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『城の崎にて』の寓意を怖がる少女(皐月物語 79)

 藤城皐月ふじしろさつきは図書室での待ち合わせを失敗だと思った。今日は昨日とは打って変わって低学年の児童が大勢いる。静かすぎるのも会話の声が響いてしまうが、騒がしいのも落ち着かない。
 だがこれなら普通に話をしていても図書委員に注意されることはないだろう。今週の当番の野上実果子のがみみかこ月映冴子つくばえさえこはカウンターで忙しそうにちびっ子たちの相手をしている。
 バケットハットを取った入屋千智いりやちさとはセミロングの髪型が似合っていた。少し髪が伸びたからなのか、毛先を大きくワンカールさせている。
 及川祐希おいかわゆうきも高校へ行く前にヘアアイロンを使って毛先を内巻きしたり、外ハネにしてりしてボブに動きをつけている。皐月のクラスではおしゃれ好きの松井晴香まついはるかが毎日髪型を変えて楽しんでいる。
「本を返すって言ってたよね。何の本を借りたの?」
「この本なんだけど……」
 その本には『少年少女日本文学館』シリーズの第5巻『小僧の神様・一房の葡萄』で、志賀直哉、有島武郎、武者小路実篤という三人の白樺派の短編小説が収録されている。
 これは二橋絵梨花にはしえりかが読んでいた芥川龍之介の『トロッコ・鼻』を図書室へ探しに来た時に貸出中になっていた本だ。こんな文学書を読むのは吉口千由紀よしぐちちゆきのような読書好きの子だと思っていたので、借りていたのが5年生の千智だと知り、皐月は千智に対する認識を新たにした。千智とも文学の話ができそうで嬉しい。

「面白かった?」
「う~ん、面白いのもあった。面白いっていうより印象深かったって言った方がいいかもしれない」
 慎重に言葉を選ぶ千智に皐月は才智の深さを感じた。5年生でありながら学力では千智に敵わないのに、最近目覚めた読書でも負けてしまうのかと思うと、千智に対してコンプレックスを感じないわけにはいかなくなる。
「そうだよね、エンタメじゃないもんね。俺の聞き方が悪かった。じゃあ千智にとって最も印象深かった小説はどれだった?」
「んん……そうだね、志賀直哉の『城の崎にて』かな。いろいろ考えさせられて、何回も繰り返して読んだよ」
 皐月は『城の崎にて』を読んだことがなかった。たぶん千由紀なら読んでいるだろう。こういう時に自分も読んだことがあると言えるようになりたいと思う。
 絵梨花も千由紀も好きな話は何度でも繰り返して読むと言っていた。読み返すごとに理解が深まって面白くなるらしいが、千智は理解を深めるために何度も繰り返し同じ話を読んでいるようだ。
「いろいろ考えたって言ったけど、どんなことを考えたの?」
「……生と死、かな?」
「生と死!」
「いや、違う! そんな皮相的なことじゃなくて、なんていうかな……もうちょっと現在や未来の自分の身につまされるっていうか……」
 千智は難しいことを言う。皐月は「皮相的」という言葉を日常会話で初めて耳にした。漢検の勉強をしていなければ千智の言う意味がわからなかったかもしれない。
 千智は皐月との会話を重ねるにつれ、まるで皐月の知性を試しているかのように語彙のレベルを上げてきている。皐月は千智の賢さを知り、あえて小学生らしからぬ言葉を使うように背伸びをしてきたが、最近では千智についていくのがキツくなっている。
 そんな千智が『城の崎にて』の中に言語化が難しい何かを見出した。
「この話を読むとね、先輩に会いたくなるの」
「えっ、そうなの? どういうこと?」
「教えてあげない」
「なんだよ、それ」
 深刻な顔をしたかと思えば小悪魔のような顔をしてみせる。千智はそうして自分のことを値踏みしているのだろうか。皐月は時々このように千智に翻弄されてしまうが、女子に弄ばれるのは嫌いではない。だがいつか見切りをつけられてしまうのではないかという恐れも感じている。

「俺も『城の崎にて』を読んでみたくなったな。ネタバレにならない程度に内容を教えてよ」
「うん……いいけど、ちょっと待ってね」
 千智は動きを止めて虚空を見つめている。皐月は適当に答えてくれればいいのにと思うが、千智はきちんと話を要約したいと思っているのだろう。自分のために一所懸命考えてくれる千智の姿はなかなか尊い。
「『城の崎にて』は主人公が志賀直哉本人でね、交通事故で九死に一生を得た著者が城崎温泉で療養しているの。そこで何度か小動物の死に立ち会って、その時の心境をあらわしたお話、といったところかな」
「ふ~ん。なんか地味な話だね」
「うん。でも読み終わると心細くなっちゃって……」
「心細い?」
「うまく表現できないんだけど、寂しいともちょっと違うし、不安とも違うような気がする。寒い……が体感的には近いかな」
 千智の感じ方は文学少女の吉口千由紀よしぐちちゆきとも違う、独特なとらえ方だ。
「それって著者が小動物の死で感じたことに千智が共振や共鳴したってこと?」
「ううん、私は著者に反感を抱いたくらいだからそういったことじゃないの。主人公の心情に対してどうこうというよりも、この小説に書かれている小さな生き物の死に込められた寓意ぐういが怖いっていうか……」
「グウイが怖い? グウイって何?」
 漢検2級が泣く。皐月は自分の知識のなさが恥ずかしかった。
「あっ……寓意はこの小説の場合だと、小動物を人間に置き換えて意味を考えるっていうか……私は自分自身のことだって感じちゃったんだけど」
「比喩みたいなものか。で、千智は自分が死ぬ時のことを連想しちゃったんだ」
「うん。死んだ生き物たちはお前のことだって言われているみたいで……」
 これは『城の崎にて』を読んでみないと何もわからないな、と思った。ただ、千智の感性が繊細だということと、洞察力が高いことはわかった。

 千智との会話から方向性がずれてしまうことを恥ずかしく思いながらも、皐月には千智の「怖い」という感想が気になった。それは皐月が芥川龍之介の『歯車』を読んでいるからだ。
『歯車』は主人公が芥川本人で、『城の崎にて』の志賀直哉と同じパターンだ。『歯車』で芥川は志賀の『暗夜行路』を読んでいる。作中で芥川は『暗夜行路』を「恐ろしい本」だと言っていた。志賀直哉はそんなに怖い小説を書く作家なのか。
「もっとたくさん話したいんだけど、これ以上話すと、初めて読んだ時の受け止め方に先入観が混ざっちゃうから、先輩が読んだ後にまた『城の崎にて』の話をしたいな」
「……そうか。じゃあ千智が借りてた本、今日借りなきゃいけないな。実行委員が忙しくなりそうだから読書は修学旅行が終わってからって思ってたんだけど、そんなこと言ってられないや」
「『城の崎にて』だけなら短いからすぐに読めるよ」
「じゃあ借りよう。ところで千智って、わざわざ『城の崎にて』が入っている本を借りたの? 塾で推薦図書になってたとか?」
「推薦図書じゃないけど、ちょっと昔の小説を読んでみようかなって思って、このシリーズを借りてみたの。1巻から順に読んでいるんだけど、卒業までにこのシリーズを読破したいなって思ってる」

 稲荷小学校の図書室には『少年少女日本文学館』全20巻だけでなく、『少年少女世界文学館』全24巻と、『少年少女古典文学館』全25巻のセットが全て揃っている。
「全部読みたいって、すげえな……。文学少女目指してるの?」
「そういうわけじゃないんだけど、一度始めたら最後まで終わらせないと気が済まなくて……」
「なんだそれ! でも初志貫徹ってかっこいいな。俺にはたぶん無理だろうな。途中でつまらないって思っちゃったら投げ出しちゃうよ。俺は意志薄弱だから、いくら自分で決めたことでも、最後までやり抜くことはできないだろうな……」
 皐月は幼馴染の栗林真理くりばやしまりに乗せられて中学受験の勉強に手を染めてみたけれど、文学に興味を持ち、文学に関心が移って勉強は中途半端になっている。
 そもそも中学受験をするわけではないので、受験勉強を本気でやる気になるわけがない。同居している高校生の及川祐希おいかわゆうきが使っている教科書を見て先取り学習にも興味を持ったが、この気持ちも長くは続かないだろう。先取りはいずれ学校でやる勉強なので、いまいちモチベが上がらない。
「私だって本当につまんなかったり無意味だなって思ったら途中でもやめるよ。でも今のところはこのシリーズを読み続けるつもり。興味のある小説だけ読んでいるのと違って、全然知らない話でも、読んでみると面白い話もあったりするからね。楽しいよ」
「あぁ、そうか。給食みたいなものか。家では絶対に出てこない料理も、食べたら美味しかったり好きになったりするからな」
「給食だとどうしても食べられないものもあるけどね。アレルギーもあるし」
 なるほどな、と思った。皐月は日本経済新聞を読んでいるが、どうしても読めない文章がある。字が読めても、文章が読めない。
「そういう文章って今まであった?」
「国語のテストや塾のテキストは美味しくないよ。問題を解くこと前提で読まなきゃいけないから苦痛でしかないな……時間にも追われるし。受験勉強のための読書なら、本を読むの嫌いになってると思う」
「あれっ? 千智って国語苦手だったっけ?」
「それがどういうわけか成績は悪くないんだな~。えへへ」
「寓意なんて言葉をさらっと使うくらいだからな」
「寓意の解釈は物語文を解くために必要なテクニックだからね。受験勉強って、すごく読書に役立ってるよ」
 皐月は千智の謙遜しないところが好きだ。絵梨花は学力が高いことを感じさせないように謙遜するのでこっちも気を遣うし、真理は劣等感が強くて少し扱いづらい。

「今日借りる本はこれ」
 千智は『少年少女日本文学館』の第6巻『トロッコ・鼻』を手に取った。昨日、皐月が『るるぶ 京都』と迷って借りなかった芥川龍之介の本だ。
 絵梨花がこの本に収録されている『羅生門』を読んでいたのがきっかけで、皐月の周りでちょっとした羅生門ブームになっている。
「ついこの前、この本に載ってる『羅生門』読んだよ。面白かった」
「ほんと? 私、それ読んだことないな……。『トロッコ』なら塾の教材で読んだことあるけど」
「苦痛だった?」
「ううん。『トロッコ』は面白かった。だから芥川龍之介の小説が載ってる6巻は早く読みたいなって思ってたの」
 絵梨花に『トロッコ・鼻』を見せてもらった時は『羅生門』にしか目に入らなくて、千智の読んだ『トロッコ』には無関心だった。
 皐月はその日に家で青空文庫の『羅生門』の全文を読んだ。ネットのテキストは詳細な注釈がなかったが、PCならその場ですぐに言葉の意味を調べられる。
『羅生門』は面白く読めた。今読んでいる『歯車』も面白い。皐月は芥川の他の小説も読んでみたくなった。
「俺の周りでね、今『羅生門』が流行ってるんだ。まさか千智まで『羅生門』を読むことになるとは思わなかったよ」
 皐月は芥川から千智が絵梨花や千由紀、真理に繋がったことに不思議な縁を感じた。シンクロニシティという言葉が頭をよぎった。

「先輩の周りで『羅生門』が流行ってるって、なんだかすごい気がするんだけど……」
「そうだよね、やっぱちょっとすごいよね。たまたま俺の周りに文学好きと中学受験をする子がいて、その子たちの知的レベルが高いんだよ。クラスの他の奴らは昔の小説なんて全然興味がないからね」
「へ~、その子たちね。クラスの子は奴らなんだ。先輩、『羅生門』を読んでる人って女の子でしょ?」
 千智がからかうような、試すような眼で皐月を見ている。
「御明察。千智は名探偵だね」
「その女の子は二橋さんでしょ?」
「えっ! なんでわかったの?」
 女の子ということがわかっただけでも驚いたのに、いきなり絵梨花の名前が出てきてビックリした。一瞬で腕に鳥肌が立った。
「同じ塾に通ってるからね。豊川とよかわから通っている子ってほとんどいないんだけど、稲荷小学校からは私と二橋先輩だけだから、たぶんそうかなって思って」
「なんだ、びっくりした。霊感でもあるのかと思ったよ」
 千智が『トロッコ・鼻』を手に取った時、皐月は真っ先に絵梨花のことを思った。そんな絵梨花の名前がいきなり出てきたことに驚いたが、それだけでなく、文学の話から男女の話へ飛躍したことにも気持ちが揺れた。

「二橋先輩とは少しだけど話したことあるよ。すごくいい人だし、お人形さんみたいで、かわいらしいよね」
「そうだね。でもかわいさじゃ千智には敵わないと思うけど」
あ~っ! 適当なこと言ってるでしょ? 全然そんなことないのに、すぐそうやって煽てる」
「煽ててないよ。本気でそう思ってるから。まあ、俺の感情が上乗せされているからね。評価が甘くなっちゃってるかもしれないけどね」
「じゃあ素直に喜んでおく……ありがとう」
 本気で思っていることでも、言うタイミングによってはいやらしくなるものだ。皐月の気持ちを聞いて嬉しそうにしている千智を見ていると、皐月は救われる気持ちになる。
 底の見えない千智のスペックに卑屈になりそうな時もあるが、目の前にいる千智はただのかわいい女の子だ。皐月は千智の前では恐れを抱きながらも、格好つけていようと思った。
「そろそろ行こうか。本借りようぜ」
「うん」
 貸出カウンターを見ると、野上実果子のがみみかこ月映冴子つくばえさえこがこちらを見ていた。実果子は少し機嫌が悪そうだ。皐月が先に立って、実果子の視線から千智を隠すようにカウンターへ歩を進めた。


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音彌
最後まで読んでくれてありがとう。この記事を気に入ってもらえたら嬉しい。