一つ屋根の下の二つの母子家庭 (皐月物語 14)
置屋の朝は遅い。芸妓にお座敷が入る日は夜が遅くなるので、次の日の朝に早く起きると身体への負担が大きくなる。無理して早起きしても、健康だけでなく美容にも悪いので、子持ちの芸妓にとって朝の過ごし方は悩みどころだ。
藤城小百合は小百合寮という置屋を経営していて、ここで百合という名前で芸妓をしている。
小百合寮では息子の皐月の朝食を祖母に任せていた。祖母が他界し、小百合と皐月の二人になると日常生活に支障が生じることが増えた。
小百合が朝の用意をできない時は皐月に一人で喫茶パピヨンでモーニングを食べさせていた。このことを小百合の周囲の人は何も問題はないと言ってくれていた。それどころかむしろ良い話だと受け止められることが多かった。しかし小百合は皐月に対して罪悪感を感じていて、ずっとこの生活を変えたいと思っていた。
これまでの暮らしは小百合の同級生の及川頼子が小百合寮に来たことで劇的に変わることになる。
家事全般を頼子に任せることで、皐月には普通の家庭のような日常を与えることができる。小百合も今まで以上に仕事に集中することができる。小百合にとって、小学生の皐月を一人にすることに対する後ろめたさを払拭でき、精神的にも楽になる。
この日、頼子は小百合寮で初めて朝食の用意をした。初日なので小百合も手伝った。この日の晩は芸妓の百合にお座敷が入っているので、早起きは体に良くなかったが、小百合は頼子との共同生活に気持ちが高ぶっていた。
頼子も芸妓として働くことになっているが、頼子にはこの生活に慣れるまでお座敷を入れないよう調整するつもりでいる。
食事の用意をしながら、小百合は頼子に今後は台所の権限を全て頼子に委譲する話をした。この時ばかりは友だち同士でもお互いに緊張した。小百合は実際に頼子の手伝いをしてみて、厨房を完全に任せてしまった方が頼子が家事をやりやすいと判断した。
頼子の娘の祐希が階段を下りて台所に入ってきた。何か手伝えることはないかと言うので、居間のテーブルを拭いてもらい、皐月を起こしてもらうよう頼んだ。頼子が起きた時には祐希はすでに目が覚めていたようだ。
「祐希ちゃん、まだ気が張ってるのかな?」
「もともとあの子は人見知りなのよ。でも皐月ちゃんのお陰で随分リラックスしているように見えるわ」
「祐希ちゃんにはここが自分の家だと思って欲しいんだけどね。また折を見て頼子から言っておいて」
「わかった。心配させちゃってごめんね」
「頼子も私たちに気を使わなくたっていいからね。皐月は女ばかりの環境で育ってきたから、頼子が思っている以上にこの生活に適応できると思うの。あなたの好きなように扱ってくれても大丈夫よ」
小百合が茶碗とお椀の用意をしていた。ご飯と味噌汁をよそうのは皐月が起きてからだ。
「まだ小さいのに女慣れしてるってことかしら」
「女慣れっていうよりも男嫌いかな。父親を怖がっていたから、大人の男の人に対してものすごく警戒心が強いの。だからあの子ってたぶん男の子の友だちとうまく付き合えていないと思う。女の子とはすぐに打ち解けられるんだけどね。この先、性格をこじらせて、いじめられたり恋愛依存症にならなきゃいいんだけど……」
「そういえば昨日も女の子と遊んでいたわね。でもかわいい男の子の友だちも一緒にいたから、それは小百合の取り越し苦労じゃないかしら」
台所には白木の折敷と黒い塗りのお盆が二枚ずつ二種類ある。それぞれに四人分のおかずとフルーツを並べる。
「母親が小学生の息子に願うことじゃないかもしれないけど、皐月には女の人と上手に遊べる大人になってもらいたいわ」
頼子がお茶の用意をし、小百合はフライパンを洗い始めた。
「芸妓のあなたがそう言うと言葉に重みがあるわね。でもそんな高度な教育、ただの田舎のおばちゃんの手に負えるかしら。私から見た皐月ちゃんはいい子にしか見えないんだけど」
「あの子、寂しがり屋なのよ。これは私の責任なんだけど、育った環境が悪かったわね。甘えたい時に甘えさせてあげられなかったから」
「私が小百合の分も甘えさせてあげたらいいのかしら?」
「皐月には祐希ちゃんと同じように接してもらえたらありがたいな」
「私はそんなにいいお母さんじゃないじゃないけど、いいの?」
「私よりはマシよ」
二人で居間にご飯のおひつと味噌汁の鍋を運び始めた。
皐月の部屋の扉が開き、祐希が中を覗き込んでいる。朝食の準備ができたので皐月を起こしに来た。
「起きてる?」
皐月からの返事はない。昨夜は遅くまで夏休みの自由研究の宿題をしていたようで、よく眠っている。祐希が寝たのは11時を過ぎていたが、その時まだ皐月の部屋の明かりはついていた。皐月が何時まで起きていたのか祐希にはわからない。
「お~い、ごはんだよ~」
「……ん? なんだ?」
「おはよう。起きた?」
祐希の顔だけが浮いて見えた。夢か現か幻か……寝起きの皐月にはまだ見慣れない女の子と、昨夜さんざんネットの画像で見た荼枳尼天がクロスディゾルブしていた。
「あっ、そっか」
皐月はようやく目が覚めた。
「朝ごはんできたよ。起きてすぐ食べられる?」
「目覚ましにシャワー浴びてくる。昨日、お風呂入らないで寝ちゃった」
「昨日は何時まで起きてたの?」
「1時をちょっと過ぎてたかな」
「だったらもっと寝かせてあげればよかったかな。ごめんね、起こしちゃって」
「いいよ。起こしてくれてありがとう」
皐月は母の師匠の和泉の家に預けられていた時のことを思い出した。
親しい人といながらも、どこか身がすくむ感覚。ここは他人の家でなく自分の部屋なのに、皐月はそんな寂しい気持ちになっていた。もう今までの世界とは違うのだ。
皐月がベッドから起き上がると祐希はドアから離れ、階段を下り始めた。少しくらい待っててくれればいいのに、寂しいなと思った。
皐月が階段まで来ると、祐希はちょうど下り終わっていた。古い建物の階段は急なので、眼下に祐希の頭のてっぺんを見下ろすことになった。手摺を頼りながら階下へ下りて台所を覗くと、後片付けをしている頼子と、母親に寄り添っている祐希がいた。
「おはよう……ございます」
「皐月ちゃん、おはよう。シャワー浴びてくるんだってね。10分くらいしたら食べられるように用意しておくから」
「ありがとう」
用意されている朝食を見るとハムエッグが見えた。家でこんなちゃんとした朝ごはんを見たのは久しぶりだ。
居間の隣の部屋は母の小百合の部屋になっている。皐月の服は小百合の部屋の箪笥の中にある。
着替えを取りに入ると、いつもなら寝ている小百合がいない。着替えを取って浴室へ行くと、小百合が洗濯物をネットに入れているところだった。
「おはよう。昨日は遅くまで起きていたようだけど大丈夫?」
「なんとか」
「眠くなったら昼寝しなさいよ」
「うん、わかった」
「着の身着のままで寝ちゃったね。まあ洗濯物が減るから、私は楽でいいけど」
「服脱ぐからこっち見るなよ」
小百合に背を向けながら裸になり、風呂場に入った。シャワーにしようかと思ったが、浴槽の残り湯がまだ少し温かかったので、体を洗わずに中に入った。お湯のぬるさが暑気を払うのにちょうどいい。髪と体を洗い、裸のまま浴槽の掃除をしてから浴室を出た。
居間ではもう小百合と、及川親子の頼子と祐希が揃っていた。
テーブルには朝食の用意ができていた。ハムエッグとサラダにデザートのフルーツヨーグルト、ご飯と味噌汁といったごくありふれた献立だった。それでもいつもモーニングで済ませていた皐月には家庭料理が嬉しかった。
「ご飯と味噌汁がパンとコーヒーだったらモーニングだね」
「今朝は頼子と二人で有り合わせのもので作ったのよ」
小百合の顔色を見て、からかうような口の利き方はやめた方がいいと思った。
「明日から旅館風の和食を用意するね」
「えっ、何それ? 豪華なやつなの?」
「特に豪華でもないんだけど、焼き魚やお漬物、おひたし、佃煮などを少しずつたくさん並べてあげるわ」
「ちょっと頼子、そんなに無理しなくてもいいのよ」
「大丈夫よ。お店で売っているものを上手に使えばそれほど手間をかけずにできるものなのよ。小百合がお金のこと気にしないでいいって言ってくれたから、一度そういうのやってみたかったのよね」
「じゃあ今朝みたいに早起きできる時は私も御相伴にあずかるわ。でも豪華な朝食は一度だけ食べさせてもらえれば、続けなくてもいいからね」
頼子に卑屈な様子は見られず、小百合にも尊大なところがない。友だち同士で共同生活を楽しんでいるような感じがして、皐月も祐希もホッとした。
「和食ばっかりになるの?」
「洋食も作るよ。その日、家にある食材で作れそうなもで献立を考えるわ」
「頼子も一緒にお座敷に行った日の翌日は、今まで通りパピヨンに行ってもらわなきゃならないんだから、洋食はその時に食べたらいいじゃない」
「モーニングか……。毎日だと飽きちゃうな。ママはよく飽きないね」
モーニングを洋食と言う母の感覚に皐月は少し呆れた。
「私、まだモーニングって行ったことない。楽しみ」
祐希が会話に加わってきた。皐月にも緊張感が伝わってきた。
「祐希、喫茶店でカフェ巡りしたことあるって言ってたじゃん」
「モーニングは行ったことないのよ。お茶するのはいつも午後だったから」
「祐希ちゃん、よかったら後でモーニング行ってみる? 二度目の朝食になっちゃうけど」
「大丈夫、行きます。やった!」
「皐月、あんたも行く?」
「俺はパス。昨日も行ったし、今日はいいや」
話してばかりいないで食べようということになった。朝食の時、皐月一人だとネットで配信されている動画を見ながら食べていて、小百合と二人なら早朝に録画した経済ニュースを見ながら食べる。四人の初めての朝食ではまだ何も動画をつけていない。
「今日はモーサテ見ないの?」
「せっかく四人そろって朝ごはんを食べているんだから、そんな不粋なことはできないでしょ」
「小百合、モーサテって何?」
「『モーニングサテライト』っていう経済ニュースのテレビ番組があるのよ。宴席でお客さんとの会話する時のネタのためのお勉強ってとこかしら」
「それ、自分の相場の勉強じゃん」
「相場の話ができるとお客さんが喜んでくれるのよ」
小百合は実際に資金をいろいろな方法で運用している。しょっちゅう損をしているけれど、トータルでは利益を上げているらしい。儲けた話よりも損をした話をする方が宴席ではウケると言っていた。
「仕事なら私たちに遠慮しないでそのニュース見ましょうよ。祐希もいいでしょ?」
「難しそうだけど、賢くなりそう。皐月は経済ニュース見てわかるの?」
「大体わかるよ。知識が増えるほど言っている意味が理解できるようになって、難しくなくなる」
「ニュースはあとで一人で見るからみんな私に付き合わなくてもいいよ」
皐月の子どもっぽいのに賢そうな雰囲気がある理由が、祐希にはわかった気がした。昨日会った栗林真理にしても、祐希の見たことのないタイプの子だった。
豊川稲荷で会った入屋千智や月花博紀のような顔面偏差値が高い子も自分の小中学校では見たことがなかった。芸妓の小百合も華やかだ。祐希はとんでもないところに来てしまったと感じ始めていた。
「今日、友だちに会いに行ってもいい?」
「あなた、何考えてるの。まだこっちの暮らしが落ち着いていないのに」
想像以上にきつく言われたのだろうか、祐希が委縮している。
「まあまあ、いいから。祐希ちゃんの好きにさせてあげましょうよ」
「だって小百合……」
「お昼はむこうで食べてくるの? 祐希ちゃん」
「そうしようかなって……」
「じゃあランチ代あげないとね。千円で足りる?」
「ちょっと小百合、あんまり甘やかさないでよ!」
泣きそうな顔で頼子が小百合に寄り縋った。
「お金のことはいいから。必要なものは出すわ。で、どうする? 祐希ちゃん」
「友だちとだから、そんなに高いものは食べないです」
「じゃあ後でレシートちょうだい。現金に割ってあげるわ」
「はい」
お金のことでこんなに強い小百合を皐月は初めて見た。今まで家が裕福だと思ったことは一度もなかったが、貧しくて惨めに感じたこともなかった。それだけに頼子と祐希のやりとりが痛切だった。
皐月はここで場を和ませることを何も言うことができなかった。自分がまだ子どもであるという無力さを思い知らされた。