見出し画像

二人だけの世界(皐月物語 164)

 藤城皐月ふじしろさつきは風呂から上がり、明日美あすみの家に持って行ったノートPCを持って二階の自分の部屋に戻った。この日は明日美が勉強している隣でPCを使って作業をするつもりだったが、お互いにぬくもりを求め会い、そんな気にはなれなかった。
 寝る前に隣室の及川祐希おいかわゆうきへ一声かけなければならない。皐月はベッドに乗って、二人の部屋を隔てる襖をノックした。
「祐希。今、大丈夫?」
 皐月が声をかけると、すぐに襖が開いた。祐希は皐月が部屋に戻ると、襖のすぐ向こうでスタンバイしていたようだ。
「ただいま」
「おかえり」
 挨拶を交わすと、しばらく沈黙が続いた。祐希はそれ以上、自分からは何も話そうとしなかった。皐月はじっと見つめられている気まずさに耐えられなくなり、自分から何かを話さなければと思った。
「美紅さん、元気だった?」
「うん。元気だった」

 祐希はこの日、友人の黒田美紅くろだみくと会っていた。美紅の話題を持ちかければ会話が続くかと思ったが、祐希はこちらから問いかけなければ何も話そうとしない。
 皐月も今は祐希と積極的に話す気にはなれなかった。自分の中にまだ明日美の余韻が残っている。そして、この余情を消したくはなかった。
「明日美さん、元気だった?」
 祐希が口を開いた。
「うん……」
 うっかり祐希のセリフをなぞるところだった。
「明日美と吉野家へ行ってきたんだ。明日美って吉野家に行ったことがないんだって。祐希は行ったことある?」
「ない」
 祐希は無愛想に一言で返した。会話を続けようと思っても、こんな態度を取られると会話を続けられない。祐希の顔を見ると、感情を押し殺しているように見えた。
「俺、まだやることがあるから戻るよ。おやすみ」

 皐月が襖に手をかけると、祐希に閉めるのを邪魔された。
「何?」
 いつもの皐月なら笑顔で対応できるが、ここで優しくする気にはなれなかった。祐希は内に攻撃性を秘めているように感じた。力ずくで襖を閉めようとすると、祐希が話し始めた。
「美紅が皐月のことを好きになったみたい。……皐月、美紅と何かあったの?」
 皐月は美紅が自分のファンだということは知っていた。だが、祐希の言うように、自分のことを好きだとまでは思わなかった。
「好き? ただのファンだろ? 大げさだな」
「だって、本人の口から直接聞いたんだもん。好きだって」
「俺だって美紅さんのことは好きだよ。この好きと同じ意味なんじゃないの?」
 皐月と美紅は桜淵高校の文化祭で知り合い、祐希の都合で長い時間ふたりで過ごした。美紅は祐希の友人なので、皐月は丁寧な対応をしたつもりだ。
「違う。美紅の好きはただのファンじゃない。美紅、本気で皐月のことを好きになってる」
 祐希がすがるような顔で皐月を見ていた。その目を見ていると、皐月から明日美の余韻が消え始めた。
「それは祐希の考え過ぎだよ。だって俺、千智ちさとを連れて行ったんだぜ? 彼女のいる奴なんて好きになるかな……。それに、俺はまだ小学生だよ? 小学生を本気で好きになる高校生なんていないって」
「いるよ」
 皐月は美紅の想いを否定するだけでなく、祐希に対して釘を刺したつもりだった。まさか「いるよ」と即答されるとは思わなかった。
「それじゃ、ショタだろ」
「ひどいことを言うね……」
 皐月はたくさんの女性を好きになってしまい、気持ちを整理しなければならないと思い始めていた。だから、泥沼にはまりそうな祐希との関係を真っ先に改めなければならない。祐希と最後の一線を超えてしまうと、取り返しがつかなくなるだろう。

「ごめん。言い過ぎた……。でも、小学生の俺が高校生から本気で相手にされるわけがないと思うんだ」
 祐希には竹下蓮たけしたれんという恋人がいる。昨日の文化祭で祐希は皐月に蓮を見せつけるような真似をした。皐月はこの時、祐希への気持ちがかなり冷めた。
「皐月が考える本気って何?」
 皐月は深く考えずに本気という言葉を使った。それは祐希が、美紅が自分のことを本気で好きになっている、と言ったからだ。
「皐月の言う本気がどういう意味かわかんないけど、誰も皐月に結婚してもらいたいとか思っていないから」
「結婚! そんなこと考えるわけねーじゃん」
「本当? 子供ってすぐに恋愛と結婚を結びつけちゃうんだって。小百合さゆりさんとお母さんが言ってたよ。私もまだ子供だから、耳が痛かった」
「じゃあ、祐希はロータスと結婚したいんだ」
「したくないよ、バカ!」
「大きい声、出すなよ。頼子さんに聞かれちゃうだろ?」
「お母さんは下にいる。最近、小百合さんの部屋で寝てるから」
 祐希と竹下がうまくいっていないのは、高校での二人の様子や、千智から聞いた話でうすうす感づいていた。

 藤城皐月ふじしろさつき及川祐希おいかわゆうきは部屋を隔てる襖を挟んで対峙していた。この日、祐希は友だちの黒田美紅くろだみくと会っていた。
「美紅さんは東京で美容師になるって話をしてくれたよ。希望に満ちあふれている感じだった。祐希も東京に行くんだろ。やっぱり楽しみ?」
 皐月は強引に話題を変えた。明日美あすみと会った直後に、祐希と男女の話をしたくなかった。
「私は田舎から都会へ出たいだけだから、美紅みたいに夢なんてない……」
 話が暗くなってしまい、軌道修正に失敗した。皐月は祐希の相手に疲れ、目の前で当てつけのようにスマホのチェックをした。
 入屋千智いりやちさと渡辺天音わたなべあまね筒井美耶つついみやからメッセージが届いていた。どれも軽い内容だったので、手短に返信した。
 祐希はそんな皐月のことをじっと見ていた。重い空気だった。
「じゃあ俺、もう戻るわ。明日美の家で読んでいた本の続きを読みたいから」
「明日美さんの家で本を読んでいたの?」
 皐月の作り話への反応は悪くなかった。
「うん。明日美は大検の勉強をしているから、俺は邪魔にならないように本を読んだり、パソコンで文章を書いたりしていた」
「そうだったんだ……。明日美さんの家で何をしてたのかと思った」
「どうせいやらしいことを考えていたんだろ? 祐希はHだからな」
「皐月がHだから、そういうことを想像しちゃうんだよ」
「俺は紳士だよ。だって千智とはまだキスもしていないんだから」

 祐希の機嫌が良くなってきた。どうやら明日美と何もなかったという嘘と、千智とまだキスをしていないという話が良かったようだ。これでは浮気を心配している恋人みたいだ。
 皐月はまだ告白から始まる恋愛を経験したことがない。恋を胸に秘め、募る思いを止められなくなって告白する。告白が成功し、お互いに相手だけを愛する。このような流れが典型的な恋愛だと思っている。
「ねえ、祐希。さっき美紅さんが俺のことを本気で好きになったって言ってたよね」
 祐希の表情に緊張が走った。
「うん」
「それで祐希は何て言ったの?」
「皐月には千智ちゃんがいるって言った。それに、さっき皐月が言った東京へ行くって話も出た。今こっちで恋人ができても、どうせすぐに別れちゃうって」
 話をそらすつもりで言った上京の話題が、祐希と美紅の間で出ていたとは思わなかった。
「夕食の時に小百合さんから聞いたんだけど、小百合さんって高校生の時にすごくモテていたんだってね。でも、卒業後に芸妓げいこになるからって、彼氏を作らなかったって。私の同じ年だった頃の小百合さんは私よりもずっと大人だった」
 女だけで食事をすると恋愛話になるようだ。母の小百合は話し相手が欲しかったのだろう。その時、男の自分が邪魔になる。皐月は明日美のところへ行けと言われたことを図々しく利用してやろうと思った。

「俺、美紅さんに髪の毛をカットしてもらう約束をしちゃった。やめた方がいいのかな?」
「だめだよ。美紅にカットさせてあげて。美紅の技術向上にもなるし、美紅は皐月と会いたがってるんだから」
「いいの? 美紅さんが俺にぬまるかもしれないよ?」
「美紅のことだから、私は何も言えないよ。それにしても、すごい自信だね」
 皐月は自信過剰のきらいがある。そのことは自覚しているが、改めて人から言われると恥ずかしい。
「美紅さんはともかく、俺が美紅さんのことを好きになっちゃうかもしれないじゃん。それでもいいの?」
「皐月がどうしようが勝手だけど、美紅は東京に行くんだからね。皐月が好きになって付き合うことになったとしても、すぐに別れることになるから。それでもいいなら、美紅のことを好きになれば?」
 祐希がまたへそを曲げた。かわいいような、面倒くさいような祐希だ。皐月はこれがよくある恋愛の形なのかと思った。

 皐月はベッドから下りて、祐希の部屋に入った。布団はすでに敷かれていた。
「じゃあさ、俺と祐希も春にはお別れだな」
「そういうことになるね」
「寂しくない?」
「それは……寂しいよ」
「俺も寂しい」
 皐月から祐希にそっと口づけをすると、強く抱きしめられた。
「東京に行きたくない……」
ロータスと別れたくないってこと?」
「バカっ! 皐月と別れたくないにきまってるでしょ! それに蓮君とはもう別れたから」
「えっ? 本当?」
「うん。私と蓮君はもともと対等な関係じゃなかったの。私の方が一方的に好きだっただけで、蓮君は他にも彼女がいたし」
「なんか俺みたいな奴だな。ロータスって」
「ホント! 最悪っ!」
 言葉では怒っているが、祐希は皐月にすがりついてきた。竹下にも同じような態度を取っていたのかと思うと優しい気持ちにはなれず、ただ不愉快だった。

 藤城皐月ふじしろさつきのスマホにメッセージが届いた。及川祐希おいかわゆうきの体を引き剥がして、メッセージに目を落とした。
 昨日会った渡辺天音わたなべあまねからの返信だった。皐月は短いメッセージを送ってから、祐希に話しかけた。
頼子よりこさんがママの部屋で寝てるって、どういうこと? もしかしてレズ?」
「バカ、違うよ。お酒を飲んだ後、あの急な階段を上るのが怖いんだって。だから二人でお酒を飲む夜は小百合さゆりさんの部屋で寝てたみたいなんだけど、これからは晩酌をしない夜でも同じ部屋で寝ることにするんだって」
「ふ~ん。じゃあ、二階は俺と祐希の二人だけになるんだ。いいのかな? 俺たちのこと、何も疑っていないんだ」
「お母さんは私とれん君が付き合ってるって思っているからね。皐月とこんなことをしてるなんて、想像もしていないだろうね」
 そう言いながら皐月からスマホを取り上げ、祐希がまたキスをしてきた。しばらく祐希の相手をしていたが、変な気持ちになる前に体を離した。

「あのさ……。祐希は蓮と別れたからいいけど、俺は千智と別れていないんだよ? これじゃ、俺だけが悪いことをしてることになるじゃん」
「皐月だけ悪い子になれば?」
 祐希がまた口をくっつけてきた。
「ふふふっ。私が一番悪い女だね」
 祐希が悪い女ぶって、なまめかしい表情をつくっていた。バカじゃないかと思った。
「祐希はどうして俺とそういうことをしたがるんだよ?」
「だって、皐月がかわいいから。皐月って卑怯だよね、かわいくて。それに、キスが上手いよね。どうしてそんなに上手いの? 小学生なのにおかしくない?」
「さあ……。天才なんじゃね?」
 皐月は凝り性なので、上手くなる方法を動画やウェブサイトを見て研究をし、その成果を機会があるたびに試している。芸妓のみちるにも女同士のやり方を手ほどきしてもらった。
「皐月、誰かとキスしてるんじゃないの?」
「してねーよ。俺が上手いんじゃなくて、ロータスが下手すぎるだけだろ?」
「知らないよ、そんなこと……」
 皐月のスマホにメッセージが来たので、祐希からスマホを取り返した。また天音からのメッセージだった。こういう時間を奪うやりとりはウザくて嫌いだから、返信するのをやめた。
 天音のことなどどうでもよかった。だが、祐希のことを放っておいて、スマホに逃げるわけにもいかない。皐月はすっかり疲れてしまった。

「ねえ、皐月」
「何?」
「もうキスしてくれないの?」
「そうだな……。やめようかな。千智に悪いし」
「悪いのは皐月だからね。千智ちゃんとキスができるようになるまでは責任とって、私の相手をしなさいよ。千智ちゃんには絶対秘密にするから」
 祐希の言うことは滅茶苦茶だが、祐希に求められると皐月も抑制がきかなくなる。だから皐月は悪い男になろうとしても理性が反発して、すぐにいい子に戻ろうとしてしまう。
 本当は入屋千智いりやちさとにではなく、明日美あすみに悪いと思っている。皐月はこの日、明日美と二人で長い時間を過ごしていて、やっぱり明日美が一番好きだということがわかった。

 皐月は小さな頃から明日美にかわいがられていた。母が検番けんばんで稽古をしている間、皐月の相手をしていたのは明日美だった。皐月は明日美に母よりも甘えていた。
 その延長で明日美と恋愛関係になると、皐月の前にどんな女子が現れても、明日美を超えることはできない。
 明日美は皐月の寂しさをずっと愛情で埋めてくれた。その感覚は幼馴染の栗林真理くりばやしまりも感じるが、真理とはお互いに寂しさを埋め合う共依存の関係だ。明日美のように一方的に甘えられるわけではない。
 祐希はどうか。祐希は竹下蓮と別れて寂しいんだと思う。今の祐希は寂しくて狂いそうな時の自分と重なって見える。
 でも、皐月は明日美が自分を癒したように、祐希のことを癒すことはできそうにない。竹下の幻影を見るのは嫌だし、なにより自分の性欲を抑えきれなくなる。皐月は理性を失って、自分が自分でなくなるような感覚が気持ち悪くて、怖かった。

 藤城皐月ふじしろさつき及川祐希おいかわゆうきの部屋にいた。
「ねえ、皐月。無視しないでよ」
「無視なんかしてねーよ」
「だって、返事をしてくれないじゃない。二人だけの秘密にするから、これからも私のことを構ってよ」
「そうだな……。イチャイチャしていると、最後までしたくなっちゃうからな……。昨日、させてくれなかったじゃん」
 皐月は一度だけ芸妓げいこみちると最後までしたことがある。その時は満の心変わりで不完全燃焼だった。
「だって……妊娠したくないし。それに私、まだそういうの、したことないから」
「えっ? ロータスとしてたんじゃないの?」
「してないよ。させなかったから、蓮君とはうまくいかなかったの。……蓮君はやらせてくれる子がいいんだって。私は無理。妊娠したくないもん」
 祐希が処女だとわかり、皐月はなぜかホッとした。この感情は自分でもよくわからない。皐月が祐希に自分のやり方でキスをすると、祐希はもう竹下の癖を出さなかった。何の勝負かわからないが、勝ったような気がした。
「気が向いたら構ってやるよ。でも、罪悪感があるし、性欲だってある。俺のこと、ただのHな奴にしか見えないかもしれないけど、こう見えても悩んでいるんだから」
 皐月は祐希のおでこに軽く口を当てた。
千智ちさとちゃんには悪いと思ってる。でも、千智ちゃんから皐月を取るつもりはないから安心して。私、春には東京へ行っちゃうから」
 祐希の目から涙がぽろぽろと落ちた。ティッシュで拭いても、次から次へと涙が出てくる。皐月は祐希を抱いて、目に口を当てた。涙はしょっぱかった。

「東京なんか行かなきゃいいじゃん」
「行く。ずっと前から美紅みくと約束をしてたから。東京で美紅を一人にさせたくないの。それに私だって、東京の生活に夢を見ているんだから。二人で力を合わせて生きていくって話し合ってきたの」
「美紅さんも祐希も、それぞれ自分の人生があるんじゃないの?」
「もちろん、そんなのわかってるよ。でも、今の日本はそんなに甘くないから、生活基盤ができるまでは一緒に暮らそうって決めたの。友だち同士で生きていく方が不幸になりにくいから。私のお母さんと小百合さんもそうしてるでしょ?」
 祐希の話を聞いて、皐月は初めて祐希が独身女性の新しい生き方を目指しているのを知った。
「祐希」
「ん?」
「好きだよ」
「千智ちゃんと私、どっちが好き?」
「今は祐希」
「ありがとう。……皐月、初めて私のことを好きって言ってくれたね」
 今この部屋には、皐月と祐希の二人しかいない。春が来るまで、小百合寮の二階は祐希と皐月の二人だけの世界になる。

 次の日の朝、皐月が目を覚ますと洗面所からドライヤーの音が聞こえてきた。祐希はすでに起きているようだ。
 時計を見ると、皐月の起床時間はいつもと同じだった。祐希が普段よりも早く起きたようだ。
「おはよう」
「皐月、おはよ~」
 祐希はすでに制服に着替えていた。制服姿の祐希は豊川駅周辺で見るどの女子高生よりもかわいい。昨夜のジャージ姿の祐希とは別人だ。
「今朝は早いね」
「早く目が覚めちゃったから、パピヨンに行こうかな」
「モーニング? 頼子さんが朝ご飯を作ってくれるだろ?」
「朝ごはんを食べてからモーニングに行くんだよ」
「両方食べるの? 朝からよく食うなあ」
「皐月も一緒に行こうよ」
 祐希が髪をセットしている隣で皐月は歯を磨いた。こういう時、家が旅館だった建物で良かったと思う。二人並んで朝の準備ができるのは効率がいい。
「祐希、髪の毛がサラサラじゃん」
「ほれ」
 祐希が髪を皐月の鼻先に当てた。初めて祐希に会った時と同じ匂いがした。
「祐希……」
 皐月から祐希にキスをした。まだリップを塗っていなかったので遠慮しなかった。
「昨日は『気が向いたら構ってやるよ』とか、冷たいことを言ってたくせに、今朝は皐月からキスしてくるんだね。私の制服姿を見たらしたくなっちゃった?」
「祐希はかわいいよ」
「ありがとう」
 今度は祐希からキスをしてきた。
「早く着替えて、下りてきてね。遅かったら先にパピヨンに行っちゃうから」
 祐希は足下に置いてあるスクールバッグを持って、笑顔で階段を下りた。皐月は祐希を見送りながら、こんな幸せな朝がいつまでも続けばいいのにと思ったが、この生活も春で終わる。


いいなと思ったら応援しよう!

音彌
最後まで読んでくれてありがとう。この記事を気に入ってもらえたら嬉しい。