つのから逃げてるってわけじゃないよ。そんなの俺だってやればできるし。簡単じゃん」
「皐月が自分に自信があるのはいいんだけどさ、委員長なら人が嫌がることを率先してやらなきゃいけないと思うんだよね」
はったりをきかせた皐月の言葉に祐希は少し苛立っているようだ。だがそれは皐月も同じだ。いくら祐希でも、やる前からごちゃごちゃ言われると腹が立つ。
「副委員長はそういうのが好きそうだからやってもらおうと思っただけで、自分の嫌なことを押しつけようとしたわけじゃねえよ。そんなことするわけねーじゃん」
皐月の語気が荒くなった。たぶん顔にも感情が出ていたのだろう。祐希も表情が険しくなっていた。
「皐月って、今日家に女の子を連れて来たんだってね。その子が副委員長なの?」
「そうだよ。頼子さんから聞いたんだ」
「うん。とてもしっかりしているお嬢さんだって言ってた」
「へ~、ちょっとしか会っていないのにわかっちゃうんだ。人を見る目があるんだね、頼子さんは」
自分のいないところで華鈴が褒められたことが嬉しかった。自分が褒められたわけではないのに、皐月は身内が褒められたような感じがした。
「皐月はその子と仲がいいの?」
「まあね。5年の時同じクラスだったし、席が近くになることが多かったから、普通のクラスメートの女子よりは仲がいいかな」
「ふ~ん」
皐月は祐希の苛ついている原因が何となくわかった。華鈴が家に来たのが気に入らなかったのだろう。
だが、なぜ祐希が華鈴のことを気にするのかはわからない。祐希には恋人がいるし、女子高生が小学生の皐月に嫉妬することは考えられない。
「そいつ江嶋って言うんだけど、会長やってるだけあって優秀なんだ。それで、江嶋は俺のサポートをしてくれるって言ってる。だから俺は細かいことを気にしないで実行委員の活動に専念できるから、何も不安がない」
「そう……」
「自分が嫌なことを江嶋に押し付けるつもりはないよ。祐希に『大丈夫?』って言われたから、じゃあ江嶋にやってもらおうかなって思っただけだ。でも、やっぱり自分が人前に出なきゃだめだよな。俺、委員長だし」
「そうだね」
祐希の反応が薄いので皐月はこれ以上会話を続ける気が失せてきた。祐希と一緒に暮らしてきて、ここまで仲がこじれたのは初めてだった。
皐月も祐希もお互いにまだ気を使っているため、直接感情をぶつけ合うことはない。
栗林真理や筒井美耶のような同級生の女子なら、時間が経てば自然と仲直りができる。だが祐希のような年上の女性とはどうしたら関係修復ができるのかわからない。
「じゃあ俺、部屋に戻るね」
下ろしていた足をベッドの上に戻した。身体の向きを変え、二人の部屋を隔てる襖を閉めようとしたら祐希に声をかけられた。
「ねえ、皐月。最近、千智ちゃんと会ってる?」
祐希のおかしかった理由が今わかった。祐希は皐月が入屋千智以外の女の子と一緒にいたのが気に入らなかったのだ。
「そういえば最近は会っていないな……。千智、塾に通い始めたし。でも毎日メッセージの交換はしてるけど」
「もっと頻繁に会ってあげてよ」
「そうか……。そうだな、また会う約束しようかな。毎日塾に行ってるわけじゃないし」
「そうだよ。会える時は会わないとダメだよ」
やっと祐希の顔に笑みが戻った。祐希は千智と友だちになったので、千智から何かの相談を受けているのかもしれない。
そしてその相談の内容は自分のことだろうと予想した。自惚れているかなと思うが、その相談がどういったことなのか、おおよその察しがついた。
「俺、忙しくなっちゃったからな……千智だって塾の宿題で忙しいし。放課後は実行委員会でちょっと予定がわからないから、学校の休み時間に会おうかな」
「ちょっと会えるだけでも嬉しいと思うよ」
祐希の話す内容で千智が祐希に何を相談したのかバレバレだ。思ったよりもバカだな、と皐月は初めて祐希のことを下に見た。
「短い時間でいいなら、昼休みに会えるかも。委員会が終わった後なら、俺の方から千智の家の近くまで会いに行ってもいいや」
皐月も千智に恋愛感情を抱いているので、会えるものなら千智に会いたい。だが皐月は自分の気の多さを自覚し始めたので、年下の千智と会うことに後ろめたさを感じ始めている。自分の好きになりやすい性格が千智を傷つけてしまうかもしれない。
「ところで祐希は彼氏と毎日会ってるの?」
「クラスは違うけれど同じ学年だからね。毎日会ってるし、会おうと思えばいつでも会えるよ」
「毎日帰りが遅いのって彼氏と会ってるからなんだ」
「そうだよ。えへへ」
「へ~、よかったじゃん」
皐月は祐希がデレデレしていることが不愉快だった。皐月は祐希のことも好きだが、それが恋愛感情ではないと思っている。
だが真理とキスして以来、祐希に対して性的な魅力を感じ始め、時にそれが苦しく感じる時もある。今のモヤモヤとした気持ちが嫉妬なのか何なのか、皐月にはよくわからない。
皐月は祐希がやたらと男女の話をしたがるので辟易していた。祐希は特に千智と皐月の関係が気になるようだ。
「さっきから気になってたんだけどさ、もしかして祐希って俺と千智のことカップルって思ってない?」
「違うの?」
「えっ?」
「あれっ?」
気まずい沈黙が流れた。皐月は思っていたのと違うニュアンスの言葉が返ってきたので反射的に聞き返してしまった。
(そうか……そういうことか……)
「本当のところはどうなの?」
「どうって……付き合ってるかってこと?」
「そう」
「千智のことはもちろん好きだよ。でも告白とかお互いにしていないし、そういう話になったことはないな……」
「そうなの?」
「そりゃそうだよ。だって俺たちまだ小学生だよ? 恋愛なんてまだ早くない? 付き合うとか、うちの学校でそんなことしてる奴なんていねーし」
皐月は校内にカップルがいるかどうかを全く知らない。ただ単にそういう話題に無知なだけかもしれない。
「小学生だって恋愛くらいするんじゃないの? それに小学生だからって付き合っちゃいけないってことないでしょ」
「あ~、ファッション雑誌を見るとそんなことばっか書いてあるよな。でもあれって読者のことを煽ってるだけでしょ。東京みたいな都会は知らないけど、豊川みたいな田舎じゃ、そんなのないって。ないない」
「そうかな? 皐月が知らないだけなんじゃないの?」
「……まあ他人の恋愛なんて興味ないから、もしかしたら俺の知らないところで仲良くやってる奴らってのはいるかもしれないけど……。でも聞いたことないな、そんな話」
皐月は自分が話の当事者だということを隠すために嘘をついた。自分と真理はキスまで済ませている。真理との関係は誰から見ても恋人同士だ。だが皐月は真理との関係を恋愛じゃないと思っている。
「じゃあいっそ皐月から告白しちゃえば?」
「えっ? ヤダよ」
「なんで? なんでヤダなんて言うの?」
「そんなのしなくてもいいだろ、別に。それに告白って重いじゃん。今、普通に仲良くしてるんだから、わざわざ告白することないよね?」
皐月は告白なんか一生、誰にもしたくないと思っている。面倒だし、振られたら格好悪い。
「告白したらもっと仲良くなれるよ。皐月って千智ちゃんのこと好きじゃないの?」
「好きに決まってんじゃん」
「じゃあ彼女にしたいとか思わないの?」
「彼女とか、俺よくわかんねーよ。ガールフレンドでいいじゃん、俺たちまだ小学生だし。祐希みたいな高校生と一緒にするなよ。それに何でも彼氏とか彼女とかの話に持ってくのやめてほしいな」
祐希に告白を強いられているとエネルギーが抜けていくような感じがする。
「でも千智ちゃんのことは好きなんだよね」
「好きだよ、もちろん」
「その言葉が聞けて良かった」
「ん?……まあ良かったならいいや。じゃあ俺、戻るね。今から千智にメッセージ送るから」
皐月は襖を閉めるとすぐに千智にメッセージを送った。
――今日、修学旅行実行委員会で委員長になっちゃった。責任重大だけど、まあ頑張るよ。
すぐにレスが返って来なかったので、今日買った『るるぶ』を読んでいた。だがメッセージの返事が気になり、なかなか誌面に集中できない。
恋に目覚めて以来、皐月は集中力が続かなくなった。自分が馬鹿になったんじゃないかと思うようになった。
今日借りた学校の『るるぶ』はもう読むことはないので明日返却するつもりだ。皐月はこれを口実に図書室で千智と会うことを考えた。しかし図書室でお喋りをしていれば他の利用者に迷惑がかかるし、図書委員に注意をされるだろう。
今週の図書委員は野上実果子だ。たとえ小声で千智と喋っていても、相手が実果子なら注意されるだけではすまない。蹴りの一つでも入れられるのを覚悟しなければならない。
皐月はスマホで千智の写真を見た。やっぱり千智のビジュアルは他の女子と比べて圧倒的だ。
表情や仕草のかわいらしさだけでなく、凛とした美しさも兼ね備えている。写真を見るだけでは物足りなくなり、千智に会いたい気持ちが募ってきた。
――明日、昼休みに図書室に本を返しに行くんだ。千智もおいでよ。たまには話がしたい。
皐月は初めてメッセージの連投をした。以前によく美耶からメッセージを立て続けに送られて辟易としたのに、今自分が同じことをしている。これ以上の連投はしたくない。10時半を過ぎたのでもう寝ようとスマホを見るのをやめたら、千智からの返信が来た。
――明日のお昼休みに図書室に行くね。私も借りている本があるから返そうかな。
――久しぶりに話せるね。今から楽しみだよ。
――私も楽しみ。
――ねえ、どうせなら今から通話に切り替えて少し話さない?
さっき祐希に言われたことと同じ言葉を言ってしまった。
――ほんと? いいよ。でも大丈夫? 祐希さんに声、聞こえちゃうよね。
――今日は聞かせたい気分だから、いいよ。でも迷惑にならないように小声で話す。じゃあ切り替えるね。
襖一枚しか隔てていないので、隣の部屋にいる祐希には会話が丸聞こえになる。普段なら絶対にこんな恥ずかしいことはしないが、今日は祐希に聞かせて二人の仲がいいことを見せつけたかった。それに、安心させてしまえば余計な詮索をされないですむ。
「先輩って委員長になったんだね。おめでとう、でいいのかな?」
「あまりめでたいとは言えないな……でも委員長になると修学旅行に深く関われるから、そこんとこはちょっと楽しいかも」
「楽しいんだったら来年私もやってみようかな」
「修学旅行なんて受験で忙しい時期だけど、いいの?」
「大丈夫って言えるよう、勉強がんばるよ」
「そっか。千智は賢いから大丈夫そうだね」
「実行委員のこと、いろいろ教えてね」
「いいよ。俺、委員長だからすっげー詳しく教えてあげられると思う」
「私も6年生だったらいいのにな~。先輩と一緒に修学旅行行きたい」
「いつか二人で修学旅行に行こうか」
「行く!」
もう少し会話を続けてから通話を切った。チャットで会話をした方が履歴が残る。それを読み返せば何度でも幸せになれるのに、と通話に切り替えたことを後悔した。
だが耳に残る千智の声も胸を熱くする。その恋心が冷めないうちに、そのまま眠りにつくことにした。