美しい芸妓 (皐月物語 6)
検番の勝手口には鍵がかけられていた。藤城皐月は裏路地から表通りに出て、玄関の紅殻格子の引き戸を開けた。皐月が求めていた冷気がここにあった。
「お母さんいる?」
お母さんとは検番を細々と守り続けてきた老芸妓の京子のことだ。皐月は今日このことをお母さんと呼んでいる。芸妓がみんな京子のことをお母さんと呼ぶから、真似をするようになった。
「あら、皐月じゃないか。久しぶりだねえ。ずいぶん黒くなっちゃって。それよりあんた、また背が伸びたんじゃない?」
矢継ぎ早に話しかけてくる京子に皐月はホッとした。京子は今も昔も皐月に対する態度が実の祖母よりも温かい。
「検番は涼しいね。何か飲み物ってある?」
「なんだい、涼を取りに来たのかい。最近顔を出さないからお子様向けの飲み物なんて置いちゃいないよ。緑茶かコーヒーならあるけどさ」
「俺、コーヒーがいい。ブラック」
「あんたコーヒーなんて飲むようになったのかい。へぇ~」
「この前、真理に教えてもらったんだ。あいつ、大人ぶっちゃって面白いよ」
「ちょっと待ってて。今持ってくるから」
応接間の黒光りする古びたソファーに腰掛け、スマホを取り出して鉄道系のインスタをチェックした。鉄道写真を撮ったり見たりするのが皐月の趣味だ。
「はい、冷コー」
「玲子さんがどうかしたの?」
玲子は京子の娘で、今は芸妓をしていない。子供の頃、皐月や真理はよく玲子に面倒を見てもらっていた。
「玲子じゃなくて冷たいコーヒー。略して冷コー」
「ダセ~っ!」
喫茶パピヨンで飲んだコーヒーはホットだったが、これはペットボトルのアイスコーヒーだ。思ったよりも飲みやすいが、飲んでも飲んでも喉の渇きが収まらない。
「やっぱりお茶ちょうだい」
「面倒だからあんたが自分で淹れてきなよ」
「何かお菓子とかある?」
「煎餅とか御欠ならあるよ」
「なんだ、婆菓子しかないんだ」
「ここにはババアしかいないからね」
皐月は勝手知ったる台所へお茶とお菓子を取りに行った。どこに何があるかはわかっている。
「ねえ、お母さん。今日うちに来る頼子さんのこと聞きたいんだけど……」
「なんだい、百合から聞いていなかったのかい?」
「何となく聞きづらくて……。頼子さんってママの同級生なんだよね。そんな齢の人が今から芸妓なんてできるの?」
「さすがに一から芸を覚えていくっていうわけじゃないんだけどね。彼女は温泉旅館で仲居を長くやってきたから接客ができるのよ。あまり機会はないかもしれないけれど、忙しい時に手伝ってもらおうと思ってるの」
「そうなんだ」
母は今まで住み込みの弟子に住む場所を無償で提供していた。だから頼子にも同じことをするだろう。だが頼子には皐月の食事の世話もしてもらうつもりでいるらしい。これは無償ではないはずだ。
皐月には小百合と頼子の関係がまだよく理解できていない。子連れの大人の女の友だち同士が一緒に暮らすというパターンを皐月は聞いたことがなかった。これが再婚する大人の男女ならアニメで見たことがある話だ。
応接間に戻ると、京子が皐月のスマホの鉄道写真を見ていた。
「電車なんか見て、面白いのかい?」
「面白いよ。それよりさ、高校生の女の子も頼子さんと一緒に家に来るんだけど、その子って芸妓になるの?」
「ああ、祐希ちゃんのことね。特にそういった話は聞いていないよ。まあこんな田舎だし、高校卒業してすぐに飛び込んでくるような世界でもないからね。今は芸妓だけで生活できるような時代でもないし、うちの子たちだって兼業の子がほとんどだ。ここじゃ芸妓一本でやっているほうが珍しいよ」
皐月の母の小百合が芸妓だけでやっていけているのは株や為替などの投資で利益を上げているからだ。真理の母の凛子は恋人からの援助があるらしく、真理はそのことを嫌って勉強にのめり込んでいる。お金に絡む話がリアルに迫ってきて、皐月は嫌な気持ちになってきた。
「後で百合が頼子を連れてここに来るけど、あんた、それまで検番にいるかい?」
「ううん、ちょっと休んだらすぐに帰る。ところで今日は芸妓さん、誰も来ていないの?」
「明日美が稽古場にいるよ」
「ホント!? じゃあ、ちょっと顔出してくる」
明日美は豊川芸妓組合で一番人気の芸妓だ。若くて美しい明日美は毎日のようにお座敷に呼ばれる売れっ子で、名古屋まで出張することもある。
明日美は最近、お座敷の数を減らしているという。大きな病気で入院して、今は病み上がりだという話を母から聞いていた。だが皐月が明日美の病気の詳細を聞いても、けっして母は教えてはくれなかった。
皐月が検番の二階の稽古場に上がっていくと芸妓の明日美がビデオで撮影しながら何かの振り付けの練習をしていた。
皐月は邪魔にならないよう、部屋の隅に座って明日美の背後から舞を眺めていた。明日美の美しさを目の当たりにすると、記憶の中でさっきまで一緒にいた入屋千智のことが霞んできた。
明日美は皐月の知る限り最も美しい女性だ。テレビなどで見る芸能人の方が実際に会えば綺麗なのかもしれない。だが画像や映像だけではその人の持つ実際の美しさはわからない。近くで直接見て初めてその人の持つ魅力がわかる。
練習がひと段落した時を見計らって、皐月は明日美に近づいた。
「あれ? 皐月?」
「皐月だよ」
「何、久しぶり!」
明日美が抱きついてきた。皐月はこの抱擁が欲しくて明日美に会いに来た。明日美に抱かれると大人の女の匂いで軽く意識が飛びそうになる。
「背、伸びたね。もうすぐ抜かれそう」
「育ち盛りだからね」
「ちょっと真っ黒じゃない。それじゃ日焼けし過ぎだよ。焦げてんじゃないの?」
明日美がケラケラと笑っていた。明日美は人前ではめったに笑わない。この笑顔は皐月しか見たことがないかもしれない。
「せっかく色白なんだから、ちゃんとケアしないとシミになっちゃうぞ」
「どうせすぐに白くなるし、気にしてないよ」
「ダメだよ。勿体無いでしょ。もう、バカだな~」
「何だよ、バカって。うっせぇなぁ」
「皐月はバカでかわいいな~。チューしてやるよ」
皐月はこうして明日美にかわいがられるのが大好きだ。明日美は他に人がいるところで決してこんなことはしてこないので、これは二人の秘密だと思っている。
「今日ね、うちに新しいお弟子さんが来るんだ」
「さっきお母さんから聞いた。寿美姐さん以来だね、住み込みの人って。家が賑やかになるね」
「まあそうなんだけどさぁ……」
「何? 百合姐さんと二人だけの方が良かった?」
「そうじゃないけどさ……。なんかお守をつけられるような気がして、ちょっと複雑な気分なんだ。俺ってそんなに信用ないのかな?」
「皐月はまだ小学生だから仕方がないでしょ。アメリカじゃ13歳未満の子供に一人で留守番させるとネグレクトにされちゃうからね」
「ここは日本だし。ところでネグレクトって何?」
「育児放棄。虐待の一種だね」
明日美は皐月が相手でも時々難しい話をする。子供扱いをするかと思えば、大人同然の扱いもする。皐月にとって明日美との会話は刺激的だ。
宴席で客と会話ができるよう、明日美は毎日新聞を欠かさず読んでいるという。新聞以外にも本をよく読むと母から話を聞いている。
「虐待なんて全然。俺は思いっきりかわいがられてるよ!」
「わかってるって。でも、百合姐さんは皐月を家に一人にさせていることを気にしてるから」
「俺なら平気なのにな。家の事なら何でもできるし、料理だってできる。いつも仕事先からビデオ通話がかかってくるから、ウザいくらいだ」
「そういうこと言うな。百合姐さんも寂しいんだから。姐さんって人気あるのに仕事セーブしてるの知ってた?」
「何、それ?」
「かわいい皐月ちゃんと一緒にいたいって、時々お座敷を断っているんだよ。特に私との仕事とか」
「えっ? 俺のせいで仕事できないの?」
皐月は母から、頼子が家に来てくれたら仕事を増やせる、という話を聞いていた。その話を聞いた時は意味がよくわからなかったので、うっかり聞き流してしまった。
「ん~、ちょっと違うかな。百合姐さんは仕事を選んでるだけ。私と一緒に出張しちゃうと、その日は向こうで泊りになっちゃうから嫌なんだって。百合姐さんは皐月のいる家に帰りたいんだよ」
明日美の話を聞き、皐月は瞬時にいろいろなことを考えた。だが、情報量が多くて頭がぼ~っとしてきた。
「もっとも仕事を選んでいると言うよりも、単に私と一緒にお座敷に上がりたくないだけかもしれないけどね。私は百合姐さんに嫌われてるから。愛する皐月ちゃんを取られちゃうんじゃないかってね警戒されているのかもね」
「そんなことないよ。ママは明日美のことすごく褒めてるから」
「本当? そんな風に言ってもらえてたら嬉しいな。私、百合姐さんのこと尊敬してるから」
「そうなの? ママのこと、尊敬してるんだ」
「百合姐さんはね、お客の扱いがとても上手なの。私はそういうの苦手だから、百合姐さんってすごいな~っていつも思う」
皐月は母からお座敷での明日美のことを聞いたことがある。明日美は美人だから客受けがいいけれど、くだけた話題になると上手く客の相手ができないらしい。だから、いつも自分がフォローしなきゃいけないから大変だと言っていた。
明日美はその時の百合の大変だという感情を読み取っているのだろう。だから、明日美は母に嫌われていると誤解をしているのかもしれない。
「明日美に俺のことを取られたくないとか、そんな話は聞いたことがないな……。ママは俺にガールフレンドができたら喜ぶんじゃないかな」
「同じ年頃の女の子が相手なら喜ぶかもしれないけど、相手が私みたいな芸妓じゃ、百合姐さんだって怒るよ」
「俺は明日美が恋人だったら最高なんだけどな……」
「嬉しいことを言ってくれるね。ありがとう」
明日美は笑いながら皐月を抱き寄せて、頬に軽くキスをした。明日美の胸の中でゆさゆさ揺すられているうちに、皐月は気持ちよくなってきた。
「そういや高校生の娘が来るんだってね。皐月、私以外を好きになったら絶対にたら許さないからね」