淡い光の中(皐月物語 47)
夕食時になると多くの店が閉まる栄町商店街の中で、夜でもなお薄明るい光を放つ純喫茶パピヨンは夜景を彩る存在感を放っている。
藤城皐月は先に立ち、及川祐希をエスコートしてパピヨンに入った。
「いらっしゃい」
マスターはこちらをチラっと見たが、髪を切ってカラーをした皐月を皐月と気づいていない。
「マスター、久しぶり」
「あれ? 皐月君だったの? 見違えちゃったね。てっきり若いカップルかと思ったよ」
「ははっ、俺たちカップルに見えるんだってさ」
祐希の方を見ると恥ずかしそうな顔をしていた。
「そちらの彼女は頼子さんのお嬢さん?」
「はじめまして。及川祐希と申します」
「頼子さんに似て美人さんだね。お母さん、いつも百合ちゃんと楽しそうにお喋りしているよ。今日はゆっくりしていってね」
「はい。ありがとうございます」
店内には皐月たちの他に仕事帰りらしいサラリーマンが一人いるだけだった。皐月は幼馴染の栗林真理がよく座っている奥のボックス席につくことにした。
真理が好むだけあってこの席は落ち着くので、皐月も気に入っている。店内にはマスターの趣味の80年代の洋楽が流れている。この時間帯では昭和歌謡を流さないようにと、マスターの奥さんから言われているらしい。
「さて、何頼もうか」
「皐月のお勧めは?」
「そうだね……餃子かな。ここは餃子の美味しい喫茶店だから」
「えっ、餃子? なんかカフェにそぐわないね、餃子って。食べた後、人に会えなくない?」
「ここの餃子は大蒜抜きだから大丈夫だよ。マスターが大蒜嫌いだから、全品大蒜抜きなんだ。おれはサンドイッチと餃子にしようかな。でもやっぱ汁気が欲しいから水餃子にしよっ」
「私は……ステーキピラフを食べてみたい。あまり高くないし、いいよね?」
「予算内だから、遠慮しなくてもいいよ」
「だってステーキなんて贅沢かなって思って」
「大丈夫。ここのステーキはしょぼいから」
「そんな言い方しちゃダメでしょ!」
皐月が祐希にくどくど説教されていると、マスターがお冷とおしぼりを持ってやって来た。
「ねえマスター。祐希のステーキピラフ、お肉をいっぱい乗せてあげて」
「了解。もうしょぼいなんて言わないでくれよな」
「あっ、聞こえてた?」
「すみません。皐月君が失礼なこと言って。あの、普通の量でいいですから」
「いいよ。今日は初めてこの店に来てくれたんだから、サービスするよ。絶対おいしいから楽しみにしててね」
マスターが席を離れるまで祐希はずっと恐縮をしていた。マスターがカウンターの向こうに行くのを待って祐希が話し始めた。
「友だちの美紅がね、皐月のファンなんだって」
「ふ~ん」
「でね、新しいヘアスタイルの皐月の写真を見せたら、すごく興奮しちゃって大ファンになったんだって」
「あっ、そ。……てか勝手に写真見せんなよ。肖像権の侵害じゃん」
「いいじゃない、別に。みんな私の新生活のこと気にしてくれてるんだから。それよりその素っ気ない態度、何? 感じ悪いなぁ。ファンができて嬉しくないの?」
「嬉しいも何も、俺、その美紅って子のこと知らんし」
「知らない子でもファンになってくれたら嬉しくない?」
「全然」
「ああ……。皐月ってなんか余裕だよね。やっぱ千智ちゃんがいるから他の子にモテても何とも思わないんだ」
祐希の中では皐月と千智は付き合ってる設定になっているようだ。祐希と千智は二人でメッセージのやり取りをしている。その中で祐希が皐月と千智が付き合っていると解釈するようになったのなら、悪い気はしない。
「美紅の写真、見せてあげる。はいっ」
祐希からスマホを手渡された。祐希と一緒に写っている黒田美紅は軽くメイクをしていて、祐希よりも大人っぽく見えた。見慣れている明日美などの芸妓衆と比べたら全然色気はないけれど、小学生とおばさんしかいない皐月の身近にはいないタイプだ。美紅のことを魅力的だな、と思った。
「美紅が皐月に一度会ってみたいんだって。一応無理かもって言っておいたけどさ……」
「いろいろ気を使わせちゃったみたいだね」
「でも皐月の写真を見せた件とは関係なしに、一度豊川に遊びに来たいって言っていたから、よかったらその時に家に来てもらってもいい?」
「そんなのいいに決まってるじゃん。祐希の家なんだから友だちなら誰を連れて来たって構わないよ」
美紅の写真を見るまでは何とも思わなかったのに、今では皐月もこの美紅という人に会ってみたいと思い始めた。だが、自分がすぐに女の人に会いたくなるような女好きだとは思ってもみなかった。女の人に対する感覚が最近少しおかしくなっている。
「ありがとう。でね、もしよかったらその時、少しでいいから美紅と会ってもらってもらいたいんだけど、いい?」
「そりゃいいけど……祐希の友だちだし」
仕方なく会うという演出のため、できるだけ仏頂面を装っている。ここでニヤけたら格好悪い。
「でも女子高生が小学生と会って面白いのかな。俺、子どもだよ?」
「皐月は皐月が思ってるほど子どもじゃないよ。うちの学校の男子生徒よりも大人びている時もあるし。でもやっぱり子どもっぽいところもあるし……6年生って面白いね」
食事が運ばれてくるまでの間、皐月は祐希から黒田美紅がどんな子で、祐希とどれくらい仲がいいかを聞かされた。
美紅は卒業後、東京の専門学校で服飾の勉強をするという。祐希がとにかく東京へ出たいと思っているのは美紅の存在が大きいらしい。皐月はてっきり恋人を追って東京に行きたいのかと思っていた。
運ばれてきたステーキピラフは肉を焼いた食欲をそそる匂いがした。皐月は自分で頼んでおきながら、水餃子じゃなくいつもの焼き餃子にしておけばよかったと後悔した。祐希の頼んだステーキピラフには大盛りの肉が盛られていた。
「マスター、これ盛り過ぎじゃない?」
「通常の3倍の量だ。凄いだろ」
「凄え~。これ正式なメニューにしたらいいじゃん。ウケるよ」
「ウチは喫茶店だからね。飯屋じゃないよ」
「その割にフードメニューが充実してるよね。それに美味いし」
「ありがとう。嬉しいこと言ってくれるね」
「マスター、これ写真撮ってもいいですか?」
ステーキ山盛りのピラフを前にして、祐希のテンションが少し変になっている。
「いいよ。ウチは写真自由だから好きにして」
「ありがとうございます。友だちに自慢します」
マスターが下がると祐希が写真を撮り始めた。皐月のサンドイッチと水餃子の写真も撮っている。皐月はスマホを手渡され、ステーキピラフを前にして嬉しそうな祐希の写真を撮ってあげた。
「ねえ。皐月の写真も撮っていい? 美紅に送りたいな」
「ヤダよ」
「え~、ダメなの? じゃあ私と皐月の二人で写った写真ならいい?」
返事をする前に祐希は皐月の隣の席に座っていた。
「ここで撮れば店の雰囲気も伝わりそう。美紅が豊川に来たらこの店に連れて来たいな」
「……じゃあ1枚だけな。あまりアップで写すなよ」
「ありがとう。皐月はいい子だね~」
新しい客がやって来た。栗林真理だ。
「いらっしゃい、真理ちゃん」
「ちょっと遅くなっちゃってすみません。食事ってまだ大丈夫ですか?」
「いいよ。何でも頼んで」
「じゃあカレーセットでお願いします」
「ありがとう。よかったら大盛りにしようか?」
「普通でいいですよ」
「奥のテーブルに皐月君が来てるよ。いつも真理ちゃんが座ってる席」
「そうなの? ありがとう」
真理は皐月のいる奥のエリアに向かった。皐月と祐希が壁の方を向き、店内に背を向けて並んで座っている。なんで壁に向かって並んでいるの、と思っていると、二人は一緒に自撮りをし始めた。
「あっ、真理ちゃんだ」
祐希がスマホの画面に写り込んだ小さな真理に気付いた。振り返って真理に挨拶をすると、真理も皐月が振り返るのを待って挨拶を返した。
「よう。今日は外食か。こっち来る?」
「いい。勉強しながら食べるから、向こうに行く。じゃあね」
一度も笑顔を見せずに真理が離れた席に行ってしまった。皐月は祐希に言われるがままに何枚も写真を撮り直していたが、最初に決めた通り、1枚だけでやめておけば良かった。そうすれば真理にこんなところを見られなくてすんだ。
「真理ちゃん、ピリピリしてたね」
「受験が近付いているからな。勉強で疲れているんだろ。御飯食べたらちょっと真理んとこ寄ってってもいい?」
「いいよ。じゃあ私、先に帰ってるね」
「玄関の鍵、持ってる?」
「うん。外に出る時はいつも持つようにしているから」
「じゃあ玄関の鍵、しめておいて。俺も鍵持ってるから」
「うん。戸締りはちゃんとしておくね」
真理は皐月たちから直接見えないところにいた。普通に会話しているだけなら真理のところまで声が届かないと思ったが、皐月と祐希は真理の勉強の邪魔にならないよう、小声で話しながら食事をとることにした。皐月は祐希の大盛りのステーキを少し分けてもらった。
美紅からの返信はすぐに来た。皐月に会えることを喜んでいたが、皐月と祐希のツーショットにはご立腹のようだった。食事が終わると祐希だけで精算をして、一人で先に帰った。
真理はカレーを食べながら理科の勉強をしていた。電気の回路の問題を解いているようだが、もちろん皐月は学校でこんな難しいことまで勉強していない。
「ここいい?」
「別にいいけど。今勉強中だから邪魔しないでね」
夏休みにパピヨンで会った時は真理の方から同席しようと誘ってきたのに、今日は素っ気ない。
「勉強だったら一番奥のボックス席の方がいいじゃん」
「だってあんたらがいたでしょ」
「いや、そうじゃなくてさ。今から移動したらって話」
「もう他にお客さんいないから、どこだって一緒だよ」
「そりゃそうか」
真理は皐月と目を合わせようとしない。勉強に集中しているのか機嫌が悪いのか、皐月には良くわからない。こっちのテーブルには皐月のお冷がないので、暇つぶしに氷を齧ることもできない。
「最近勉強の調子どう?」
「全然。私がいくら頑張ったところで、他の子たちも頑張ってるからね、もうこれ以上成績が上がる気がしない。むしろ下がり気味だから嫌になる」
「そうか……。もう人より頑張ればいいって段階じゃないんだな。キツいな」
「絵梨花ちゃんはさ、日付が変わるまで勉強ができるんだって。たぶん他の受験生もそう。でも私はどうしても眠くなっちゃうから、長時間の勉強ができないの。これからは差が開く一方だよ」
皐月にはかける言葉がなかった。真理はすでに頑張っている。こんなに頑張っている真理に、さらに頑張れだなんて皐月には言えない。それに何も頑張っていない自分の言葉なんか何の説得力もない。自分が今ここにいると本当に勉強の邪魔なんだな、と思った。
真理が黙々と勉強をしている間、皐月はぼんやりと真理を見ながら考え事をしていた。
昔は自分の方が真理よりも圧倒的に勉強ができた。今でも自分は中学受験組を除けば勉強では一番だという自負がある。それでも今では真理に勝てなくなった。そんな真理でも絶対に勝てない子たちが皐月の知らないところにはたくさんいる。
上には上がいる。その違いは何だろう。やっている勉強の質と量、あとは上を目指す気持ちや背負うものか。
勉強の先には学歴があり、学歴の先には地位や金がある。言い換えれば、勉強をすることで人の上に立とうとしている人間が競争しているのがこの世界だ。
もしかしたら自分はとんでもなく甘い人間なんじゃないかと、怖くなってきた。お金なんか困らない程度あればいいし、人の上に立つことの何が面白いのかさっぱりわからない。自分はただ、寂しくなければいい……。
「俺、帰るわ。勉強の邪魔して悪かったな」
「帰っちゃうの? もうちょっと付き合ってよ」
皐月はこの席に来て初めてまともに真理の顔を見た。白熱灯の温かく柔らかな光に照らされた真理は儚げで、今にも消え入りそうに見えた。
「この席の照明だと暗いんじゃない? いつもの席の方が明るいぞ」
「いいの。問題を覚えちゃえば、あとは頭の中で考えるだけだから」
「だって今、問題に見入っていたじゃん」
真理は頬杖をつきながら、気だるげに理科の問題を見ていた。こんな様子でいつも勉強しているのかと思うと、皐月は自分が受験勉強をしていないことに引け目を感じていた。
「見ているように見えるかもしれないけど、何も見ていないよ。集中しているから」
「ああ……」
皐月は勉強の邪魔をしないよう、窓際にもたれかかり外を見る格好をして、ガラスに映る真理のことを眺めることにした。真理は見つめられていることに気付くかもしれない。でも窓に写り込んだ姿ならきっと許してくれるだろう。
「ねえ、この後、家に寄ってってよ」
皐月はいつの間にかぼんやりとしていて、話しかけられたことに気付くのに間があったみたいだ。真理を見ると、もうカレーセットを食べ終わっていた。
「えっ? 今から?」
「今日うちのお母さん、百合姐さんと同じお座敷でしょ。頼子さんも一緒なんだよね。じゃあちょっとくらい遅くなってもいいでしょ」
店内の時計を見るともう8時になろうとしている。夕食終わりにしては遅い時間だ。さっきまでとは別人のように真理はこっちを見ている。
「わかった」
祐希に真理の家に寄ってから帰るとメッセージを送ると「夜遊びはほどほどに」とだけ書かれた返信が来た。
「真理、俺と遊んでいて勉強大丈夫か?」
「皐月はそんな心配しなくていいの。行こっ」
パピヨンの外に出ると商店街の店はほとんど閉まっていた。パピヨンの電飾看板も回転灯も電気が消えていた。
パピヨンの窓から漏れる淡い光の中で見る真理はいつもよりも美しかった。それなら、暗がりの中なら自分も少しは格好よく見えているのかもしれない。今は勉強ができるようになることよりも格好良くありたい。
「皐月、コンビニ寄って行こっか」
「まだ食うのか。太るぞ」
「この前食べたピーチパフェ、まだ売ってるかな?」
「コンビニは商品がころころ変わるからな」
「売ってたらいいな」
「そうだな。売ってたらいいな」
真理と顔を見合わせると、真理はいつまでもこっちをじっと見つめている。皐月はこの間に耐えられなくなり、目をそらそうとしたら真理に微笑みかけられた。
「なんだよ」
「皐月、髪型変えて格好よくなったね」
「なんだよ、前は地味だって言ったくせに」
「地味で格好いい」
「真理、適当なこと言ってるだろ?」
「バレたか」
笑いながら真理は皐月を置いて早歩きで先に行ってしまった。走るのは遅いくせに歩くのだけは速い。皐月は小走りで真理を追いかけた。