まさか自分のことだとは思わなかった (皐月物語 78)
藤城皐月は朝の登校で教室に入るとまず友人の花岡聡と歓談するのが常だった。馬鹿な話で笑い合い、ご機嫌になって皐月の一日が始まる。そんな毎日が6年2学期のはじめの頃まで続いていた。
だが最近は二人の関係が変わってしまった。席替えで皐月の席が二橋絵梨花の隣になると、聡は徐々に皐月と距離を取るようになり、今では聡から皐月に近づいてこなくなった。今朝も聡は修学旅行の行動班の男子と話をしている。こういう時、皐月から聡に話しかければ今まで通り馬鹿なことを言い合うことはできるが、わざわざ聡の新しい連れの中に入ってまで絡みに行こうという気にはなれなれい。
自分の席を見ると、同じ班の吉口千由紀は読書をしていて、栗林真理と絵梨花は受験勉強をしていた。いつもと変わらぬ彼女らにいつも通りの朝の挨拶しようと思うのだが、いまだに彼女らの集中に水を差すようで気が引けてしまう。
「おはよう」
小声で言うとみんな手を止めて皐月に挨拶を返してくれた。挨拶が終わるとそれぞれが読書や勉強に戻り、それぞれの世界に没入し始める。皐月から話しかけない限り、彼女らから皐月に取り留めのない話をしてくることはない。この時、皐月は少し寂しい思いをするが、同級生の女子ならば感じが悪いとか違うことを思うだろう。この3人の女子が今までこのクラスの中で浮いていたのは当然の帰結なのかもしれない。
皐月はいつだって三人と楽しく話をしたいと思っている。だが皐月から話しかけると集中力を削ぐことになる。だから頑張る彼女らを邪魔はできないと思い、皐月はいつもそっと席を離れている。
教室内を見回して行き場を探していると筒井美耶を発見した。今朝は皐月よりも早く登校していたようなので、美耶のところへ寄ることにした。美耶は松井晴香とお喋りをしていたが、この二人の間なら皐月は遠慮なく入っていける。皐月と美耶が隣同士の席だった頃は、晴香や他の女子も交えてよく騒いでいた。
「筒井、おはよう」
「あっ、藤城君おはよう」
美耶と晴香は楽しそうにしていたので、その流れで二人は笑顔で挨拶を返してくれた。
「おう」
「ん~」
晴香とはいつも男同士のような挨拶になる。晴香はクラスで一番女子力が高いのに、皐月に対する接し方は素っ気ない。晴香の皐月に対する態度は5年生の時に親しくしていた野上実果子を思い出させる。晴香の表裏のない性格も実果子のよく似ている。そんな晴香に皐月は一方的に親しみを感じている。
「昨日北川先生に言われた修学旅行のスローガン、考えてきた?」
「一応考えたよ。昨日借りた栞のスローガンを参考にしたっていうか、ほとんど同じになっちゃったんだけどね」
「へぇ~、まあいいんじゃないの。で、どんなスローガンにした?」
「ちょっと待って。憶えていないからメモ見るね」
美耶が机の中から風変わりな形をしたメモ帳を取りだした。そのメモ帳の表紙にはスムージーがプリントされていて、それに合わせてカットされていた。ストローまで付いているところが妙にリアルだ。
「何、そのメモ帳。超かわいいんだけど」
「雑誌の付録。カフェみたいでしょ。このストロー、グリッターペンになってるんだよ。ほらっ」
ストローの折れ曲がったところがキャップになっていて、外すとペン先が出てくる。何も書かれていないページに試し書きをしてもらうと、インクのカラーはストローと同じライトブルーで、ジェルペンのラメがきらきらして華やかできれいだ。
「えっと、スローガンはね……『学ぼう歴史、深めよう友情』だって。えへへ、恥ずかしい」
「美耶、超真面目じゃん! ウケる!」
晴香が大きな声で笑いだした。晴香につられて皐月も笑いがこみあげてきたが、ここはグッとこらえた。
「笑わないでよ、いいの思いつかなかったんだから……」
「そうだそうだ。本当ならお前が考えなきゃいけなかったんだぞ」
「ごめんね。美耶が柄にもなく真面目なことを言い出したからさ……」
「いや、俺はそのスローガンいいと思うよ。ケチをつけるところなんてないじゃん。『学ぼう歴史、深めよう友情』……クックックッ」
まだ笑っている晴香に引っ張られないように頑張ったが、皐月も笑いを我慢することができなかった。
「も~っ、藤城君までひどいっ!」
「悪ぃ悪ぃ。ほんとごめん。ちょっとそのスローガンの元ネタになってる栞見せてよ」
皐月は即座に実行委員モードに切り替えて笑いを止めた。美耶が昨日持ち帰った過去の栞は皐月の栞とは別の年度のものだった。皐月が持ち帰った栞と中身はほとんど変わらないが、それぞれの年ごとに修学旅行への思いの込め方が違っているので、他の年度の栞も見たいと思っていた。
「なんだ、参考にしたって言ったけど丸パクじゃん」
「だからほとんど同じって言ったでしょ!」
美耶が持っている栞には『学ぼう歴史、深めよう絆』と書かれていた。
「でも『絆』を『友情』に書き換えたのはいい思う。やるな、筒井」
「でしょ? 『絆』ってちょっと嫌だよね。藤城君はどんなスローガンにしたの?」
「俺か……。俺はね、『京都・奈良 歴史キャラのいた場所』」
「藤城君はちゃんと自分で考えたの?」
「まあ一応」
「えらいね。それ、私のスローガンよりもいいよ」
「そう? なんか変。それに歴史キャラってゲームっぽくない?」
すかさず美香にダメ出しを食らう。
「もしかして藤城ってゲーマー?」
「そういうゲームはしねーよ。それよりこれがゲームっぽいって言う松井の方がゲームおたくなんじゃないの?」
「今は歴史上の人物や作家や刀剣を美形化したゲームが流行ってるの。まあ男子の藤城はあまりそういうの興味ないよね」
晴香に突っ込まれたように、キャラという言葉はゲームやマンガを連想させることはわかっていた。
「ゲーム繋がりで想像力を掻き立てる言葉にしたいって思ったんだけど、ちょっと滑ったかな」
「さあ、どうかな。私は真面目な美耶のスローガンの方が好きだけど」
「晴香ちゃん、ありがとう。私、一所懸命考えたんだけど、全然いいのが思い浮かばなかったんだよ。スローガンって難しいね」
「俺だって悩んださ。どうせならオリジナルの言葉にしたかったんだけど、アイデア出しにネットで例文を調べたりしてたらすごく時間食っちゃって、結局最後は妥協して適当に決めちゃった」
「ふ~ん、なんか修学旅行の実行委員っていろいろ大変なんだね」
「お前、絶対やらなくて良かったって思ってるだろ」
「思ってるよ。藤城なんかと一緒にやらなくてよかったってね。あんた、美耶と一緒に委員やれるんだから感謝しなさいよ」
美耶に対しては同情している晴香だが、皐月には全くそんな気配を見せない。晴香は博紀のことしか考えられない奴なので、皐月も晴香の同情は期待していない。晴香くらい態度がはっきりとしているとかえって清々しい。皐月は晴香のそういうところを気に入っている。
皐月は席に戻ることにした。昨日、江嶋華鈴の家で見た太宰治の『人間失格』のことを千由紀に聞きたかったからだ。しかし皐月が席に着くとすかさず学級委員の月花博紀が皐月のもとにやって来た。
「おはよ」
「ああ、博紀か。おはよ」
「昨日は修学旅行の委員会があったんだよな。どうだった?」
「どうって、別に……どうってことないよ」
くだらない皐月の冗談に博紀は愛想笑いをしてくれた。博紀が取り留めもない話題を振ってくる時は大抵何かを企んでいる。博紀とは幼馴染だが、最近は昔のように無邪気に付き合えなくなっている。
「ところでさ、今日の朝の会で修学旅行実行委員の方から何か連絡事項ってある?」
昨日の委員会では何も決まらなかったので特に伝達することはなかったが、教育文化振興会から刊行された修学旅行の栞を渡されていた。
「じゃあ少しだけ時間がほしいかな。昨日委員会でもらった修学旅行の栞をみんなに配りたいから」
「わかった。じゃあ皐月がその栞の説明をしている間に俺が配ってやるよ」
「ありがとう。やけにサービスがいいな」
「お前に実行委員代わってもらったからな。手伝えることは手伝うよ」
博紀に邪な目論見があるとはいえ、晴香とは全然違う親身な対応が皐月には嬉しかった。博紀の望んでいることはだいたい想像がつく。どうせ絵梨花や真理の近くに来たがっているだけだ。博紀に絵梨花との橋渡しをしてやるつもりはないが、少しくらいは博紀の純情にこたえてやるのも悪くはないと思った。
「修学旅行の初日の京都、博紀たちってどこ行くか決めた?」
「まだ全然決まってない。どうしようかなって思って……」
「俺たちもまだ決まってないよね」
隣の席の絵梨花が受験勉強の手を止めて皐月たちを見ていたので、絵梨花を話の輪に入れた。真理や千由紀も皐月たちの話を聞いていたが、あえて博紀の本命の絵梨花に話を振った。
「藤城さんはメジャーなところに行きたがってたね。清水寺とか」
「清水寺に行かない班なんてあるのかな? 博紀たちの班だって行くよな?」
「そうだね。清水寺と他にどこに行こうかって考えるかな、たぶん。うちの班は人気の観光地を回ることになると思う」
「そういえば二橋さんは広隆寺の弥勒菩薩像を見たいって言ってたね」
「もし嵐山方面に行くんだったらちょっと寄ってみたいかなって思っただけ。でも二日目の奈良の法隆寺で中宮寺にも行けるなら、そこで弥勒菩薩像を観賞できるから満足かも」
同じ班の神谷秀真と岩原比呂志が登校してきた。この二人は始業時間ギリギリに教室に入ってくることが多い。
「藤城さんも月花さんたちみたいに観光地に行きたいって言ってたね」
「でも秀真や岩原氏がマニアックなところを攻めてくるからな……」
「なんだよ、マニアックって」
「やっぱり藤城氏はあっち側に寝返ったんですね」
自分の席に着くなり秀真と比呂志が憤慨した。本気で起こっていないことを皐月はわかっていたので、こういう突っ込みがただ楽しかった。
「俺たちの班は女子がフォトジェニックなところに行きたがってるみたいだ。ただの観光地だけじゃ満足しないだろうな……」
博紀が絵梨花を意識して、「映える」と言わずに格好つけた言葉を使っているのがおかしい。
「どこに行こうか決める時間って楽しいよね」
絵梨花がきれいにまとめてくれたのを聞いて、博紀は自分の席に戻って行った。その直後に担任の前島先生が教室に入って来た。
給食を食べ終わった皐月は班のみんなに昨日買った『るるぶ』を見せ、好きに読んでいいと自分の机の上に置いた。皐月は図書室で借りている古い『るるぶ』を持って、一人で図書室へ返却をしに行った。今日だけは一人で図書室に行きたかったので、必要以外のことは何も話さないで教室を出た。
図書室に入ると昨日と同様、今日の待ち合わせの相手と同じクラスの月映冴子が一人カウンターに座っていた。時間が早かったからか、図書室には冴子の他には誰もいなかった。
「返却お願いします」
「はい」
冴子は淡々と返却作業を済ませた。図書室にはまだ6年の図書委員の野上実果子がいなかったので、いい機会だと思い、皐月は冴子に話しかけてみた。
「野上はまだ来ていないんだね」
「今週は給食当番と重なっているので少し遅れると言っていました」
「そうなんだ。ありがとう」
本当はクラスでの千智の様子を聞いてみたかったが、冴子とはまだ軽々しくものを聞ける間柄ではない。それに冴子は軽薄に話しかけられるような隙がなかった。それどころか冴子は皐月より年下なのに気高さすら感じさせる。気圧された皐月は会話を試みるのを諦め、冴子の元を離れて日本文学のコーナーへ行った。
皐月は華鈴の部屋で見た太宰治の『人間失格』が気になっていた。書店に行く前に図書室で探してみて、もしあれば借りようと思っていた。だが太宰治の本は『少年少女日本文学館』シリーズの一冊があるだけだった。この本には表題の『走れメロス』の他に短編小説がいくつか収録されている。だが皐月のお目当ての『人間失格』は入っていなかった。前に川端康成の『雪国』を探した時も図書室に置いていなかったので、今回のこともあり皐月は学校の図書室は使えないなと判断し、失望した。
図書室には児童の数が増えてきた。低学年の少年少女が少しずつ本の返却に集まって来る。冴子が忙しそうに仕事を捌いていると、6年の図書委員の実果子が遅れてやってきた。
実果子に少し遅れて入屋千智も図書室に入って来た。皐月のことを見つけると、返却カウンターに寄らずに皐月のところまでやって来た。
「先輩、待った? ごめんね」
「全然。俺もついさっき来たところだよ。千智の今日のパーカー、かっこいいね。ミク色好きだよ、俺」
「ホント? よかった」
ボーカロイドの初音ミクのイメージカラー、ブルーグリーンに似た浅葱色のジップアップパーカーはすごくいい感じだった。千智にはオーバーサイズだが、だらしなくは見えず大人びて見える。デニムのショトーパンツを合わせているが、パーカーでショーパンが隠れ過ぎていないので、健康的に脚を見せている。
「今日はキャップじゃないんだね」
「うん、バケットハット」
「黄色のハットなら1年生だね」
顔隠しでキャップを被ることが多かった千智だが、最近はより顔を隠せるバケットハットを被るようになった。マスクをすればもっと顔を隠せるが、息苦しいから嫌だと千智は言う。
「俺といる時くらい帽子取ってよ」
「うん」
ハットを取ると千智は暑くもないのに顔を赤くしていた。頬を染めた千智を見た瞬間、皐月の頬もまた赤く染まった。
「やっぱりメッセージや電話より、直接会って話をする方がいいね」
「うん」
及川祐希の言った通りだった。祐希に言われた「ちょっと会えるだけでも嬉しいと思うよ」というのは千智のことだと思っていたが、まさか自分のことだとは思わなかった。本当に「会える時は会わないとダメ」なのかもしれない。これからは恋愛経験者の祐希の言うことをよく聞くようにしようと思った。