こんな言葉を聞く日が来るとは思わなかった (皐月物語 120)
学校の帰り道、藤城皐月は通学路を逸れて豊川稲荷へ寄り道して、一人で境内を歩いていた。平日の奥の院は人がいなくて静かだ。皐月はついさっきまで自己嫌悪に苦しんでいたが、人気のない奥の院を歩いているうちに心が整ってきた。
皐月は人と一緒にいる時は頭がよく回る。だが情報を片端から捌いているうちに考えが浅くなりがちになってしまう。だからこうして一人で静かな所で思索に耽っていると、頭の中の霧が晴れるような感覚になる。
皐月は今日一日楽しく過ごしていたのに、帰りには気持ちが沈んでしまった原因を考えていた。そして、自分が苦しんでいるのは罪悪感のためだと結論を出した。罪悪感の元凶は無節操に人を好きになることだ。
人を好きになることは悪くない。素晴らしいことだと思っている。恋愛関係になることだって悪くない。悪いとすれば、それは複数の人と恋愛をすることなのかもしれない。「なのかもしれない」と考えたのは、今の自分の恋愛の仕方を否定したくないからだ。好きな人を一人になんて絞り切れるわけがない。魅力的な人を好きになってしまうのは仕方がない。
かつて、愛する人は生涯でただ一人だけという考えが美徳とされる時代があった。今は恋人は同時期に一人だけ、恋が終われば次の恋をしてもいいという考え方が主流だ。
だが、皐月は「恋人は目の前の一人だけ」という考え方をしている。この考え方は複数の人と恋愛関係になることを正当化する。皐月の恋愛観は現代では異端だ。
皐月は自分の悪いところを自分の恋愛観を付き合っている全ての人に隠していることだと思っている。そして恋人たちに欺瞞を働いていることに自己嫌悪している。
複数の相手と付き合っていると、その相手同士を比べてしまうことは避けられない。だが皐月は比べることで序列をつけるようなことはしない。むしろ比べることで、それぞれの良さを見つめ直そうとしている。目の前の恋人の前では他の女性のことを考えないようにする。それが自分で決めた戒律だ。
皐月は奥の院を一回りした後、回廊をくぐり抜けて本殿に上がった。本殿から参道に降りる坂があり、その左側に庭園を見下ろせる階段がある。皐月は階段の一番上の端に座り込み、坂を下ったところに建っている大鳥居を見ながら、もう一度思索に沈んだ。
恋愛で苦しいのは嫉妬と裏切りだ。恋愛経験の浅い皐月にも嫉妬の経験はある。
皐月は一緒に暮らしている女子高生の及川祐希が豊川駅で恋人の蓮と二人でいるのを目撃したことがある。その時に湧き上がった狂おしい気持ちが嫉妬に違いないと思っている。そして、祐希と口づけを交わした時、自分とキスの仕方が合わなかったことに感じた刹那の嫌悪感も嫉妬の一種だと思った。
裏切りは数限りなくしてきてた。複数の相手と恋愛をしていると、自分のしていること全てが裏切り行為だと思えてくる。皐月は生きていること自体が恋愛相手に対する裏切りなんじゃないかと考えるようになった。
恋愛の相手に嫉妬の苦しみを味わわせたくない。この考えを自分に好意を寄せる相手、筒井美耶に対しても感じたことが、今日の苦しみのきっかけになった。
放課後のバスレクでの打ち合わせの時、皐月と美耶はクラスメイトの新倉美優たちにからかわれた。皐月と美耶がキスをしたという作り話でふざけ合った時、悪乗りした皐月は美耶とキスをしてみたいと思った。だがその瞬間、自分の抱える罪悪感が心の受容能力を超えてしまった。
人を好きになる感情と、人を傷つけたくないという理性の相剋が皐月には過負荷となった。学校では平気な素振りをしていたが、一人になった時に皐月の心の平衡が壊れた。
高い空に刷毛で伸ばしたような白いすじ雲が浮かんでいた。皐月はその絹のように白く輝いている雲を見ながら、これからどうしたらいいのかを考えた。
今までは自分が悪い男になることになることしか思いつかなかった。自分が悪いことをしているという自覚があったとしても、開き直って平気でいようと思っていた。だが相手に対する共感が悪い男になることを許すことができなかった。
一人の相手だけを好きでいることができないのなら、いっそ誰も好きにならなければいいとも考えた。だがこれは一瞬で無理だと思った。恋なんか止められるわけがない。
ならば性的な関係を一人に絞ればいいのかと考えた。これならもしかしたらできるかもしれないと思った。
そうなると栗林真理の想いにはこれ以上は応えられなくなる。及川祐希には変な気を起こさないようにしなければならない。入屋千智とは清い交際をしなければならない。筒井美耶や江嶋華鈴とは注意深く接しなければならない。体を寄せ合うのは芸妓の明日美だけにしようと思った。
こんな当たり前のことにどうして今まで思いが至らなかったのかといえば、それは快楽に溺れていたからだと認めざるをえない。皐月は荼枳尼天の神前で煩悩を祓うことを恐る恐る決意した。
次の日の朝、皐月は特に心が揺れることもなく家を出て、学校に着いた。教室でもいつもどおり明るく振る舞った。前の席に座っている真理の精神状態も安定しているように見えた。
2時間目が終わった中休み、6年4組に1組の江嶋華鈴が皐月を訪ねてきた。手招きされた皐月は廊下に出た。
「藤城君、今大丈夫?」
「いいよ。どうしたの?」
「今朝ね、職員室で北川先生に呼び止められて言われたんだけど、修学旅行の挨拶を考えておくようにって」
「ゲッ! 挨拶か~。とうとう来たな……」
挨拶は修学旅行実行委員会の仕事の話だと、高校生の祐希に聞いていた。祐希は三度の修学旅行の経験談を話し、委員長はみんなの前で挨拶をしなければならないということを皐月に教えた。皐月にとって挨拶はやりたくない仕事の一つだ。
「挨拶をしなければならないのは全部で4回。豊川駅での出発式と到着式、旅館での出発と到着。挨拶の文言は一応決まっていて、テンプレをもらってあるよ。それを好きなようにアレンジしてもいいんだって」
「あ~、テンプレがあるのは助かるな~」
「で、どうする? 藤城君、挨拶する?」
皐月は人前で話すことに抵抗はなかったが、学校を代表するのは児童会長でもある華鈴の方が相応しいと思っていた。だから副委員長でもある華鈴に挨拶は任せたいと祐希に話したら、ひどく怒られたのを思い出した。挨拶は委員長の大事な仕事だと言われた。
「そうだな……俺が挨拶するか。委員長だもんな」
「私、半分手伝おうか? 全部で4回もあるんだから、負担が大きいよ」
「えっ! いいの?」
「いいよ、挨拶くらい。私、児童会長やってるから挨拶なんて慣れてる。私が旅館の挨拶をするから、藤城君は駅での挨拶をお願いしたいんだけど、いい?」
「俺は6年生みんなの前で挨拶をすればいいんだな。1クラスが4クラスになるだけだから大丈夫。どうってことないよ」
「そう? 出発式は見送りの親が大勢来るんだって。私ならちょっと緊張しちゃうかな」
皐月が尊敬のまなざしで華鈴を見ていたのに、華鈴はいたずらっぽい顔で笑っている。
「なんだ。江嶋は親の前で挨拶したくなかったんだ。俺はそんなことで緊張なんかしねーよ」
皐月は華鈴の提案を正直助かると思った。親の前での挨拶で緊張するわけではない。委員長としてやらなければならない仕事なら、どんなことでもやるつもりだった。ただ、誰に対する挨拶でも、気が進まないのは確かだ。皐月が華鈴のように学校を背負って活動するようなことをやりたくないのは、自分みたいないい加減な奴が学校代表なんて烏滸がましいと思っているからだ。
「じゃあ私が旅館、藤城君が駅の挨拶ってことでいい?」
「うん、それでいいよ。ありがとう」
こういう時、華鈴は頼りになる。さすがは児童会長だなと、皐月は華鈴の仕事の進めっぷりに感心した。華鈴は対外的な関わりの方が責任が重いと判断して旅館での挨拶を選んだのだろう。華鈴のサポートが皐月には嬉しかった。
「それで挨拶の文言なんだけど、私はいつも覚えちゃってるんだよね。藤城君はどうする? 紙に書いて読み上げてもいいよ」
「そんなのヤダよ。俺も覚える。紙に書いたのを読むなんて格好悪いじゃん」
「わかった。じゃあ覚えようか。私たち用の挨拶文を完成させたいから、昼休みに児童会室に来てもらってもいい?」
「昼休みならいいよ。放課後はバスレクのことを決める予定だったから、ちょっとヤバかった」
「じゃあそれまでに挨拶文のテンプレをプリントアウトしておくね。あと、水野さんにも声を掛けておくから」
「細かいこと全部やってもらっちゃって、悪いね」
面倒で嫌な仕事のはずなのに、華鈴と一緒にするというだけで皐月は昼休みが楽しみになっていた。本当は昼休みにドッジボールをしようと思っていたが、修学旅行実行委員会の委員長をしている以上、修学旅行が終わるまでは遊んでばかりもいられない。
教室に戻ると斜め前の席の神谷秀真が話し掛けてきた。
「皐月、また委員会の仕事?」
「そう。豊川駅でみんなの前で挨拶をしなくちゃいけないんだって。ちょっとヤダな」
「ひえ~っ、俺だったら絶対に無理。人前に出るなんて緊張しちゃうよ」
秀真は内向的な性格で、親しい友人以外には自分から積極的に話し掛けることがない。だが共通の話題で意気投合すると、うるさいくらい喋るようになる。これは同じ班の岩原比呂志も同じだ。秀真はオカルト、比呂志は鉄道の話題で皐月と馬が合う。
「でも、人前で話せるようにならないと大人になってから困るよ」
比呂志も話に加わった。比呂志の方が秀真よりもまだ社交性が高い。鉄ヲタの大人と話す機会が多いせいか、秀真よりは大人びている。皐月からすると、比呂志は少し爺臭い気がしないでもない。
「そうだよな……まあ、挨拶くらい軽くぶちかましてやるよ」
席を空けていた女子三人、栗林真理と二橋絵梨花、吉口千由紀が教室に戻って来た。
「何をぶちかますの?」
真理には話が聞こえていたらしい。
「修学旅行の出発式と到着式で挨拶をしなくちゃいけなくなったって話」
「へ~、皐月が挨拶するんだ。まあ、がんばって。私はそういうの無理だわ」
「そうだよね。人前で挨拶とか、嫌だよね」
秀真が真理に相槌を打った。秀真は最近、真理と話ができるようになった。気質が似ているのか、秀真は真理に話しかけやすいらしい。
「挨拶なんて慣れればどうってことないよ、藤城さん。いつも朝の会や帰りの会で委員会の話をしているんだから、その延長だと思えばいいよ」
絵梨花はタイプ的に華鈴と似ていて、人前で話すのを何とも思わない。絵梨花なら児童会長だってできるだろうと皐月は思っている。
「じゃあ二橋さんに挨拶、代わってもらおうかな」
「いいよ、代わってあげる」
「ホント? ラッキー!」
「バカっ! あんたが挨拶しなければいけなんでしょ?」
真理が皐月と絵梨花の冗談を真に受けて怒っている。真理は即座に皐月の冗談に合わせてくる絵梨花とは性格がだいぶ違う。皐月は絵梨花と親しくなり、入屋千智と気質が似ていることに気がついた。
「慣れると、大勢の人の前で話すのって気持ちがいいよ。中毒性があるかも」
「絵梨花ちゃんってそういう子だったんだ。政治家とか向いてるんじゃない?」
「政治家は嫌。学校の先生はやってみたいって思うことはあるけどね。でも人前で話すのなんて、演奏するよりずっと気楽だよ」
皐月は絵梨花の新たな一面を見た気がした。絵梨花にはアイドルの素質があるかもしれない。
「吉口さんは人前で挨拶とか大丈夫なタイプ?」
身体を隣の席の絵梨花に向けている皐月は右隣にいる、後ろの座席の吉口千由紀にも話題を振った。
「私はそういうのって好きじゃないけど、やらなければいけないんだったらできるよ」
「俺と同じだね。吉口さんが俺と一番性格が近いみたいだね」
「私が藤城君と? 私、そんなに性格明るくないよ?」
「え~っ、明るいじゃん、吉口さん。それに俺、小説好きだし、性格は吉口さん寄りだと思うよ」
皐月は反射的に千由紀の歓心を買うことを言ってしまった。
「葉蔵みたいだね、藤城君」
千由紀の言葉に皐月は戦慄した。『人間失格』を読んでいる千由紀なら、自分の知られたくない内面を気付いたかもしれないと思った。『人間失格』を読んで主人公の大庭葉蔵が自分によく似ていると思っていたからだ。
「ヨーゾーって何?」
小さな声だったので絵梨花と比呂志にしか聞かれていなかった。絵梨花はスルーせずにすかさず「葉蔵」に突っ込んできた。
「藤城君って想像で私のこと明るいって言ってくれたけど、私って全然明るくないし……」
「そんなことないよ。吉口氏は最近よく笑うようになったし、僕から見れば十分明るい女の子だと思う」
比呂志が顔を赤くしながら千由紀のことを庇うようなことを言い出した。比呂志も変わったな、と思った。皐月は絵梨花の追及をかわすために比呂志の純情を利用してやろうと思った。
「俺の想像、間違ってるかな?」
「藤城君の想像通りの明るい女の子になれたらいいなって思ってるけどね」
千由紀は意味ありげに含み笑いをしていた。絵梨花は優しく微笑んでいた。皐月には絵梨花を上手く騙せたかどうか自信がなかった。
皐月は千由紀に自分の本質を見抜かれたことに観念した。絵梨花に想像を連発し、葉蔵を想像と言いくるめる機転にも感心した。皐月は千由紀に畏れを抱いた。
給食当番の皐月は給食室に食器を片付けに行った後、修学旅行実行委員会の仕事のため児童会室へ向かった。他の班のメンバーは6年4組の教室に戻るようなので、方角が違う皐月はみんなと給食室で別れた。真理が寂しそうな顔をしていた。
児童会室へ入ると副委員長の江嶋華鈴と書記の水野真帆がすでに来て話をしていた。
「遅れてごめん。今週は給食当番なんだ」
「私は来週給食当番」
真帆が皐月の言い訳に応えた。
「出発式と到着式の挨拶文をプリントしたから読んでみて。その紙に今年度用に日付を修正したり、アレンジしたいところがあったら赤で書き直すの。一度音読してみるといいよ」
華鈴に手渡されたプリントは加筆修正しやすいように行間を広めにしてあった。華鈴と真帆の前で音読するのは恥ずかしいと皐月が躊躇していると、華鈴が自分の挨拶文を音読し始めた。人に聞かせるような音読の仕方ではなかったので、皐月も華鈴の真似をして小声でブツブツ言うように挨拶文を読み始めた。
挨拶文を読み終わった華鈴が赤のボールペンで何かを書き始めた。どうやら修正箇所があるようだ。皐月は日付以外に直すところがないと思っていたので、華鈴の行動を意外に感じた。
「直すところなんてあるの?」
「うん。言葉遣いが子供っぽいところとか、自分が言いにくいところとかを直しちゃおうかなって思ってる。藤城君は直さなくてもいいの?」
「今のところは日付だけかな。何か言い足りないことがあったら、当日アドリブでも入れるよ」
真帆が皐月の直しを入れた原稿を欲しがったので手渡すと、議事録に入力してあった挨拶文を書き直した。
「はい。後は覚えるだけだね、委員長」
真帆に返された原稿を受け取った皐月はすることがなくなったので、真帆が今打ち込んだ画面をなんとなく眺めていた。真帆は華鈴からも原稿を受け取り、皐月の目の前で修正した文言を打ち直した。仕事の早い真帆はその作業はすぐに終わらせた。
「私の役割は終わったから、教室に戻るね。二人の邪魔をしたくないから。じゃあね」
Chromebook を閉じた真帆はさっさと児童会室を出て行ってしまった。引き戸の締められた児童会室で、皐月は華鈴と二人きりになった。華鈴は手に取った挨拶文を早口の小声で読み始めた。
「なあ、江嶋。これ、今日覚えるのか?」
「そのつもりだけど……」
「今覚えたって当日までに忘れちゃうだろ? 前日に覚えればいいじゃん」
「旅行の前の日に暗記なんてしたくないよ。ワクワクするだけにしたいから、今日覚えちゃおうって思ってるの」
「あ~、なるほど。それもそうだな。江嶋、賢いな。じゃあ俺もここで覚えていこうかな」
皐月は挨拶文を黙読しながら、時々目を瞑り、覚えたところを早口で暗唱した。目を開けて、合っているかどうかを確認し、一文字も間違っていなかったら次のフレーズに移った。最後まで覚えたら通しで暗唱して、正確に暗唱できるまでこの作業を繰り返した。皐月は10分とかからず出発式と到着式の挨拶文を暗記することができた。
「よしっ! 覚えた」
皐月は勢いよく席を立ちあがった。
「ウソっ!? 藤城君、もう覚えちゃったの?」
「まあね。完璧だと思うよ。江嶋はどのくらい覚えた?」
「私はまだ旅館に到着した時の挨拶すら覚えていない。あ~もうやんなっちゃう……」
「旅館への挨拶の方が俺のより長いのか?」
皐月が華鈴の座っている背後に回り込んで原稿を覗き込むと、皐月の原稿の半分くらいの長さの文章しかなかった。
「結構修正したんだな。江嶋が直した文章の方がいいじゃん。賢い子の挨拶って感じで」
「賢い子とか言わないでよ。藤城君の方が頭いいじゃない。覚えるのも早いし、5年生の時だってクラスで一番勉強ができたし」
華鈴が手にしていた原稿を机に置き、暗記をやめてしまった。ため息をつき、悲しそうな顔をしていた。
「まあ、そんなの当日までにゆっくり覚えればいいじゃん。それよりさ、江嶋たちのクラスってバスレクどうするか決めた?」
「うん。まあ一応。バスレクって言えるようなことじゃないけど、バス会社が所有しているDVDを流すことにした」
「バス会社所有のDVD? なんでそんなことするの?」
「自分たちで持ち込んだメディアは著作権法で違法になるから流せないんだって。バス会社のサイトに書いてあるのを見たよ」
「そんなわけねーだろ。俺、JASRAC のサイトで調べたけど、大丈夫なはずだぞ」
「本当に?」
「本当だって。JASRAC は学校の授業で音楽を使うことは認めてるよ。確か1クラスを超える部数のコピーじゃなかったら、学校の授業でコピーしたCDとかDVDでも使っていいって、ウェブサイトに書いてあった。JASRAC がいいって言うんだから、いいんだよ」
皐月は Spotify の音楽を車内で流していいのか知りたくて、昨夜ネットでいろいろ調べた。華鈴の懸念していることもネットで出てきたが、著作権の元締めの JASRAC で調べるのが一番だと思い、JASRAC と修学旅行と著作権で検索をしてみた。すると、JASRAC PARK というサイトの中に修学旅行での音楽の使用に関する詳しい情報が載っていた。
「俺たちのクラスはみんなから好きな音楽を聞いて、プレイリストを作ってバスで流すよ。江嶋たちもそういうのやればいいじゃん。著作権が心配なら『JASRAC 修学旅行 著作権』でググってみればいいよ」
「ありがとう。後で調べてみるね」
「俺、後で他のクラスの実行委員にもこの情報を教えておくよ。たぶん他の委員は江嶋みたいに著作権法なんて気にしてないと思うけど、情報は共有しておかないとね」
「わかった。水野さんのクラスには私から伝えておく。この情報は議事録に載せておいた方がいいと思うから」
「じゃあ俺は田中か中澤さんに言っておくよ」
華鈴が嬉しそうな顔をして、隣に立っている皐月を見上げた。皐月は華鈴の調べ方が悪かったんじゃないかと思った。バス会社の情報よりも JASRAC の情報の方が価値が高い。華鈴は検索ワードに JASRAC を入れていなかったのかもしれない。皐月は華鈴の隣に座って、プリントの片隅に「JASRAC」のスペルを書いた。
「俺たちのクラスはね、他にもバスレクでゲームやるよ」
「ゲーム? 藤城君はそういうのって面倒だからやらないのかと思った」
「まあゲームは準備をしたり、司会をしたりして面倒なのは確かなんだけどね。でもバスレクやりたいって子がたくさんいたからさ、やっぱやらないとね。それにゲームは俺も好きだし」
修学旅行実行委員での雑談では、どのクラスの委員もバスレクをやりくなさそうにしていた。華鈴の言う通り、みんな面倒だと思っているのだろう。
「水野さんたち2組は何かバスレクやるって言ってた?」
「特に何も言ってなかったな。水野さんはゲームとかやりたがる性格じゃなさそうだけど……」
「でも陽向はそういうの好きそうだから、何か考えているのかもな」
中島陽向は陽気な少年だから、バスの中でCDを聴いたり、DVDを見たりするだけでは物足りないだろうな、と皐月は思った。
「藤城君のクラスはどんなゲームをするの?」
「うん。俺たちはね、『いつどこで誰と誰が何をした』っていうのをやるんだけど、わかる?」
「わかるわけないでしょ」
皐月は華鈴にこの遊びの概要を手短に説明した後、具体例を出してわかってもらおうと思った。
「じゃあ例文を作るね。『いつ』『どこで』『誰と』『誰が』『何をした』の順で文を作っていくからね」
「わかった」
「まずは『放課後』」
「うん」
「『児童会室で』」
「うん」
「『江嶋華鈴と』」
「私?」
「『藤城皐月が』」
「藤城君が?」
「『キスをした』」
「……」
皐月は昨日、新倉美優にからかわれた時と同じ構文を使ってみた。筒井美耶は「ヤダー」と照れて騒いだが、華鈴は冷えた顔をして黙ってしまった。ここには伊藤恵里沙や長谷村菜央のように自分たちを囃し立ててくれるギャラリーもいない。
(やっちまった!)
ひどいスベり方をして、皐月は恥ずかしくて顔が真っ赤になってしまった。言い訳をする言葉さえ言えなかった。重い沈黙が流れた。校庭から児童が遊ぶ声が聞こえてきた。
「本気で言ってるの?」
華鈴が顔をしかめていた。語気も強く、皐月は怯んでしまった。
「こういう例文を昨日作られてさ、スゲー盛り上がったから、ちょっと言ってみたくなったんだよ」
苦しい言い訳だと思った。だが皐月は自分の言ったことを冗談だと笑いたくはなかった。
「藤城君、私とキスしたいの?」
苦しげな表情は変わらないが、皐月は華鈴から嫌悪を感じなかった。ここでキスなんかしたくないと言うと、華鈴のことを傷つけてしまうと思った。
「江嶋みたいな魅力的な女の子とキスしたくない男子なんかいないよ」
皐月は苦し紛れに一般論で誤魔化した。これなら華鈴のプライドを傷つずにすむだろう。それに自分の華鈴とキスしてみたいと思う気持ちも隠すことができる。
華鈴は思いつめた顔をして黙っていた。皐月はこれ以上何も言えず、華鈴から視線を外さずに沈黙に付き合った。
「キスしてもいいよ」
「えっ?」
「私だってそういうこと、興味あるから……」
皐月は驚いて、華鈴の顔をまじまじと見てしまった。華鈴の口からこんな言葉を聞く日が来るとは思わなかった。
目を合わせていた華鈴の顔が紅潮してきた。恥ずかしいのか、キスを待っているのか、華鈴は意を決したように目を瞑った。少し俯いていた。
皐月は今この世界にいるのは目の前の華鈴だけだということに気がついた。そう思うと、華鈴のことが愛おしくなってきた。
皐月は腰を浮かせて椅子を移動させ、華鈴のすぐ隣へ体を寄せた。右手を華鈴の顎にかけた。抵抗する様子がなかったので、クイっと顔を持ち上げて自分の方に向きを変えた。もう後戻りはできなかった。
皐月は優しく華鈴と唇を重ねた。緊張しているのか、華鈴は固く口を結んでいた。息を止めているのか、華鈴の吐息を感じなかった。皐月はあえて細い息を華鈴にかけた。皐月に呼応するように華鈴も鼻で息をした。華鈴の吐息は真理や祐希や明日美と似て、甘くとろけそうな匂いがした。
皐月から顔を離した。華鈴の顔を見つめていると、少し遅れて華鈴も目を開いた。
「ごめんね」
華鈴が謝ってきた。
「何が?」
「入屋さんがいるのにこんなことしちゃって……」
「いいよ」
全然良くなかった。昨日、荼枳尼天の前で煩悩を祓うことを決意したのに、もう破ってしまった。
「藤城君、入屋さんとキスしたこと、ある?」
「ないよ」
「そう……」
華鈴は恥ずかしそうに微笑むと、急に席を立ちあがった。
「私、もう行くね。じゃあ」
華鈴は慌てて児童会室を出ようと駆けだした。足元を何かに引っ掛けて、出入り口の引き戸につんのめりそうになっていた。赤い顔で嬉しそうに手を振る華鈴を皐月は座ったまま見送った。