女の子たちに守られて (皐月物語 43)
教室に入ると藤城皐月はクラスのみんなから注目された。今までの女の子っぽい髪型からジェンダーレスなショートに変え、前髪の一部とサイドの内側をバイオレットに染め上げた。皐月の変化に一番喜びそうな筒井美耶はまだ学校に来ていなかったが、美耶の親友の松井晴香が真っ先に声をかけてきた。
「藤城、髪切ったんだ。どうしたの、その髪の色?」
「染めた。どう? 似合ってる?」
「きれいな色だね。似合ってるけどさ~、学校に来る時、先生に怒られなかった?」
「大丈夫だったよ、意外にも。でもフルカラーだったら怒られてたかもね」
「いいな~。私もカラーしようかな……」
可愛い晴香ならどんな色にしても似合うだろうと思った。
「髪の色よりもさ、髪型はどうよ? 思い切ってショートにしたんだからさ、カラーよりもどっちかっていうとスタイルの方が気になるんだけど」
皐月にしてみれば、カラーをしたことよりも髪を切ったことの方が大きな決断だった。
「前よりずっといいよ」
「ホント?」
「美耶が興奮しちゃうかもね」
「よかった。いつも辛辣な松井に褒めてもらえるなんて、マジ嬉しい」
今日の晴香はいつもよりずっと可愛く見える。我ながら単純だな、と皐月はご機嫌だった。
「あんた、私のこと何だと思ってたのよ!」
「おしゃれ番長?」
「バンチョー? 何、それ」
「なんだ、番長って知らないのか。番長はリーダーってこと。つまりファッションリーダー」
「最初からわかりやすく言ってよ」
語彙レベルの調整が難しいな、と皐月はクラスメイトと話す時によく感じる。ニュアンス的にはおしゃれ番長とファッションリーダーは少し違うと思っている。おしゃれ番長は6年4組限定の話だが、ファッションリーダーだと稲荷小学校全体レベルの話になってしまう。ファッションリーダーと言われて満更でもない顔をしている晴香のことを与し易いと思ったが、晴香に媚びている感じがしないでもないので、皐月は軽く自己嫌悪に陥った。
「先生そろそろいいですか~」
ふざけたことを言ってきたのは花岡聡だった。聡はクラスで一番のスケベ野郎だが、皐月とは最も気の合う友達だ。
「見慣れない奴が松井と喋ってたから誰だと思ったけど、まさか藤城先生とはね。髪型変えたから全然わからんかった」
「花岡でも気付かないとは面白い」
「なんだよ、その髪の色は。急に遊び人っぽくなったな」
「イケてるだろ?」
「チャラい。チャラ過ぎる!」
「でもそこが魅力!」
聡と皐月がバカ笑いをしていると、いつもならうるさいと怒る晴香が皐月のことを黙って見ていた。
「あれ? 今日は怒らんじゃん。どうした?」
「藤城のカラー、いいなって……本気で私もカラーしたくなってきた」
いつもは友達に羨まれる晴香が同級生を羨むのことはめったにない。しかもその相手が男子の自分だから皐月は戸惑ってしまう。
「中学に入ったら髪の色を戻さなきゃならないからさ、そこんとこ考えてカラーした方がいいよ。中学ってすっげー校則が厳しいじゃん。ファッションで遊べるのは小学生までだ」
「そうだよね……中学って最悪だもんね」
晴香が暗い顔をした。この地区の小学生で中学へ上がることを楽しみにしている子はほとんどいない。皐月たちの行く中学は荒れている。
「そういうの嫌な奴はみんな私立に逃げるんだぜ、中学受験して」
「中学受験? 何それ?」
「名古屋とか都会にある私立の中学は入学試験に合格しないと入れないんだぜ。私立は公立よりも校則が緩いところが多くて、頭のいい学校ほど何やっても自由なんだって」
「じゃあ頭の悪い私、無理じゃん」
「貧乏な俺ん家も無理だな。私立って金かかんだろ?」
「みんな無理してでも行くんだよ。親も子も」
晴香と聡は中学受験にはまるで関心がないようだ。話が暗くなりかかった時、ちょうどいいタイミングで美耶が来てくれた。
「おはよう……嘘! 藤城君?」
「おはよ」
挨拶を返しても美耶は黙って皐月のことを見つめていた。美耶にはもっと大騒ぎをされるかと思っていた。晴香が皐月のことを見つめていた時の目よりも、美耶の方がキラキラと輝いている。
「筒井が髪の毛切ったからさ、俺も切りたくなったんだ。筒井って髪切って可愛くなったじゃん。俺も髪切ったら格好よくなれるかなって」
「……」
調子のいいことを言った皐月だが、この言葉に嘘はなかった。美耶が髪を切ってマッシュショートにしたのは本当に良かったと思っていて、自分も美耶のように変わってみたいと思ったのは確かだ。
「どう? 格好よくなった?」
「うん。格好いい! 髪の毛を紫にしたのは驚いたけど。なんかアイドルみたい!」
皐月は好きなアイドルを意識した色にしたので、美耶の指摘が嬉しかった。
「アイドルっていうよりホストだよ、美耶」
晴香はすぐに皐月のことを下げる。最初はカチンとくることもあったが、最近ではもう慣れた。皐月は晴香のことを、美耶がのぼせ上ろうとしているのを止めているのかもしれないとさえ思うようになった。
「なんだ、松井。お前、藤城のことディスってんのか?」
晴香がいつもの口調で皐月をイジる言い方をすると聡が怒った。聡は皐月の母親が芸妓なのを知っているので、晴香が水商売を貶すような言い方をしたのが我慢ならなかったようだ。いつもヘラヘラしている聡がこのクラスのカースト最上位の晴香をお前呼ばわりするのは初めてだ。
「いいよ、花岡。俺は気にしていない」
「でもさ、こいつの言い方、ムカつくんだよな」
「いいって。こんな奴らほっといて行こうぜ」
美耶には悪いと思ったが、皐月はわざと嗜虐的に「奴」に「ら」をつけた。晴香はいつも博紀にはデレデレと甘いが、皐月にはきつく当たる。それは時々見せる博紀の皐月に対する態度を模倣しているかのようだ。要は調子に乗っているのだ。
皐月はこれまでの小さな鬱積を晴らすべく、晴香に軽く報復をした。自分に牙を剥くことが親友の美耶を傷つけることに繋がるということを知らしめることで、舐めた態度を牽制する狙いだ。ただ美耶にとっては八つ当たりをされたことになってしまうので、後でフォローしなければならない。
晴香も美耶も皐月の母が芸妓なのを知らないはずだ。だから晴香が皐月にホストみたいと言ったことにそれほど悪気があったとは思っていなかった。だが聡が自分の名誉のために怒ってくれたことが嬉しくて、皐月は聡の肩を持つような言い方になった。
ランドセルを背負ったままの皐月は席に戻った。始業までまだ時間があるので、聡も皐月の席までついてきた。神谷秀真と岩原比呂志はまだいなかったが、栗林真理と二橋絵梨花、吉口千由紀はもう席に座っていた。真理と絵梨花は勉強をしていて、千由紀は文庫本の小説を読んでいた。
「おはよう」
みんな挨拶を返してくれた時、髪を切ったことと、紫にカラーしたことに驚いていた。皐月は勉強の邪魔をしたくないと思い、ランドセルの中身を机にしまったらすぐにその場を離れるつもりでいた。
「さっき花岡君と松井さんが揉めてたみたいだけど、何かあったの?」
「見てたのか、真理。お前、全然勉強に集中してなかったんだな」
「説教するな」
「俺がさっき筒井に髪型変えたの自慢してたらさ、松井にからかわれたんだ。それで花岡が俺より先にキレた」
「あいつが藤城のことホストみたいって言ったんだよ。だから腹が立ってさ……」
聡が真理に話しかけるのは珍しい。少なくとも聡と真理が一対一で話しているところを皐月は見たことがない。
「ホストって言われてどうしてからかわれたってことになるの?」
本を読んでいたと思った千由紀が話に入ってきた。
「ホストって言われたことが問題じゃなくて、松井の口の利き方が人をバカにしているような感じだったからムカついたんだ。それに晴香なんてどうせホストのこと何も知らないだろうし」
皐月は聡のキレた理由とは違うことを言った。皐月は聡のように怒ってはいなかったので、誰もが納得するような理由をでっち上げた。
「皐月の髪型、全然ホストっぽくないじゃん。むしろ地味だよね」
「地味?」
真理の言葉に絵梨花が驚いていた。真理の母親の凛子は華やかな芸妓で、伝統的な黒髪ではなく積極的にカラーを入れている。だから真理は皐月のこの程度のカラーでは何とも思わないほど感覚が麻痺している。
「俺、ひそかにホストに憧れてたからさ、余計に腹が立ったんだよね」
聡がホストに憧れていたことを皐月は知らなかった。ただの女好きだと思っていたが、これからは見方を変えなければならない。
「人がどう思おうがどうでもいいんだ。俺は自分が楽しむために髪を染めたんだから」
皐月が女の子みたいに髪を伸ばしていた時、陰ではいろいろ言われていたことを知っている。皐月の家が母子家庭で、母親の小百合が芸妓だということで、同じ町内の幼馴染の親の中には母のことを悪く言っている人がいることも知っている。
月花博紀が教室に入ってくると、晴香が博紀に駆け寄って行って何かを話している。さっき皐月のことで聡が怒ったことをチクっているのだろう。博紀の方を見ていたら目が合い、博紀がこっちに向かって歩いてきた。
「よう」
「ああ。お前、髪切ったんだな」
「まあな。さすがに五分刈りにはしなかったけどね」
「本当に髪の毛染めてくるとは思わなかったぞ」
「そうか?」
「俊介の言葉なんか真に受けてんじゃねえよ」
「俺はいいアイデアだと思ったんだよ。俊介センスいいわ」
「紫は派手過ぎだろ。まるでホストみてえだな」
この瞬間、この場に緊張が走った。聡と千由紀の顔色が変わった。皐月は博紀の性格から晴香の言ったことと同じことを言って、自分のことを試していると思った。皐月には博紀の晴香への健気さが可笑しかった。
「アイドルみたいで格好いいだろ。さっき筒井にそう言われたんだぜ」
「筒井さんはお前のこと何でも褒めるからな」
「私も皐月のヘアー、格好いいと思うよ」
真理が人前で自分のことを褒めるのを聞いたのは初めてだった。
「私も藤城さんの髪型、素敵だと思います」
「格好いい」
絵梨花と千由紀が真理に追従するわけがない。彼女たち三人は間接的に博紀のことを非難しているのかもしれない。もしそうなら嬉しいし、本気で格好いいと言ってもらえたなら、それはそれで嬉しい。皐月は女性から守ってもらえる幸せを感じた。
「ほら。みんな格好いいってさ」
「……そうか、よかったな」
気になる女子が揃いも揃って皐月のことを褒めそやすのがこたえたようで、博紀に全く覇気がなくなってしまった。
「博紀も俺みたいにカラーするか?」
「いや、俺はいいよ。似合わないから」
「お前だったら何やっても似合うよ」
爽やかな営業スマイルで締めて、博紀は自分の席に戻った。
博紀は教室では体裁を気にしているのか、あまり本音を出さないようにしている。6年になって初めて博紀と同じクラスになるまで、皐月は博紀が学校でこんな振舞いをしていたことを知らなかった。博紀は学校の外ではシニカルな奴だが、教室で皐月と二人の時には誰にも見せない素の自分を出す。しかし他の友達がいる時はいつもこんな感じでいい子ぶり、特に先生の前だと完璧に優等生を演じている。
皐月は教材とノートを机の中に押し込んで、ランドセルをロッカーに片付けに行った。
「花岡ってホストに憧れてたのか?」
「ん……ホストってよりもジゴロかな」
「ジゴロ! お前面白いな。じゃあ博紀みたいにモテモテになりたいってわけじゃないんだ」
「ああいうのはつまんねえだろ。あいつもよくやるよ、ファンクラブだなんて」
「別に博紀が作ったわけじゃないだろ。全部松井がやってることだし」
「やめろって言えばいいのにな。女子たちにチヤホヤされるのが気持ちいいのかな?」
「そんな楽しそうでもないみたいだけど……。あいつなりに考えがあるんじゃないかな」
皐月は席に戻ると、聡がジゴロに憧れていることをもう一度考え直した。真理に電子辞書を借りてジゴロの意味を調べると「女から金を得て生きている男」という意味だった。ジゴロは皐月の思い描いていたイメージとは少し違っていた。そして聡に対しする印象も、自分が今まで抱いていたものと変えなければならないと思った。
皐月は聡の心の暗部を垣間見たような気がした。だがそれを否定する気にはなれない。皐月も真理も男たちが母親に払う金で生きている。皐月の好きな芸妓の明日美だってそうだ。恋愛感情に付け込んで男から巻き上げた金で生きている。そして自分はその金で育てられている。聡がジゴロに憧れることを皐月が責められるわけがない。
そんなことを考えていると、晴香は皐月の母親が芸妓であることを博紀から聞いていたのかもしれないと思うようになった。だから晴香がホストと言った時、思わず人を見下すような態度が表れてしまったのかもしれない。そしてそれはあまり考えたくなかったことだが、実は博紀も皐月の母の仕事を軽蔑していることの反映なのかもしれないと思った。あるいは博紀の親に何かを吹きこまれたか……。
「皐月、どうした?」
「藤城氏?」
考え込んでいたらオカルト好きの神谷秀真と鉄ヲタの岩原比呂志が話しかけてきた。彼らがすでに席についていたことに全く気付かなかった。
「あ、悪ぃ。寝てたわ」
「藤城氏の髪の色って東京メトロ半蔵門線の18000系をイメージしたもの?」
「そう、特にロングシートの色ね」
「冠位十二階の大徳でしょ」
「やっぱ最高位だもんな、紫は」
秀真や比呂志とマニアックな話をしていると楽しい。二人がヘアカラーのことを非難してこないで、趣味に絡めて突っ込んでくれたことが皐月には嬉しかった。皐月は自分が朝からずっと緊張していたことに、今になってやっと気がついた。