老芸妓、京子の心配(皐月物語 85)
委員長と副委員長、書記の3人が残った修学旅行実行委員会の第2幕が終わったのは最終下校時間になろうとする頃だった。藤城皐月は江嶋華鈴と一緒に下校するつもりだったが、水野真帆にも一緒に帰ろうと誘った。真帆は家の方角が違うので、校門を出てすぐに別れた。皐月は華鈴と二人で通学路の狭い路地に入った。
皐月は自分が中心になって委員会をやってみて、栞作りをできるだけ短い時間で終わらせるという目標ができた。作業量の全貌が明らかになってゴールまでの見通しが立ったのでやる気が出てきた。有能な真帆が手伝ってくれることになったので、昨日家で考えていたよりもずっと早く終わらせることができそうだ。
「俺と江嶋が担当するページ、いつやる?」
「修学旅行のルールをまとめるんだよね。しっかりと『集団行動と約束』を読んでおかないと何もできないね。明日学校でコピーを取るよ」
「今から駅前のコンビニに行ってコピー取ろうぜ」
「いいよ、お金なんか使わなくても。学校でコピー取るから」
華鈴はお金に対する考え方が堅実だ。確かに全ページをコピーするとなると小学生の小遣いでは負担が重くなる。
「あぁ……そういうのは江嶋に頼んだ方がよさそうだな。俺、学校のコピー機とか使ったことないし」
「明日の昼休み、児童会室で栞作りをしたいんだけど、大丈夫? やっぱり昼休みはみんなと遊びたい?」
「いや、さすがに修学旅行が終わるまでは遊べないよ。ちゃんと委員長の仕事をするから」
皐月は教室で休み時間にいつも受験勉強をしている栗林真理や二橋絵梨花を見ている。彼女たちの時間を惜しんで努力する姿を見ると、自分も二人に負けないくらい実行委員の仕事を頑張らないといけないと気を引き締めた。
「じゃあ、昼休みに児童会室な」
「今日もらった冊子、中休みに藤城君のクラスに取りに行くから。その時にコピーを済ませちゃえば昼休みは全部栞作りに使えるでしょ」
「わかった。ところで水野さんは誘う?」
「水野さんは誘わなくても児童会室に来ると思うよ。児童会が忙しい時はいつも児童会室で作業してたから、委員会のある間も同じことをすると思う。でも一応声をかけてみるね」
検番の近くまで来ると二階の窓が開いているのが見えた。今日は芸妓の誰かが稽古をしているのかもしれないと思い、皐月が誰か芸妓が来ていないか意識しながら窓の下を通り過ぎようとすると、奥の方からこっちを窺っている視線を感じた。
「どうしたの?」
立ち止まる皐月に華鈴が声をかけた。皐月にはすぐにその視線が明日美のものだとわかった。陰からそっと覗いているようでコソコソしている感じが気になったが、明るく手を振って声をかけた。
「お~い」
奥から出てきた明日美は軽く微笑みながら窓辺に座り、欄干に手をかけて顔を出した。何気ないポーズが様になっていて格好いい。今日の明日美は無造作にひとつ結びをしたラフなヘアースタイルだが、芸妓の時とは違う都会的なメイクが美しい顔をより引き立たせている。
「皐月、久しぶり。ビデオ通話以来だね」
「直接会うのは一カ月ぶりくらいかな」
「そうね。皐月はこの一カ月で随分変わったね。まるで別人みたい」
「ちょっと成長しただけで、俺は何も変わってないよ。あっ、髪型は変わったかな」
「そう……。こんなところで話しててもなんだから、こっちに上がって来ない? 良かったらそちらの可愛い彼女も一緒にいらっしゃいな」
明日美がまだ恋愛経験のなさそうな華鈴の目を、大人の眼差しで見据えている。その眼力には容赦はなかった。
「江嶋、どうする? 俺は行くけど」
「私は……帰る」
「そうか……。じゃあまた明日」
「うん……」
華鈴を見送って二階の窓を見上げると、そこにはもう明日美はいなかった。
検番の玄関に回って紅殻格子の引き戸を開けると、老芸妓の京子が出てきた。相変わらずシャキッとした動きで、いつまでも若い。
「こんにちは、お母さん」
「皐月かい? どうしたの、その髪。一瞬誰かわからなかったよ」
「えへへ、似合ってる? ここんとこだけ紫に染めたんだ。カッコいい?」
髪をかき上げてインナーカラーを京子に見せた。
「男前が上がったねぇ。前の女の子みたいな長い髪も似合ってたけど、今の髪型の方がアイドルみたいで格好いいじゃないか」
「ありがとう。口の悪いお母さんに褒められるってことは、本当にカッコいいんだろうね」
「まあっ、あんたは人のことを何だと思ってるんだい。ところで今日はどうしたの? 涼を取りに来るほど暑くもないのに」
「稽古場の下を通りがかったら明日美に声をかけられたんだ。明日美と会うの久しぶりだし、ちょっと明日美と遊んでから帰ろうと思って。今日は非番みたいだから稽古の邪魔にならないよね?」
皐月や真理は検番では好き勝手にさせてもらっていたが、稽古の邪魔をした時だけは京子にきつく叱られてきた。
「そのことなんだけどさ……皐月には明日美の稽古の邪魔をしてもらいたいんだ。あの子、昼に来てからずっと一人で稽古をしてるんだよ。根を詰めると身体に悪いから、休ませてやらないとね。あの子は私が言っても聞かないから」
「明日美は真面目だからね。……ねえ、お母さん。明日美って何の病気だったの?」
「なんだい、百合に聞いてなかったのかい?」
「聞いたけど、難しい言葉で言われたからよくわかんなくて……」
皐月は咄嗟に嘘をついた。明日美の病気のことを聞いても、小百合ははぐらかして、皐月には何も教えてくれなかった。しつこく聞くと怒られるので、いつかチャンスがあれば誰かに聞いてみたいと思っていた。皐月には直接明日美に聞く勇気がなかった。
「バカだねぇ、あんたは。まあ簡単に言えば心臓の病気だね。あの子は酒もタバコもやらないし、食事だって普段からストイックに節制しているのに、どうしてあんな病気になっちゃったんだろうねぇ」
明日美の病気が心臓だと知り、皐月は絶望的な気持ちになった。命に関わる病気だし、心臓は治らないと聞いていたからだ。皐月の中で明日美と死が繋がってしまった。この不吉な連関に皐月は戦慄した。
心臓の病気が最近身の回りで増えていることは皐月も実感している。身内が心臓病で亡くなった同級生が何人かいたし、違う学年の先生が一人、まだ若いのに心筋梗塞で亡くなった。先生の死は児童たちを騒然とさせた。
宴席でもお客同士で誰誰が心筋炎になったとか、亡くなったとかの話をよく聞くようになったと母の小百合が言っていた。真理の母、凛子は明日美の病気がきっかけで神経質なくらい健康に気を使うようになった。
「要するに俺は明日美を休ませればいいんだね。わかった。やってみる」
「じゃあ頼んだよ。私が顔を出すとあの子、怒るから」
これは重大な任務だと思った。明日美に無理をさせると命に関わる。何としても明日美を休ませなければならない。
皐月は階段を上がって二階の稽古場へと向かった。稽古着を着ていた明日美はすでに私服に着替え終わっていた。ネイビーのテーパードパンツに白いTシャツのコーデはピンクのリップがよく映える。明日美を目の前にした皐月は一瞬で心の奥底に隠れていた気持ちが溢れてきた。同時に真理と交わした身体の記憶が一気に皐月を緊張させた。
「どうした?」
「……明日美のそういう格好、あまり見ないからつい見惚れちゃって」
「なんだ、恥ずかしいな……。今、一番適当な格好してるのに」
「明日美って……本当に世界で一番綺麗だね」
いつものテンプレ的な言葉遊びではなく、皐月は心からそう思った。今日の明日美はどこか憂いを帯びている。それが稽古による疲れだけとは皐月には思えなかった。
「そんな風に言われると照れるな……。これじゃ、いつもみたいにチューしてやるよなんて言えないな」
「え~っ! ヤダよ!」
「……ばか」
いつもなら明日美に抱き寄せられるところを、今日は皐月の方から明日美に身体を預けにいった。一応、明日美は皐月を優しく抱きとめてはくれたが、これまでのようにキスをしてはくれなかった。
今日の明日美は皐月と同居している女子高生の及川祐希のような制汗剤の香りがした。
明日美は一度皐月を身体から離し、脱ぎ終えた稽古着を畳み始めた。慌てて着替えたのか、脱ぎっぱなしの着物が板張り床に散らかっていた。
「もう稽古終わるんだね。ちょっとは休めってお母さんが心配してたよ」
「お母さんも心配性だな……。そんなこと皐月に言わなくてもいいのに」
「稽古の邪魔してこいってさ」
「稽古は御仕舞にするつもりだったよ。せっかく皐月が会いに来てくれたんだから」
「そっか。よかった。これでお母さんに頼まれたことを完遂できる」
今日の明日美は言葉がいつもよりも柔らかい。マスコットのような扱いではなく、人として扱われていることがわかる。嬉しい半面、いつもよりも距離を感じて少し寂しい。
明日美は稽古着を畳み終え、手荷物のある部屋の隅へ戻って腰をおろし、ペットボトルの水を飲んだ。皐月も明日美の横に座った。
「皐月、ごめんね」
「えっ? 何を謝ってんの?」
「デートの邪魔をしちゃったかなって」
白々しいな……と皐月は思ったが、そんな明日美が可愛くもあった。今までは保護者のような振舞いをしていたが、今日の明日美は普通の女の子のようだ。
「デートじゃないよ。俺、修学旅行の実行委員になってさ、委員会で帰りが遅くなったんだよね。それでさっきの委員の子と帰り道が同じ方向だったから一緒に帰ってただけ」
「修学旅行か……。どこ行くの?」
「京都と奈良」
「京都奈良か……。いいな。私も小学生の時に行ったよ。またいつか行ってみたいな……」
皐月は明日美がどこかに旅行に行ったという話を聞いたことがなかった。芸妓の誰かがどこかに旅行に行けば必ずお土産を買って来てくれるが、明日美からは旅行のお土産をもらったことがない。もしかしたら明日美は年に一度の芸妓組合の旅行しか行っていないのかもしれない。
「祇園を見てこようと思ってるんだ。まあ芸妓さんや舞妓さんに会えるとは思わないけど」
「芸妓や舞妓に会えなくても祇園に行きたいの?」
「単純に花街が見たいだけだよ。だって同業者じゃん、一応」
「そうか……」
初日の班行動はまだ行き先が決まっていない。みんな清水寺に行きたがっているから、皐月は絶対に祇園をコースにねじ込んでやろうと思っている。そして祇園の街を歩いた感想を明日美にたくさん話したい、それだけでなく明日美とはもっといろいろな話をしたいという気持ちが溢れてきた。それは心臓の病が明日美を黄泉の世界へ連れ去ってしまうのではないか、という焦燥感に苛まれているからだ。
「お土産買ってくるよ」
「お土産? いいよ、そんなの。お小遣い少ないんだろ?」
「そんなの、余分に持っていくに決まってるじゃん」
「はははっ、そりゃそうか。当たり前だよな、そんなの。よかったら少しカンパしようか?」
「いいよ、自分のお小遣いで買うから。カンパなんかされたらただの買い物代行になっちゃうじゃん」
「そうだね。何言ってんだろ、私……」
頼りなく笑う明日美が皐月には照れ笑いに見えなかった。今日の明日美はいつもと少し違う。京子の言うように根を詰め過ぎて疲れているだけなのかもしれない。だが皐月は明日美の身体が心臓の病に蝕まれているのではないかと心配になってきた。
「あまり高いものは買えないと思うけど、何がいい?」
「……そうだな、いつも持ち歩けるものがいいかな」
「わかった。じゃあ小さくて可愛いものにする。楽しみにしててね」
「ふふっ、本当に楽しみ」
明日美がこの日、一番嬉しそうな顔をした。その顔が余りにも目映くて、皐月は完全に心を射抜かれてしまった。このまま時間が止まればいいのにと願いながら、ずっと明日美を見つめ続けた。