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修学旅行、糺の森と相生社と「あなにやし」(皐月物語 137)

 鴨川デルタで家から持ってきた弁当を食べ終えた藤城皐月ふじしろさつきたち6人は次の訪問地、下鴨神社へ向かった。葵公園の入口に「史跡 ただすの森(下鴨神社境内)」という案内札が建っていたので、矢印に従って下鴨東通を進んだ。
 左手に旧三井家下鴨別邸の土塀どべいが巡らされていた。皐月は土塀の石垣から何かの新芽が吹いているのを見つけた。
「よくこんなところから芽が出るね。何の芽だろう?」
「これはえのきの芽生えだよ」
 榎の名前は知っているが、皐月は木の見分けがつかないくらい樹木に関しては知識がない。何気なく口にした言葉が恥ずかしかった。
「よく知ってるね、二橋さん。すごい」
「前の学校で習ったの。5年生の時の担任の先生が森林インストラクターの勉強をしていた人で、理科の授業で校外に出て、いろいろ教えてくれたの」
 二橋絵梨花にはしえりかは5年生まで名古屋に住んでいた。絵梨花は担任に恵まれていたようだ。皐月は学校の理科のテストで満点以外は取ったことがないが、教科書に書いてあること以外は何も知らないに等しい。
「もっと楽に生きられるところがあるのに」
「こういう隙間は水が蒸発しないから、根を広げられるの。芽を抜いたり切ったりしないとどんどん大きくなっちゃって、塀が壊れちゃう」
 土塀に沿って歩いていると、賀茂御祖神社の社号標しゃごうひょうと一の鳥居が見えた。この鳥居は朱に塗られていて、笠木かさぎの黒い明神鳥居だ。
 一の鳥居の手前に旧三井家下鴨別邸の入口がある。ここから入るとすぐ右手に御手洗いがある。あらかじめ調べておかなければ塀に隠れて見えないようになっている。
「ちょっとトイレに行かせて」
「僕も」
 皐月と神谷秀真かみやしゅうまは旧三井家邸の門を通って、敷地内に入った。そこには切妻瓦葺屋根の落ち着いた佇まいの御手洗いがあった。先に用を済ませた皐月は秀真が出てくるのを外で待っていた。
 皐月は別世界にいるような寂しさを感じていた。本来、自分とはまるで縁のないこの大富豪の邸宅で、このトイレだけは自分のことを受け入れてくれた。異世界のような京都の寺社や街並みを歩いて来たことを振り返ると、自分が便所にふさわしい糞みたいな人間のような思いに囚われてしまう。
皐月こーげつ、お待たせ」
 秀真はなぜかニコニコしていた。
「なんで秀真ほつまはそんなにご機嫌なんだよ?」
「だって、いいトイレを使わせてもらえたんだよ。嬉しいじゃん」
 こんな気持ちでいられたら楽なんだろうな、と皐月は秀真のことを羨ましく思った。

 みんなの待つ所へ戻ると、絵梨花たち4人は一の鳥居の下で皐月と秀真を待っていた。
「ねえ、神谷君。昔は河合神社の境内に鴨長明の住んでいた家が復元されていたんだよね。今はどこにあるか知ってる?」
 皐月は吉口千由紀よしぐちちゆきの言う鴨長明を国語の教科書で見たことがあった。古文に親しむ単元に「方丈記」の一部が収録されていた。
「境内の外にあるらしいけど、今は非公開なんだって」
「そうなんだ……見たかったな」
 旧三井家邸を過ぎ、京都家庭裁判所の土塀沿いに歩いている時、皐月は千由紀に鴨長明の草庵の何が見所なのかを聞いてみた。
「鴨長明が世を捨てて、『方丈記』を執筆した家を、生活感が感じられるほど細部まで復元したところかな。住まいの様子が『方丈記』に事細やかに書かれていたんだよね。こういう家で『方丈記』を書いていたんだな、って思うとゾクゾクしちゃう」
「ゾクゾク?」
「うん。私、作家の書いた文章も好きだけど、その人となりにも興味があるから。長明がどんな暮らしぶりをしていたのかがわかる空間ってそそられる」
 千由紀は文学作品だけじゃなく、作家そのものにも興味があるようだ。皐月はまだ小説を読み始めたばかりなので、千由紀ほど作家に関心があるわけではない。千由紀は自殺をした作家の小説を読むのが好きだと言っていた。
「そっか……鴨長明も作家だもんね。俺、『方丈記』って読んだことないんだけど、面白い?」
「そうだね……面白いっていえば面白いかな。一言で言えば、落ちぶれた老人が定年後に書いたブログなんだけど、私は好き。でも、この文を現代語訳して投稿サイトに上げても、多分埋もれる」
「大したことが書かれていないってこと?」
「そういうわけじゃない。前半は平氏と源氏の争いで都が荒廃した話だったり、大地震や飢饉などの災害の話だったりするけど、昔話を今の人に読んでもらうのは難しいってこと。リアルタイムの戦争や災害の話だったらバズるかもね。例えば移民と地元民の抗争があって、街がグチャグチャになった様子を書いたりとか、地震や津波、台風なんかで未曽有の被害が出た話とか。でも、今は動画の投稿が多いから、文字で動画に勝つのは難しいかも」

 皐月たちは鴨社資料館、秀穂舎しゅうすいしゃの前まで来ていた。この建物は下鴨神社旧社家しゃけ、旧浅田家住宅だ。玄関は華表門と呼ばれる社家独特の鳥居に屋根を乗せた造りになっている。中には泉川が流れていて、神職の家らしく禊場がある。
「鴨長明は下鴨神社の社家の人だったの。きっとこんな家で育ったんだろうね」
 鳥居の形をした車止めの先の道は雰囲気が一変した。石畳の並木道の両側に瀟洒な建物が現れた。マップで調べると、高級マンションだった。
「うちのマンションとは全然違う。なんか高そう」
 栗林真理くりばやしまりは豊川駅前のマンションに住んでいる。皐月から見れば、真理のマンションだって十分格好いいと思うが、ここと比べると見劣りするのは否めない。
「真理はこういうマンションに住みたいのか?」
「私はワンルームでいい。広い部屋なんか必要ない」
 真理が今住んでいるマンションに引っ越す前、皐月の家の近くの小さな借家に母と二人で住んでいた。皐月と真理の母親は芸妓をしていて、お互いの家をよく行き来していた。
「鴨長明の草庵は一部屋しかなかったけど、一人で暮らすには十分だって思ってたみたいよ。栗林さんの考え方って鴨長明みたい」
「吉口さん、いいよ、そんな風に言ってくれなくても。私はただ、部屋が広いといろいろ面倒だからっていう、しょーもない理由だから」
「長明も引っ越しが面倒だから家を小さくしたんだって」

 皐月たち6人は御蔭通に出た。横断歩道を渡った先に、朱塗りの玉垣に囲まれた空間がある。石畳のアプローチの先が糺の森だ。
 糺の森の入口の左手に世界文化遺産を示す石碑がある。下鴨神社は糺の森を含めての世界文化遺産だ。森の中の表参道の先に下鴨神社の本殿があり、参道に入ってすぐに左に曲がると河合神社がある。
「じゃあ僕たちは河合神社に行ってくるね。多分すぐに追いつけると思うから」
「30分後には楼門を出るよ」
「わかった。……皐月こーげつ、ごめんな。俺ばっかり好きな所に行かせてもらって」
「気にするな」
 皐月たちは瀬見の小川にかかる紅葉橋のたもとで別れた。皐月は河合神社に向かう秀真と岩原比呂志いわはらひろしの写真を撮り、糺の森の中を歩いた。
「皐月、本当は神谷君たちと一緒に行きたかったんじゃない?」
 真理が申し訳なさそうな顔をしていた。
「そうだな……まあ、行きたかったかな」
「今からでも行けばいいじゃない」
「いいよ、行かなくても。こんなこというといやらしいって思われるかもしれないけど、俺は女子のみんなと一緒に旅をしたいっていう気持ちの方が強いんだ。秀真ほつまや比呂志とはまた一緒に旅行できるけど、みんなと旅行するのは多分、これが最後」
 内心では、真理とはまた旅行する機会があるだろうと思っていた。だが、絵梨花や千由紀とはこれが最後の旅行になるだろう。皐月は秀真からこの提案を持ち掛けられた時、自分の心から望むことをしようと思っていた。
「別に最後じゃないんじゃない?」
 絵梨花があっけらかんとした顔で皐月が夢くらいにしか思っていなかったことを言った。
「私もこれが最後の旅行だとは思っていない」
 千由紀は少し言うのを躊躇していたのか、強張った顔をしていた。
「またみんなで集まって京都に来ればいいじゃない」
 皐月は真理の気持ちを考えて、絵梨花や千由紀とはこれが最後の旅行だと言った。それなのに真理はそんなことを気にしていないかのようだった。
「……そうだね。これで最後なんて、ヤダよな」
 皐月はこれまでの小学校生活で、この時が最高に幸せな瞬間だった。今まで未来がこんなにも明るいものだと感じたことがなかった。高揚感で涙が溢れそうになった。
 本殿に向かって爽やかな風が吹いた。それは皐月の熱を冷ますかのような涼やかな風だった。葉擦れの音階がひとつ上がった。

 糺の森は季節の変化が大きい。今はまだ葉が色づく秋の手前だが、冬になれば枝だけになる高木こうぼくが多いので、寂しい参道になる。
 えのきけやきむくのきの下で紅葉もみじが枝を広げている。紅葉は大きな樹の木漏れ日が好きなようだが、それは自分も同じだ。この参道の柔らかい明るさが心地よい。皐月はいつか秋の日に、再びここへ紅葉を見に来たいと思った。
 参道は左手の瀬見の小川に沿っているが、右手にある泉川も皐月たちに迫ってきた。挟まれた二つの川の流れに逆らって歩いていると、時の流れが緩やかになっているような感じがした。
「藤城君。糺の森って平安時代の文学作品に出てくるんだよ」
 千由紀が皐月に話しかけてきた。鴨川デルタであまり元気がないように見えたので心配していたが、今は楽しそうな顔をしている。
「本当に? じゃあ、ここって聖地じゃん。何て作品?」
「『源氏物語』とか『枕草子』とか。作中で和歌に詠まれている」
「吉口さんって古典も読んでるの?」
「まさか……さすがに難し過ぎて読めないよ。でも、読めるようになりたいって思ってる。修学旅行でここに来るって決まったから、少し下鴨神社と文学の繋がりを調べたの」
 皐月と秀真は訪れる寺社の由来や祭神に偏って調べていた。千由紀のように文学の方面から知識を注入してくれると、旅の思い出がより重層的になる。
「そういえば清水寺でも『枕草子』に出てくるって教えてくれたよね。さわがしきものだったっけ。下鴨神社はどういう風に描かれているの?」
「下鴨神社っていうより、ここで祀られた神のことが『ただすの神』っていう言葉で出てくるの。糺の森の神に正邪を正してもらうっていう意味合いで扱われている。その解釈が高じて、糺の森は禁足地で悪人が踏み入ると罰が当たる、と信じられていたみたいだよ」
「うわっ。じゃあ俺、罰が当たっちゃうかも」
「あんた、何か悪いことでもしたの?」
 真理が怪訝な顔をして皐月のことを見た。軽口を叩いたつもりだったが、真理にしてみれば一緒に住んでいる高校生の及川祐希おいかわゆうきや、恋人と噂されている年下の入屋千智いりやちさとのことが気になるのだろう。
「これから悪いことをするんだよ。俺は真理にお金をせびるつもりでいたから」
「なんだ、そんなの悪いことでも何でもないじゃない」
 皐月は真理を安心させるつもりで適当なことを言って誤魔化したが、真理は勝ち誇った顔をしていた。やはり真理は祐希や千智のことを気にしていたようだ。もしも糺の神がいるのなら、本当に罰が当たってしまうかもしれないと思った。

 少し進むと休憩ができるようにベンチが置かれた場所に出た。ここは古代からの祭場で、切芝きりしばという。ここでは下鴨神社の境外摂社、御蔭神社の御蔭祭の切芝神事が行われる。
 切芝神事では、神馬に乗った賀茂御祖かもみおや神社(下鴨神社)の御祭神の賀茂建角身命かもたけつぬみのみこと玉依姫命たまよりひめのみこと荒御魂あらみたま東游あずまあそびという神事舞が奉納される。
「ねえ、吉口さん。『源氏物語』に出てくる賀茂神社の賀茂祭って下鴨神社の葵祭あおいまつりのこと?」
「そうだよ。二橋さん、『源氏物語』読んだことあるんだ」
「あるけど、私が読んだのは『講談社 青い鳥文庫』の『源氏物語』なんだけどね。確か葵の上と六条御息所の車争いの話だったかな」
「そう。……切ない話だよね」
 源氏物語を読んだことのない皐月と真理は、千由紀と絵梨花の会話を聞いても内容を全く理解できなかった。真理が皐月からスマホを奪い、葵祭を検索した。
「葵祭の画像を見てるけど、みんな百人一首みたいな格好をしているね。すごいな……。まるで平安絵巻みたい」
 真理に顔を寄せ、皐月もスマホの画面を見た。顔を寄せ過ぎたのに気付き、すぐに少し身体を引いた。
「本当だ。美し過ぎて、現実離れしている」
 皐月は事前に下鴨神社のことを調べた時に葵祭の写真を見ているはずだった。その時は関心が神社の起源や祭神に向いていたので、葵祭に意識が向いていなかった。
 改めて糺の森の中で真理や絵梨花、千由紀に囲まれながら葵祭の斎王代さいおうだい女人列にょにんれつの写真を見ていると、その尊い姿に心を奪われた。平安時代に意識を飛ばし、その感覚が生々しく迫り始めると、なぜか目が潤んで涙があふれ、頬を濡らした。
「ちょっと……。皐月、泣いてるの?」
「うわっ! ……恥ずかしいな。見るなよ」
 あわてて親指で涙を拭うと、絵梨花にハンカチを渡された。皐月は3人の女子に背を向けて、涙を拭いた。
「藤城さんって光源氏みたいになりそうだね」
 ハンカチを受け取った絵梨花は優しく微笑み、少し首を傾げてコケティッシュに言った。「源氏物語」を読んだことのない皐月には絵梨花の言った意味がよくわからなかったが、真理を見ると不安げな顔をしていた。千由紀はいつものように感情を表に出していなかった。
 千由紀は皐月のことを太宰治の小説「人間失格」の主人公、大場葉蔵おおばようぞうに似ていると言ったことがある。そんな千由紀は絵梨花の発言をどう思っているのか。
「ねえ、吉口さん。俺って光源氏みたいになると思う?」
「知らない」
 味も素っ気もない答えに皐月は鼻白はなじろんだ。直接絵梨花に真意を聞きたくなかったから千由紀に聞いたのに、こんなつれない態度を取られると、少し腹が立ってきた。
「女で身を滅ぼさないようにって警告されたんだよ、皐月は」
 真理はスマホで光源氏のことを調べたようだ。皐月も「源氏物語」が恋愛小説だということは知っていたが、話の内容までは知らなかった。家に帰ったら「源氏物語」のことを調べてみなければならない。

 奈良の小川を渡る小さな橋を超え、朱塗りの南口鳥居の前まで来た。右手に手水舎ちょうずやがあったので、みんなで手と口を清めた。絵梨花は皐月の涙でぬれたハンカチで口を拭っていた。
「あれっ? この辺りって雰囲気変わった?」
 真理が突然まわりをきょろきょろと見始めた。言われてみれば皐月もそんな気がしてきた。
「緑の色が濃くなった?」
 千由紀は植生の変化に気が付いた。糺の森はほとんどが落葉樹だったが、南口鳥居の奥は常緑樹が幅を利かせていた。
「あの松みたいな木はつがっていう針葉樹だね。山の尾根によく生えているよ。普通はこんな里には生えていないから、植樹されたんだろうね」
「絵梨花ちゃん、よくそんなこと知ってるね」
「前の学校の課外授業で近くの神社の鎮守の森に行ったの。栂は御神木に使われることがあるんだって」
 皐月は栂のことを松にしてはちょっと変わっているな、としか思わなかった。下手に口を開くと恥をかきそうだ。
「糺の森は原生林なんだよね。でもここは別の場所から木を持ってきたってことだよね。どこの木だったんだろう?」
 真理が絵梨花に質問した。
つがは神様がいる所に生えている木だから、奥宮がある山頂に近い森の奥かな。神社は聖域だから、神聖な場所に生えていた木を植樹したんだと思う」

 皐月たち4人は南口鳥居を抜けて楼門に向かった。少し歩いた先の左手に注連縄しめなわがかけられた岩が見えた。磐座いわくらかと思い近づいてみると、それは細石さざれいしだった。
「『君が代』の細石って小さな石っていう意味だったんだ……。こうして見ると大きい石に見えるけど、石の世界では小さい部類になるんだね。皐月、知ってた?」
「いや……。細石さざれいしの言葉の意味は知ってたけど、手で持てるような小さな石のことかと思ってた」
「へぇ~、知ってたんだ。私、細石の意味なんて知らなかった。皐月って変なこと知ってるよね」
「変なことじゃないだろ、別に。真理が無知なだけじゃん」
 皐月たちの小学校で真理のことを無知呼ばわりできるのは幼馴染の皐月だけだ。真理は学校では引かれるほど勉強ができる秀才キャラだと思われている。
「じゃあ『細石の巌となりて』って、小石が岩になるっていう意味だったんだ。なるほど」
「昔は石が成長して大きくなるっていう信仰があったらしいよ。ここに書いてあるじゃん」
 皐月は細石の隣にある解説の一文を指差した。そこには「『さざれ石』は
年とともに成長し、岩となると信じられている神霊の宿る石です」と書かれていた。
「昔の人にコンクリートを見せたらびっくりするだろうな。神の御業みわざだって」
 皐月が笑いながら冗談を言うと、真理が不機嫌になった。
「あのさぁ……この細石って礫岩れきがんだよ。小さな石が続成作用によって固まった堆積岩たいせきがんだから、コンクリートにしなくても自然に大きくなったんだから」
 真理は無知と言われたことに腹を立てていたようで、言い方がキツかった。
 皐月は礫岩と続成作用の漢字が思い浮かばなかった。だが、堆積岩の堆積は漢検2級の勉強で憶えた漢字だったので、真理の言うことは理解できた。中学受験ではここまでのレベルで理科の勉強しなければならないのかと思うと、やっぱり今から目指しても手遅れだという思いがした。
「漢訳の『君が代』には『小石は凝結して巌と成り』ってあるから、栗林さんの説明を聞いて納得」
 千由紀が漢訳の「君が代」を知っていることには驚いた。おそらく下鴨神社の事前学習で、細石つながりで「君が代」まで調べたのだろう。皐月は真理と千由紀の知識に舌を巻いた。
「でも、藤城さんの発想は面白いって思ったよ。コンクリートって砂や砂利を固めた物だから、原料は岩だよね。自然に固めるんじゃなくて、人の手によって細石を巌にしたわけだし。そう考えると、現代文明って巌でできてるってことになるよね。君が代じゃないけど、この文明が千代に八千代に続けばいいなって思う」
 なんてことを考えるんだ、と皐月は絵梨花に感嘆した。絵梨花はコンクリートという言葉から話をここまで膨らませた。コンクリートは皐月が思い付きで言ったので、絵梨花の言葉はあらかじめ勉強して用意してあった考えではない。絵梨花はこの場で現代文明の考察をして語った。
「なんか、3人とも凄いわ。……恥ずかしいな」
 皐月は真理、千由紀、絵梨花に並びたいと強く思った。知識や洞察力が彼女たちにはまるで及ばない。それは自分が遊び呆けている間、彼女たちが研鑽を積んでいたからだ。
 皐月はこの先、自分が何を目指して頑張ればいいのかはよくわからなかった。まずは疲労に対するリミッターを外して、集中している状態を少しでも長くしてみようと思った。

 少し先に「えんむすびお守授与所」という、お守りや絵馬を売る店が出ていた。その隣には末社の相生社あいおいのやしろがある。ここは縁結びの御利益があることで有名で、若い女性が何人かお参りしたり、授与所でお守りを見ていた。
「神社って縁結びが好きなんだね。八坂神社にもあったよね。大国主社だっけ?」
「真理ちゃん、どうする? ここでもお参りする?」
「さっきお参りしたじゃない。絵梨花ちゃんはここでも縁結びのお願いをするの?」
「うん。手を合わせるくらい、いいじゃない。吉口さんはどうする?」
「そうだな……節操がないような気がするけど、私もお参りしておこうかな」
 皐月は女子3人の様子を見て、このペースだと本殿周りの参拝の時間が足りなくなるんじゃないかと心配になってきた。
「皐月はどうする?」
「俺はいいよ」
「どうしたの? なんだか元気がないね」
 絵梨花が「相生社のお参りのしかた」というガイドを見つけて、読み始めた。情報量の多いパンフレットなので読み終わるのに時間がかかるかと思ったが、絵梨花はすぐに内容を理解したようだ。
「まず絵馬を買って、願い事を書いて、紅白の紐を結ぶ。それから相生社の正面に立って、お社の周りを女性は反時計回り、男性は時計回りに3周する。3周目に絵馬を奉納して、お社の正面に戻って来たらお参りをする。最後に連理の賢木れんりのさかきから伸びている御生曳みあれびきの綱を2回引いて終わり。どう? やってみる?」
 絵梨花の説明を聞いた皐月はざっと時間を見積もって、どんなに急いでやっても10分はかかると踏んだ。さすがに時間を食い過ぎる。
「絵馬なしで、みんなで1周するだけにしない? 相生社の祭神は神皇産霊神かみむすひのかみだから、この儀式に意味はない」
 皐月は遅延の回復を優先することを考え、自説を強弁した。この参拝手順に意味があるかどうかはわからないが、神皇産霊神は別天津神ことあまつかみといって、天地開闢てんちかいびゃくの時にあらわれた五柱の神々の中の一柱だ。縁結びのように卑近な御利益とは縁が遠いと思った。
 ただ、神皇産霊神は二度も殺された大国主神おおくにぬしのかみを甦らせている。大国主神は八坂神社で参拝した縁結びの神社、大国主社の祭神だ。縁結びのパワーは大国主神とは比べ物にならないほど強いのかもしれない。
「そうだね。願い事を書くのって恥ずかしいし、私は手を合わせるだけでもいいかな。絵梨花ちゃんと千由紀ちゃんはどうする?」
「私は願い事は秘密にしたいから、藤城さんの言う通りでいいよ。もう八坂神社で縁結びのお参りは済ませたし。吉口さんは?」
「私も藤城君の言う通りでいい。産霊の神だから縁結びって、ダジャレだと思う」
 皐月はこれで遅延が拡大することを防ぐことができそうなことを確認し、ひと安心した。だが、千由紀の言う「産霊=結び」には気付かなかった。産霊は言葉通り「す」で、神霊を産み出すという意味だと思っていた。
 授与所には女の子が好きそうな魅力的なお守りが取り揃えられていた。一つひとつ柄が異なる、世界に一つだけの「媛守ひめまもり」。錠前を模した「結神守ゆいかもり」には下鴨神社の御神紋の「双葉葵ふたばあおい」の模様が入っていて、鍵のほうを持ち帰る。源氏物語にちなんだ「縁結びおみくじ」は男性用が「束帯そくたい姿」、女性用が「十二単姿」を模した形をしている。
 去りがたい思いを残しながら、皐月たちは授与所の前から相生社へと移動した。お守りを物色している女性たちはみんな楽しそうだった。

 授与所のすぐ隣にある、朱塗りの玉垣に囲われた木が「連理の賢木」だ。鳥居がしつらえてあり、神域と俗界が区画されている。
 この連理の賢木は別々の2本の尻深樫しりぶかがしが途中から繋がって1本の幹になっているのが特徴で、同じ根から2本の幹が出ているわけではない。連理とは、一本の木の枝が他の木の枝と連なって木目が通じ合っていることで、自然界ではよくあることだ。
 ただ、ここの連理の賢木は老木になっても、糺の森の中に後を継ぐ尻深樫が芽を出していることが神妙とされている所以ゆえんだ。
「ここって木陰になっていて暗いね」
 相生社は小さな流造ながれづくりの社で、檜皮葺ひわだぶきの屋根には苔がしていた。社殿前に雨よけの屋根があるので、木陰と相俟って昼でも薄暗い。
 皐月は残り少ない小遣いの中から小銭を取り出して賽銭箱に入れ、その上に吊るされている本坪鈴ほんつぼすずを鳴らして二礼二拍手一礼をした。真理たちも皐月にならって同じ様に参拝した。
「じゃあ、社殿の周りを回ろうか。俺は男だから左に行くね」
 皐月は反時計回りに玉垣に沿って、細かく角を曲がりながら絵馬掛所の間を抜けた。鬱蒼と茂る尻深樫の木漏れ日しかないこの場所は仄暗く、情動が揺さぶられる。相生社の社殿のちょうど真後ろの辺りで真理たち3人と出会った。皐月はここであることを思いついた。
「あなにやし、えをとめを」
 これは古事記の神生み神話で、伊邪那岐神いざなきのかみが言った言葉だ。伊邪那岐神と伊邪那美神いざなみのかみ淤能碁呂島おのごろじま天の御柱あめのみはしらを建て、その周りを今の自分たちのように回った。皐月は連理の賢木を天の御柱に見立てて、伊邪那岐神を演じてみた。
「あなにやし、えをとこを」
 千由紀と絵梨花はほぼ同時にこの言葉を皐月に返した。皐月はこの話を誰も知らないと思っていたので、伊邪那美神の言葉が返ってきたことに驚いた。千由紀と絵梨花は顔を見合わせた。
「ちょっと……みんな、何言ってんの?」
 何も知らない真理はきょとんとしていた。
「これは日本の神話に出てくる台詞だよ。相生社の参拝作法が古事記の神生み神話に似ていたから、ちょっと伊邪那岐になりきって言ってみたんだ。そうしたら、吉口さんと二橋さんがこの話を知っていてびっくりした」
「そうなの?」
「うん。古事記の最初の方に出てくる。私は絵本で読んだことがあるよ」
「絵梨花って、そんな昔のことまで覚えているの?」
 絵梨花が真理に神生み神話の説明をし始めると、千由紀が皐月に話しかけてきた。
「ねえ、どういうつもりであんなこと言ったの?」
「えっ? どういうつもりって……この神社の作法が神生み神話に則っていたから、ちょっと言ってみただけだよ」
「だから、どうしてそんな強力な言霊ことだまを発したのかってこと」
 千由紀が言霊という言葉を知っていることに驚いた。ならば全てをわかっているはずだ。
「それはさ……『あなにやし』のことを『それ何?』って聞かれた時に、神生み神話の蘊蓄うんちくを垂れるきっかけになるって思っただけだよ。じゃあ、どうして吉口さんは俺の言葉に応えたの? 意味、知ってるんでしょ?」
「それは……」
 皐月は刺すような眼で千由紀を見た。絵梨花が皐月の言葉に応えた心情はわかる。だが千由紀が応えたのは意外だった。「あなにやし、えをとめを」は現代語に訳すと「ああ、なんと素敵な女性だろう)」という意味になる。
「『あなにやし』は互いに褒め称え合う言葉だからね。俺のこと、素敵な男性って思ってくれたんだ。嬉しいよ」
 言葉とは裏腹に、皐月は冷めた目で千由紀を見据えた。千由紀ならこの一節が日本最古のプロポーズの言葉と言われていることを知っているはずだ。だが、皐月はあえてこの解釈を外して応えた。
 『あなにやし』はヘブライ語で「私は結婚する」という意味になる。皐月はこの意味を知りながら言葉を発したが、いくら千由紀でもこの解釈までは知らないと思った。
「皐月。私も言ってあげるわ。『あなにやし、えをとこを』」
「ありがとう。真理にも褒めてもらえて嬉しいよ。じゃあ俺からももう一度。『あなにやし、えをとめを』」
 皐月たちはすれ違って反対方向へ進み、再び社殿の前で顔を合わせた。そのまま連理の賢木れんりのさかきの鳥居まで行き、玉垣の左右の角から出ている御生曳みあれびきの綱を引いた。いつも思うが、神社の鈴の音は教会のウェディングベルと違い、美しくない。
(ああ、そうか……ウェディングベルか)
 皐月は相生社の意図がわかったような気がした。相生社の参拝で連理の賢木の周りを回るのは、あきらかに古事記の神生み神話を意識したものだ。そして御生曳の綱を引くのはウェディングベルを鳴らすのに同じ。
 さっきは相生社の参拝作法のことを「この儀式に意味はない」と言ったが、この言葉を改めなければならない。これは周到に計算されたものだ。神代の神事を現代風にアレンジして、しかもキリスト教の結婚式まで取り込んでいる。大したものだ、と皐月は感心した。
 だが、ここまでわかっていながら「あなにやし、えをとめを」と「あなにやし、えをとこを」という祝詞のりとを参拝の中で言わせないのは不可解だ。「あなにやし」を参拝作法に採用した方が霊的パワーが上がるはずだ。言霊が強過ぎるがゆえに、秘伝として隠されているのかもしれない、という妄想が皐月の頭を支配した。

「お~い!」
 声の方を見ると、秀真と比呂志が走ってこちらへ向かって来た。オカルト好きの秀真が楽しそうなのはわかるが、鉄道オタクの比呂志までも生き生きとしているのに皐月は驚いた。
「追いついた~。皐月こーげつたちはもう、ここの参拝済ませた?」
「終わったよ。今から本殿に行く」
「そっか~。じゃあ、まだ追いついていないな」
 秀真には「あなにやし」の儀式の話はできないな、と思った。秀真ならヘブライ語の意味だって知っているかもしれない。
「河合神社、どうだった?」
「良かったよ。時間がなかったからじっくり見られなくて残念だけど、写真や動画を撮ってなかった分、しっかりと見られたと思う」
「そうか……そりゃ良かったな」
 皐月も時間に追われる旅には不満がある。やっぱりもう一度来なければならないと思うが、そう思わせる旅が修学旅行なのかもしれない。
「岩原氏はどうだった? 慌ただしくて大変だったんじゃない?」
「いや……鉄道のイベントだってこんな時もあるよ。それに神社をたくさん見ているうちに、少し神社仏閣にも興味が出てきたみたい」
 どんな見方をしてきたのかはわからないが、比呂志が嫌な思いをしていないことが皐月には嬉しかった。
「僕たちは西参道から本殿に向かうよ。たぶん、すぐに追いつくと思う」
 皐月たちと秀真たちは相生社の前で別れ、皐月たちは賀茂御祖神社(下鴨神社)の楼門に向かって歩き出した。楼門の右手に生えている背の高い小賀玉おがたまの葉が風に揺れていた。まるで神楽で巫女が舞う時に振る鈴のように。


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